2021年04月28日

810 当会と北九州市の古代史研究団体(丁巳歴史塾)との提携が進んでいます

810 当会と北九州市の古代史研究団体(丁巳歴史塾)との提携が進んでいます

20200124

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


これについては、ビアヘロ122 北九州を中心に活動する「丁巳歴史塾」との提携が始まります

で触れていますが、一方に於いて 3月から私がトップ・バッターとして講演の口火を切り、以降、月例で講演者を派遣するほか、古墳、発掘調査現場、神社、寺院等へのトレッキングも適時入れて行きたいと考えています。

 一方、4月には熊本県和水町の菊水史談会での二日間連続講演会に連動し、急遽 古代史研究家の佃 収 氏の講演を行う計画が持ち上がっています。

 古田武彦が鬼籍に移られて以降、全国の九州王朝論者の研究団体にも乱れが生じているようですし、九州王朝論の洗礼を受けた世代が徐々に消えつつある中、九州王朝論への関心も消え始めているようです。

 それどころか、九州王朝論を意識している団体に於いてすら教育委員会や行政との関係は切れないとかうそぶき、行政に擦り寄ろうとするさもしい輩が登場する始末で、一生を掛け九州王朝実在を探求しつづけた古田武彦もさぞや嘆いている事でしょう。

既に自前の研究者を失い通説派の教育委員会関係者や学芸員の放つ大嘘に平伏し感心を示す有様で、村興し町興し果ては世界遺産登録…といった堕落に陥って行き通つある様なのです。

 そうした中、唯一、精彩を放ち続けているのが内倉武久氏と佃収先生です。

 今回は、この佃収氏のHPをご紹介すると共に、同氏の著作をお知らせしたいと思います。

 まず、グーグルで 「佃収」「日本古代史の復元−佃收著作集−」を検索すると以下のトップ画面が出ます。

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 これ(黄○)をクリックすると、以下の画面が出てきます。

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太宰府地名研究会と提携を進めている「丁巳歴史塾」も平日ながら先生の都合に併せ、421日(火曜日)に北九州市小倉北区で佃収講演会(13001700)を行うべく準備中です。

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この外 廉価版1600円 縮刷版の論文集 新「日本の古代史」(上)〜(中)〜(下)も出されています。

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佃収氏をご存じでない方は多いと思います。

古代史の世界では「九州王朝論」と言えばほぼ9割方古田説で理解されていると思います。

ただ、30年ほど前から古田説に対して非古田系、反古田系、独立系の研究者はおられた訳で、生野先生もそのお一人であり、当会の顧問とも言うべき内倉武久氏や神社考古学者の故)百嶋由一郎氏も非古田系と言えばその通りでしょう。以下、佃収HPから佃先生のアウトラインをご紹介します。

以下、佃研究の一部をご紹介します。


新「日本の古代史」()


第1章

弥生時代の「倭人」と「天孫降臨」

 1章を読む

紀元前1200年ころの「倭人」は中国呉地方に居た。日本は縄文時代である。約1000年をかけて「倭人」は中国大陸を北上し、渤海沿岸をまわり、朝鮮半島南部を経て、北部九州に渡来している。
「倭人」の一派である「天氏(安冕辰ウン氏)」は山東省の臨シを通り、ラン河の東(遼東)で箕子朝鮮と混血する。渤海沿岸を通り、大凌河の下流に在る医巫閭山の近くに建国する。「卑弥氏に国を譲り、朝鮮半島南部に「高天原」を建国する。前漢時代に北部九州に移る。これが「天孫降臨」である。
天孫降臨の地は福岡県福岡市西区の「吉武高木遺跡」である。「大型建物跡(長井宮)」と「墓(木棺・甕棺)」が出土している。『宮下文書』(『神皇紀』)に記録されている通りの遺跡が発掘された。
『宮下文書』は史実を正確に記録している。
天孫降臨のとき一部は有明海から佐賀県南部に上陸する。吉野ヶ里遺跡をはじめとして、甕棺墓を埋設する文化がはじまる。
天氏は吉武高木遺跡から前原市へ移り、「伊都(いつ)国」を建国する。対海国・一大国・末廬国・奴国・不彌国を支配して「伊都国王朝」を樹立する。
「倭人」の移動ルートを究明しているときに「中国の古代史」で「地名」の解釈が間違っていることに気付いた。
「万里の長城」の位置、「遼東」の位置、「箕子朝鮮」の位置、「漢の武帝が設置した四郡」の位置、「衛満朝鮮」の位置等はすべて間違っている。
『契丹古伝』に「天氏」は「殷(箕子朝鮮)と姻を為す」とある。「箕子朝鮮」の位置が重要になる

