2021年06月01日

811 再び博多の櫛田宮について

811 再び博多の櫛田宮について

20200124

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


以前、ひぼろぎ逍遥(跡宮)に

770

熊本の二人の女性と博多の櫛田神社を二時間掛けて観察した

を書きました。

 202029日に後半氷雨降る中、博多の街中の神社4社の月例トレッキングを行なったことから、新たに発見した知見を書き留めておくことにしました。

 前回の報告からさらに踏み込んだ理解と言えば聴こえは良いものの、実際には基本的な理解の変更も含まれていますので、今尚暗中模索と言えるかも知れません。

 つまり、何事も途中経過といったところなのかも知れません。

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 まず、櫛田神社とは二つあることはご存じでしょうか?

神社に明るい方は十分にご存じでしょうが、博多の櫛田神社とは別に佐賀県の神崎市役所の隣に櫛田宮があるのです。ただ、百嶋神社考古学の立場から言わせてもらえば、この二つの神社は非常に強い関係性を持つものの、実は全く性格の異なる神社なのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


202029日(日) 博多の櫛田神社とは何か“櫛田神社再考”トレッキング(案)

20200128

 オープン参加(一般の方も気楽にご参加ください)資料代500円のみ 基本は各自車の用意を…


202029日(日) 午前1100に櫛田神社境内に徒歩で集合を…豪雨は別として雨でもやります!

(地下鉄利用の方は祇園、中洲川端が最寄駅となります…)


@  集合場所 徒歩で櫛田神社境内に集合 カーナビ検索博多区上川端町1-41

無題.png太宰府宰府地名研究会2

寒い時は博多の街中で神社トレッキング”

櫛田神社を一時間掛けて細部まで検討しよう!

202029日曜日 11:0015:00 

集合場所:午前1100に徒歩で櫛田神社境内に集合  

ナビ検索博多区上川端町1-41




豪雨でない限り雨でも行います(各自傘持参)

無題.png最寄駅地下鉄「中洲川端駅」or「祇園駅」から徒歩8

@  櫛田神社  博多区上川端町1-41

同社境内社 花本(松尾芭蕉にあらず)ほか数社

A  安国寺境内社(天満宮)中央区天神3丁目14-4  ⇒⇒⇒

以下自由参加 警護神社 福岡市中央区天神2丁目2-20 

若宮神社 福岡市中央区19

終了後は天神ショッピング+グルメ…流れ解散

連絡中島)09052892994 参加費、資料代500


博多の櫛田神社の祭神は、中央に大幡主=神産巣日神(カミムスビ)、左に天照皇大神、右にスサノウを祀っています。

元々は祇園神社であることからスサノウは良いとして、以前から天照が何故祀られているのか、そして、その神紋がであるという一点が理解できない不可思議な謎として漂っていました。

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當社は鎮西の雄都博多の守護神とし天平寶字元年託宣により大幡主大神を鎮祭した。天照皇大神の御鎮座は之より更に古い。素盞鳴尊の奉祀は天慶4(941)追討使小野好古が反亂の鎮定に下向し京都祇園宮を勧請して祈願した由縁による。


「天照皇大神の御鎮座は之より更に古い」についてはかなり疑わしいと考えています。

まず、その前に、天照が桜の神紋を使う事が理解できません。そのような例があるのでしょうか?

その上に、天照祭祀をことさら古く描こうとする上記の行は、ただのご都合主義か?つじつま合わせなのか、強弁なのか、他の権力からの圧力なのかまだ分かりません。

勿論、天照は糸島〜福岡に掛けて実際に住んでいた(福岡市桧原ヒバル)と思われる事から古層の伝承を残している可能性も考えておく必要はあるでしょう。

一般的に桜の神紋を使うのは大山祗、その娘のコノハナノサクヤ、多少拡げてその兄の大国主命(百嶋神代系譜による)の一族は桜の神紋を使うのです。

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社伝では、天平宝字元年(757年)、松阪にあった櫛田神社を勧請したのに始まるとされ、松坂の櫛田神社の祭神の大幡主神が天照大神に仕える一族の神であったことから、天照大神も一緒に勧請されたと伝えられる。天慶4年(941年)、小野好古が藤原純友の乱を鎮めるために京都の八坂神社に祈願し、平定した後に当社に素盞嗚神を勧請したと伝えられるが、平安時代末期、平清盛が所領の肥前国神埼の櫛田宮を、日宋貿易の拠点とした博多に勧請したという説が最有力であり、櫛田神社の宮司らが編纂し昭和40年(1965年)に文部省(当時)に提出した『博多山笠記録』や昭和54年(1979年)に福岡市が発行した『福岡の歴史』はこの説を取り上げている。しかし、それは同市早良区の櫛田神社のことであるという反論もある。

