2021年06月24日

819 「古事記」中つ巻 懿徳編 E “懿徳は安寧の子でなく神武の子で僅かに倭人伝にも登場する”

819 「古事記」中つ巻 懿徳編 E “懿徳は安寧の子でなく神武の子で僅かに倭人伝にも登場する”

20200407

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


「古事記の95%は嘘…」と言った百嶋神社考古学を後世に託そうと考える私達にとって、「古事記」の内容を真に受ける事が無い事は言うまでもないことです。

 「古事記」が藤原にとって都合が良いように改竄と言うより最初から創りでかしたものであり、我々からは、どのような意図で本来の正統皇統を捻じ曲げ、自らの先祖に当る第10代とした神武僭称贈る崇神を権威ある者として描こうとしたかを少しずつでも説明したと思います。

たまたま非常に分かり易い口語訳がネット上に有りますので、そちらの意図に反するものになるかも知れませんが、古代史、神代史を考える上で非常に重要な事ですのでご理解ご容赦を頂く事として、今回は「古事記をそのまま読む」というサイトから引用させて頂きます。

こちらも非常に感謝しております。当方は、神代〜古代に掛けて最も重要な部分を百嶋神社考古学としてはどのように考えるかをお知らせしたいと思うものです。 

 今回取り上げるのは、これまた一般にはあまり知られていない第四代懿徳天皇大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)についての話です。これも実に短い文章で、近畿大和朝廷の領域などには居なかった事、「古事記」の編纂者達も現場を知らないで奈良に無理やりあてはめた事を物語っています。蛇足ながらこの懿徳天皇は皆さん良くご存じの倭人伝にも登場しているようなのです。


以下  無題.pngによる

 

大倭日子鉏友命坐輕之境岡宮治天下也

此天皇娶師木縣主之祖賦登麻和訶比賣命亦名飯日比賣命

生御子御眞津日子訶惠志泥命【自訶下四字以音】次多藝志比古命【二柱】

故御眞津日子訶惠志泥命者治天下也

次當藝志比古命者【血沼之別 多遲麻之竹別 葦井之稻置之祖】

天皇御年肆拾伍 御陵在畝火山之眞名子谷上也 

大倭日子鉏友命(おほやまとひこすきとものみこと)(かる)()境岡宮(さかひのをかのみや)に坐()し天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[]

()の天皇(すめらみこと)師木県主(しきのあがたぬし)()(みおや)賦登麻和訶比売命(ふとまわかひめのみこと)亦名(またのなは)飯日比売命(いひひひめのみこと)を娶(めあは)し、 生()れましし御子(みこ)、御真津日子訶恵志泥命(みまつひこかゑしねのみこと)【「訶」自()り下(しもつかた)四字(よじ)(こゑ)を以ゐる】、次(つぎ)に多芸志比古命(たきしひこのみこと)【二柱(ふたはしら)なり。】

(かれ)御真津日子訶恵志泥命者()天下(あめのした)を治めたまふ[]

次に当芸志比古命(たきしひこのみこと)()【血沼(ちぬ)()(わけ)、多遅麻(たぢま)()(たけ)の別(わけ)、葦井(あしゐ)()稲置(いなき)()(みおや)】なり。

天皇の御年(みとし)肆拾伍歳(よそちあまりいつとせ)にて御陵(みささき)は畝火山(うねびやま)()真名子谷上(まなごのたにのへ)に在り[] 


大倭日子鉏友(おおやまとひこすきとも)の命(みこと)は、軽(かる)の境岡(さかいのおか)の宮において、天下を治められま。

 この天皇は、師木(しき)県主(あがたぬし)の先祖、賦登麻和訶比売(ふとまわかひめ)の命、またの名は飯日比売(いいひひめ)の命を娶られ、 御子、御真津日子訶恵志泥(みまつひこかゑしね)の命、次に多芸志比古(たきしひこ)の命【あわせて二柱】を生みなされました。

 そして、御真津日子訶恵志泥の命は天下を治められました。

 次に、多芸志比古の命は、血沼(ちぬ)の別(わけ)、多遅麻(たじま)の竹(たけ)の別、葦井(あしい)の稲寸(いなご)の先祖です。

 天皇の御年は四十五歳で、御陵は畝傍山の真名子谷の上にあります。


初代神武は栄えある呉の太伯の流れを汲む周王朝の後裔、第二代綏靖は紀元前23世紀に雲南省麗江から海南島を経由し列島へと脱出した黎族の多氏(阿蘇氏へと融合)、第三代安寧天皇はこれまた雲南省昆明、大里から海南島を経由し八代〜熊本へと避退した白族(ペイツー)=天御中主…。であり、そもそも民族も異なる人々なのです。

 勿論、異なる民族間でも通婚は可能ですから親子関係は成立しますが、神武〜綏靖〜安寧の間には親子関係など存在しないのです。

 ところが、この第四代懿徳天皇は初代神武(カムヤマトイワレヒコ)と本当のお妃アイラツヒメとの間に産まれられた正統皇統の紛れもない皇子なのです。

 つまり、神武と懿徳の間に古代の実力者を挿入、接ぎ木する事によって神代系譜が捏造されているのです。

従って古田武彦氏が提唱された二倍年歴は他の面では意味を持ちますし、一部導入されている可能性もありますが、そもそも無関係の人物を挿入して捏造している「古事記」の性格を理解しなければならないのです。