 以下省略


新「日本の古代史」(中)


第1章

倭の五王

 はじめにと1章前半を読む  1章後半を読む  1章関連論文を読む

(410年ころ〜531年)
五世紀の日本列島には「倭王讃・珍・済・興・武」という五人の倭王が居た。倭王讃と弟の珍の故郷は中国大凌河の上流の「北平川」にある「倭城」である。「390年」に北平人の呉柱は反乱を起こし、「法長を立てて天子と為し」、北平郡を破る。讃・珍の父はこのとき殺されたのであろう。讃・珍は「筑後」に逃げてくる。
倭王讃は「410年ころ」に「貴国」を破り、北部九州を手に入れて「倭国」を建国する。「倭の五王」の始まりである。
「倭の五王」は「筑紫君」である。
讃・珍は「石の文化」を日本列島にもたらす。倭王讃の墓は八女古墳群にある「石人山古墳」である。墓には「武装石人」が立てられている。倭王武の墓は「岩戸山古墳」である。ここから「武装石人・裸体石人・馬・鶏・水鳥・猪・靫・盾・刀・坩・翳」等の石製品が出土している。今までの日本列島には無い文化である。「石の文化」は筑後を中心にして有明海沿岸に広まる。倭王武の上表文に「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らげること九十五国」とある。
「五世紀後半」に畿内では長持形石棺は終わり、替わって熊本県の菊池川下流域の舟形石棺が登場する。「五世紀末〜六世紀初頭」には熊本県の宇土のピンク石製舟形石棺が大阪・奈良・滋賀に持ち込まれる。
倭王は菊池川下流域や宇土の武将を派遣して近畿地方まで征服する。これが、「西は衆夷を服すること六十六国」であろう。
倭王興は筑後から埼玉古墳群の人々を派遣して埼玉地方を征服する。さらに、『常陸国風土記』には、「倭武天皇(倭王武)」が常陸国を巡狩するとある。「倭王興」のとき関東まで征服している。これが「東は毛人を征すること五十五国」であろう。
「筑紫舞」がある。「七人立」は肥後の翁・加賀の翁・都の翁・難波津より上がりし翁・尾張の翁・出雲の翁・夷の翁が登場するという。「都の翁」が「獲加多支鹵大王(倭王武)」であり、「肥後の翁」が「倭隋」であろう。「十三人立」もあるという。「倭の五王」が全国を統一していることを誇示する舞である。
451年に倭王済は「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍」に任命される。倭王済は「任那日本府」を開府して朝鮮半島南部を支配する。
これが「渡りて海北を平らげること九十五国」であろう。「倭国」は朝鮮半島南部まで平定している。
「倭王武」は中国王朝が度々交代するので見限り、中国から独立する。朝貢を中止して、自ら天子となり、「善記」年号を建てる。日本列島に於ける最初の年号である。

第2章

物部麁鹿火王権 −「磐井の乱」=「辛亥年(531年)」−

2章を読む  2章関連論文を読む

(531年〜552年)
「磐井の乱」は継体天皇が物部麁鹿火大連に命じて筑紫国造磐井を討った事件であると『日本書紀』は記す。
『百済本紀』には「辛亥年(531年)に日本の天皇、及び太子・皇子がともに崩薨した」とある。「磐井の乱」であろう。
「九州年号」では「辛亥年(531年)」から物部麁鹿火の年号が始まり、「倭国(筑紫君)」の年号は「辛亥年(531年)」で改元されている。「磐井の乱」で物部麁鹿火が筑紫君(倭王)を伐ち、天子となり、年号を建てていることが「九州年号」からわかる。
物部麁鹿火の「(大)連」は「倭国」が与えた称号である。「磐井の乱」とは「臣下の物部麁鹿火が主君の筑紫君(倭王)を伐った下克上」である。
『古事記』に継体天皇の崩年干支があり、「丁未(527年)」である。継体天皇は「磐井の乱」より、4年も前に死去している。継体天皇が物部麁鹿火に命じて磐井を討ったというのは『日本書紀』の捏造である。
物部麁鹿火に伐たれた倭王は「葛」である。「松野連系図」には「哲」とある。六代目の倭王である。
その子は、物部麁鹿火に「糟屋屯倉」を献上して死罪を逃れている。「松野連系図」からその名は「萬」であることが判明する。
糟屋屯倉を流れるのは福岡市東区の多々良川である。物部麁鹿火は多々良川の水利権を得る。多々良川の上流の福岡県嘉穂郡桂川町に本拠地を置くために糟屋屯倉を献上させたのである。物部麁鹿火の墓は桂川町寿命にある「桂川王塚古墳」である。
「磐井の乱」で敗れた倭国の武将は朝鮮半島へ逃げる。死去するとき墓を造る。これが「朝鮮半島の前方後円墳」である。

