2021年04月01日

801 祭神の組み合わせに魅かれる“津和野町 太鼓谷稲荷神社”

801 祭神の組み合わせに魅かれる“津和野町 太鼓谷稲荷神社”

20191209

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


無題.png2019年度将棋竜王戦(広瀬章人竜王に豊島将之名人が挑む第32期竜王戦)の第5局が島根県の津和野町で行われるので、鹿児島の指宿温泉で行われる第6局に行くよりはまだ近い上に、2018年度でしたか、わざわざ400キロ以上も走って席数が少なく当日大盤解説を見ることができないという非常に嫌な思いをしたことがあるのです。

昔、家族で泊まったこともある超高級旅館の白水館ではあったものの、どうしても行く気にならず、津和野の第5局に行くことにしたものです。

 当然、将棋だけで済ませるはずもなく何度となく入ってきた山陰ですが、今回も吉賀町(旧柿木村)やら巨大市となった山口市の辺境の徳地や阿東周辺を隈なく見ようとばかりに、3日前の124日から中国山地西部の最深部に入ることにしました。

結果、超難解な終盤戦を制した関西の豊島が竜王、名人に…。

新たな発見でもないかとわくわくしながら将棋とフィールド・ワークを楽しむつもりです。対局は明日6日から7日に掛けて行われるのです。山口市内の某所で車中泊し、冬至に近いためアサマダキ(アマネセ−ルと言うよりマドゥルガダ)の早朝6時半から津和野町に向けて走り始めました。

無題.png


無題.png津和野町と言えば森鴎外とか西周とか山陰の小京都とか女性ファンや文学ファンが訪れる静かな城下町として知られた所ですが、基本的に所謂観光地の喧騒と言うものを好まない者としては、太鼓谷神社は元々敬遠の対象でしかありませんでした。

 ただ、平日でもあり紅葉の時節の割には観光客も疎らな事からこの際宗旨替えしてまずは最も参拝客が多い太鼓谷稲荷神社へ参拝することにしました。

 言わば津和野川の谷底の上にへばりつくように載せられたのが太鼓谷稲荷神社であり、津和野町を訪れた方は直ぐにお分かりになる神社です。

 さて、この神社の話に入る前に、山口県長門市元乃隅稲成神社があり、これは太鼓谷神社であるという事を知っていました。

 何故、山口県に津和野の神社があるのか?という十年来の疑問を持っていましたが、今回、真面目に考える機会を得て、この元乃隅稲成神社が島根県津和野町太鼓谷稲成から昭和30年に分霊されたものだったと認識したところです。

ただ、何故、長門(山口県長門市油谷津黄498の向津具半島の北側の津黄などという辺鄙な場所に勧請されたのかについては持ち越した形です。風雨の激しい所だけに維持管理が大変です。

無題.png

画像は元乃隅稲成神社「日本で最も美しい場所31」に選ばれた絶景スポット!による


 話が逸れましたが、ご本山に戻りましょう。

無題.png

太皷谷稲成神社 カーナビ検索 島根県鹿足郡津和野町後田409


成立はかなり新しく、「安永2年(1773年)に津和野藩主7代亀井矩貞(かめいのりさだ)公が津和野藩の安穏鎮護と領民の安寧を祈願するため、三本松城(津和野城)の鬼門にあたる東北端の太皷谷の峰に、京都の伏見稲荷大社から斎き祀ったのが始めです」(同社公式HP)、日本三大稲荷などに比べればひよっこ扱いにされるでしょう。

ただ、この境内から見る景観は、小京都とも言われる清冽な城下町の街並みもあり心奪われるものとなっています。

無題.png

由緒書きが傷んでいますので、同社HPから切出しておきますが、イザナミと伏見稲荷の二神という少し変わった配神となっています。

そもそも天照と豊受大神でさえ内宮と外宮となっているように女神二柱とは異形です。


無題.png宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)=稲成大神

衣食住の大祖神様、五穀豊穰の神様であり、江戸時代よりは商売繁昌の神様としても信仰されました。 当社は特に願望成就の神様として崇敬されています。 御神徳は五穀豊穰・産業発展・商売繁昌・開運厄除・福徳円満・願望成就(良縁・学業・受験など) また、失せ物(紛失物)発見などのご利益もございます。《「稲成」の言い伝え 〜お稲成さまは、失せ物発見の神様〜》