 最低でも中国ナンバーワン周王朝 正統皇統呉の太伯王の後裔の九州王朝の天皇家 神武〜懿徳〜孝霊〜孝元〜開化…と「ヤマト」とか「ネコ」という尊称?が付されている事にも気付かれるでしょう。

 簡単に言えば、これ以外の贈る天皇は仮に有力であり実力者であっても九州王朝天皇の臣下でしかなく、「古事記」が後の藤原による政治的プロパガンダの書であった事が分かるのです。

ここで、百嶋由一郎氏が残された神代系譜をご覧頂きましょう。


無題.png

百嶋由一郎002百嶋系図(極秘)神代系譜


 金山彦とオチの姫(大山祗の妹)の間に産まれたアイラツヒメと神武の子 正統皇統懿徳天皇(オホヤマトヒコスキトモノミコト)は高木大神と草部吉見との間に産まれた阿蘇ツ姫を妃とします。

飯日比売を妃としたという記述は捏造に思えますが今のところ分かりません。


@ 神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)       九州王朝正統皇統

A  綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト)            阿蘇系(黎族)

B  安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)         大幡主(白族)

C  懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)      九州王朝正統皇統

D  孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)          阿蘇系(黎族)

E  孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト) 玉名半阿蘇系(黎族)

F  孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)   九州王朝正統皇統

G  孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)  九州王朝正統皇統

H  開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

I  崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)       黎族+白族

J  垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト)         宮崎生目神社主神

K  景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)    玉名半阿蘇系(黎族)

L  成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)               素性系統不明

M  仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)            九州、山口に痕跡

N  応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)               宇佐素性系統不明

O  仁徳 大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト)               九州王朝正統皇統


@ 神武〜 A 懿徳〜 B 孝霊〜 C 孝元〜 D 開化〜 E 仁徳 までが正統皇統の本物の九州王朝系天皇家なのです。

その中にこっそりと同世代の重臣を挿入し後の藤原のウイングを拡げ権力基盤を拡大させたのです。

オオササギこと仁徳だけは例外ですが(久留米の高良山ではシレカシの命)、和風諡号に「日本」+根子が含まれている事から判別できるでしょう。

@ 神武(呉太伯系+白族)〜 A 懿徳(神武+金山彦と埴安姫の娘)〜 B 孝霊 (懿徳+草部吉見系 天豊ツ姫⇒天比理刀刀ヒ阿蘇ツ姫⇒寒川姫⇒杉山姫)〜 C 孝元(孝霊+)〜 D 開化(孝元+ヤマトトトトヒモモソ姫)〜 E 仁徳(開化+仲哀亡き後の神功皇后)…

 この懿徳天皇にも大した記事はなく情報量が少な過ぎます。

一応、記述を考えますが…まだ良く分かりません。


(かる)()境岡宮(さかひのをかのみや)に坐()し天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[]


「輕之境岡宮治天下也」は佛教大学の黄 當時教授の説に沿い勝手に「軽の」ではなく「軽之」と考えるのですが…全国的にも類型が非常に少ない地名で難解です。今のところ黄先生の説が魅力的ですが。

青森十三湖の津軽もありますが、北九州市の門司区に軽子島がある程度で思いつくものはありません。

無題.png

気にはなっていますが何とも資料が乏しく踏み込めません。

 懿徳天皇は本物の神武天皇と本物のお妃(次の天皇の母神なのですから)アイラツヒメとの間に産まれ、草部吉見=ヒコヤイミミの娘である阿蘇ツ姫を妃とします。とまでは言えますが、百嶋先生も多くを語ってはいません。

 ただ、面受の者としてハッキリ耳に残っているのが、神武と懿徳が所謂「魏志倭人伝」に出てきますよと言われていた事を思い出します。

無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


       通説では天照…ずうっと降って神武…二代三代飛ばして懿徳となりますが、

実は腹違いの天照卑弥呼と弟神武、子の懿徳と同世代の人物なのです


其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫壻有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞


その國、本また男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年、倭國乱れ、相攻伐(こうばつ)すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名を卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐(たす)けて國を治む。王となりてより以来、見ることある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え、居処に出入す。宮室・楼観は、城柵を厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。

原文及び口語訳は

無題.png

によるものです。


勿論推定だと思いますが、百嶋先生は“年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐(たす)けて國を治む。王となりてより以来、見ることある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え、居処に出入すの「男弟あり、佐(たす)けて國を治む」が神武天皇であり、「ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え、居処に出入す」が懿徳であると言われていました。

天照卑弥呼は本物の神武の腹違いの姉だったのです。

 卑弥呼の鬼道は老荘思想の延長にあるものとの説もありますが、狗奴国の乱も含め、ナガスネヒコの乱による国難から共立され、祭政一致の宗教政治が一時的に執られていたのであろうと考えています。

 ただ、大日孁貴⇒卑弥呼⇒天照大御神による神聖政治の登場は神武の失政=恐らくナガスネヒコの乱(淵源は金山彦の娘であるアイラツヒメとの離婚)によるものだと言われていました。


百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記