第3章

『隋書』の「俀国(阿毎王権)」

3章を読む

(552年〜634年)
552年に物部尾輿は物部麁鹿火王権から王権を奪い、天子となり、「貴楽(552年〜569年)」年号を建てる。物部尾輿は物部氏の「十三世」になる。本拠地は筑前の鞍手郡である。物部尾輿が樹立した王権は『隋書』の「俀国」である。ところが「俀国」と書いても「倭国」と解釈される。そこで「王の姓は阿毎」とあることから「俀国」を「阿毎王権」と呼ぶことにしている。
阿毎王権の初代である物部尾輿は領土を拡大する。まず「豊前」を手に入れる。
555年に蘇我稲目を吉備へ派遣して「白猪屯倉」を置く。
556年に蘇我稲目を備前の児嶋に派遣して屯倉を設置する。さらに倭国高市郡に派遣して韓人大身狭屯倉・高麗人小身狭屯倉を置く。紀国には海部屯倉を置く。

阿毎王権は仏教に熱心である。

552年に百済の聖明王は阿毎王権に仏像や経論を贈る。物部尾輿は蘇我稲目に仏像を礼拝させる。蘇我稲目は仏像を小墾田の家に安置し、さらに向原の家を寺にする。
554年に百済から僧が九人も来る。
「570年」から阿毎王権の二代目である。
577年に百済から律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工の6人が派遣される。「元興寺」を設計するためである。
584年に蘇我馬子は石川の宅に仏殿を造る。
「585年」から阿毎王権の三代目である。
585年に蘇我馬子は大野の丘(肥前)の北に「塔」を建てる。
588年に蘇我馬子は善信尼等を百済へ派遣して仏教を学ばせる。
588年に百済から「元興寺」を建立するために寺工二人、瓦博士四人が来る。
607年、沙門数十人を遣隋使として派遣する。
608年、隋の裴世清は元興寺で完成したばかりの仏像を拝する。
609年、元興寺の完成
「阿毎王権」は仏教国になっている。

「百済救援」と「任那滅亡」

百済は阿毎王権に「救援」を要請する。
554年、百済の聖明王は新羅との戦いで戦死する。
562年、新羅は「任那」を滅ぼす。初代の物部尾輿の時代である。

「倭国」の滅亡

570年に二代目が即位すると「倭国」から王権を剥奪し、「年号」を建てることを禁止する。「倭王牛慈」は「夜須の評督」に任命される。「磐井の乱」以降も王権を認められて「年号」を建てていたが、「倭国」は亡びる。

日羅の事件

583年に二代目は百済の第二位の高官(達率)になっている肥後の芦北出身の日羅を喚ぶ。日羅に「百済の国政」を聞く。
日羅は百済の極秘情報を喋る。そのため百済の従者に殺される。福岡県小郡市に埋葬される。
日羅は故郷の芦北に寄り、五島列島を通り、百済へ帰国するつもりであった。

「日出る処の天子」

隋の煬帝へ多利思比孤が出した国書に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無しや」とある。多利思比孤は阿毎王権の三代目「十五世物部大人連公(押坂彦人大兄)」である。
多利思比孤は推古天皇や聖徳太子ではない。

