2021年04月25日

809 釜蓋=永ノ尾 という奇妙な地名が北九州に集中する理由

809 釜蓋=永ノ尾 という奇妙な地名が北九州に集中する理由

20200106

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 北九州の方々でもこのタイトルの意味が把握できない、一体何を言おうとしているのかと思われる方は多いと思います。

 勿論、たった一本のブログで全体を説明することは不可能ですので、ここでは、概略だけを簡潔にお話したいと思います。

 既に ひぼろぎ逍遙に 以下をアップしています。勿論、これ以外にも書いておりますが、この78本をお読み頂ければ概略は理解して頂けると思います。


211

 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”G

208

 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”F

207

 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”E

206

 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”D

205

 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”C

204

 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”B

203

 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”A

202

 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”@


 まず、@「釜蓋」カマブタという地名があるのか… Aそんなものが本当に北九州にあるのか… B仮にあったとしてその意味は何なのか… Cその解読が信用できるのか…等々と思われるだろうと思います。

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これらは明治初期に全国の地名(早い話が小字)を調べようと、各府県に指示を出したものです。

一応福岡県では県立図書館では確認が可能で、九州内の各県のものについても明治15年の俗称「全国小字調べ」を見たいと言えば確認が可能です(いつまでもそうかは疑わしいのですが)。

これ以外にも帝国陸軍測量部(後の国土地理院)明治43(106年前)測量の地図がかなり残されており県立図書館でもある程度見ることができます。

 上のデータは、「釜蓋」「永尾」とそれに準じる類型地名を福岡県用に拾い出したものの一部ですが、これだけでも大体の傾向は見て取れると思います。

 たまたま谷川健一が拾い上げた「永尾」(鎌田)地名のバリエーションの一つが「釜蓋」(カマブタ)地名でもあることに気付き大きな広がりが見えてきましたが、詳細は当方のブログをお読み頂ければお分かり頂けると思います。

ここではそれを前提に考えますが、「豊」地名が数多く残るこの宇城市一帯にもしも推定古代豊の国のルーツがあったと仮定できれば、この地名の存在を知り意識した人々(彼らは主力ではなく有力民族の配下だったのでしょうが…)がその後の豊の国に移動し展開しさらに拡がったと考えると面白いでしょう。

ただそれについては今のところ論証できません。しかし可能性はあると思います。

先にご紹介したブログ全体をお読み頂けると分かりますが、この地名を付した人々は単なる漁労民とも海人族とも異なっている様に思います。

今のところ尾道を拠点としていた家船(恐らくバジャウではないかと)のような舟上生活者であり、輸送、人員輸送、交易…一部偵察、隠密に携わる人々だったのではないかと考えています。

現在、豊の国とは大分県の事だと皆さんお考えですが、古代の豊の国とはもう少し広かったはずです。

恐らく飯塚市辺りまで広がった古遠賀湖(湾)以東の企救郡(門司〜小倉南)、豊前市、さらには関門海峡の向こう側の山口県西半一帯までを含むかなり広い大国ではなかったかと考えています。

事実、その痕跡として山口県に豊田町、豊北町…がつい最近まで存在していたことからも分かります。

その意味では、古代日向国が球磨川以南の熊本県南部と鹿児島県、宮崎県を含む古代日向国に似た印象を受けています。

ただ、この豊の国と関係があったと考えられるエリアが九州西部にも点在しているのをご存じの方は少ないのではないでしょうか。まず、久留米市田主丸町豊城(トヨキ)があります。

実は愛知の豊川、豊田などさらに東の「豊」もあるのですが、ここでは触れません。

以下、ひぼろぎ逍遥から。


スポット018 二つ葵の神紋はヤタガラスの古社 A “福岡県うきは市 賀茂神社から” (再考)


元々、この筑後川左岸の田主丸、旧うきは町に掛けては、大幡主とその子ヤタガラスの領域だったようですが、後に(開化天皇=高良玉垂命と神功皇后)の時代に贈)崇神天皇の子である豊城入彦が宇佐から入って来ているようなのです。

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豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)は、記紀に伝わる古代日本の皇族。

