804 北九州市若松区には九州王朝系神社ばかりが鎮座していた…“若松の神社調査の下調べとして”
20191230
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
最近、北九州一帯で活動されている丁巳歴史塾との提携話が進んでいますので、改めて遠賀川右岸の山鹿(ここではそう呼ばせて頂きますが)島=江川の北岸一帯の神社を概括して見ました。
すると、天御中主〜大幡主(神産巣日神)〜ヤタガラスを中心に九州王朝を支えた一族が崇敬していたと思える神々が並んでいる事に気付きました。このため都市化によって遅れていた北九州方面への神社探査の先駆けとしてまずは若松辺りから神社調査を進めて見たいと思います。
今回は「福岡県神社誌」…と言った基礎的資料を一先ず置いて概要だけをお話しして見たいと思います。
まず、実質的に北九州に入ったなあと実感する筑豊から玄海灘に注ぐ大河遠賀川東(右)岸の玄海灘側から作業をする事にしますが、以前、遠賀川河口に集中する「イヅノメ」を祀る神社群(4〜5社)が実は宗像三女神のお一人の豊玉姫を祀る神社であることはご報告致たしました。以下オンエア済。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
686 | 伊豆能売の神とは何か? F “大本教の伊都能売神諭から” | ||
454 | 伊都能売神(イヅノメノカミ)を奉斎する方々へ A | ||
453 | 伊都能売神(イヅノメノカミ)を奉斎する方々へ @ | ||
438 | 伊豆能売の神とは何か? E “伊豆能賣の中間調査を終えて思う事” | ||
437 | 伊豆能売の神とは何か? D “伊豆能賣は 何故「イヅノメ」と 呼ばれたのか?” | ||
436 | 伊豆能売の神とは何か? C “遠賀川左岸に伊豆能賣を発見した ”遠賀町の伊豆神社“ | ||
435 | 伊豆能売の神とは何か? B “遠賀川右岸の二つ目の伊豆神社の 元宮か?”久我神社 | ||
434 | 伊豆能売の神とは何か? A “二つ目の伊豆神社” イヅノメの 神が少し分かってきました | ||
433 | 伊豆能売の神とは何か? @ “遠賀川河口の両岸に伊豆神社が並ぶ” | ||
今回はそれに続く東側に展開する神々のお話になります。

この洞海湾と玄海灘と江川に囲まれた仮称山鹿島とでもいう一帯に住み着いた人々がどのような人々であったかがこの神社群を見ると大まかには推定できるのです。
その話に入る前に外部の方は江川水道をご存じない方が多いと思いますので簡単に説明しておきます。
一級河川遠賀川水系 江川は、八幡西区と若松区の区境を流れ、東は洞海湾に注ぎ、西は一級河川遠賀川に合流する、全区間で潮位の影響を受ける感潮河川です。
現在、江川流域で「北九州学術・研究都市整備事業」による大規模開発が進められており、早急な河川改修が望まれています。
古くは東から進んだ神功皇后を熊鰐が出迎え、太閤殿下の九州侵攻作戦でも利用した非常に便利な水道が江川だったのです。
この川は海辺に住む人々しか理解できない山から海ではなく海から海に流れる海の運河というか水道なのです。 蜑住アマズミ(汐分橋付近)
話を戻します。まず、どのような神社が存在するかを見て頂く為にグーグル検索を使わせて頂きます。
ただ、全ての神社を一度で表示する事はできませんのでこれ以外にもかなりの漏れがあると考えて頂きたいと思います。

先にこの一帯には、天御中主〜大幡主(神産巣日神)〜ヤタガラスの流れを汲む白族系の神々が祀られていると申し上げました。きっとこの一族の血を継承される方々も少なからずおられるはずなのです。
東の洞海湾の出口には白山神社が2社鎮座しています。細分化した地図には藤ノ木に白山神社が2社あり、更に北の小竹地区にも白山神社がありますのでこれらと併せ4社の白山神社があることになるのです。
