2021年06月21日

818 「古事記」中つ巻 安寧編 D “謎だった安寧天皇とは博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビだった”

818 「古事記」中つ巻  安寧編 D “謎だった安寧天皇とは博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビだった”

20200405

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


「古事記の95%は嘘…」と言った百嶋神社考古学を後世に託そうと考える私達にとって、「古事記」の内容を真に受ける事が無い事は言うまでもないことです。

 「古事記」が藤原にとって都合が良いように改竄と言うより最初から創りでかしたものであり、我々からは、どのような意図で本来の正統皇統を捻じ曲げ、自らの先祖に当る第10代とした神武僭称贈る崇神を権威ある者として描こうとしたかを少しずつでも説明したと思います。

たまたま非常に分かり易い口語訳がネット上に有りますので、そちらの意図に反するものになるかも知れませんが、古代史、神代史を考える上で非常に重要な事ですのでご理解ご容赦を頂く事として、今回は「和人」というサイトから引用させて頂きます。

こちらも非常に感謝しております。当方は、神代〜古代に掛けて最も重要な部分を百嶋神社考古学としてはどのように考えるかをお知らせしたいと思うものです。

 今回取り上げるのは、これまた一般にはあまり知られていない第三代安寧天皇 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)についての話です。

第二代綏靖天皇よりは多いものの少ない記述となっています。


師木津日子玉手見命、坐片鹽浮穴宮、治天下也。此天皇、娶河俣毘賣之兄、縣主波延之女・阿久斗比賣、生御子、常根津日子伊呂泥命自伊下三字以音、次大倭日子鉏友命、次師木津日子命。此天皇之御子等、幷三柱之中、大倭日子鉏友命者、治天下也。次師木津日子命之子、二王坐、一子孫者伊賀須知之稻置、那婆理之稻置、三野之稻置之祖、一子、和知都美命者、坐淡道之御井宮、故此王有二女、兄名蠅伊呂泥・亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命、弟名蠅伊呂杼也。天皇御年、肆拾玖。御陵在畝火山之美富登也

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綏靖天皇(すいぜいてんのう)崩御後、第一皇子である師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)が御即位され、安寧天皇(あんねいてんのう)となりました。


父・母【父】綏靖天皇(すいぜいてんのう:多神沼河耳命)

【母】河俣毘売(かわまたびめ:師木県主(しきのあがたぬし)の祖)

皇后(后妃)阿久斗比売(あくとひめ:河俣毘売(かわまたひめ)の兄の師木県主波延(しきのあがたぬしはえ)の娘

皇居(宮の場所)片塩(かたしお)の浮大宮(うきおおみや):所在不明、奈良県高田市片塩町辺りか

備考 第三皇子:師木津日子命(しきつひこのみこと)は、二柱の御子(王)を儲け、一人は孫(うまご)いといい、伊賀の須知の稲置(いなき)、那婆理(なばり)の稲置、三野の稲置らの祖です。

もう一人は、和知都美命(わちつみのみこと)と言い、淡道(あわじ)の御井宮(みいのみや)におり、また、和知都美命には二柱の娘がいました。姉の名は、蠅伊呂泥(はえいろね:後、第七代考霊天皇(こうれいてんのう)の妃で、またの名は意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おおやまとくにあれひめのみこと)。

初代神武は栄えある呉の太伯の流れを汲む周王朝の後裔、第二代綏靖は紀元前23世紀に雲南省麗江から海南島を経由し列島へと脱出した黎族の多氏(阿蘇氏へと融合)、第三代安寧天皇はこれまた雲南省昆明、大里から海南島を経由し八代〜熊本へと避退した白族(ペイツー)=天御中主…系。であり、そもそも民族も異なる人々なのです。

 勿論、異なる民族間でも通婚は可能ですから親子関係は成立しますが、神武〜綏靖〜安寧の間には親子関係は全く存在しないのです。

ここで、百嶋由一郎氏が残された神代系譜をご覧頂きましょう。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


これでも分かり難いので、もう一つの系譜をお見せします。

 神武天皇は白族の神玉依姫(大幡主=カミムスビの姉)と列島大率紀氏呉太伯後裔君長との間に産まれています。

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百嶋由一郎極秘系譜(部分)天御中主+大幡主+高木大神が造化三神ですね…


