796 諸塚村再訪 C(諸塚元宮) “諸塚山頂の神々の画像を貰いました”
20191115
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
宮崎県諸塚村の東の七つ山桂正八幡宮の大祭に参加したのは11月9日(土)でしたが、この祭に参加かできなかった熊本の女性メンバーが、全体で5名のパーティーで12〜13日に掛けて諸塚山山頂に登り山上でお祭りをしてきました。
来年三月にも40人を動員してお祭りをするとの計画も立てていますので勢いに留まるところがありません。

諸塚山(1,341.6m)画像はネットから切り取ったもの
今回はその下見でもあった様ですが、そのおかげで諸塚山山頂と諸塚元宮の画像が送られてきました。
そこで、再度、諸塚元宮について考えて見たいと思います。

山頂に十数基の円墳があると言われ、それが「諸塚(多くの塚=墳墓)」と言う山名の由来で、諸塚村のシンボルと言えます。別名大白山とも、山尾根に七つの峰があるため七ツ山とも言います。山上の諸塚神社の祭神は二十八柱と大変多く、しかも天孫降臨以前の天神七代の祖神十三柱も含まれます。このような高天原時代の神を全部祭ったお宮はほかに例がないそうです。
諸塚山について(諸塚村公式HP)による
何でも疑ってかかるのが私の習性ですから申し上げますが、山頂に十数基の円墳があると言われ、それが「諸塚(多くの塚=墳墓)」と言う山名の由来 には違和感以上のものを感じさせます。

諸手、両差し…とは両方、二つを意味するもので、だからこそ諸々、諸人と複数以上の事を意味する言葉が造られているのです。
このため、「諸塚」の意味をそのまま考えれば、二つの塚があるからorあったから、「諸塚山」と呼ばれ、村名にまでなったと考える価値はあると思います。
この場合の二神とはイザナギ+イザナミであって、確か諸塚神社とかその手前の立岩神社辺りに鎮座する天神社(道真を祀るとしますが、当然、イザナギ+イザナミとの間に産れたのがスサノウであり、道真にはスサノウの血を引くナガスネヒコ、オキツヨソタラシの血が注がれている)。
山尾根に七つの峰があるため七ツ山とも言います も、どうも七つの峯ではないという気がしています。
まず、どこからどこまでを数えるか…もありますが、それは置くとしても、諸塚神社祭神(27神)の筆頭神に天御中主命を祀っている事からすれば、それは妙見信仰(北辰=北極星信仰)であり、七つ山とは北斗七星としか考えようがないのです。
山上の諸塚神社の祭神は二十八柱と大変多くも、山頂の元宮(28神)に対して直下の諸塚神社(27神)の違いがどこにあるのかが気になります。
以下は直下の諸塚神社の祭神(27神)です。
天之御中主命、国常立命、国狭槌命、泥土煮命、沙土煮命、豊斟渟命、大戸道命、大戸辺命、面足命、惶根命、伊弉諾命、伊弉冉命、大山祇命、品陀和気命、少彦名命、大日孁貴命、建速素盞鳴命、大鷦鷯命、天太玉命、息長足姫命、事代主命、天明玉命、天神魂命、天饒速日命、天表春命、天下奉命、淀姫命(27神)
では、外されたのはどの神様でしょうか?諸塚元宮の縁起を見ても判然としません。
恐らく神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)ではないかと思います。つまり、終戦(敗戦)直後の進駐軍(占領軍)対策ではなかったかと考えています(諸塚山山頂の神武天皇巡行碑)。
そう考える根拠は、「諸塚神社(元宮)」が別名諸塚大白太子大明神と呼ばれているからであり、大白太子とは本物の初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)=お妃はアイラツヒメ (呉の太伯の後裔の意味であり「倭」は呉の太伯の末)以外には考えようがないからです。彼は呉の太伯の直系なのです。
「諸塚山縁起」がありますが、ここには諸塚山の別称「太伯山」(大白山)に関して記述があります。
「太伯山」…一説に日本の皇室の祖が、呉(中国の王朝名)の太伯であるとされ、諸塚山はその太伯を祀ったことから、その名がついたといわれています。
言うまでもなく、呉の太伯とは、中国周王朝の古公亶父の長男だった人で、皇位継承をめぐる混乱から次男と共に江南に逃れ、その血筋の良さから越人に担がれ呉の祖とされた人です。
后稷を始祖とし姓は周王朝宗家の姫(キ)姓とされます。姫氏は紀氏であり、諸塚山には呉の太伯が生前に住んでいて死後に葬られたという伝承もあるのです。
説明板にはこんなことが書いてある。
諸塚山縁起「由来」
諸塚山は諸冊二尊(イザナギノミコト・イザナミノミコト)の御神陵であるという古い言い伝えを残し、山頂付近には多くの塚があります。古くから英彦山系、阿蘇山系の修験場として知られるとともに近郊の人々から神の山として崇拝されてきました。
八合目の南面には諸冊二尊他の神々を祀る諸塚神社元宮があり、昔は山頂をはさんで東西に神前と呼ばれる遥拝所もありました。また一説には天孫降臨の地といわれ神武天皇とは深いつながりがあることから、昭和十五年に宮崎により神武天皇巡幸の地として諸塚神社の境内に顕彰碑が建てられています。
「名称」〜諸塚山にはいくつかの別称があります〜

諸塚山〜山頂付近に多くの塚があることから生まれたといわれています。文献によれば江戸時代の弘化二年(1845年)にはこう呼ばれていたようです。
大白山〜冬に山頂が雪でまっ白におおわれることから呼ばれたという説と、高千穂町の方から諸塚村の山頂付近に輝く宵の明星(金星)によるという説があります。
太伯山〜一説に日本の皇室の祖が呉(中国)の太伯であるとされ諸塚山はその太伯を祀ったことからその名がついたといわれています。
諸羽の山〜諸塚の神楽歌にこの名が見られます。「剣立つ諸羽の山にわけ登る あじろが浜に立つは白波」
諸塚村・諸塚村観光協会
山頂の社のようですが猿越山神社なる奇妙な名の社の写真が送られてきました。
猿越山は石槌山に近い高知県の山ですが、有名な石槌神社と関係があると考えて良いでしょう。
石鎚大神は、伊邪那岐命と伊邪那美命の第二子で、天照皇大神の兄に当たるとされているのですが、それならばスサノウの弟かなにかになるはずです。
しかし、社の下の紋章を見ると大三島の大山祗を思わせます。
もしかしたらそうなのかも知れません。
これは今後の課題ですが、そもそも石鎚大神自体が謎なのです。今のところ金山彦の後裔と解釈していますが、それで良いかは不明です。
ますます、諸塚元宮の存在が際立ってきました。