811 再び博多の櫛田宮について
20200124
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
以前、ひぼろぎ逍遥(跡宮)に
770 | 熊本の二人の女性と博多の櫛田神社を二時間掛けて観察した |
を書きました。
2020年2月9日に後半氷雨降る中、博多の街中の神社4社の月例トレッキングを行なったことから、新たに発見した知見を書き留めておくことにしました。
前回の報告からさらに踏み込んだ理解と言えば聴こえは良いものの、実際には基本的な理解の変更も含まれていますので、今尚暗中模索と言えるかも知れません。
つまり、何事も途中経過といったところなのかも知れません。

まず、櫛田神社とは二つあることはご存じでしょうか?
神社に明るい方は十分にご存じでしょうが、博多の櫛田神社とは別に佐賀県の神崎市役所の隣に櫛田宮があるのです。ただ、百嶋神社考古学の立場から言わせてもらえば、この二つの神社は非常に強い関係性を持つものの、実は全く性格の異なる神社なのです。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
2020年2月9日(日) 博多の櫛田神社とは何か“櫛田神社再考”トレッキング(案)
20200128
オープン参加(一般の方も気楽にご参加ください)資料代500円のみ 基本は各自車の用意を…
2020年2月9日(日) 午前11:00に櫛田神社境内に徒歩で集合を…豪雨は別として雨でもやります!
(地下鉄利用の方は祇園、中洲川端が最寄駅となります…)
@ 集合場所 徒歩で櫛田神社境内に集合 カーナビ検索博多区上川端町1-41
太宰府宰府地名研究会2月
寒い時は博多の街中で神社トレッキング”
櫛田神社を一時間掛けて細部まで検討しよう!
2020年2月9日 日曜日 11:00〜15:00
集合場所:午前11:00に徒歩で櫛田神社境内に集合
ナビ検索博多区上川端町1-41
豪雨でない限り雨でも行います(各自傘持参)
最寄駅地下鉄「中洲川端駅」or「祇園駅」から徒歩8分
@ 櫛田神社 博多区上川端町1-41
同社境内社 花本(松尾芭蕉にあらず)ほか数社
A 安国寺境内社(天満宮)中央区天神3丁目14-4 ⇒⇒⇒
以下自由参加 警護神社 福岡市中央区天神2丁目2-20
若宮神社 福岡市中央区19
終了後は天神ショッピング+グルメ…流れ解散
連絡中島)090−5289−2994 参加費、資料代500円
博多の櫛田神社の祭神は、中央に大幡主=神産巣日神(カミムスビ)、左に天照皇大神、右にスサノウを祀っています。
元々は祇園神社であることからスサノウは良いとして、以前から天照が何故祀られているのか、そして、その神紋が桜であるという一点が理解できない不可思議な謎として漂っていました。

當社は鎮西の雄都博多の守護神とし天平寶字元年託宣により大幡主大神を鎮祭した。天照皇大神の御鎮座は之より更に古い。素盞鳴尊の奉祀は天慶4年(941)に追討使小野好古が反亂の鎮定に下向し京都祇園宮を勧請して祈願した由縁による。
「天照皇大神の御鎮座は之より更に古い」についてはかなり疑わしいと考えています。
まず、その前に、天照が桜の神紋を使う事が理解できません。そのような例があるのでしょうか?
その上に、天照祭祀をことさら古く描こうとする上記の行は、ただのご都合主義か?つじつま合わせなのか、強弁なのか、他の権力からの圧力なのかまだ分かりません。
勿論、天照は糸島〜福岡に掛けて実際に住んでいた(福岡市桧原ヒバル)と思われる事から古層の伝承を残している可能性も考えておく必要はあるでしょう。
一般的に桜の神紋を使うのは大山祗、その娘のコノハナノサクヤ、多少拡げてその兄の大国主命(百嶋神代系譜による)の一族は桜の神紋を使うのです。