戦国時代に荒廃したが、天正15年(1587年)、豊臣秀吉によって博多が復興されるときに現在の社殿が造営された。

明治元年(1868年)の神仏分離令より前の江戸時代までは東長寺に属する神護寺が櫛田神社を管理していた。                       ウィキペディア(20200210 12:59による


この問題に直面し何度も考えたのですが、櫛田神社の境内社である石堂神社を再確認した事から謎が解け始めました。

櫛田宮の神殿背後地には、石堂神社以下数社の数基の鳥居と境内社が並べられた神域があります。

神殿背後地だけに余程偉いか古い神様か、神社創立以前の祭祀が凍結されている可能性があるのです。

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社殿裏に並んで8社が鎮座します。この規格の揃った鳥居は松尾神社、諏訪神社、金刀比羅宮、皇大神宮、竃門神社、今熊野神社、天満宮、石堂神社のものなのでしょうか。

そして、石堂宮の神紋を見ると桜であることが分かります。

ご丁寧に大幡主系の亀甲紋と桜との合併紋なのです。とすると、櫛田宮、石堂宮、祇園社の祭祀形態が石堂宮を廃され天照皇太神に換えられた可能性が見えてくるのです。では、石堂宮とは何なのでしょうか?

博多祇園山笠では全流全参加者によるお汐井取り(おしおいとり)が行われます。

お汐井取りですが、舁き手たちは筥崎宮を参詣し心身を浄め、櫛田神社を参詣する行事であり、石堂川(御笠川の河口部分を石堂川と呼ぶ)にかかる石堂橋から箱崎浜へ「お汐井道」と呼ばれる小道をたどり箱崎浜を目指し、そして櫛田神社のある博多区まで戻ってくるのです。

その行程は約10キロ。全参加者が一同に集まるのです。

これが、船を山越させる船越の名残であり、その実戦経験を保つ言わば軍事行動であることは、

ひぼろぎ逍遥〜新ひぼろぎ逍遥

687

船 越

でも取り上げていますが、御汐井汲み神事と繋がる海神族の祭祀と関係があると思われるのです。

この祭祀が宗像三女神の市杵島姫、豊玉姫を象徴しているとすれば、石堂宮とはその二人の女神であるウムガイヒメ、キサガイヒメをお妃とした宗像大社の本来の祭神の大国主命(コノハナノサクヤヒメの兄、大山祗の息子)を意味していることになるのです。

天御中主、大幡主、事代主、大物主…

つまり、大幡主(カミムスビ)への入婿であり、その証拠に、大国主命は「主」(ヌシ)という尊称(呼称)を使う事が許されているのです。

これが分かれば、現在の祭祀形態に先行し、大幡主+大山祗+スサノウという強力なトリオ、トリロジーが存在していた可能性が見えてくるのです。

この石堂宮が大山祗系民族(氏族)=トルコ系匈奴(大国主、コノハナノサクヤ、ミヅハノメ)を象徴するものであろうことは、これまでの事前調査である程度の推察が可能です。

詳しくは、以下をお読み下さい。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

623

続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu

622

タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (下)

621

タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (上)


623 続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu             20180728


現在は中国領ですが、アフガニスタン、パキスタンとの国境地帯、言いかえればアフガニスタンのカブール回廊入口の要衝にTa Shi Ku Er Gan Luタシクルガン(中国表記:石頭城、石城山)があります。

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Ta Shi Ku Er Gan Luタシクルガン(中国表記:石城山 石頭城)


他にも幾つかありますが、ユーチューブで【新疆】タシュクルガンの石頭城、【中国】タシュクルガンの石頭城へやってきた。などと検索すればかなりの記事が出てきて鮮明な画像が確認できます。

古代ギリシャからは「トリスラピディア」とも呼ばれていたとか…。

さて、話をさらに進めます。故)百嶋由一郎氏によれば、“この一帯の人々(トルコ系匈奴)が、列島に侵入し「石頭城」「石城山」(いずれも中国表記)と言った地名を持ち込んでいる…。”それは、”熊本県玉名市と宮崎県西都市に同じ地名がある”とまで言われていました(玉名市の石貫地区、西都市の石貫神社の石貫も石ノ城=石城山を意味するのです)。

