2021年06月06日

813 柴刺が沖縄にもあった“「てぃんぬてぃーだ」 − 琉球とユダヤ民族の絆 − 與儀喜美江 から”

813 柴刺が沖縄にもあった“「てぃんぬてぃーだ」 − 琉球とユダヤ民族の絆 − 與儀喜美江 から”

20200316

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


「柴刺」については ひぼろぎ逍遥(跡宮)378“伊佐市で「柴刺」(シバサシ)に遭遇した”、ひぼろぎ逍遥 スポット068で書いています。

ところが当会の女性メンバーに教えてもらった「てぃんぬてぃーだ」―琉球とユダヤ民族の絆― 與儀喜美江(YogiKimie)を読んでいると 柴刺(シバサシ)22p が書かれていました。

これは私にとってはかなりの衝撃で、鹿児島の伊佐市(旧大口)で柴刺に遭遇した時からこれはこの文化がもしかしたら、先島、沖縄、奄美経由で持ち込まれているのではないかと考えていたのです。

そこに沖縄と言う跳石を見出した事から、雲南、貴州から入っている事が濃厚になって来たと思うようになったのです。


以前、スポット68 「柴刺」(シバサシ)を書きましたが、これまで何度か遭遇した柴刺神事らしきものを鹿児島県伊佐市の一角で見掛けましたので報告したいと思います。

無題.png

そうした中、鹿児島県伊佐市の外延部で柴刺神事の痕跡と思えるものを見掛けましたので、記憶に留めておきたいと書き留める事にしました。

無題.png

憧れの「布計」(フケ)集落を見たいと雨上がりの野辺の道を進んでいると、左手に手入れの行き届いた神社に遭遇しました。

 国玉神という神様は数も少なくあまりはっきりしていませんが、恐らく大国主命か大幡主もしくはヤタガラスのいずれかで、彦火火出見尊、豊玉比売命は明治期に追加改変されたものと想像してしまいます。

「八幡の神は片鱗もありません」とはしましたが、実は、詳しく読んで頂くと三十六歌仙扁額についての記述に山野村の「正八幡」が出て来ます。

「正八幡」とは宇佐八幡宮以前の本当の八幡の意味であり、表向きはどうであれ、実際には博多の櫛田神社の大幡主を祀る神社であり、その大幡主の子が豊玉彦(ヤタガラス)となる訳です。だから「玉」が付されているのです。

大体、宇佐神宮から最も遠い場所に無格社として八幡宮が置かれている事がおかしいのです。

 この際、今回のテーマは祭神ではないためどうでも良いとして、この神社の一角に「柴刺」神事の名残と思えるものに遭遇しました。

 馬場紀美史(宇佐神宮福岡出張所長)が書かれた「柴刺」の販促用襷には、以下のように書かれていました。


 …「柴刺」「柱立」は律令国家の誕生後、大きく変化していく。「柴刺」に限って言えば、祭場を修祓するための、或いは禁足境界を標示するための、つまり柳田國男が指摘する「忌刺」(斎刺)として変化していったのである。従ってこのような基本的誤謬が現在、「柴刺」イコール「注連張」の通念を生み出すに至ったものと考えられる。

 しかし何度も言うように「柴刺」は霊を虚空へ送りあげるための祭儀であり、決して注連を張るのと同義ではなかったものである。神―すなわち祖霊の還天と来臨が柴刺そのものであった事を理解する必要があるであろう。(本文より)


 一応、入門者の当方としては、「注連縄」による結界以前の聖域の表現と理解しておきます。

 この柴刺との遭遇については、熊本県芦北町を始めとして、これまでにも過去何回かありました。

 やはり、その多くが古い集落といった場所で、後しばらくの間はこの古い儀礼に遭遇する機会はあるものと考えています。以下はスポット68 「柴刺」(シバサシ)の一部です。


では、「柴刺」とは何でしょうか? 実は中国の少数民族の一つ彝(イ)族の儀礼でもあるのです。

無題.png

勿論、祭礼、葬礼などに於いて、色々な枝を刺すという儀礼、神礼の事なのです。

今でも茨城県では一部に残っているとも聴きますし、これに似たものを熊本県の葦北郡でも見たことがあり、列島にはどのような人々が入ってきたかを考える上で、重要な示唆を与えてくれるものとなっています。… その後類例を幾つも見出だしましたのでそれほど珍しくもなくまだまだ残っているようです。

…最後になりますが、“倭人とは何か“を考える時、「ワ」人と読むのではなく、「ウィ」もしくは「イ」=「ヰ」であるとすれば、この民族も列島に入って来ていたのではないかと思うのです。

それが「常陸国風土記」に出てくる武甕槌=鹿島大神による“同族だまし討ち”征服を思わせるのです。

その意味で同書の458p(省略)も我田引水的ですがご紹介しておきます。

雲南省麗江からの新興亡命者であった阿蘇氏に征服された先住者も広義の九黎族の一つだったはずなのです。だからこそ常陸の国の先住者は、歌や音色に魅かれて油断した所をだまし討ちされたのです。


彝(イ)族の儀礼が残っているから伊佐という地名になっているのではとまでは思いませんが、彝(イ)族と混住していた黎族が鹿児島に入っている事には疑いを持ってはいません。

 指宿に「今給黎」姓が集中し「喜入町」があり「嘉例川」といった地名があることは大陸から黎族(分かり易く言えば阿蘇氏のこと)が入って来ている痕跡と考えている事はこれまでにも何度か触れています。