伊弉冉尊(いざなみのみこと)=熊野大神

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)とともに日本の国造りの神とされています。 御神徳は、創造開拓 夫婦円満 良縁成就 開運 病魔退散 鬼門除け 方災除け など

無題.png

ただ、公式HPとは多少異なることが境内の元宮縁起には書かれています。

室町期に津和野城主の吉見氏が熊野神社を建立し七社を祀った…とありますが、後に移され二神制となったようです。

無題.png

 元宮の裏には命婦社が良く残されています(橘一族の命婦制ですね…)。


※「命婦」とは古くは平安期の五位以上に叙せられた女官及び五位以上の官人の妻を意味し、現代では稲荷大神の御眷属であるお狐様の異称として親しまれています。        同社HPによる

無題.png

我々から非常に気になったのは、戦国期から幕末まで生延びた亀井(亀井静香も同流)氏の紋章なのですが、四つ目菱(隅立四つ目結井桁に稲)は高木大神=タカミムスビの神紋であって熊野権現を祀る事はあり得ない…と思い悩んでいましたが、亀井氏のルーツを調べて半分は解消しました。


亀井氏は紀伊国亀井(牟婁郡)を発祥とし、宇多源氏の佐々木氏の流れを汲むとされるが、信憑性に乏しく、穂積姓藤白鈴木氏流の亀井重清の流れとする説もある。

亀井秀綱は尼子経久側近として仕えた事が確認できるが、その後一族は没落し、系譜等が不明となっており、その系譜は現在でも明らかとなっていない。

ウィキペディア(20191209 13:10 による


四つ目菱紋としても紀伊国亀井(牟婁郡=古代牟婁郡とは和歌山から三重に跨る大郡ですが)の出身であれば、熊野大神を祀るのは不自然ではないからです。

こんなことばかり考えていると神信心などできるはずもなくここらでやめて、祭神の確認だけはしておきましょう。

無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


由緒では熊野大神となっていますが、熊野本宮の熊野大神とはアカルヒメであって、熊野那智大社のクマノフスミこそイザナギと別れたイザナミであり熊野大神として相応しいのです。牟婁郡の出の亀井一族はその事を伝えているのです。つまりイザナミとは金山彦の妹であり、イザナミとイザナギの間に産れたスサノウとアカルヒメの間に産れたのがアメノウズメこと伊勢の外宮様=伏見稲荷なのです。つまり、スサノウを挟んで祖母にあたるイザナミと孫娘にあたる伏見稲荷が祀られた神社という組み合わせになるのです。してみると太鼓谷直下に鎮座するスサノウを祀る弥栄神社が俄然重要になってきたのです。

百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書スキャニングDVDを必要な方は09062983254

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2021年04月03日

802 祭神の組み合わせに魅かれる“津和野町 弥栄神社”

802 祭神の組み合わせに魅かれる“津和野町 弥栄神社”

20191209

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


前ブログ 801 祭神の組み合わせに魅かれる“津和野町 太鼓谷稲荷神社”からの続き

「してみると太鼓谷直下に鎮座するスサノウを祀る弥栄神社が俄然重要になってきたのです」としたためこのような出だしになりましたが、まずは 以下再掲載

無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


由緒では熊野大神となっていますが、熊野本宮の熊野大神とはアカルヒメであって、熊野那智大社のクマノフスミこそイザナギと別れたイザナミであり熊野大神として相応しいのです。牟婁郡の出の亀井一族はその事を伝えているのです。つまりイザナミとは金山彦の妹であり、イザナミとイザナギの間に産れたスサノウとアカルヒメの間に産れたのがアメノウズメこと伊勢の外宮様=伏見稲荷なのです。つまり、スサノウを挟んで祖母にあたるイザナミと孫娘にあたる伏見稲荷が祀られた神社という組み合わせになるのです。

してみると太鼓谷直下に鎮座するスサノウを祀る弥栄神社が俄然重要になってきたのです。

百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書スキャニングDVDを必要な方は09062983254