当然、山口県光市+多布施町の石城山神籠石もそうですし、石動=イシナリ(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町石動)もそうですし、石堂宮の石堂もこの「石頭城」「石城山」の置換えなのです(東北の岩木山も…)。

それで、桜を神紋とする大山祗祭祀が先行して存在し、後に天照祭祀が割り込んだのであろうと考えるのです。

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詳しく説明しても良いのですが、自分で調べなければ頭に残らないのでご自分で検索してお読み下さい。

ついでに申し上げれば境内に置かれた花本大神が松尾芭蕉の俳号が起源であるという話が230本ほぼ同じトーン、同じ内容で見事にネット上に羅列されていますが、自らの頭で考えようとしないのか、肖り、集りなのか、単なる安心感なのか呆れてしまいます。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

372

花本大神をご存知ですか? “博多の櫛田神社の花本大神と

豊後大野の宇田姫神社について”


博多の祇園祭と言えば山笠と併せ知らぬ人のない大祭ですが、その裏手にひっそりと、しかし、大きな石塔(石柱)が建てられています。

 そして、そこには「花本大神」と大書されているのです。

 これに関しては、等しく判を押したかのように「松尾芭蕉」の神号であるといった話で皆さん納得されているようです。ネット検索をして頂ければ例外なくそのように解釈されているのです。

 ところが、百嶋由一郎先生だけは、「そこにはごまかしがありますね…」といったコメントを残されているのです。恐らく、全てをご理解だったのだと思います。

勿論、これについてはただの手書きメモが残されているだけで、それ以上の事は聴かされてはいませんが、ようやく大方の見当が付いた事から後世の研究のためにも所見を残しておこうと思うものです。

 櫛田神社を筆頭に“芭蕉の神号“といった事で納得されている分には、それはそれで結構だと思うのですが、真実の歴史、古代を探索するものとしてはあり得ない話であり、ネット上に芭蕉の神号説が如何に大量に複製されていようが、孤立した旗を高く揚げておこうと思うものです。

きっかけは、前述のとおり、百嶋由一郎氏が残された手書きメモでした。

この花本大神に関わる百嶋先生のメモは以前から気にしていたのですが、少し調べれば分かる事ながらなかなか思い立たずに放置していました。

ところが、大分県豊後大野の神社調査を行っていると、同市の清川町に鎮座する宇田姫神社に遭遇しました。この神社の由緒を読んで見ると、華の本の故事が書かれており、直ぐに博多の櫛田神社の花本大神の事が頭に過ってきたのでした。

少し込み入った話になるため、ここでは短絡する(される)ことのないように、まずは同地の宇田姫神社の祭神である宇田姫様が「華の本」と呼ばれている(いた)事だけを理解して下さい。

 さて、宇佐神宮とも覇を競った大神一族が豊後の大野郡や直入郡に蟠踞していた事は知られています。

 特に有名なのは宇佐神宮焼き討ち決行し後に処断された緒方三郎惟栄は有名です。

 重ねて申し上げますが、博多の祇園祭と言えば山笠と併せ知らぬ人のない大祭ですが、その裏手にひっそりと、しかし、大きな石塔(石柱)が建てられています。

 そして、そこには「花本大神」と大書されているのです。

 これに関しては、等しく判を押したかのように「松尾芭蕉」の神号であるといった話で皆さん納得されているようです。ネット検索をして頂ければ例外なくそのように解釈されているのです。

 花本大神の石柱は、阿蘇大神一族が祖母山北麓の穴森神社裏から大分県清川町に鎮座する宇田姫神社の裏に通じているとする洞穴が祖母山の豊玉姫の血筋を持つとする大神一族が宇田姫の元に通い大神惟基が生れ、祖母山の豊玉姫の庇護を受けた阿蘇大神一族が宇佐神宮をさえ焼討ちを実行したとの伝承を伝えるものなのです。

詳しくは前述の ひぼろぎ逍遥(跡宮) 372 花本大神をご存知ですか?をお読み下さい。

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 櫛田神社を筆頭に“芭蕉の神号“といった事で納得されている分には、それはそれで結構だと思うのですが、真実の歴史、古代を探索するものとしてはあり得ない話であり、ネット上に芭蕉の神号説が如何に大量に複製されていようが、孤立した旗を高く揚げておこうと思うものです。

 この神社の由緒を読んで見ると、華の本の故事が書かれており、直ぐに博多の櫛田神社の花本大神の事が頭に過ってきたのでした。

なお、メンバーのブログ「宮原誠一の神社見聞諜」では天照は後にカミムスビと夫婦になっているという新研究を提出しています。これも謎解きの一環になるでしょう。注目を!


