2021年02月21日

ビアヘロ176 丁巳歴史塾との合同神社トレッキング資料を公開します B 水祖神社(飯塚市)

ビアヘロ176 丁巳歴史塾との合同神社トレッキング資料を公開します B 水祖神社(飯塚市)

20201101

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


B 〜 D 水祖神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市庄司338-10…以下


 水祖神社とは全国的にも聴かない神社ですが、その祭神は弥都波能売神、罔象女神で良いでしょう。

『古事記』の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとしている。『日本書紀』の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智(カグツチ)の間に稚産霊(ワクムスビ)が生まれたとしている。     ウィキペディア(2020 0618 1805による

としても、何が何だかお分かりにならないでしょう。一般的に水の神というと天御中主命、市杵島姫、弥都波能売神とされますが、数は多くありませんが、これ以外にも幾つか別の神様である場合もあります。

一般的に天御中主=白山姫(ミククルミタマノオオカミ)と弥都波能売(罔象女)の二神は共に水の神様とされる事が多いのですが(大半)、水波能売命と書かれている事もそれを象徴しています。

勿論、逆に字面からかも知れませんが…。これも、農耕地の最上流に置かれている事も良く分かる気がします。さて、「記」「紀」の悪意に満ちた間の抜けた話よりも百嶋神代系譜を見ることにしましょう。

百嶋神社考古学では、ミヅハノメこと神大市姫とは大山祗と大幡主の妹の埴安姫の間に産まれた娘で、大国主命とコノハナノサクヤの姉になる事がお分かり頂けると思います。 あまり知られてはいませんが、大国主命、コノハナノサクヤヒメの実の姉に当たるスーパー・スター中のスーパー・スターなのです。

 まず、姶良市という名称からして大山祗と関係があるのではないかと思っていましたがその通りでした。

 また、本当の神武天皇(神武僭称贈崇神ではないという意味で)の本当のお妃だったアイラツヒメも、実はこの神大市姫と金山彦との間に産まれていたからアイラツヒメと呼ばれているのです。では、知られているようで、良く分からない罔象女(ミヅハノメ)神がどなたであるかをお知らせしておきます。

神代の大者中の大者同士、トルコ系匈奴の大山祇神(月読命)とヘブライ系白族の大幡主(博多の櫛田神社の主神)の妹との間に生まれたのが神大市姫=罔象女であり、スサノウのお妃にもなられ、次の時代の最も重要な神様、辛国息長大姫大目命=香春岳の主神、山幸彦=ニギハヤヒのお妃になるプリンセス豊受大神=伊勢外宮をお生みになるのです草部吉見など足元にも及ばぬどえらい超大物の女神様なのです。

最後ですが、水の神様と言えば、弁財天様が頭に浮かぶと思います。これは、宗像三女神の市杵島姫の事なのですが、この外に美具久留御魂(ミグクルミタマ)神もおられます。こちらも百嶋先生はお分かりだったようで、天御中主命(久留米水天宮)の事と言われていました。この外にも、天之水分神(アメノミクマリ)= 速秋津日子神(ハヤアキツヒコ)と速秋津比売神(ハヤアキツヒメ)のお二人の神様 天御中主命おられます。主に、天御中主命、罔象女、市杵島姫の三人の水の女神様が居られる事になり、中々直ぐには見分けが付かないでしょう。

これ以外にも 飯塚市有安247 に水祖神社が在ります。さて、ここからが最も重要なポイントです。

何故、この地に水祖神社が集中しているのでしょうか?百嶋神社考古学の立場からは、このミズハノメは大山祗の長女であり、大国主命、木花咲弥姫の姉に当る人物なのです。

 太宰府市から米の山峠を越え筑豊に入る古街道筋には多くの大山祗を祀る神社(大山祗神社、山神社…)が並んでおり、その延長上にこの神社群も存在していると考えるべきでしょう。

 また、甘木、朝倉、杷木の旧朝倉郡には60社の田神社が無格社に貶められその痕跡を留めています。

 実は、この一帯こそが本来の大国主命の領域でその地を彦山の高木大神+武甕槌=草部吉見=海幸彦= 東に向かった阿蘇氏(ヒコヤイミミは高木大神の次女のタクハタチヂヒメを妃とし事実上の入り婿となっている)が奪った(出雲国譲り)現場であり、その外延部には大山神社、大山祗神社、山神社…が分布しているのです。故)百嶋由一郎氏は鹿児島(一部宮崎)のタノカンサー=田神とは博多の櫛田神社の大幡主と大山祗のタッグ=擬神体と言われていました。

 こうして彦山を中心とする高木大神と阿蘇氏(草部吉見系)の領域と大山祗、大国主、ミズハノメ、山幸彦=ニギハヤヒ(恐らく大幡主の息子…)の領域が分けられ、大国主は山陰の出雲に追放されたのです。

