2021年02月27日

ビアヘロ177 景行記の八女津姫とは誰なのか? “八女津媛神社(福岡県八女市)”

ビアヘロ177 景行記の八女津姫とは誰なのか? “八女津媛神社(福岡県八女市)”

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


福岡県の現八女市(旧矢部村)に八女津媛神社があります。それこそ急峻な大渓谷に造られた日向神ダムを越えさらに山中に分け入った場所にある神社であることから、景行記に登場する有名な神社であるにも拘わらず、実際に現地を踏んだ方はかなり少ないのではないかと思います。

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10年程前でしたかこの地に頻繁に足を向けていた時期がありました。しかし、最近はあまり入ってはいません。また、この矢部村の地名について講演した事さえもあったのですが、その頃まではこの神社の女神様がどのような素性の方であるかについて全くの見当が着いていませんでした。


「日本書紀」によると、景行天皇が八女の県(やめのあがた)に巡行されたとき、「東の山々は幾重にも重なってまことに美しい、あの山に誰か住んでいるか」と尋ねられました。

そのとき、水沼の県主猿大海(さるのおおあま)が、「山中に女神あり、その名を八女津媛といい、常に山中にいる」と答えたことから八女の地名が起ったと記されています。

八女津媛神社はこの八女津媛を祭った神社で、創建は養老三年三月(719)と伝えられています。

八女の地名の起こりにもなった八女津媛は、弥生時代から古墳時代まで各地の豪族が治めていたクニの、女首長であり祭祀を行なっていた巫女の一人だったと思われます。

この時代は、魏志倭人伝に記されている邪馬台国の女王卑弥呼の様に、巫女の力を持った各地の女首長が、鬼道や呪術といった宗教的な行いによってクニを治めていたのです。

「鬼道」の「鬼」とは、古代では「神」と同じ意味を持っていましたので、「鬼道」とは「神道」と同じことになります。

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 いわゆる邪馬台国ファンなどにも景行巡幸に関する話は結構知られており、八女ツ姫も山奥深く住む女神としてご存じの方は多いようです。

 ただ、八女ツ姫が居たから八女という地名が生れたのは如何にも乱暴な創り話の類と言うべきでしょう。

 そもそも八女市の中心部にかなりの大型河川である矢部川が流れ、矢部村に八女津媛神社が在る訳で「矢部」と「八女」とは同一の固有名詞である事が推定されそうです。むしろそちらの方からアプローチをするべき問題であろうと考えています。

 これについてはかつて共に調査を行っていたN氏が「八女と矢部」としてこの二つは全く同一の地名であり、呉音、漢音に関わるM音とB音の入れ替わり現象を反映したものであるとの説を出しています。

 それについてはこれ以上触れませんが、何故、山奥に漢音系の「矢部」が地名として成立し、下流の平野部が古くから「八女」と呉音系の発音を残しているかについては、恐らく南北朝争乱期に宮方として蟠踞した五条家が漢音系の発音を好んだ(呉音は全く馴染みがない)ためではないかと考えています。

 今回、何故この神社を取り上げたかと言うと、熊本で神社トレッキングを行なっている2系統の一つのグループのメンバーからこの八女津姫がどのような素性の人であるかの問い合わせが来たからです。

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八女津媛神像


 一般的にはこの半磐座遺跡とも言うべき神社を訪ねられてもこの女神像が出迎えてくれるだけで、何の由緒書もなくなんとなくイメージだけを膨らませて見るものの、実体は掴めず空しく神社巡りをして帰るだけになるでしょう。この点については神社庁も公には具体的な情報を持っていないようで、「福岡県神社誌」にもほとんど記述といえるほどのものがないのです(下記)。

 つまり、八女津媛がこの一帯に住んで居たといったという伝承があるだけだったのだと思うのです。

 ところが、百嶋先生にはこの女神様の素性がお分かりだったようです。

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それは、百嶋家のご先祖が熊本県の玉名に移動する以前の本拠地が、福岡県八女市の黒木の一帯の相当に有力な家系の方(当然、津江神社:福岡県八女市黒木町今49の社家に近接する一族)であった事から、その内部に伝わる直接的な情報を得ておられたのだろうと思います。

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百嶋由一郎 八女ツ姫神代系譜


 お分かりでしょうか?皆さん良くご存じのニニギの命(タカミムスビの神の息子)とコノハナノサクヤ姫(大山祗の次女)の間に産まれた古計牟須姫(糸島にありますね)と贈る孝安天皇(玉名の疋野神社の主神)の間に産まれた筑後(久留米)の三潴の君の祖武国凝別の娘宇佐ツ姫(ウサツヒメ:ウサツヒコと共に開化の臣下でしかない崇神を神武として装い出迎えたとした)と贈る景行天皇の間に産まれたのが八女ツ姫なのです。さすがは百嶋由一郎氏ですね。師は八女の黒木を本願地としていたのです。