10代崇神天皇皇子である。『日本書紀』では「豊城入彦命」「豊城命」、『古事記』では「豊木入日子命」と表記される。東国の治定にあたったとされ、上毛野君や下毛野君の始祖とされる。


これをそのまま真に受ければ畿内から九州を平定したとしたいはずなのですが勿論違います。

さて次に肥後に目を移します。宇城市旧豊野町はかなりの広がりを持っており、この移動、若しくは展開が東の豊の国になったのではないかと考えていますが、未だそのベクトルの向きに対する決め手は探査の途上にあります。

ただ、久留米の豊城は神武僭称贈る崇神(天皇)の息子の豊城入彦(トヨキニュウヒコ、トヨキイリヒコが実際に住んでいたと故百嶋由一郎も言っておりました…)。


豊城入彦命は、記紀に伝わる古代日本の皇族。 第10代崇神天皇皇子である。『日本書紀』では「豊城入彦命」「豊城命」、『古事記』では「豊木入日子命」と表記される。 東国の治定にあたったとされ、上毛野君や下毛野君の始祖とされる。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20191220 1009


また、旧豊野町の外延部のさらに広いエリアになりますが、熊本県宇城市一帯にも、宇城市松橋町豊崎、豊福があり、豊川までがあるのです。だから肥後は面四ツアリ…だから建日向日久士比泥別(タケヒムカイトヨクシヒネワケ)なのです(「古事記」)。

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無題.pngでは、皆さんには全く耳慣れない「永ノ尾」=「釜蓋」=「可愛」 地名の存在をご紹介するために「続日本の地名」(岩波新書)の話から始めることにします。

民俗学者の谷川健一は1997年から「日本の地名」「続日本の地名」を公刊します。 

この「続日本の地名」の中で不知火海に面した熊本県現宇城市(旧不知火町)の永尾剣神社の奇妙な「永尾」+「鎌田」(=釜蓋)にスポットを当てます。

不知火町の永尾神社は宇土半島の不知火海側の中ほどに位置し、今なお“不知火”の見える神社として著名ですが、この永尾(エイノオ)とは、エイ(スティングレイ)の尾のこととしたのです。右は前著「日本の地名」の方です。

日本地名研究所所長であり(当時)民俗学者柳田国男の弟子に当たる谷川氏によるものですが、詳しくは第二章[エイ](永尾)や、関連の著作をお読み頂くものとして、簡単にこの地名の概略をお話しましょう。

 永尾神社は別名“剣神社”とも呼ばれています。

これも尖った岬の地形からきているものでしょう。

この神社は、西の天草諸島へと向かって伸びる宇土半島の南岸から不知火海に直角に突き出した岬の上に乗っています。現在では干拓や埋立それに道路工事が進み分かりにくくなってはいますが、かつては山から降り下った尾根が海に突き刺さり、なおも尖った先端がはえ根として海中に伸びる文字通りエイの尾の上に社殿が乗っているような地形だったはずなのです。

そしてその岬は背後の山に尾根として延び、古くは、両脇に本浦川、西浦川が注ぐ入江が湾入しており、尾ばかりではなくその地形はまさしくエイのヒレの形を成していたと考えられるのです。


丘には永尾神社が祀られている。祭神は鱏(えい)である(本章扉参照)。

永尾というのはエイの尾を意味し、尾の部分の鋭いトゲになぞらえて、別名を剣神社とも称する。これには一匹のエイが八代海から山を越して有明海に出ようとして果たさず、ここに留まった、という物語が絡まっている。永尾(エイの尾)に対して、内陸部にある鎌田山はエイの頭部に見立てられている。