百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書スキャニングDVDを必要な方は09062983254

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2021年06月03日

812 諸塚村再訪 諸塚神社参拝殿上部の神紋 “2月の諸塚神楽大祭”

812 諸塚村再訪 諸塚神社参拝殿上部の神紋 “2月の諸塚神楽大祭”

20200217

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 2020年の21516日、5年ぶりに復活した諸塚神社+桂八幡神社+桂正八幡神社三社合同の神楽大祭が行われました。

 ここ20年近く通い続けた椎葉村栂尾から多少目先を変え、再び同地に入るようになりました。

始めて入ったのは10年以上前だったのですが、栂尾同様にハードなルートである事もあり、この間敬遠して来たのは事実です。

ただ、百嶋由一郎氏も重視していた神社でもある事から、そろそろ懸案だった諸塚神社、桂八幡神社、桂正八幡神社へと踏み込んだのが昨年の秋でした。

 今回は、2月の極寒期に33番どころか40番の長丁場の神楽奉納が行われるとのその意気込みに魅かれ長躯諸塚村の裏口の日之影町側から九州山地でもひときわ深い僻陬の地を訪ねました。

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無題.png以前のブログでも少し触れましたが、大きな字があるのか、同じ名の二つの字があるのかは不明ですが、諸塚神社を挟んで東西に二つの七つ山地区があり桂正八幡宮、桂八幡神社があります。

 そして、その真ん中に諸塚神社と立岩神社神社があるのです。

 しかも、諸塚神社の奥に葛地区がある訳で、これが「カツ」の置換えならば、桂、葛とは、この地区に住み着いた一族の素性を語ってくれている様にも見えます。

 恐らく桂には桂木=葛城(葛城王朝)が象徴されているはずです。

また、七つ山という地名も恐らく天御中主命=妙見信仰=北辰信仰(北極星もしくは北斗七星を神格化したもの)のはずで、この地に修験が深く根ざしていた事を思わせます。

事実、諸塚神社の筆頭神に天御中主命が置かれている事は象徴的ですらあります。

 私自身は昨年秋の桂正八幡宮の祭礼に訪れるまで、暫くの間諸塚村に足を向ける事はありませんでした。

 それは諸塚神社の祭神(2728神)の多さに圧倒され暫くの間たじろいでいたからでした。

 ただ、お誘いがあった事もありましたが、いつまでも敬遠している訳にもいかず、そろそろ何とかしなければと足を向ける事にしたものです。

 先行ブログで書いてきた事ですが、上宮には28神が祀られ、起源2600年(昭和16年)には大々的に神武天皇を奉斎しておきながら、現在の諸塚神社には神武天皇は祀られていないと言う事実にも直面ししばらく当惑していましたが、これは終戦(敗戦)後の進駐(占領)軍対策で慎重に神武が消されていることから上宮には28神の神名がなく、下宮では27神しか拾えないという同社の謎が解けて来たようです。


40番神楽大祭

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この間20年近くに亘って宮崎県椎葉村の栂尾神楽を定点観測の如く見て来ました。

 しかし、極限の限界集落の中で必死に伝統を守って来た栂尾神楽に悲壮感と純粋さを感じ琴線を動かされてきた者としては、さすがに将来への不安を感じていました。

一方、毎年3番程度しか舞ってこなかった桂正八幡を軸に五年ぶりに復活させると言う諸塚神楽にどれほどのものが…とは思ったのですが、その所作、神事、神楽の出し物、囃子歌…と、阿蘇系神楽と言われてきた栂尾神楽と重なる部分が多く、この点、銀鏡、高千穂、特に芸能化され毒々しい(ケバケバしい)石見神楽のような俗化されたものを好まないものとしては極めて好感の持てるものだったのです。

