2021年02月15日

796 諸塚村再訪 C(諸塚元宮) “諸塚山頂の神々の画像を貰いました”

796 諸塚村再訪 C(諸塚元宮) “諸塚山頂の神々の画像を貰いました”

20191115

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 宮崎県諸塚村の東の七つ山桂正八幡宮の大祭に参加したのは119日(土)でしたが、この祭に参加かできなかった熊本の女性メンバーが、全体で5名のパーティーで1213日に掛けて諸塚山山頂に登り山上でお祭りをしてきました。

 来年三月にも40人を動員してお祭りをするとの計画も立てていますので勢いに留まるところがありません。

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諸塚山(1,341.6m)画像はネットから切り取ったもの


 今回はその下見でもあった様ですが、そのおかげで諸塚山山頂と諸塚元宮の画像が送られてきました。

 そこで、再度、諸塚元宮について考えて見たいと思います。

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山頂に十数基の円墳があると言われ、それが「諸塚(多くの塚=墳墓)」と言う山名の由来で、諸塚村のシンボルと言えます。別名大白山とも、山尾根に七つの峰があるため七ツ山とも言います。山上の諸塚神社の祭神は二十八柱と大変多く、しかも天孫降臨以前の天神七代の祖神十三柱も含まれます。このような高天原時代の神を全部祭ったお宮はほかに例がないそうです。

諸塚山について(諸塚村公式HPによる


何でも疑ってかかるのが私の習性ですから申し上げますが、山頂に十数基の円墳があると言われ、それが「諸塚(多くの塚=墳墓)」と言う山名の由来 には違和感以上のものを感じさせます。

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諸手、両差し…とは両方、二つを意味するもので、だからこそ諸々、諸人と複数以上の事を意味する言葉が造られているのです。

このため、「諸塚」の意味をそのまま考えれば、二つの塚があるからorあったから、「諸塚山」と呼ばれ、村名にまでなったと考える価値はあると思います。

この場合の二神とはイザナギ+イザナミであって、確か諸塚神社とかその手前の立岩神社辺りに鎮座する天神社(道真を祀るとしますが、当然、イザナギ+イザナミとの間に産れたのがスサノウであり、道真にはスサノウの血を引くナガスネヒコ、オキツヨソタラシの血が注がれている)。

山尾根に七つの峰があるため七ツ山とも言います も、どうも七つの峯ではないという気がしています。

 まず、どこからどこまでを数えるか…もありますが、それは置くとしても、諸塚神社祭神(27神)の筆頭神に天御中主命を祀っている事からすれば、それは妙見信仰(北辰=北極星信仰)であり、七つ山とは北斗七星としか考えようがないのです。

山上の諸塚神社の祭神は二十八柱と大変多くも、山頂の元宮(28神)に対して直下の諸塚神社(27神)の違いがどこにあるのかが気になります。

 以下は直下の諸塚神社の祭神(27神)です。

天之御中主命、国常立命、国狭槌命、泥土煮命、沙土煮命、豊斟渟命、大戸道命、大戸辺命、面足命、惶根命、伊弉諾命、伊弉冉命、大山祇命、品陀和気命、少彦名命、大日孁貴命、建速素盞鳴命、大鷦鷯命、天太玉命、息長足姫命、事代主命、天明玉命、天神魂命、天饒速日命、天表春命、天下奉命、淀姫命(27神)

 では、外されたのはどの神様でしょうか?諸塚元宮の縁起を見ても判然としません。

 恐らく神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)ではないかと思います。つまり、終戦(敗戦)直後の進駐軍(占領軍)対策ではなかったかと考えています(諸塚山山頂の神武天皇巡行碑)。

 そう考える根拠は、「諸塚神社(元宮)」が別名諸塚大白太子大明神と呼ばれているからであり、大白太子とは本物の初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)=お妃はアイラツヒメ (呉の太伯の後裔の意味であり「倭」は呉の太伯の末)以外には考えようがないからです。彼は呉の太伯の直系なのです。


「諸塚山縁起」がありますが、ここには諸塚山の別称「太伯山」(大白山)に関して記述があります。


「太伯山」…一説に日本の皇室の祖が、呉(中国の王朝名)の太伯であるとされ、諸塚山はその太伯を祀ったことから、その名がついたといわれています。


言うまでもなく、呉の太伯とは、中国周王朝の古公亶父の長男だった人で、皇位継承をめぐる混乱から次男と共に江南に逃れ、その血筋の良さから越人に担がれ呉の祖とされた人です。