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太宰府から飯塚(筑豊)へと抜ける九州王朝古代官道(米山峠)を睨む大山祗神社の延長に馬敷の大山祗神社(大山祗+コノハナノサクヤヒメ)が存在し、飯塚市平坦部の水祖神社(ミヅハノメ)に繋がる


442 トレッキングで訪れた馬敷の大山祗神社 “福岡県飯塚市馬敷”

スポット103 太宰府地名研究会4月期トレッキングで獲得した細やかな成果 で取り上げた飯塚市馬敷の大山祗神社をご紹介したいと思います。

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飯塚市馬敷の大山祗神社カーナビ検索 飯塚市馬敷…

現地は上馬敷公民館辺りですがかなり分かり辛い為地元の方に尋ねるしかありません

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→方向の山の中に入って行くのですが距離はさほどではありません


道が狭く舗装も完全ではなく傾斜もきつい為、2t車までは入りそうですが、普通車では、まあ、踏み込まれない方が無難でしょう。

結局、上馬敷の公民館辺りに車を止めて歩く方が良いのですが、山沿いの道を少し歩けば、突然、森の中に社殿が見えて来ます。

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大山祗神社参拝殿神殿


今回のトレッキングは、古代の筑紫と筑豊(太宰府と飯塚)を繋ぐ要路の米の山峠越えルートの途上に如何なる神社が並んでいるかを考えて頂く事でした。

勿論、大山祗神社が並んでいる事に気付いてトレッキングを組んだのですが、この奥まった山蔭にも大山祗神社が鎮座している事を見た参加者も驚いておられたようで、それなりの成果はあったようです。

森の中の神社はそれなりの神秘性を感じさせるものであり、それだけでもトレッキング参加者も満足されたようでしたが、まずは、石柱の桜の紋章と瓦の破片の桜の文様が大山祗の娘の木花咲耶姫を表す事を理解して貰えたようです。

この点、「福岡県神社誌」とも整合し問題はないようです。さて、大山祗神社が鎮座する「馬敷」ですが、実際には馬敷でも上馬敷にあり、隣には下馬敷があります。

この「馬敷」という地名が、熊本地震で全国的にも知られる事になった「益城」(熊本県上益城郡益城町)の置換え、民族移動による古地名の持ち込みによるものとの話は過去何度か行っています。

そして、その中間に存在するのが甘木(現朝倉市)であり、故)百嶋由一郎氏からは“甘木は、アマギと読んではいけません、甘シ木(ウマシキ)とお読みなさい”と聴いています。

宇摩志阿斯訶備比古遅(記) 可美葦牙彦舅尊(紀)…のウマシのはずなのですが、味師内宿禰(ウマシウチノスクネ)のウマシは「味」、「甘」で置き換えられるのです。

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この大山祗神社への参道の途中には別の麻敷神社があります。

無格社扱いなのか「福岡県神社誌」でも確認できません。

奥にある大山祗神社の元宮なのか不明ですが、同じく大山祗木花佐久屋姫を祀っているようです。

勿論、単なる地名の付合ではなく、神社、祭神、伝承…の対応を追求すべきなのですが、熊本はどころか、鹿児島+宮崎(古代日向国)に大山祗祭祀が色濃い広がりを見せている事は、神社に詳しい方ならば良くご存じの事と思います。

ちなみに、大山祗の墓と言われるものが宮崎県西都市の西都原第2古墳群にあり、大山祗を主神として祀る石貫神社(宮崎県西都市三宅4615−ロ)がその正面に鎮座しています。

娘の木花咲耶姫(コノハナノサクヤヒメ)を祀る神社が宮崎県西都市妻1に鎮座する都萬神社なのです。

当然にもこの一帯から北に向かって展開したのが、大山祗、木花咲耶姫祭祀であり、祭祀だけが独り歩きしたとは考え難く、当然、奉斎する民族、氏族も一緒に移動しているのです。

百嶋神社考古学では、宇摩志阿斯訶備比古遅と天御中主命との間に産れたのが大山祗であり、姉の越知姫であり、その大山祗と埴安姫との間に産れたのが神太市姫、大国主命、木花咲耶姫となるのです。

また、前述の石貫神社(宮崎県西都市三宅4615−ロ)の石貫の地名移動が熊本県玉名市の石貫であり、そこからそう遠くない和水町には、江田船山古墳が鎮座しているのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

798 筑豊にも大山祗を祀る三嶋神社が在った “福岡県飯塚市菰田東の三嶋神社”

798 筑豊にも大山祗を祀る三嶋神社が在った “福岡県飯塚市菰田東の三嶋神社”

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 飯塚市の市街地の一部と言える住宅街の一角に三嶋神社があります。

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三嶋神社と言えば愛媛県の大三島の大山祗神社が頭に浮かびますが、その最も西の一社が飯塚市にあるのです。