 何よりもホウジャ(祝子者)さん=舞子の数と年齢層が意外と若く神楽本来の姿に戻っている事に感銘を受けたのでした。

無題.png 今回は三神社合同という事があったからかも知れませんが、その熱気と若さと神楽を囲む人々の明るさとその多さに改めて感銘を受けたのでした。

 これで、栂尾に加え諸塚にも足を延ばさざるを得なくなりましたが、今は新たな人生の宝を得たような思いもしています。

 最後に百嶋神社考古学の立場から、もう一点これは凄いと言う小さな発見をしました。

 百嶋先生の話に諸塚神社が部分的に出てきます。

 それは“古代の日向とは鹿児島宮崎を併せた大山祗の領域で(その証左に日向一の宮は都濃神社=大国主命を主祭神にする、二宮がニニギの妃となったコノハナノサクヤを主祭神とする)、倭国大乱の時期に神武を匿い保護していた所の様だ…という話でした。

 間違っても霧島神宮や宮崎神宮などを軽々に持ち上げるのは慎重になるべきでしょう。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)⇒

 そうした中、神楽の終了間際に同行の熊本のFグループで大阪から来られていたから参拝殿上部の「神紋が気になるのですが何ですかね」…と問われ、私も雨の中でもありうっすらとしか見えなかった事から迂闊にも見落としていたのですが、スマホで撮り画像を引き延ばすと、何と桜だったのです。

 お分かりでしょうか…?

 桜はコノハナノサクヤのシンボルであり、その父神である大山祗のものなのです。

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さすがは百嶋由一郎先生と改めて感服したのですが、西米良の狭江稲荷に引き続き、古代日向が大山祗のものであり、諸塚神社の北に聳える山上に祀られる13基の古墳と諸塚という地名も神武天皇が亡くなった所だとかいった伝承まで聴こえてくる諸塚の謎の一端を見た思いがしたのでした。

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百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書スキャニングDVDを必要な方は09062983254


ここで手書きデータから「諸塚山伝説大率家」百嶋神社考古学初期02221215)を見て見ましょう。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2021年06月06日

813 柴刺が沖縄にもあった“「てぃんぬてぃーだ」 − 琉球とユダヤ民族の絆 − 與儀喜美江 から”

813 柴刺が沖縄にもあった“「てぃんぬてぃーだ」 − 琉球とユダヤ民族の絆 − 與儀喜美江 から”

20200316

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


「柴刺」については ひぼろぎ逍遥(跡宮)378“伊佐市で「柴刺」(シバサシ)に遭遇した”、ひぼろぎ逍遥 スポット068で書いています。

ところが当会の女性メンバーに教えてもらった「てぃんぬてぃーだ」―琉球とユダヤ民族の絆― 與儀喜美江(YogiKimie)を読んでいると 柴刺(シバサシ)22p が書かれていました。

これは私にとってはかなりの衝撃で、鹿児島の伊佐市(旧大口)で柴刺に遭遇した時からこれはこの文化がもしかしたら、先島、沖縄、奄美経由で持ち込まれているのではないかと考えていたのです。

そこに沖縄と言う跳石を見出した事から、雲南、貴州から入っている事が濃厚になって来たと思うようになったのです。


以前、スポット68 「柴刺」(シバサシ)を書きましたが、これまで何度か遭遇した柴刺神事らしきものを鹿児島県伊佐市の一角で見掛けましたので報告したいと思います。

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そうした中、鹿児島県伊佐市の外延部で柴刺神事の痕跡と思えるものを見掛けましたので、記憶に留めておきたいと書き留める事にしました。

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憧れの「布計」(フケ)集落を見たいと雨上がりの野辺の道を進んでいると、左手に手入れの行き届いた神社に遭遇しました。

 国玉神という神様は数も少なくあまりはっきりしていませんが、恐らく大国主命か大幡主もしくはヤタガラスのいずれかで、彦火火出見尊、豊玉比売命は明治期に追加改変されたものと想像してしまいます。

「八幡の神は片鱗もありません」とはしましたが、実は、詳しく読んで頂くと三十六歌仙扁額についての記述に山野村の「正八幡」が出て来ます。

「正八幡」とは宇佐八幡宮以前の本当の八幡の意味であり、表向きはどうであれ、実際には博多の櫛田神社の大幡主を祀る神社であり、その大幡主の子が豊玉彦(ヤタガラス)となる訳です。だから「玉」が付されているのです。