第4章

「日本の古代」は逃亡者の歴史

4章とおわりにを読む

中国大陸で争いが起きる。負けた方は他所へ逃げていく。
逃げた先では先住民と戦う。負けた方はまた逃げる。
紀元前1200年頃、中国の呉地方に「倭人」が居た。紀元前505年ころから「呉越の戦い」が始まる。敗れた呉の倭人(天氏・卑弥氏)は北の「東表」へ逃げる。
「倭人(天氏)」はさらに渤海沿岸をまわり、大凌河の下流域に来る。さらに朝鮮半島南部へ逃げて、「高天原」を建国する。さらに北部九州へ逃げてくる。「天孫降臨」である。「数万人」が逃げて来たであろう。
倭人は北部九州に住み着いただけではない。『三国志』倭人伝には「女王国東渡海千餘里。復有国。皆倭種」とある。瀬戸内海沿岸や大阪・和歌山であろう。「倭人」が逃げて来て住み着いている。
卑弥氏の「倭人」は東表から大凌河上流の北平川に「倭城」を建国する。紀元前220年頃、秦の始皇帝に追われて、一部は大凌河を下り、医巫閭山の近くで天氏から国を譲ってもらう。紀元前50年頃、漢に追われて、一部は博多湾沿岸に逃げて来て「倭奴国」を建国する。他の卑弥氏は朝鮮半島南部に「倭国」を建国する。
「桓帝・霊帝の末(160年、180年)頃、「ワイ」の侵略を受けた人々は朝鮮半島の東海岸を南下して日本海を渡り、山陰・北陸地方に逃げて来て「四隅突出型墳丘墓」を造る。
「韓」に追われた人々は瀬戸内海沿岸に逃げてきて「楯築墳丘墓」等の墓を造る。
204年頃、公孫康に追われた朝鮮半島南部の人々は纏向遺跡を形成する。
220年〜230年頃、倭国は北部九州に逃げて来て「倭国」を再興する(卑弥呼)。「倭国」は「国」が移動している。大勢の「倭人(卑弥氏)」が北部九州へ逃げてきている。
この時期に朝鮮半島南東部の蔚山(ウルサン)から「饒速日命」が奈良県桜井市に逃げてくる。
285年頃、倭城の「大彦」は扶羅(崇神天皇)を助け、京都府木津川町山城に逃げてくる。「従者数千」とある。2000〜4000人が逃げてきている。
「崇神天皇」は日本列島を初めて統一する。
四世紀になると中国東北地方から「多羅氏」が数度にわたり日本列島に逃げてくる。「景行天皇・成務天皇」、「仲哀天皇・神功皇后」等である。多羅氏は北部九州の「熊襲」を伐ち、「貴国」を建国する。やはり数千人以上の人々が渡来しているであろう。
390年に「倭王讃・珍」が「倭城」から「筑後」に逃げてくる。「貴国」を追い出して「倭の五王」の「倭国」を建国する。
「倭国」は九州から関東まで、および朝鮮半島南部を支配する。日本列島を統一した大国である。このように「日本の古代」は逃亡者の歴史である。
日本列島への逃亡は主に「二つのルート」がある。
一つは渤海沿岸をまわり、中国東北地方から朝鮮半島を経て日本列島に渡来するルートである。これが「倭人(天氏)」による「天孫降臨」である。
もう一つは大凌河流域から中国東北地方を通り、朝鮮半島から日本列島に渡来するルートである。これが大凌河の上流の「倭城」からの「倭人(卑弥氏)」の渡来である。
この二つの渡来ルートはDNAの研究により立証された。

おわりに

日本人は「単一民族」であると言う人が居る。このような人が居るのは「日本の歴史学」の責任であろう。
日本人は多民族による混血民族である。「日本の古代史」を研究すれば容易に判明する。
日本人の祖先は主に中国の南東部(呉地方)から渡来している。北上して北京付近で二手に分かれる。一つは渤海沿岸をまわり、中国東北地方を通り、朝鮮半島を経て日本列島に渡来する。「倭人(天氏)」の「天孫降臨」である。約1000年を掛けて渡来している。その間に多くの民族と混血している。例えば「殷(箕子朝鮮)」と混血している(56号)。
もう一つは「倭人(卑弥氏)」が北京付近から大凌河の上流に行き「倭城」を建国する。「卑弥呼」の先祖や、「大彦」、「倭王讃・珍」等が「倭城」から渡来する。
この「二つの渡来ルート」説はDNAの研究により立証された(56号)。
日本人にはこの二つのルートのDNAが入っている。
これまで「卑弥氏の渡来ルート」を解明した人は居ない。「卑弥氏」は紀元前300年ころに「倭城」を建国する。卑弥氏の「倭王讃・珍」が「倭城」から筑後に渡来するのは「390年」である。「卑弥氏」は「約700年」も「倭城」に居た。当然、大凌河流域の民族と混血するであろう。それがDNAの研究により証明された。
「二つの渡来ルート」以外に、中国東北地方から「多羅氏」が渡来している。
「日本の古代」は多民族の逃亡者の歴史である。


 HPから一部をご紹介しましたが、個人的には古田説での疑問、全体像、歴史的な流れが非常に良く分かり、同じ九州王朝論に立つものとして20年ぐらい前から理解していたならばどれだけ豊かな古代史像を掴めたと思うのです。

現在、百嶋神社考古学という非常に特殊なジャンルに足を踏み入れ、7年ほど前から佃収説に大きく舵を切っていますので、これ以上古田史学の会に留まるとご迷惑をお掛けする事になりそうですからそろそろ離脱したいと思うこの頃です(実際、20203月で会を離れました)。

 今後、佃収説の拡散に力を尽くしたいと思っています。                 (古川)

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:16| Comment(0) | 日記