ご覧の通り、列島大率:姫氏(呉の太伯=「君長」)と白川伯王の娘の神玉依姫=玉前様(千葉県長生郡一宮町一宮にある神社 式内社、上総国一宮 旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社に祀られている)の間に産れたのが本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)であり、同じく列島大率:姫氏と高木大神の叔母の間に産れたのが大日女貴→卑弥呼→天照大御神と書かれているのです。

 つまり、神武と天照とは腹違いの弟と姉の関係にあったことになるのです。


610 神武天皇の母神は千葉県一ノ宮町に祀られている “百嶋神社考古学概論入門編 B”

ビアヘロ060 天照大御神の母神は播磨の佐用町で祀られている “百嶋神社考古学概論入門編 A”

ビアヘロ059 天照大御神の母神は播磨の佐用町で祀られている “百嶋神社考古学概論入門編 @”


百嶋先生が亡くなられる直前に書かれた系譜にこの三代も描かれていますが、親子関係が存在しない事はお分かり頂けるでしょう。

 師木県主波延(河俣毘売の兄)の娘 阿久斗比売 紀 事代主の孫 渟名底仲媛命 紀 磯城県主葉江の娘 川津媛は「記」の創作か側室の格上げの可能性を考えています。

 それどころか、クマノフスミこと(イザナギと別れた後のイザナミ)との間に豊玉彦=ヤタガラス=豊国主をもうけているのです。

 「日本書記」の一書にはイザナミがイザナギに「もう別れましょう」と言っている事が書かれているのです。詳細はご自分でお調べ下さい。


第五段一書(十) 一書曰、伊弉諾尊、追至伊弉冉尊所在處、便語之曰「悲汝故來。」答曰「族也、勿看吾矣。」伊裝諾尊、不從猶看之、故伊弉冉尊恥恨之曰「汝已見我情。我復見汝情。」時、伊弉諾尊亦慙焉、因將出返、于時、不直默歸而盟之曰「族離。」又曰「不負於族。」


それでイザナギは申し訳なく思い、引き返そうとしました。そのときイザナミは黙って帰らせず

「別れましょう」と言いました。                    「日本書紀神代上」による


それでイザナギは申し訳なく思い、引き返そうとしました。そのときイザナミは黙って帰らせず 「別れましょう」と言いました。

 このような重要な事を書かない「古事記」とは一体何なのでしょうか?

 従って、“次大倭日子鉏友命”と書かれている 大倭日子鉏友命=懿徳天皇は正統皇統天皇なのですが、それでも安寧の子ではないのです。これは後の藤原が、神武〜綏靖〜安寧〜懿徳を親子4代の血縁として描くトリックでしかないのです。

 ただ、詳しく言えば、大倭彦=懿徳天皇は安寧天皇の子ではなく、安寧の姉である神玉依姫と列島大率紀氏との間に産まれたのが神武であり、その神武と金山彦の娘=アイラツヒメの間に産まれたのが第4代懿徳天皇なのです。

 つまり、カミムスビこと贈る安寧天皇(実際には天皇ではない)=博多の櫛田神社の大幡主の義理の子ではなく、義理の孫にあたるのです。

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カミムスビこと大幡主を祀る 櫛田神社 カーナビ検索 福岡県福岡市博多区上川端町1-41


安寧天皇 (あんねいてんのう)  

神武天皇以後の8代の天皇記が続きますが、 神武天皇を含めてこれらの天皇は実在しなかったというのが、 現在の通説となっているようです。

師木津日子玉手見命は、大和の片塩の宮から天下を治めました。

この天皇が、河俣毘売の兄の県主波延の娘の阿久斗比売(あくとひめ)と結婚して生まれたのが、常根津日子伊呂泥命(とこねつひこいろねのみこと)大倭日子鋤友命(おおやまとひこすきとものみこと)、師木津日子命(しきつひこのみこと)の三人です。

三人の真ん中、大倭日子鋤友命が天下を治める事となります。

無題.pngまた、師木津日子命には二人の子がいて、一方が伊賀の須知の稲置、那婆理の稲置、三野の稲置の祖先となります。また、もう一方の和知都美命(わちつみのみこと)は淡路の御井の宮にいて、娘が二人居ました。その姉が蝿伊呂泥(はえいろね)、またの名を意富夜麻登久爾阿礼比売命(おおやまとくにあれひめのみこ )、妹が蝿伊呂杼(はえいろど)です。 天皇は享年49歳、稜は畝傍山の美富登にあります。