大体、宇佐神宮から最も遠い場所に無格社として八幡宮が置かれている事がおかしいのです。

 この際、今回のテーマは祭神ではないためどうでも良いとして、この神社の一角に「柴刺」神事の名残と思えるものに遭遇しました。

 馬場紀美史(宇佐神宮福岡出張所長)が書かれた「柴刺」の販促用襷には、以下のように書かれていました。


 …「柴刺」「柱立」は律令国家の誕生後、大きく変化していく。「柴刺」に限って言えば、祭場を修祓するための、或いは禁足境界を標示するための、つまり柳田國男が指摘する「忌刺」(斎刺)として変化していったのである。従ってこのような基本的誤謬が現在、「柴刺」イコール「注連張」の通念を生み出すに至ったものと考えられる。

 しかし何度も言うように「柴刺」は霊を虚空へ送りあげるための祭儀であり、決して注連を張るのと同義ではなかったものである。神―すなわち祖霊の還天と来臨が柴刺そのものであった事を理解する必要があるであろう。(本文より)


 一応、入門者の当方としては、「注連縄」による結界以前の聖域の表現と理解しておきます。

 この柴刺との遭遇については、熊本県芦北町を始めとして、これまでにも過去何回かありました。

 やはり、その多くが古い集落といった場所で、後しばらくの間はこの古い儀礼に遭遇する機会はあるものと考えています。以下はスポット68 「柴刺」(シバサシ)の一部です。


では、「柴刺」とは何でしょうか? 実は中国の少数民族の一つ彝(イ)族の儀礼でもあるのです。

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勿論、祭礼、葬礼などに於いて、色々な枝を刺すという儀礼、神礼の事なのです。

今でも茨城県では一部に残っているとも聴きますし、これに似たものを熊本県の葦北郡でも見たことがあり、列島にはどのような人々が入ってきたかを考える上で、重要な示唆を与えてくれるものとなっています。… その後類例を幾つも見出だしましたのでそれほど珍しくもなくまだまだ残っているようです。

…最後になりますが、“倭人とは何か“を考える時、「ワ」人と読むのではなく、「ウィ」もしくは「イ」=「ヰ」であるとすれば、この民族も列島に入って来ていたのではないかと思うのです。

それが「常陸国風土記」に出てくる武甕槌=鹿島大神による“同族だまし討ち”征服を思わせるのです。

その意味で同書の458p(省略)も我田引水的ですがご紹介しておきます。

雲南省麗江からの新興亡命者であった阿蘇氏に征服された先住者も広義の九黎族の一つだったはずなのです。だからこそ常陸の国の先住者は、歌や音色に魅かれて油断した所をだまし討ちされたのです。


彝(イ)族の儀礼が残っているから伊佐という地名になっているのではとまでは思いませんが、彝(イ)族と混住していた黎族が鹿児島に入っている事には疑いを持ってはいません。

 指宿に「今給黎」姓が集中し「喜入町」があり「嘉例川」といった地名があることは大陸から黎族(分かり易く言えば阿蘇氏のこと)が入って来ている痕跡と考えている事はこれまでにも何度か触れています。

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無題.pngこれは馬場先生が「柴刺」の409pに挿入されていた雲南省の地図で、 が彝(イ)族の居住領域です。

これを見ると、雲南省麗江を主要な居住地としていた黎族(阿蘇氏)とも白族(豊玉彦=ヤタガラス、大幡主の御先祖)の領域であった昆明とも重なる事から、大口辺りに彝(イ)族が入っていても一向におかしくはないと思うのです。

 写真は神社の正面の風景ですが、古代には雲南省のような山上楽園だったように思えるのです。

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山野石井神社正面の手入れされた耕地

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與儀喜美江女史の「出エジプト記」との関連についての知識は持ちませんので置くとしても、百嶋先生も当然にもユダヤとの関係ははっきり指摘されていました。

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イ族は、総人口が657万8524人(1990年)で、中国の少数民族中第6位、イ語系の少数民族のなかでは最大の人口を有する。雲南省の楚雄イ族自治州や紅河ハニ族イ族自治州、四川省の涼山イ族自治州を中心に、貴州省や湖南省、広西チワン族自治区の山岳丘陵地などに広く分布し、一部はミャンマー、ベトナム北部、タイ北部などのインドシナ半島北部に至っている。