ここで思い出すのは沖縄ではエイ(アカエイ)をカマンタと呼んでいることである。(英語でエイをマンタというが、もちろんそれとは関係がない。)カマンタの意味をたずねて、カマノフタである、と聞いたことがある。『日本魚名集覧』を見ると、ウチワザメのことを国府津(こうず)ではカマノフタと呼んでいる。またサカタザメを静岡県ではカマンド、愛媛県ではナベブタウオと呼んでいる。サカタザメは鰓穴(えらあな)が腹面にあるのでエイの仲間に分類されているが、その呼称もエイとかエエとか呼んでいる地方が多い。要するにサメもエイも同類と見られていた。そこで永尾にある鎌田山の名称もエイを指す方言に由来するのではないかと考えてみたことがある。・・・(中略)・・・熊本県不知火町の永尾地区では、今もってエイを食べないが、沖縄ではサメを食べない地方や氏族集団が見られる。・・・(中略)・・・恐らく永尾も、古くはエイを先祖とする血縁の漁民集団がいたところであったろう。『続日本の地名』(岩波新書)


このように、「釜蓋」地名とはエイを強く意識する人々が持ち込んだものであり、この南方系の海の民がこの地に定着した時代があったこと、そして、その時代この地が波に洗われていたことをも同時に意味しているのです。

永尾神社縁起には鎌田山のことが書かれています。釜蓋とは単に表記の違いのようにも見えますが、大釜や大鍋の蓋の取手を頴(エイ)の背骨に見立てれば、釜蓋という地名に意味があることがお分かりになるでしょう。

もしも、沖合を進む船の上からこの地形を見た場合、海に伸びたエイの尾状の岬と、潮流により形成された湾曲した砂浜の形が、文字通りエイの尾とヒレに見えるところから、まさしくエイが陸に這い上がった姿に見えたことでしょう。実はひぼろぎ逍遥の冒頭のタイトル・バックに芥屋の大門の写真を掲載していますが、まさにこのような地形こそが私が言うところの「永尾」地名なのです。
 宇土半島の不知火海側の中ほどに位置した永尾神社の海に突き出した岬が永尾(エイノオ)と呼ばれ(書かれ)ている事に着目し、エイ(スティングレイ)の尾のことではないのかとしたのです。


   ここで思い出すのは沖縄ではエイ(アカエイ)をカマンタと呼んでいることである。(英語でエイをマンタというが、もちろんそれとは関係がない。)カマンタの意味をたずねて、カマノフタである、と聞いたことがある。『日本魚名集覧』を見ると、ウチワザメのことを国府津(こうず)ではカマノフタと呼んでいる。またサカタザメを静岡県ではカマンド、愛媛県ではナベブタウオと呼んでいる。サカタザメは鰓穴(えらあな)が腹面にあるのでエイの仲間に分類されているが、その呼称もエイとかエエとか呼んでいる地方が多い。要するにサメもエイも同類と見られていた。そこで永尾にある鎌田山の名称もエイを指す方言に由来するのではないかと考えてみたことがある。・・・(中略)・・・熊本県不知火町の永尾地区では、今もってエイを食べないが、沖縄ではサメを食べない地方や氏族集団が見られる。・・・(中略)・・・恐らく永尾も、古くはエイを先祖とする血縁の漁民集団がいたところであったろう。                           『続日本の地名』(岩波新書)

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まだ、なんのことだかお分かりにならないかと思いますが、この地名が大量に存在する事はかなり重要で、この地名が存在する土地は、実際に古代の海岸線が間際まで迫っていたか、そういった土地に住んでいた人々が住み着いていた事が容易にかつ十分に想像できるのです。

もちろん、釜蓋(カマノフタ、カマンタ、マンタ、ハマンタ)とは南方系の魚撈民が呼ぶエイであり、同時にこの地名が存在することは、地名の成立した時代の汀(波際)線を今に伝えるものと言えるのです。

沖縄の海人(ウミンチュ)は海から飛び出すエイを海の王者と認識し自らもその子孫であると考えて来ました。このためエイを食べません。

縁起には鎌田山のことが書かれています。釜蓋とは単に表記の違いのようにも見えますが大釜や大鍋の蓋の取手を頴(エイ)の背骨に見立てれば、釜蓋という地名に意味があることがお分かりになるでしょう。

ここで釜蓋を考えて見ましょう。いわゆるお釜(ハガマ)の蓋ではなく鍋蓋を考えればエイの形状と合うかも知れません。

ハガマが普及するのは江戸の半ばからで、それ以前は、鍋でお粥や雑穀雑炊ばかり食べていたのですからこちらが一般的だったはずではあるのです。エイに見えますか?