 さらに言えば、ウガヤフキアエズと市杵島姫の娘の下照姫(絶世の美女と言われた)の間に産まれた水沼の県主猿・大海姫(驚くことに女性なのです)こと八女津姫について景行に告げた随行者も描かれているのです。つまり、役者を全て描いておられたのでした。それは、日本書記の景行天皇条の話に登場する人物について、地元の神社に伝わる本当の話を回収できる地位にあった家系の方だったからです。

 それは、百嶋由一郎氏の御先祖が女の黒木の有力者の家系であり、後に玉名に移動し大地主となった(明治の所得番付百傑)家系だったからこそ景行の血筋も、八女津姫の血筋も全て把握されておられた事が分かるのです。景行は玉名の疋野神社の主神である贈る(藤原が自らの勢力に取り込むために第5代天皇扱いにした)孝安天皇の子になるのですが、こう言った隠された情報も十分得られる立場にあったのです。

 従って、景行とは近畿大和朝廷が熊襲を退治するために送ったものなのではさらさらないのであって、未だにこんなことを信じているのが通説派の畿内説論者なのです。

殆ど漫画の世界ですね。勿論、八女津姫が卑弥呼などではない事も言うまでもないことです。

尚、先生のメモに在る八幡古表神社(福岡県築上郡吉富町小犬丸353-1)の美奴売大神については長くなるため別稿とします。

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百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は090-6298-3254までご連絡ください。全時間対応です。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

800 集合場所とした大分八幡宮も考えましょう “福岡県飯塚市大分の大分八幡宮”

800 集合場所とした大分八幡宮も考えましょう “福岡県飯塚市大分の大分八幡宮”

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 飯塚市でも最大級の境内を持つのが大分八幡宮です。

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20191117日(日) 午前1100に大分八幡宮境内Pに集合を…

集合場所 大分八幡宮境内  カーナビ検索福岡県飯塚市大分1272 0948-72-0621

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@  高祖神社         カーナビ検索  福岡県飯塚市高田1045

A  椿八幡宮         カーナビ検索  福岡県飯塚市椿352

B  須佐神社         カーナビ検索  福岡県飯塚市弁分355

C 田神社          カーナビ検索  福岡県飯塚市小正(オバサ)138 必要に応じて

D 三島神社         カーナビ検索  福岡県飯塚市菰田東2丁目12-4

E 白山神社         カーナビ検索  福岡県飯塚市上三緒618

F 天祖神社         カーナビ検索  福岡県飯塚市平恒207

G 大山祗神社        カーナビ検索  地番不詳(不明なら大分廃寺跡を再探訪)

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 今回のトレッキングの起点と終点にした大分宮ですが、宇佐八幡宮や箱崎八幡宮の元宮とも言われる筑豊でも屈指の重要な神社です。ただ、正八幡宮は別格ですが、個人的には応神の八幡宮は好まないためこれまで取り上げなかったのですが、全体のバランスからもその基層に存在する九州王朝の痕跡を探る意味でも重要ですので一応は触れておく必要があるのです。

 宇佐神宮には多くの元宮があることは知られていますが、社殿の造りを見ただけでも全く系統の異なる神社であろうことは見て取れます。そもそも千木の有無だけでもこの神社は木材が豊かではない大陸北方域に起源を持っている神を祀っている事は一目です。千木には大きな材を使用できる事が反映してされているのです。

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 この大分八幡宮の建築様式は九州西岸に数多く見られる九州王朝系の神社の形式なのです。

 それはともかくも、まずは「福岡県神社誌」上巻 309p をご覧ください。

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 宇佐八幡宮の元宮と言う話ですが、一部は正しいもののそれは置くとして、この神社は福岡市東区の箱崎八幡宮の元宮とは言えるのです。

 この大分宮一帯は米の山峠を越え太宰府の裏手に当る安全な場所であることから、九州王朝論者の一部には王族の皇子を養育する機関が置かれていたと考えられています。

 それは、近畿大和朝廷とは無関係であって、だからこそ大分廃寺搭跡が残っていると考えるべきなのです。

 始めから話が脇に入り込みましたが、この大分宮正面には汐井川が注いでおり、そういった場所であったからこそこの場所が選ばれたのではないかとも思うのですが、妊娠、子育て、出産、育児…には良質の水と多くのミネラルが必要とされます。