 中華人民共和国成立後に、はじめて1つの民族集団として統一された。すなわち、かつては羅羅、夷人、夷家と呼ばれ、蔑称の夷が通称であったのを彝に改めて民族名称と定めた。わが国においても「夷」を「エビス」とあずまえびす呼び、たとえば東夷といえば、東国に居住する武士のことで、京に住んでいた人々が、その無骨さをあざけって名づけた名称となっている。言語は多様で、六方言に大別されるが、互いにほとんど通じない。約1000年前に創作されたという音節文さん字曇文が、ヒモ(宗教職能者)によって伝えられている。ヒモは太鼓を叩いて精霊を呼び、その精霊と人間との仲介役を果たした。なおイ文は象形文字を母体とするが、大部分は同音仮借によってイ語の音節を示す音節文字である。叙事詩『阿詩瑪』や格言および祭祀などが、この文字によって記された。イ族の祖先は、黄河上流地域をその発祥の地とし、その後しだいに南下し、長江上流域の金沙江・岷江の両河川流域に到達、定着したとされる。漢王朝時代には西南夷、三国時代には南蛮と総称された集団の主力部分を形成していたが、漢王朝時代から唐王朝時代にかけて奴隷制社会に入り、その勢力は強大となった。すなわち、唐王朝時代になると、雲南省東部には烏蕃と呼ばれる集団が、雲南省西部には白蕃と称される集団が形成されていった。烏蕃は、四川省西部から雲南省の山岳地帯に南進した騎馬牧畜民族で、現在の黒イやナシ族の祖先に該当すると考えられているチベット系の集団の総称である。一方、白蕃は、祖先がタイ系の水稲耕作民であったと推定され、早くから雲南省のいくつかの盆地に定住した。このいくつかの集団は、唐王朝時代には大理盆地に最も多く定着したとされ、現在の白イがその末裔とされる。…

イ(彝) 族Gesanmedo Tibetan Highlands Elementary School Construction Fund NPO2020 0316 16:19


「エビス」は古々代ヘブライですのでユダヤ系と言えない事は無いように思えますが、当方の知識の及ばぬ世界です。

今回は、「てぃんぬてぃーだ」―琉球とユダヤ民族の絆― 與儀喜美江 をご紹介する事が目的ですのでここまでとします。

問い合わせ先 joy工房&茶屋

沖縄県南城市大里字仲間937 :098-988-1209 http://www.sendanso.com/與儀 喜美江


無題.png 日猶同祖論を持ち出すと権力に尾を振る通説派は元より、直ぐに常識人とか知識人ぶって小馬鹿にしたり抗議したりする人がいますが、それは本質を突いているからに過ぎません。

 陰謀論は既存の偽ユダヤ=アシュケナージ〜ハザール=カザールにとって不都合であるからそのように宣伝されているのです。

 我々は命も名も官位も金も捨てた者であり、文句があるなら実名で抗議して来られれば良いだけの事なのです。

今回は、馬場紀美史氏の「柴刺」を「てぃんぬてぃーだ」―琉球とユダヤ民族の絆― 與儀喜美江(YogiKimie)柴刺(シバサシ)22p とに関連性を気づいたため、当面メモに残し、この風習を持ち込んだと思われるイ(彝)族が中国では夷=恵比須とされている可能性を知りました。

百嶋先生は中国で飛行機に800回乗ったと言われ徹底して調べられた方ですので、イ(彝)族=夷=古々代ヘブライについても、中国版「姓氏家系大辞典」といった『中国の少数民族』『中国少数民族略史叢書』『中国少数民族言語簡誌叢書』『中国少数民族自治地方概況叢書』『中国少数民族社会歴史調査資料叢書』…から十分把握されていたと思います。

馬場紀美史も百嶋由一郎氏も博多におられましたし世代的にも近い事から面識がなかったとは到底考えられません。

少なくとも呉越を筆頭に、イ(彝)族、黎族、白族、土舎(土家)、楚人…がごっそり列島に入っているはずで、そのルートも南廻りだった可能性が俄かに高まってきました。

最期にこの民族について考えて見ます。雲南省の南、昆明の滇湖の東に雲南石寧山古墳群があります。

俗に謎の青銅器文明と言われる滇王国に関係するとも言われる遺跡ですが、この主は白族とされますが泰族とされる漢代のボク人ともされます。まだ良く分かっていません。

我々は当然白族(博多の櫛田神社の大幡主のご先祖でしょう)であり、貯貝器、宝貝…から沖縄と言うより古代琉球(台湾を含む)であり、この点からも沖縄にイ(彝)族が入っている可能性を考えているのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記