社伝では、天平宝字元年(757年)、松阪にあった櫛田神社を勧請したのに始まるとされ、松坂の櫛田神社の祭神の大幡主神が天照大神に仕える一族の神であったことから、天照大神も一緒に勧請されたと伝えられる。天慶4年(941年)、小野好古が藤原純友の乱を鎮めるために京都の八坂神社に祈願し、平定した後に当社に素盞嗚神を勧請したと伝えられるが、平安時代末期、平清盛が所領の肥前国神埼の櫛田宮を、日宋貿易の拠点とした博多に勧請したという説が最有力であり、櫛田神社の宮司らが編纂し昭和40年(1965年)に文部省(当時)に提出した『博多山笠記録』や昭和54年(1979年)に福岡市が発行した『福岡の歴史』はこの説を取り上げている。しかし、それは同市早良区の櫛田神社のことであるという反論もある。
戦国時代に荒廃したが、天正15年(1587年)、豊臣秀吉によって博多が復興されるときに現在の社殿が造営された。
明治元年(1868年)の神仏分離令より前の江戸時代までは東長寺に属する神護寺が櫛田神社を管理していた。 ウィキペディア(20200210 12:59)による
この問題に直面し何度も考えたのですが、櫛田神社の境内社である石堂神社を再確認した事から謎が解け始めました。
櫛田宮の神殿背後地には、石堂神社以下数社の数基の鳥居と境内社が並べられた神域があります。
神殿背後地だけに余程偉いか古い神様か、神社創立以前の祭祀が凍結されている可能性があるのです。

社殿裏に並んで8社が鎮座します。この規格の揃った鳥居は松尾神社、諏訪神社、金刀比羅宮、皇大神宮、竃門神社、今熊野神社、天満宮、石堂神社のものなのでしょうか。
そして、石堂宮の神紋を見ると桜であることが分かります。
ご丁寧に大幡主系の亀甲紋と桜との合併紋なのです。とすると、櫛田宮、石堂宮、祇園社の祭祀形態が石堂宮を廃され天照皇太神に換えられた可能性が見えてくるのです。では、石堂宮とは何なのでしょうか?
博多祇園山笠では全流全参加者によるお汐井取り(おしおいとり)が行われます。
お汐井取りですが、舁き手たちは筥崎宮を参詣し心身を浄め、櫛田神社を参詣する行事であり、石堂川(御笠川の河口部分を石堂川と呼ぶ)にかかる石堂橋から箱崎浜へ「お汐井道」と呼ばれる小道をたどり箱崎浜を目指し、そして櫛田神社のある博多区まで戻ってくるのです。
その行程は約10キロ。全参加者が一同に集まるのです。
これが、船を山越させる船越の名残であり、その実戦経験を保つ言わば軍事行動であることは、
ひぼろぎ逍遥〜新ひぼろぎ逍遥
687 | 船 越 |
でも取り上げていますが、御汐井汲み神事と繋がる海神族の祭祀と関係があると思われるのです。
この祭祀が宗像三女神の市杵島姫、豊玉姫を象徴しているとすれば、石堂宮とはその二人の女神であるウムガイヒメ、キサガイヒメをお妃とした宗像大社の本来の祭神の大国主命(コノハナノサクヤヒメの兄、大山祗の息子)を意味していることになるのです。
天御中主、大幡主、事代主、大物主…
つまり、大幡主(カミムスビ)への入婿であり、その証拠に、大国主命は「主」(ヌシ)という尊称(呼称)を使う事が許されているのです。
これが分かれば、現在の祭祀形態に先行し、大幡主+大山祗+スサノウという強力なトリオ、トリロジーが存在していた可能性が見えてくるのです。
この石堂宮が大山祗系民族(氏族)=トルコ系匈奴(大国主、コノハナノサクヤ、ミヅハノメ)を象徴するものであろうことは、これまでの事前調査である程度の推察が可能です。
詳しくは、以下をお読み下さい。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
623 | 続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu |
622 | タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (下) |
621 | タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (上) |
623 続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu 20180728
現在は中国領ですが、アフガニスタン、パキスタンとの国境地帯、言いかえればアフガニスタンのカブール回廊入口の要衝にTa Shi Ku Er Gan Luタシクルガン(中国表記:石頭城、石城山)があります。

Ta Shi Ku Er Gan Luタシクルガン(中国表記:石城山 石頭城)
他にも幾つかありますが、ユーチューブで【新疆】タシュクルガンの石頭城、【中国】タシュクルガンの石頭城へやってきた。などと検索すればかなりの記事が出てきて鮮明な画像が確認できます。
古代ギリシャからは「トリスラピディア」とも呼ばれていたとか…。
さて、話をさらに進めます。故)百嶋由一郎氏によれば、“この一帯の人々(トルコ系匈奴)が、列島に侵入し「石頭城」「石城山」(いずれも中国表記)と言った地名を持ち込んでいる…。”それは、”熊本県玉名市と宮崎県西都市に同じ地名がある”とまで言われていました(玉名市の石貫地区、西都市の石貫神社の石貫も石ノ城=石城山を意味するのです)。
当然、山口県光市+多布施町の石城山神籠石もそうですし、石動=イシナリ(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町石動)もそうですし、石堂宮の石堂もこの「石頭城」「石城山」の置換えなのです(東北の岩木山も…)。
それで、桜を神紋とする大山祗祭祀が先行して存在し、後に天照祭祀が割り込んだのであろうと考えるのです。