無題.png それが不足すると皇統や血筋の継承にも支障が生じますが、後には福岡市東区の筥崎まで汐を汲みに行っていた…とされ(同社伝承)、つまり、現在の箱崎八幡宮とは大分宮の汐汲みの場所だったのです。


汐井川痕跡 右→

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大分八幡宮の東隣には天台の古刹養願寺があります この寺の名にも遠い養育機関の痕跡を感じます


 そもそも神功皇后のショウケ越えの伝承のあるところですから


ショウケ越 福岡県道60号標識ショウケ越(ショウケごえ)は福岡県糟屋郡須恵町と飯塚市をまたぐ峠である。案内標識などにはショウケ峠という表記も見られる。

ショウケとは、竹で編んだザルの一種(笊笥(そうけ)が訛ったもの)で、神功皇后が現在の宇美町で応神天皇を出産した際にショウケの籠に入れて峠を越えた事からその名が付いたとされる。


フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20191121 10:00 による



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当然、九州以外ではご存じないと思いますが「ソウケ」です(筑豊は∫発音でショウケ…に:政治決戦をシェイジケッシェンと叫ぶ人々ですから…しかしこれこそ古代標準語とも言うべき発音なのです)

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始めから妙な話にしましたが、まずは境内社を確認しましょう。

 参道左手の池の浮島があり社が置かれていますが、これはあまりにも類例が多く弁財天様、市杵島姫様が祀られています。

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水の神様が祀られている場合、浮島があれば天御中主や罔象女神ではなく市杵島姫お考えください


 弁財天は江戸期に流行したインドの神様とされていますが(修験道では古くから認識を持っていたはずです)、水の神の一つとして七福神信仰と併せ民衆向けに導入されたものでしょう。

 ただし、ここではそれ以前のもので応神天皇とされた別王ホンダワケのスポンサーとなった阿蘇高森の草部吉見(藤原の遠祖)のお妃である宗像三女神のお一人が祀られていると考えれば納得が行くはずです。

 弁天様の浮島の近くにもう一つの境内社が置かれています。

 一つの神様は恵比須神で良いはずですが、並ぶもう一つの神様が(当然にも大黒様のはずですが)「神社誌」の境内摂社と対応しない(大国主命が書かれていない)のです。

 どうも贈る応神、別王応神のバックにいる草部吉見と高木大神(タカミムスビ神)にとっては大山祗、大国主命親子は煙たい存在であったようです。

 事実、市杵島姫は後に大国主命のお妃にもなられており、その意味でも政略結婚の跡が反映されている様に見えます。

 それ以上に重要なのは、「神社誌」の境内神社の筆頭にホンダワケ、オキナガタラシ姫(神功皇后)、タマヨリヒメが 本社八幡宮 として書かれている事です。

 福岡市東区の箱崎八幡宮とは大分神社そのものの本社移転だと故)百嶋先生は言われておられましたが(元の宮司夫人の話として)、それが「神社誌」にも反映されている様なのです。

 まさか、神殿内は空っぽではないと思うのですが、もしそうなら大分八幡宮は箱崎八幡宮の跡宮ともなるのです。

 丁度、藤原による春日神社の建設に伴い、茨城の鹿島神社に鎮座していた鹿島大神(武甕槌)=草部吉見が移された跡宮が置かれている事に対応するかのようです。

 従って、宇佐の元宮との話に単純には乗れない部分があるのです。

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大神宮 


 大分宮の背面右手には前方後円墳があると言われており大神宮も置かれています。

 「神社誌」にも大神社として「オオヒルメムチ」が祀られていることから、それで良いのですが、百嶋神社考古学では、オオヒルメムチ⇒卑弥呼⇒天照大神と時代の推移によって呼称が変化しているとしますので、「オオヒルメムチ」の呼称が正しければ、相当に古いものであることが分かります。

 ただ、天照の母親がタカミムスビ系(高木大神の叔母)であろう(兵庫県佐用町佐用都姫神社境内代最奥部に祀られている…)と推定していますので、ホンダワケが持ち込まれた段階で持ち込まれたものと考えるべきかも知れません。

 では、それ以前には誰が祀られていたのでしょうか?

 簡単に言えば境内社となったものがほぼ元の神様と考えて間違いないと思います。

 恐らく、それこそが、九州王朝の時代の神々なのです。

 特に神功皇后(息長足姫命)を祀る神社として重要なのは仁徳天皇であり、高良玉垂命=第九代開化天皇と仲哀死後の神功皇后との間に産れた五人の子の長子が仁徳なのです。

 右は久留米市の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」の一部です。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)







百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データを必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記