無題.png

無題.pngこれは馬場先生が「柴刺」の409pに挿入されていた雲南省の地図で、 が彝(イ)族の居住領域です。

これを見ると、雲南省麗江を主要な居住地としていた黎族(阿蘇氏)とも白族(豊玉彦=ヤタガラス、大幡主の御先祖)の領域であった昆明とも重なる事から、大口辺りに彝(イ)族が入っていても一向におかしくはないと思うのです。

 写真は神社の正面の風景ですが、古代には雲南省のような山上楽園だったように思えるのです。

無題.png


山野石井神社正面の手入れされた耕地

無題.png

與儀喜美江女史の「出エジプト記」との関連についての知識は持ちませんので置くとしても、百嶋先生も当然にもユダヤとの関係ははっきり指摘されていました。

無題.png

イ族は、総人口が657万8524人(1990年)で、中国の少数民族中第6位、イ語系の少数民族のなかでは最大の人口を有する。雲南省の楚雄イ族自治州や紅河ハニ族イ族自治州、四川省の涼山イ族自治州を中心に、貴州省や湖南省、広西チワン族自治区の山岳丘陵地などに広く分布し、一部はミャンマー、ベトナム北部、タイ北部などのインドシナ半島北部に至っている。

 中華人民共和国成立後に、はじめて1つの民族集団として統一された。すなわち、かつては羅羅、夷人、夷家と呼ばれ、蔑称の夷が通称であったのを彝に改めて民族名称と定めた。わが国においても「夷」を「エビス」とあずまえびす呼び、たとえば東夷といえば、東国に居住する武士のことで、京に住んでいた人々が、その無骨さをあざけって名づけた名称となっている。言語は多様で、六方言に大別されるが、互いにほとんど通じない。約1000年前に創作されたという音節文さん字曇文が、ヒモ(宗教職能者)によって伝えられている。ヒモは太鼓を叩いて精霊を呼び、その精霊と人間との仲介役を果たした。なおイ文は象形文字を母体とするが、大部分は同音仮借によってイ語の音節を示す音節文字である。叙事詩『阿詩瑪』や格言および祭祀などが、この文字によって記された。イ族の祖先は、黄河上流地域をその発祥の地とし、その後しだいに南下し、長江上流域の金沙江・岷江の両河川流域に到達、定着したとされる。漢王朝時代には西南夷、三国時代には南蛮と総称された集団の主力部分を形成していたが、漢王朝時代から唐王朝時代にかけて奴隷制社会に入り、その勢力は強大となった。すなわち、唐王朝時代になると、雲南省東部には烏蕃と呼ばれる集団が、雲南省西部には白蕃と称される集団が形成されていった。烏蕃は、四川省西部から雲南省の山岳地帯に南進した騎馬牧畜民族で、現在の黒イやナシ族の祖先に該当すると考えられているチベット系の集団の総称である。一方、白蕃は、祖先がタイ系の水稲耕作民であったと推定され、早くから雲南省のいくつかの盆地に定住した。このいくつかの集団は、唐王朝時代には大理盆地に最も多く定着したとされ、現在の白イがその末裔とされる。…

イ(彝) 族Gesanmedo Tibetan Highlands Elementary School Construction Fund NPO2020 0316 16:19


「エビス」は古々代ヘブライですのでユダヤ系と言えない事は無いように思えますが、当方の知識の及ばぬ世界です。

今回は、「てぃんぬてぃーだ」―琉球とユダヤ民族の絆― 與儀喜美江 をご紹介する事が目的ですのでここまでとします。

問い合わせ先 joy工房&茶屋

沖縄県南城市大里字仲間937 :098-988-1209 http://www.sendanso.com/與儀 喜美江


無題.png 日猶同祖論を持ち出すと権力に尾を振る通説派は元より、直ぐに常識人とか知識人ぶって小馬鹿にしたり抗議したりする人がいますが、それは本質を突いているからに過ぎません。

 陰謀論は既存の偽ユダヤ=アシュケナージ〜ハザール=カザールにとって不都合であるからそのように宣伝されているのです。

 我々は命も名も官位も金も捨てた者であり、文句があるなら実名で抗議して来られれば良いだけの事なのです。

今回は、馬場紀美史氏の「柴刺」を「てぃんぬてぃーだ」―琉球とユダヤ民族の絆― 與儀喜美江(YogiKimie)柴刺(シバサシ)22p とに関連性を気づいたため、当面メモに残し、この風習を持ち込んだと思われるイ(彝)族が中国では夷=恵比須とされている可能性を知りました。

百嶋先生は中国で飛行機に800回乗ったと言われ徹底して調べられた方ですので、イ(彝)族=夷=古々代ヘブライについても、中国版「姓氏家系大辞典」といった『中国の少数民族』『中国少数民族略史叢書』『中国少数民族言語簡誌叢書』『中国少数民族自治地方概況叢書』『中国少数民族社会歴史調査資料叢書』…から十分把握されていたと思います。

馬場紀美史も百嶋由一郎氏も博多におられましたし世代的にも近い事から面識がなかったとは到底考えられません。

少なくとも呉越を筆頭に、イ(彝)族、黎族、白族、土舎(土家)、楚人…がごっそり列島に入っているはずで、そのルートも南廻りだった可能性が俄かに高まってきました。

最期にこの民族について考えて見ます。雲南省の南、昆明の滇湖の東に雲南石寧山古墳群があります。

俗に謎の青銅器文明と言われる滇王国に関係するとも言われる遺跡ですが、この主は白族とされますが泰族とされる漢代のボク人ともされます。まだ良く分かっていません。

我々は当然白族(博多の櫛田神社の大幡主のご先祖でしょう)であり、貯貝器、宝貝…から沖縄と言うより古代琉球(台湾を含む)であり、この点からも沖縄にイ(彝)族が入っている可能性を考えているのです。

無題.png
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記