后稷を始祖とし姓は周王朝宗家の姫(キ)姓とされます。姫氏は紀氏であり、諸塚山には呉の太伯が生前に住んでいて死後に葬られたという伝承もあるのです。


説明板にはこんなことが書いてある。

諸塚山縁起「由来」

諸塚山は諸冊二尊(イザナギノミコト・イザナミノミコト)の御神陵であるという古い言い伝えを残し、山頂付近には多くの塚があります。古くから英彦山系、阿蘇山系の修験場として知られるとともに近郊の人々から神の山として崇拝されてきました。

八合目の南面には諸冊二尊他の神々を祀る諸塚神社元宮があり、昔は山頂をはさんで東西に神前と呼ばれる遥拝所もありました。また一説には天孫降臨の地といわれ神武天皇とは深いつながりがあることから、昭和十五年に宮崎により神武天皇巡幸の地として諸塚神社の境内に顕彰碑が建てられています。

「名称」〜諸塚山にはいくつかの別称があります〜

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諸塚山〜山頂付近に多くの塚があることから生まれたといわれています。文献によれば江戸時代の弘化二年(1845)にはこう呼ばれていたようです。

大白山〜冬に山頂が雪でまっ白におおわれることから呼ばれたという説と、高千穂町の方から諸塚村の山頂付近に輝く宵の明星(金星)によるという説があります。

太伯山〜一説に日本の皇室の祖が呉(中国)の太伯であるとされ諸塚山はその太伯を祀ったことからその名がついたといわれています。

諸羽の山〜諸塚の神楽歌にこの名が見られます。「剣立つ諸羽の山にわけ登る あじろが浜に立つは白波」

諸塚村・諸塚村観光協会

九州の山と沢 No2


無題.png山頂の社のようですが猿越山神社なる奇妙な名の社の写真が送られてきました。

 猿越山は石槌山に近い高知県の山ですが、有名な石槌神社と関係があると考えて良いでしょう。

石鎚大神は、伊邪那岐命と伊邪那美命の第二子で、天照皇大神の兄に当たるとされているのですが、それならばスサノウの弟かなにかになるはずです。

 しかし、社の下の紋章を見ると大三島の大山祗を思わせます。

もしかしたらそうなのかも知れません。

 これは今後の課題ですが、そもそも石鎚大神自体が謎なのです。今のところ金山彦の後裔と解釈していますが、それで良いかは不明です。

 ますます、諸塚元宮の存在が際立ってきました。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

ビアヘロ174 丁巳歴史塾との合同神社トレッキング資料を公開します @ 厳島神社(飯塚市)

ビアヘロ174 丁巳歴史塾との合同神社トレッキング資料を公開します @ 厳島神社(飯塚市)

20201101

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


北九州の丁巳歴史塾との“武漢肺炎ウイルス退散神社トレッキング”に向けて “飯塚市水祖神社”外


既に何度も廻っている飯塚市ですが、漸く神社トレッキングを本格的に行える条件が整ってきたようです。これまでトレッキング資料については未公開としていましたが広く参加を集うことから公開する事としました。既に太宰府地名研究会で数回トレッキングを行なっています。

一部重複しますが、北九州中心の丁巳歴史塾とのトレッキング”に際して飯塚では最も重要な厳島神社とナガスネヒコが居たと考える高宮八幡神社を巡り“飯塚市水祖神社”を加える事にしました。


 トレッキング順路 


@ 厳島神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市鹿毛馬1088

A 高宮八幡宮  カーナビ検索 福岡県飯塚市伊岐須886-2

B 水祖神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市庄司338-10

住所不明のため入口の庄司簡易郵便局の住所

C 水祖神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市川津608-1 

                住所不明のため隣のグランドベルズ飯塚の住所

 D 水祖神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市川津455

                 住所不明のため隣の阿弥陀寺(真言宗)の住所福岡県飯塚市川津467



@ 厳島神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市鹿毛馬1088

   

無題.png百嶋由一郎先生から“飯塚市鹿毛馬の某神社が白川伯王の流れを汲む本家であり、厳島神社の元宮、白川伯王家の源流の一族の神社である”と聞かされていました。正面の鹿毛馬(カケノマ)神籠石については、過去何度か訪れていましたが、神籠石の踏査などをやると大抵はくたびれ目の前の神社でさえ見に行きません。今回はこの崇高な神社をご案内致します。飯塚市の中心部から20分もあれば行ける神社(百嶋先生は最後まで公表されませんでしたので)に向かう事にしました。

以前も触れた事がありますが、「白家神道」など聴いた事もないという方のためにも、学者の権威を無視するためにも、敢えて彼らが無視するウィキペディア(20150417 2030から紹介させて頂きます。