これも白山姫が天御中主と分かれば、この一帯が白族系の人々が住み着いている事が分かるのです。
日本ではあまり白族という概念が流通していませんが、それは一民族一国民と錯覚し誇りとさせた戦前以来の皇国史観の延長にあるもので致し方ありません。
【ペー語(白語)】第1回 〜ペー族(白族)とペー語(白語)〜 2018-01-25
ペー族(白族)ペー族は、中国の少数民族の一つです。現在の人口は約195万人(2010)、そのうち約100万人が雲南省の大理白族自治州に住んでいます。自称は「ぺーニ Berp nid」、「ペーヅ Berp zi」、「ペーホ Berp huo」です(ローマ字表記は後述のローマ字ペー文(大理方言)、以下同じ)。また歴史的には、漢語(中国語)で民家とも呼ばれていました。民家の名称は、1949年の中華人民共和国成立後にも使用されており、1956年、正式に「白族」の名称に改められました。
この白山姫が石川県の白山姫神社ひいては東北の白山神社系に繋がっている事は言うまでもありません。
ただ、神社も宮司も積極的に説明しないため、妙見、天御中主と同一とはあまり知られていません。
これが肥後八代の妙見神社、筑後久留米の水天宮、佐賀県の伊万里辺りから散見される白山神社から糸島から旧二丈町にも分布している白山神社と同じものだとはなかなか思考が付いて行かないのです。
代表例は福吉の白山神社でしょう。正月の元旦には神楽が舞われる事で知られる神社です。

白山神社 カーナビ検索 福岡県糸島市二丈福井4909
祭神は左殿:伊弉諾尊 中殿:菊理姫命(白山比咋大神)右殿:伊弉册尊 であり、神社の表記でも菊理姫命=白山姫=天御中主と分かるのです(なお、大阪の富田林には美具久留御魂ミククルミタマ大神神社が在ります)。
この天御中主の弟である白川伯王の孫娘が市杵島姫であり、宗像三女神の杵島姫命、田心姫命、湍津姫命を祀る神社で良いのですが、主神は市杵島姫であることは言うまでもありません。
次に戸明神社、戸脇神社が魚釣池の西側に4社ほどが並んでいます。
戸明は戸開であり、手力男命=スサノウの命で良いと考えられます。戸脇神社も「産土神名帳」氏に依れば、天手力雄命としていますので間違いないのです。

神功皇后伝承の残る蜑住(アマズミ)地区の西に多くのスサノウ系氏族が展開しているのですが、その理由は不明です。彼は新羅の王子様であって半島からの侵入者と考える事は一応可能です。ただ故地は列島らしいのです。この白山姫の弟の白川伯王の子である博多の櫛田神社の主神大幡主の傍に素戔嗚大神(祇園宮)として鎮座されておりスクラムを組んだ同族に近いものと考える事はある程度理があるのです。
博多の櫛田神社
【縁起】博多の総氏神様としては最古の歴史を有し、天照皇大神(大神宮)、大幡主大神(櫛田宮)、素戔嗚大神(祇園宮)が祀られています。以前は3つの社にそれぞれ祀られていたそうです。大幡主大神は孝謙天皇天平宝字元年(757年)託宣によって鎮座され、素戔嗚大神は天慶4年(941年)藤原純友の乱の追討使小野好古が戦勝奉賽のために勧請されたといわれています。天照皇大神の奉祀についてはあまりにも古く史実としてはっきりしないそうです。
地図に少し外れていますが、かなりの八剣(ヤツルギ)神社があります。これも菅原神社と併せ、スサノウを祀る神社と考えて頂いて良いと思われます。博多の櫛田神社の大幡主の傍にスサノウがおられますので納得。
恵比須神社が二社見えます。大国主の命の長男とされるのがこの人物ですが、百嶋神社考古学ではそれを認めません。ただの臣下でしかないのです。さらに言えば、宗像神社の本当の祭神が大国主命と言う事が理解できれば、この山鹿島の一角に同社が鎮座する意味は理解できるのです。

北九州の方にとって分かり難いのが十五社神社でしょう。