繰り返しますが、安寧の子と書かれた三人の皇子の真ん中、大倭日子鋤友命とは神武の子である懿徳の事であり、本物の九州王朝正統皇統天皇なのです。


@ 神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)       九州王朝正統皇統

A 綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト)            阿蘇系(黎族)

B 安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)         大幡主(白族)

C 懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)      九州王朝正統皇統

D 孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)          阿蘇系(黎族)

E 孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト) 玉名半阿蘇系(黎族)

F 孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)   九州王朝正統皇統

G 孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)  九州王朝正統皇統

H 開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

I 崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)       黎族+白族

J 垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト)         宮崎生目神社主神

K 景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)    玉名半阿蘇系(黎族)

L 成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)               素性系統不明

M 仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)            九州、山口に痕跡

N 応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)               宇佐素性系統不明

O 仁徳 大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト)               九州王朝正統皇統


※以下省略

 イザナミとイザナギが別れたなど聞いた事がないと思われるかも知れませんが、九州の神社と言わず全国の神社を見てくると段々と分かってきます。

 分かり易い例は、熊野坐神社です。それは祭神がイザナミ+イザナギとなっているものは少なく、大半はイザナギが排除されていることです。

 それどころか有名な和歌山県の熊野三山の熊野速玉神社は博多の櫛田神社の大幡主を、熊野新宮神社はイザナギと別れクマノフスミと名を改めたイザナミを祀る神社で、熊野本宮大社は白族の後継であり同族の象徴であるアカルヒメを祀る神社なのです。つまりイザナギは除かれているのです。

 イザナミ、イザナギがセットで祀られていない神社が多いと言う事は、神社を丹念に見て廻っておらっれる探究者では分かっておられる方はかなり多いと思います。

ただ、これが「日本書記」一書と対応している事には中々辿りつかないと思います。

さて、笑ってしまいますが、巨旦将来こと “綏靖天皇崩御後、第一皇子である師木津日子玉手見命が御即位され、安寧天皇となりました”も酷い捏造で、綏靖の皇子などどう考えてもあり得ない話で、安寧が天皇でない事も、この人物を特定できると天皇ではない事もはっきりしてきます。

 このブログでは、この贈る安寧天皇を博多の櫛田神社の主神である大幡主=ヤタガラスの父神として書いています。

 始めは安寧の正体が不明でした。百嶋先生もそれらしい暗示はされていましたが(知ってはおられた様ですがお茶を濁しておられました)、神代系譜にもはっきりした形では書かれていませんでした。

 ただ、大幡主と大山祗は共に田神、山神として鹿児島、宮崎でタノカンサーとして呼ばれている事はだけはお聴きしていました。

 一方、神社のフィールド・ワークを丹念に行っていると、山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒ=五十猛…が製塩に携わっており、決まって二神が祀られており、もう一つの神が大幡主=塩土(九州では塩筒)翁である事も分かってきました。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! @ 宮崎の野島神社から

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宮崎市(日南海岸)のアコウの茂る野島神社

    

無題.png順を追って説明しないと分かって頂けませんのでご紹介しますが、詳細については上のブログをお読み頂く事として、概略をお話します。

 山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒは天草で製塩事業を行ない、塩(鹽)や魚の干物を山に運び交易を行なっていた。

 海幸彦は、その海産物の交易を仕切り逆に山の幸 猪、鹿の肉、毛皮、鹿角…などの交換を行っていた。従って、草部吉見=ヒコヤイミミは海幸彦と呼ばれた。

 釣針の話で知られるように、塩土翁(九州では塩筒翁と呼ばれる例がかなり認められるがこれは製塩土器と考えられる)の勧めを受け龍宮に向かい龍王(ヤタガラス)の娘豊玉姫と出会う。

 宮崎の日南海岸の南に塩筒翁と猿田彦を祀る野島神社があり浦島太郎を祀る神社と言われている。

 これは、塩筒翁=大幡主=カミムスビが浦島太郎と認識されていた事を伝えている。

 一方、浦島太郎(浦江島子)を祀るとされる丹後半島の宇良神社では浦嶋子(浦島太郎)を主神として祀り、月読命=大山祗を祀っている。

 百嶋研究では南九州のタノカンサーとは田神+山神の擬神体であり、事実、福岡県朝倉市には60社の田神社(一社を除き全てが無格社とされ大幡主が祀られる)と山手には山神社(大山祗が祀られる)が多数分布する。