勿論、沖縄ではマンタ、ハマンタ、カマンタ…と呼んでおり、釜蓋も鎌田もその置換えである可能性が極めて高いのです。

地名研究は何よりもフィールド・ワークによる帰納演繹が中心になります。

考古学的観点からは日本海岸の潟湖に繋がる地域であったかどうかは気に留めておきたいと思います。

 ここでは明治の陸軍測量部の地図を見て、二つの集落と二箇所の河川邂逅部がエイの尾に見立てられていることはお分かりいただけたのではないでしょうか?

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上の写真は糸島半島の芥屋の大門の鳥瞰ですが、沖合に島があれば徐々に砂や小石が堆積しこのような

トンボロ地形が出現します。

 まさにエイの尾のような地形ですが、これこそが永尾地名なのです。ただ、残念なことにここには永尾地名は存在しません(ところが後に桜井のエイノオ、鎌田地名がこれのことであると知ります この時点では、まだ、この桜井のエイノオが芥屋とは気付いていなかったのです)。

時に地名は権力によっても強制されますが、民間で実際に流通しなければ定着せず意味がないことから、最終的には民衆によって付されることになります。

このことから、考古学的遺物では判断できないものが多く、代わりに数多くの地名を拾い上げ判断して行く必要があります。

問題はサンプリングが非常に難しい事なのです。

そして、国土調査、ほ場調査などによって全国の字地名が消え、地形が変わり、場所もどこだったかが全く分らなくなりつつあります。

地名と言うまさに歴史を刻んだ文化遺産が列島全域で消失しつつあるのです。

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再び話を戻します。その際、手掛かりになるのが明治三十三年の陸軍測量部地図ですが、もう一つ役に立つのが後段に掲げる「明治十五年全国小字調」です。

ここには、古代からあまり動かなかったと思われる、小字が化石として残されています。

帰納演繹の精度をあげるために、これを使うことは十分に可能で、これらのデータ・ベース化が望まれるところです。

一例ですが、遠賀郡の海岸部、波津に小字の「釜蓋」があることが分ります。これを、北部九州の海岸地帯を中心に、ある程度拾い出しを行なってきました。ところが、実に普通に存在する地名であることが分かったのでした。これを見ると多少面白いことに目が付きます。以下、作業中の一葉のみ掲載します(これは一例ですが、これだけでもかなりの永尾、釜蓋地名が確認できるのです)。



明治十五年全国小字調から


釜蓋地名を解明したとの余裕で、釜蓋、マンタ、カマンタ、エイ・・・といった地名をネット検索に掛けていると、驚くべき地名に遭遇しました。これについては、現在なお、個人的なネットワークを駆使して調査中であり、数ヶ月もあれば「Manta(マンタ)」として独立した報告ができると考えますが、ここではその作業の一部をご紹介いたします。

 明治の陸軍測量部の地図を見て、二つの集落と二箇所の河川邂逅部がエイの尾に見立てられていることはお分かりいただけたのではないでしょうか?

このように、海岸ばかりではなく、河川においても合流部にエイの尾に見える地形が形成され、エイノオ(永尾)、カマンタ(釜蓋)という地名ができることになるのです。

ここまで考えてくると、後に、「日本書紀」に「可愛」と書かれ「エノー」と呼ばれる理由が見えてきました。つまり、日本書紀成立より前に永尾地名は存在していたのです。

お分かりでしょうか?河合、落合、吐合、谷合、流合・・・といった一連の河川合流地名がありますが、河合と呼ばれるような平坦な下流部での合流ポイントは交通の要衝であるとともに、地域の支配者の居住地にもなったはずです。そうです、可愛山(三)陵とは、「河合の永尾(エイノオ)」と呼ばれ、いつしか「可愛」を「エノー」と呼ぶようになったのです。そうです、「可愛」(エイノオ)も永尾地名の一つなのです。

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隈之城川が川内川と合流する向かいに可愛山陵がある。鹿児島県さつま川内市


川内川と隈之城川の邂逅部に現在も永尾地形と永尾(可愛)地名が…

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記