ところがこの神社が集中的に存在している場所があります。天草です。恐らく60から70社近くはあると思います。
現在、この神社は阿蘇12神+3柱という構造を取っていますが、これは阿蘇氏の権勢が天草まで広がった南北朝争乱期に十王(ジューオウ)という現地音に併せて阿蘇12神+3神が持ち込まれているのです。
十王とは龍王だとしたのは柳田国男でしたが、R音が苦手な民族はD音で代行したのです。
日本語の尻取り遊びにR音(実はL音なのですが)が少ないのもこれと関係しており、ラジオ、ラッパ、ライオンで後が亡くなる事は皆さん良くご存じで、日本人は元はこの音を使っていなかったのです。
この天草周辺(佐賀県から福岡県に掛けての有明海湾奥にも分布している…佐賀市には=南の有明海側に十五という大字までありますが)十五社は阿蘇の神々と考えると大間違いで、少なくとも鎌倉以前は豊玉彦=ヤタガラス=大幡主(カミムスビ)の子を祀る神社のはずなのです。
第一、馬で地上を征圧した阿蘇氏が船で動かざるを得ない天草を元々支配していたとは考え難いのです。
この外、非常に興味深いのが安屋の笠松神社です。
この神社は未踏ながらネット検索を行うと祭神は天忍穂耳命、天穂日命とされるようで、前者は阿蘇高森の草部吉見神、後者は豊玉彦=ヤタガラス=龍王神…で良いのです。「県神社誌」は後で確認します。
由緒不明・・・ですがご神体は竜神様と云われている石らしいです。
昔、この辺りで疫病が流行り、安屋の人々が竜神様の祟りだと恐れ、ここに祀ったとのこと。
年代は不明です。竜神様をお祀りしてあるのに御祭神に含まれていないのは「?」ですが、あまり突っ込みますまい・・・また、この神社は畜産農家(牛)のかたがたの崇敬が厚く、7月には「牛魂祭」が執り行われております。
による
下調べのためのもので、未踏の神社をネット情報だけで書くという狡猾な事をやっているので、申し訳ないのですが、これも地場のブロガーによるもので、「日々の”楽しい”をみつけるブログ」から
それにしても、まだ、八大龍王と刻まれる理由はわかりません。そこで、「北九州の史跡探訪」(北九州史跡同好会)を調べてみると、ここ笠原神社から南東に700mほど下ると、坊ヶ渕と呼ばれる場所がありました。
坊ヶ渕は、昔、遠賀・鞍手・嘉麻・穂波4群の雨乞所として有名。渕は竜神が祀ってある。その龍は8頭の大竜で、古来竜は雨を呼ぶといわれ、この渕の竜神に雨乞の祈願をした。「北九州の史跡探訪」(北九州史跡同好会)
これで十五神社同様龍王(八大龍王)祭祀と考えてきた我々の想定が裏付けされた事にもなりそうです。
ただ、牛馬の話が出てきますので牛頭天皇とされるスサノウを考える価値があります。
博多の櫛田神社の主神が大幡主でその子がヤタガラス=龍王であり、大幡主の脇神がスサノウですので 許容範囲とは言えそうです。
さて、最後に北九州の方には分かり難い田神社の話をすることにします。
まずこの神社は甘木、朝倉、杷木の一帯に60社ほどあります。
ところが、一社を除き全てが無格社扱いとなっているのです(「福岡県神社誌」下巻所収無格社一覧)。
普通、無格社と言えば氏子がいない小さな祠程度のものを想像しますが、この田神社はきちんとした社殿、境内を持つ堂々たる神社という風格を持つものも多数あるのです。
このことから何らかの政治的な争乱によって消された神社である事は明らかなのです。
これについては粗方の見当を付けていますが、別稿とします。既にネットには出ています。
敢て一言言えば出雲の国譲り大国主の国譲りと関連しているのです。大国主は九州人です。
では、祭神はと言えば埴安彦+埴安姫、埴安彦単独…がほとんどで、博多の櫛田神社の大幡主、その妹神である埴安姫(金山彦のお妃)を祀るものなのです。