 津和野川の畔の太鼓谷稲荷の参道に弥栄(イヤサカ実はヤファエ)神社=八坂神社があります。

 津和野に初めて足を踏み入れた数十年前からこの神社こそ津和野を象徴する神社であると思ってきました。

 今ようやくその理由が分かってきましたが、神代三代の流れを見ればこの事は良く裏づけられている様に思います。

 八坂がヤファエとかヤーベを意味する置換えが弥栄で、より原音に近い形になっていると思いますが、そのヘブライとかイスラエルという意味の源泉は、スサノウの母神であるイザナミが金山彦の妹であり、同族故に秦の始皇帝(イスラエル系)と姻戚関係を結んだ一族として先行し列島に進出したのが金山彦の一族であり、秦帝国滅亡後に列島に避退して来たのが太秦とか豊国に住み着いた秦氏だったのです。

 その象徴が弥栄神社=八坂神社であり、一部、新羅の王子としての性格も背負ったのがスサノウ(金山彦の娘櫛稲田姫を妃とした)だったのです。イザナミとその孫娘の伊勢の外宮の豊受大神=伏見稲荷の直下に弥栄神社が鎮座しているというのは実に象徴的なのです。では、社殿をご覧頂きましょう。

無題.png

須佐之男命 正哉吾勝勝速日天忍穂耳命、天穗日命他7柱大己貴命他3

正長元年(1428年)三本松城主吉見氏が祇園社の分霊を太鼓谷山に勧請したのが初めとされる。

永享9年(1437年)吉見弘信が社地を下元原(現在地)に遷座し、三本松城の鬼門を守る社とした。吉見氏以降坂崎成正を経て亀井氏が藩政を執るようになり、廃藩に至るまで藩主の造営や寄進を受け、町民の崇敬を集めた。

創建時より「滝本祇園社」という社名であり、現在の社名に改めたのは慶応3年(1867年)のことである。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20191211 15:59 による


 これは太鼓谷稲荷の元宮に書かれている事を根拠にしているようです(以下前ブログから再掲載)。

 ただ、創建当時からかどうかは不明ですが、他7柱、他3柱は気になります。

 ちなみに、正哉吾勝勝速日天忍穂耳命は、阿蘇高森の草部吉見=俗称春日大神、天穗日命は豊玉彦=ヤタガラスです。

無題.png

どうも記述の問題か祭神の数が合わないのですが、どちらにしても祭神を確認できれば、古い時代の津和野一帯=益田地方の最奥部の最も安全な場所(進入路が極めて狭く防衛に便利な場所)であり(ただし、盆地のため山から攻略されると危険)にどのような系統の人々が住み着いていたかが想像できます。

イザナギと別れたイザナミは祀られるもイザナギが排斥されているのも熊野系の本質です。

無題.png

実は太鼓谷稲荷神社の祭神である伏見稲荷とは伊勢の外宮の豊受大神であり天大目(アメノウヅメ)であり、山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒのお妃なのですが、してみると太鼓谷稲荷の直下には父神が見守り控えておられることになるのです。正に普通ですね。だからこの弥栄=八坂神社の方が早いはずなのです。


百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書スキャニングDVDを必要な方は09062983254

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2021年04月06日

803 福岡県篠栗町の神社トレッキングで百嶋由一郎氏が書いた看板を発見した

803 福岡県篠栗町の神社トレッキングで百嶋由一郎氏が書いた看板を発見した

20191217

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 少し寒さを感じる1215日(1100〜)福岡市の東隣の篠栗町の太祖宮外宮の10人ほどのメンバーが集まりました。

 歳末の多忙な時期に実質一日費やすトレッキングに参加して頂き大変有難いと思っています。

 自分の頭も使わず、自らの足も使わず、他人任せの話を右の耳から左の耳に通すだけの古代史研究者とか邪馬台国九州説や良くて自称九州王朝論者の方々よりは余程重要な作業をされているはずなのです。

 無題.pngこの中に、ブロガーが5人、ブログが7本あるのですから、確実に将来に記録を残す作業ができる人が集まっている事になる訳です。

 そうした中、篠栗町の神社群とは別にこの地域には神仏混交の名残を残す宗教施設がかなり残っており、太祖宮上宮への登山道の登り口辺りにある太祖山金剛頂院という仏教系寺院があります。