白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の皇孫の延信王清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家である。皇室祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元白川家(しらかわけ)は花山源氏を出自とする堂上家である。花山天皇の皇孫の延信王(のぶざねおう)が源姓を賜り臣籍降下して神祇官長官である神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を世襲するようになったために「伯家」とも、また、神祇伯に就任してからは王氏に復するのが慣例であったことから「白川王家」とも呼ばれた。

白川伯王家の成立

白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、神祇伯就任とともに「」を名乗られたことである。「王」の身位天皇との血縁関係で決まり、本来は官職に付随する性質のものではない。非皇族でありながら、王号の世襲を行えたのは白川家にのみ見られる特異な現象である。以下、このことに留意しつつ白川家の成立について説明する。…中略…

吉田家との地位逆転

室町時代になると、代々神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた卜部氏吉田兼倶吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して吉田家が全国の神社の大部分を支配するようになり、白川家の権威は衰退した。江戸時代に白川家は伯家神道を称して吉田家に対抗するも、寺社法度の制定以降は吉田家の優位が続いた。

家格は半家、代々の当主は近衛中将を経て神祇伯になった。江戸時代の家禄は200石。他に神祇領・神事料100石。

王号返上と家系断絶

明治時代になると王号を返上し、白川家の当主の資訓子爵に叙せられた。資訓の後を継いだ資長には実子がなく、伯爵上野正雄北白川宮能久親王庶子)の男子の久雄養子に迎えたが、後にこの養子縁組は解消となり、白川家は断絶となる。


白川伯王が何かついては、既にひぼろぎ逍遥 159 秦の始皇帝と市杵島姫、173博多の櫛田神社の祭神とは何か? で説明していますので詳しい説明は省きます。

 ただ、簡略化して言えば、秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦の一族が、始皇帝の姓である「臝」を許され「瀛」(イン)を名乗り、その一族と強固な姻戚関係で結ばれた白族(白川伯王→博多櫛田神社の主祭神大幡主→豊玉彦=豊玉主=ヤタガラス)を含め強固な「瀛一族」が形成されたのです。

 この「瀛」という姓を名乗ることが許された神代の有名な人物に、宗像三女神の一人である市杵島姫=津島姫があるのですが、古代の社格について言えば、本当は宗像大社よりも上位の神社だったのです。

 その証拠に、九州王朝の巨大山城である鹿毛馬神籠石の正面に鎮座しているではないですか。

 ともあれ、社殿をご紹介致しましょう。

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無題.png神社縁起はご覧の通り宗像同様の配神(三女神)ですが、むしろ、宗像大社が、この厳島神社と同様だと表現する方が正しいはずなのです。ただ、これだけではこの神社の重要性は言い尽せない様に思います。

なお、牧野神社についても、もしかしたら百済の目支(マキ)国を意味しているかも知れません。

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筑前国総鎮守-櫛田神社

博多祇園山笠で有名な櫛田神社の神紋は上の通りです。勿論、祇園山笠の祇園は右の五花無題.png木瓜紋ですが、主祭神で ある大幡主は六角形の三盛り亀甲に五三桐をシンボルとしています。 ここで、鹿毛馬の厳島神社神紋を見て頂きましょう。 千木は女神である事を表していますが、三盛亀甲(これは剣付き唐花) これだけでもこの厳島神社が大幡主の傘下にあったことが分かります。宗像も確認しましょう。

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楢紋は、宗像大社の神紋。大社の御神木である楢の木から。
 『神社名鑑』には、梶紋とあるが、電話で確認したら楢であるとのこと。 
「玄松子の記憶」より

これだけでは何とも…と言われる方は多いでしょう。その向きには次の写真をご覧いただきましょう。


無題.png厳島神社の宮司家が「白土」を姓としている事が分かります、しかし、何故か土に「、」点が付いています



この厳島神社にも数軒の白土さんがおられる事が境内の氏子の名を見ても分かります。点のある白土さん、点の無い白土さんがおられるのですが、宮司家は明らかに点付きの「白土」様です。

 無論、点付きの「土」という文字はない訳で、普通ならこの理由は全く分からないはずです。

 しかし、百嶋先生は十分お分かりだったようで、明治期に当時の神祇官→神祇庁が同社に押し掛け、千年以上続いた「白王」姓をけしからんとして変名を迫った結果であるとされていました。


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結果、白川伯王の「王」の横一棒を抜いた「土」へと変更したという歴史を留めるために痕跡としての「、」を残されたのです。 川伯→白(土+)へと。 ※「、」は、栄えある王の横一文字を削らされた印ですね。

この「点」についての謂れを、ちょうど境内の掃除をされていた宮司(90歳)の息子さんにお尋ねしたところ、“五代前の宮司からそのように聴いています”とのお答えを頂きました。

白川伯王家の本流、源流であり御本家であるという意味がお分かり頂けたと思います。


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白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