鹿児島限定と考えられている田神様(タノカンサー)については、これまでにも ひぼろぎ逍遥(跡宮)として、083タノカンサーの正体とは何か?“甘木公園の田神様(タノカンサー)福岡県朝倉市甘木から”217 甘木に二つ目のタノカンサーを発見した!(共通掲載)として書いていますが、二つ目、三つ目の田神社を発見したことから、今回改めて「福岡県神社誌」上中下を調べてみると驚愕すべき事実に直面したのでした。
ざっと目を通しただけの荒いカウントですからその範囲で理解して頂きたいのですが、「田神社」として幟を揚げた神社は甘木インター南の朝倉市甘木草水に一社(旧村社)が存在しているだけなのですが、愕くことに、無格社として朝倉郡を中心に同郡だけでも40社近く(範囲を広げると60社)が拾えたのでした。
今回はこのリストを公開する紙面がありませんので村社として掲載されている一社を紹介するだけに留めますが、これを基礎資料として今後の調査を考えたいと思っています。
鹿児島のタノカンサーが甘木朝倉になどあるはずがない!とお思いの方は多いと思いますが、詳しくは、blogひぼろぎ逍遥(跡宮)のバックナンバーをお読み頂くとして、百嶋由一郎先生は“「田神様」(タノカンサー)は大幡主と大山秖の二神による擬神体を成していた”と言われていました。
今回、朝倉郡だけでも40社近い無格社を発見した事によってその実体がある程度掴めた事にはなるのですが、その先にどう考えても隠されている(九州王朝の発展期に於ける南九州経営の事績か?)のではないかという新たな謎が浮上してきたのでした。
朝倉市甘木草水の村社は、表向きには「菅原神」を主神としているようですが、社名が「田神社」、境内社として五穀神社(埴安命)とあります。このため、元は主神として田神社(埴安命)が祀られていたことが丸分かりになっています。大幡主の妹は埴安姫ですから、埴安命とは大幡主以外は考えようがありません。ここでも故)百嶋由一郎氏の説の正しさが証明されつつあるようです。
九州の現場には、まだまだこのような驚愕すべき事実が痕跡を留めているのです。
藤原が捏造した「古事記」「日本書紀」をそのまま鵜呑みにする方々には決して見えてこない事実です。
文献、フィールド、考古学、神社、海外史書…とバランスの取れた研究が必要であることが分かります。
中でも戦前の反省とかから徹底して無視されているのが神社研究なのです。
ひぼろぎ逍遥
スポット 041(前) 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @
簡略化して言えばこの一帯の山地には大山祗を祀る山神社、大山祗神社が大量にあり、平地には大幡主を祀る田神社があるのです。
この二人の神代史のスターが南九州=古代日向のタノカンサーになっているのです。
「神社誌」でこの事を調べていて北九州にも田神社が在る事には気づいていましたがその一つなのです。
最期に、御嵜神社と言う小さな祠の話でとりあえずの作業を終える事にします。詳しくは実踏後に「神社誌」と突き合せて選別しトレッキング用の資料を作ります。
さて、この神社ですが始めは見当が付きませんでした。
傍に妙見崎灯台があることから天御中主系の神社であろうことは推測が着きました。
御祭神
再びによる
始めから神代史のスターが揃い踏みしていますが、これは明治期の再編成によるもののはずであって、本質は現在の宮地嶽神社の祭神「
妙見社もある事から、若松とは天御中主命とそのファミリーばかりが鎮座している事が分かります。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
総じて、この若松一帯は、阿蘇系、応神天皇の八幡神、ニギハヤヒ系の物部神がほとんどない事が特徴のようです。どうやら若松に鎮座する神社の概要が見えてきました。今年の五月にでも二日制の神社トレッキングを行ないたいと思います。
百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書スキャニングDVDを必要な方は09062983254へ