 ここから上宮方面に進もうとしたところ、参加者のお一人である「事代主のブログ」氏から耳寄りな情報が寄せられました。

 そんな重要な情報を持ちながらなんで今まで言わなかったのかとしばし呆れたほどでしたが、流石は「事代主のブログ」氏と感心もしたところでした。

 彼の話によると、45年前に訪れたところ確か「百嶋由一郎と書いた看板が立っていた」と言うのです。

 一同色めき立ったのですが、一向に見当たらないのです。

 仕方がなく、太祖山金剛頂院を時間を掛けて見せて頂いた後、上宮への移動を止め下山しようとすると、また、車が止まるのです。どうやらメンバーのT女史が看板の残骸を見つけ出したのです。半ば諦めていただけに一同ほっとした様でしたが、私はただ小躍りするばかりの思いでした。台風かなんかで吹き飛ばされ、同寺院の駐車場の片隅に置かれ、倒木が重なり合い、落葉で看板自体が読めなくなっていたのでした。

 とりあえず応急措置で、写真として記録を残す事ができて胸をなでおろす事ができたのでした。


太祖山金剛頂院 カーナビ検索 福岡県糟屋郡篠栗町若杉4-2


20191215日(日) 篠栗町の太祖宮〜太祖宮上宮〜呑山観音を探るトレッキング”


20191215日(日) 午前1100に太祖宮に集合を…(列車利用の方は篠栗線篠栗駅で拾います)

集合場所 太祖宮境内  カーナビ検索福岡県糟屋郡篠栗町大字若杉1047 

無題.png

@  太祖宮     97p   カーナビ検索  福岡県糟屋郡篠栗町大字若杉1047

A  太祖宮上宮   97p   カーナビ検索 福岡県糟屋郡篠栗町大字若杉(地番不詳)山上で昼食

B  老松神社    134p   カーナビ検索  福岡県糟屋郡篠栗町大字尾仲732

C  紅姫稲荷神社       カーナビ検索  福岡県糟屋郡篠栗町篠栗4663

D  諏訪神社    136p   カーナビ検索  福岡県粕屋郡篠栗町大字篠栗字長尾4264番地

E  萩尾神社    135p   カーナビ検索  福岡県糟屋郡篠栗町大字萩尾643

F  呑山観音寺        カーナビ検索  福岡県糟屋郡篠栗町大字萩尾227-4 pの数字は神社誌

無題.png
無題.png

お読み頂ければお分かりになると思いますが、戦国末期の八女の黒木(星野吉實)の一族の英雄的散華と、この星野の一族が後鳥羽上皇の血を授かった一族であり、同時に本物の安徳帝(先生はダミーが十人近くいたと言われていました…これについても)を奄美の喜界ケ島に送り出す中心的役割まで担った人々であった事を百嶋先生は十分にご存じだったという背景までがあるのです。

 我々にとっては新たな金石文に近いもので一同感激したものでした。

 実は、百嶋先生の面受として聴いたのですが、もう一つの話として、日田市の天瀬の高塚地蔵とこの篠栗の呑山観音寺とは非常に深い関係にあったとも言われておられました。

 今後その背景にも踏み込みたいと思っていますが届くかどうかは分かりません。

 いずれにせよ、宮地嶽神社での講演会を前にして病死された無念と、どれほど貴重な話を聴きそこなった=継承できなかったという悲しみを抱きながら今後とも作業を継続したいと考えています。

2019210日  星野一族の最後 高鳥居城の戦い 

 合瀬耳納トンネルを通り星野にやってきました。でも秘めた目的をはたすべく、こんどは鷹取山へ登ります。

 なぜなら星野一族を感じたかったのです。それは星野一族の出城鷹取山山頂にある鷹取城にいくためです。

星野一族は九州の戦国時代に島津につき、島津進攻とともに、岩屋城を攻めた後、荒れ城の高鳥居城(糟屋郡須恵町)に一族郎党300余名とともに入城していた。島津との盟約をまもり退こうとはしなかった。

 落城の前日、時世を認め、酒宴を張って、翌日の決戦にのぞんだ。

筑後の山中から出てきた一族主従三百余が粕屋郡の孤城で最後まで島津への儀を立てて死んでゆく姿には打たれる者の悲しさが切々と伝わる。(筑後戦国史より)


 草城に心おく露踏み分けて 消えゆく野辺の道しるべせむ 

    星野吉実


 草城のつゆと消えなむ身なれど 心はほしのひかりとぞ思う

    星野吉兼


大友軍の立花宗茂らは、高鳥居城を攻撃星野吉実 星野吉兼を破り、その首を丁寧に吉塚に葬った。

2019211日 崇久寺訪問  2019210日 合瀬耳納  

えみこのつれづれ日記」より

無題.png
無題.png


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記