 古くは古代遠賀湖、遠賀湾といえる様なものが飯塚市周辺辺りまで延びており、潮汐限界と言った場所であり、二つの河川を堀とした非常に守り易い地域だった事は想像に難くありません。

 実は、筑後川北岸の現朝倉市(旧甘木、朝倉、杷木)の平野周辺部(山地)に分布する大山祗祭祀圏と太宰府から米の山峠を越え筑豊の中心部である飯塚市に入る(熊本市の南の益城の置換えである「馬敷」=実はウマシキの置換え文字の「甘木」も含め)ラインの頂点にこの菰田が位置しているのです。

 以下は愛媛県の西部の八幡浜一帯の三島(三嶋)神社の分布を示すために出したものですが、ご覧の通り濃厚な分布を見せています。

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立派な神社ですが、以下もネットから拾ったものですが、この神社が何故飯塚市に鎮座しているかは尚も不明です。

 ただ、西から注ぐ穂波川と筑豊の大河遠賀川が合流する場所だけに、三嶋神社の西の拠点としていた事だけは想像できるでしょう。

 と書いて、そう言えば筑後川の河口に三嶋神社が在った事を思い返しました。

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@  三島神社

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三嶋湟咋 古事記』での表記は三嶋湟咋、『日本書紀』では三島溝咋三島溝橛耳神(恐らくミヅハノメ:古川)と表記される。古事記では神や命(みこと)といった尊称はないが、国津神とされる。

陶津耳命(すえつみみ、加茂建角身命、八咫烏)と同一神とされる。これに従えば実際は天津神となる。

神武天皇が皇后を求めたところ、大久米命比売多多良伊須気余理比売をお勧めになり、この乙女は大物主神が三嶋湟咋の娘である勢夜陀多良比売との間に生まれた子とした。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』201910291923による


コノハナノサクヤはニニギと別れた後ヤタガラスの妃となり名を前玉姫と変えます…溝辺から関東へ

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同社縁起


三嶋神社は大分県臼杵市にも一社ありますが、その震源地は日向国の西都市にあるのです。

大山祗とその子、神大市姫(ミズハノメ)、大国主命、コノハナノサクヤ姫の三兄姉妹を祀る濃厚な祭祀圏が宮崎県に存在し、大国主命を島根県の旧出雲国などととぼけたお伽話を信じ込まされているのが我が列島(劣等)民族なのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 宮崎県西都市の西都原第2古墳群にはその中でもひときわ目立つ柄鏡型前方後円墳があり大山祗の墓と言われています。

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そして、その古墳のある丘陵を降ると正面に大山祗を祀るとする石貫神社があり、付近にはその娘とするコノハナノサクヤ姫(大国主命の妹)を祀る都萬神社(日向国二宮)があります。

 さらに言えば、日向市の南の都農町には都濃神社があり大国主命が主神とされているのです。

 では、何故、南九州に出雲の神様が一の宮として鎮座されているのでしょう。

 これこそが日本の神代史の最大の偽装であり、出雲を大和より古い(勿論そうなのですが)古代出雲王国などとはしゃぐ輩が日本の神代史の本質を見いだせず骨抜きにしているのです。

 この問題についてはこれまでにも多くの話を書いてきましたが、この大山祗の一族とは朝鮮半島の金武官伽耶に移動して来た王昭君の一族であるトルコ系匈奴(東西分裂後の南北分裂により産みだされた)の一派であり、火山灰土壌の稲作不適地であった日向に移動してきた騎馬を使う民族だったと考えられます。

 彼らは海上交通権を握った大幡主(博多の櫛田神社の主神)=カミムスビの神とタッグを組み列島の古代を席巻したのでした。

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この大山祗と大幡主=カミムスビの擬神体こそが日向に顕著な田神(タノカンサー)様であり、筑後川北岸の旧朝倉郡(甘木、朝倉、杷木)を中心に分布している60社の田神社(一社を除き全て無格社)と山地に展開する山神様=大山祗神社群なのです。

 この朝倉郡一帯の葦原中津国を奪われたのが真実の国譲りであり、それを要求したのが高良山から彦山に拠点を移した高木大神と阿蘇氏(ここでは草部吉見系=藤原氏の祖)の連合であり、結果大山祗系は伊予に、大幡主(カミムスビ)への入婿となった大国主は現出雲へ、大幡主系は讃岐から阿波、熊野へと配置換えが行われたようなのです。

 これについては、故)百嶋翁は細かい断片しか語っていません。その復元が我々の任務なのです。

 出雲神話に騙されておられる方が異常に多過ぎるのですが、現出雲は古代から博多を拠点に大幡主の一族が対馬海流に乗って領域を広げた言わば植民領域だったのです。

これを理解しなければ古代史はただの漫画になってしまいます。


百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データを必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記