 してみると、宇良神社の浦嶋子とは大幡主である可能性が高いのです。

 その上に、贈る安寧天皇の和風諡号は 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)とされており、大幡主は「玉手看」つまり玉手箱を見た天皇と呼ばれているのです。

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百嶋由一郎神代系譜 004ヤタガラス系譜原本


百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254

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第三代天皇の安寧が浦島太郎だったなどと言う話は、まず、権力が隠す前に、お伽話に輪に掛けた気違い扱いの話として嘲笑に晒される事になるでしょう。

勿論、権力が最も知らせたくない情報と考えられ、おいそれとは答えが出てこない問題でしょう。

当然にも難問中の難問で、相当広いエリアの神社の探索、偶然に依り得られた知見、百嶋先生に依る暗示、示唆、メンバーによるアドバイスといった多くの要素の総和によってようやく辿り着ける歴史の謎の解明となります。

 この解明には、まず、タノカンサーが大山祗と大幡主を象徴したものとの理解、大山祗が月読命であると言う事、明治9年まで天草が日本最大の製塩地(2位が浜松、3位が赤穂)であり、この不知火海、天草周辺の猿田彦神社10社(「熊本県神社誌」)を全て廻りましたが、そのうち5社が旧塩田池⇒水田で猿田彦+男神を祀り、天草市の例では塩竈の石像から塩土翁=大幡主であることが推定できます。

 さらに、浦島太郎を祀る宇良神社が月読命を祀る事から、浦島太郎は大幡主がシンボル化されたものであることが分かるのです。こうして、山幸彦が大幡主=安寧の子であろう事が見えてきた上に、大幡主が何故塩土(筒)翁と呼ばれたかまで分かって来たのでした。以下も近々に公開します。

 ここでは、安寧の子が懿徳ではない事、安寧が綏靖の子でもない事を理解して頂ければ目的は達成されたことになります。


ひぼろぎ逍遥(跡宮) 

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浦島太郎はなぜ亀に乗って竜宮城に向かったのか? (拡大編)

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浦島太郎はなぜ亀に乗って竜宮城に向かったのか? (本編)

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浦島太郎はなぜ亀に乗って竜宮城に向かったのか? (導入編)


最後になりますが、この間欠史8代天皇の現場は全て九州が舞台であり、好い加減に調べただけの畿内の実態をだけをもって全て(当初は13代とも)架空とした事に対して分かり易くするために大半は九州で起こった事象と書いていますが(勿論、山陰から但馬、播磨に掛けても多くの痕跡を拾い上げ既に過去にブログで公開していますのでそれはそれとして検索されお読み頂きたいと思います)、例外が一つあります。それは淡路島です。


一子、和知都美命者、坐淡道之御井宮、故此王有二女、兄名蠅伊呂泥・亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命

もう一人は、和知都美命(わちつみのみこと)と言い、淡道(あわじ)の御井宮(みいのみや)におり、また、和知都美命には二柱の娘がいました。姉の名は、蠅伊呂泥(はえいろね:後、第七代考霊天皇(こうれいてんのう)の妃で、またの名は意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おおやまとくにあれひめのみこと)。


 まず、御井とは九州王朝の本拠地の一つ福岡県久留米市の高良大社の麓に御井地区があり、味水御井神社があります(兵庫県但馬にも10社程度)。また、高良大社も存在している事から九州王朝の植民が相当に早くから行われていた痕跡と理解しています。詳しくは以下などをお読み頂きたいと思います。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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淡路島にはもう一つの高良神社があった “南あわじ市に九州王朝の没落を見た”

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始めて踏む淡路島の高良神社を確認した “兵庫県南あわじ市“


まず、南あわじ市には 淡路國二之宮 大和大国魂神社があります。

奈良天理の大和大国魂神社と同名のこの神社も九州王朝系の痕跡と考えられます。

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左)百嶋由一郎金神神代系譜(部分) 右)百嶋由一郎多大将軍神代系譜


姉の蠅伊呂泥(ハエイロネ)が後の第七代考霊天皇の妃)として、それが細(クワシ)姫こと卑弥呼宗女伊豫(イヨ)であれば上手いのですが、これについては尚検討が必要でしょう。

ただし、この蠅伊呂泥の別名が原文に“亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命“と書かれています。大大和クニクル姫と書かれており、九州王朝系の妃の名としては対応するとまでは言えそうです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記