詳しく説明しても良いのですが、自分で調べなければ頭に残らないのでご自分で検索してお読み下さい。
ついでに申し上げれば境内に置かれた花本大神が松尾芭蕉の俳号が起源であるという話が2〜30本ほぼ同じトーン、同じ内容で見事にネット上に羅列されていますが、自らの頭で考えようとしないのか、肖り、集りなのか、単なる安心感なのか呆れてしまいます。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
372 | 花本大神をご存知ですか? “博多の櫛田神社の花本大神と 豊後大野の宇田姫神社について” |
博多の祇園祭と言えば山笠と併せ知らぬ人のない大祭ですが、その裏手にひっそりと、しかし、大きな石塔(石柱)が建てられています。
そして、そこには「花本大神」と大書されているのです。
これに関しては、等しく判を押したかのように「松尾芭蕉」の神号であるといった話で皆さん納得されているようです。ネット検索をして頂ければ例外なくそのように解釈されているのです。
ところが、百嶋由一郎先生だけは、「そこにはごまかしがありますね…」といったコメントを残されているのです。恐らく、全てをご理解だったのだと思います。
勿論、これについてはただの手書きメモが残されているだけで、それ以上の事は聴かされてはいませんが、ようやく大方の見当が付いた事から後世の研究のためにも所見を残しておこうと思うものです。
櫛田神社を筆頭に“芭蕉の神号“といった事で納得されている分には、それはそれで結構だと思うのですが、真実の歴史、古代を探索するものとしてはあり得ない話であり、ネット上に芭蕉の神号説が如何に大量に複製されていようが、孤立した旗を高く揚げておこうと思うものです。
きっかけは、前述のとおり、百嶋由一郎氏が残された手書きメモでした。
この花本大神に関わる百嶋先生のメモは以前から気にしていたのですが、少し調べれば分かる事ながらなかなか思い立たずに放置していました。
ところが、大分県豊後大野の神社調査を行っていると、同市の清川町に鎮座する宇田姫神社に遭遇しました。この神社の由緒を読んで見ると、華の本の故事が書かれており、直ぐに博多の櫛田神社の花本大神の事が頭に過ってきたのでした。
少し込み入った話になるため、ここでは短絡する(される)ことのないように、まずは同地の宇田姫神社の祭神である宇田姫様が「華の本」と呼ばれている(いた)事だけを理解して下さい。
さて、宇佐神宮とも覇を競った大神一族が豊後の大野郡や直入郡に蟠踞していた事は知られています。
特に有名なのは宇佐神宮焼き討ち決行し後に処断された緒方三郎惟栄は有名です。
重ねて申し上げますが、博多の祇園祭と言えば山笠と併せ知らぬ人のない大祭ですが、その裏手にひっそりと、しかし、大きな石塔(石柱)が建てられています。
そして、そこには「花本大神」と大書されているのです。
これに関しては、等しく判を押したかのように「松尾芭蕉」の神号であるといった話で皆さん納得されているようです。ネット検索をして頂ければ例外なくそのように解釈されているのです。
花本大神の石柱は、阿蘇大神一族が祖母山北麓の穴森神社裏から大分県清川町に鎮座する宇田姫神社の裏に通じているとする洞穴が祖母山の豊玉姫の血筋を持つとする大神一族が宇田姫の元に通い大神惟基が生れ、祖母山の豊玉姫の庇護を受けた阿蘇大神一族が宇佐神宮をさえ焼討ちを実行したとの伝承を伝えるものなのです。
詳しくは前述の ひぼろぎ逍遥(跡宮) 372 花本大神をご存知ですか?をお読み下さい。

櫛田神社を筆頭に“芭蕉の神号“といった事で納得されている分には、それはそれで結構だと思うのですが、真実の歴史、古代を探索するものとしてはあり得ない話であり、ネット上に芭蕉の神号説が如何に大量に複製されていようが、孤立した旗を高く揚げておこうと思うものです。
この神社の由緒を読んで見ると、華の本の故事が書かれており、直ぐに博多の櫛田神社の花本大神の事が頭に過ってきたのでした。
なお、メンバーのブログ「宮原誠一の神社見聞諜」では天照は後にカミムスビと夫婦になっているという新研究を提出しています。これも謎解きの一環になるでしょう。注目を!
百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書スキャニングDVDを必要な方は09062983254