2021年02月12日

795 諸塚村再訪 B (桂神社) “宮崎県諸塚村の桂神社とは一体何か?”

795 諸塚村再訪 B (桂神社) “宮崎県諸塚村の桂神社とは一体何か?”

20191112

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 本稿は ひぼろぎ逍遥 793諸塚村再訪(七つ山)“宮崎県諸塚村の二つの七ツ山と二つの桂正八幡神社”の続編です。

 諸塚村にはどうも七ツ山地名が二つも三つ?もあり、二つの桂正八幡神社があるのです。

 地理院地図では判然としませんが、柳原川沿いの東の七つ山の下手には上長川(カミナゴウ)があり、立岩(地理院地図では立岩)には立岩神社や太白諸塚神社が(ここでも昭文社の地図=県別マップル宮崎県2006では大平諸塚神社と誤記しています)あるのです。さらに上長川から東に県道209号上長川日之影線を辿ると桂地区があり、諸塚村桂山の北里伯耆守の墓所があるのです。

 今回はこの東の桂正八幡神社の話になります。

 地理院地図ではこの地区の南にある山も七ツ山と呼ばれているようで、諸塚神社のある七ツ山と併せ、2〜3ケ所の七ツ山地名があるのです。

 地名の七ツ山、山名の七ツ山、集落名の七ツ山…と混乱してしまいますが、これらの連続性のない七ツ山が飛び地になっているのでも集落の名称でもなく一つの大字七ツ山が山の東西に存在するから良く分からなくなっているのです。

つまり、普通は山や谷を境に別の地名が付されますが、そうでないと言う事はそれだけ同族意識が強かったのでしょう。

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桂神社 カーナビ検索 宮崎県東臼杵郡諸塚村七ツ山2039-2040 0982-65-4235


 一方、西の七ツ山川沿いの大白尾(ダイジロオ)から東に登ったところにあるのが浄覚寺に近い桂神社が在る七ツ山です。

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今回はこの大白尾(ダイジロオ)の西の桂神社から話を始めます。

 今般、熊本の女性メンバーが諸塚山に登り祈りを捧げるので一緒に来て欲しいと言われました。理由は、前々日まで60人規模のイベントを行うので、多分疲れて運転などできないと思うから…という意味でした。

 私自身も久しぶりに諸塚に入りたいとは思っていた事から、渡りに船とばかりに話に乗ったのですが、先行して、東の桂正八幡神社のお祭りと神楽にも行きたいと言う東京の女性と大阪の男性が阿蘇も見たいので私に案内して貰えないか…との話が加わり、数日前に阿蘇の八坂神社、熊野座神社(色見+上色見)国造神社、草部吉見神社、加えて宮崎県五ヶ瀬町鞍岡の祇園神社…を案内する羽目になってしまいました。  

しかも、彼ら一行は諸塚まで行くのです。すると、“諸塚まで二度も入る事になる事からあまりにも効率が悪い“と熊本のメンバーと相談すると、運転してくれる女性が見つかり一緒に諸塚山に登ることにしたからドライバーの件は必要ないとのことで、そのまま、東京、大阪のお二人(実際にはさらに二人が加わり四人まで増えたのですが)と諸塚に向かう事になったのでした。

 とにかく大変な山奥である上に、ドライバーも車も増えた事から私は単独で諸塚に入る事にして、十年ぶりに諸塚への単独行が始まったのでした。

 ただ、始め星祭の話を聴いた事から、天台修験だかの星祭の可能性を考えてしまい、てっきり西の桂正八幡神社の事だと思い込んでしまったのでした。

本来、星祭とは仏教の世界の事で正直面食らった上に、真言、天台のいずれもあると思うのですが「星供養」を何故宮司さんが…と思いました。

地図を見ると、神宮寺の趣のある付近の浄覚寺と関係がありそうです。ただ、寺名が浄覚寺となると、浄土真宗三世の覚如(親鸞は教団を創らなかったものの覚如が本願寺教団を創ります)が頭を過ります。 

本欄、親鸞は真密、台密を問わず星祭などを嫌ったはずなので不思議ですが、あまり不正確な情報での浅酌は止めておきましょう。

いずれにせよ、西の桂神社の北東には星の久保山があり、北辰(妙見)信仰とも重なるのです。

とばかりに早合点してしまったことが大きな間違いに発展してしまったのでした。

結果、西の桂神社に直行できる宮崎県五ヶ瀬町から飯干峠越えの国道503号線を選び、なんとか夕方4時半頃には境内まで上がったのですが、明日お祭りが行われると言う雰囲気ではなく、おかしいと思って、同行で別の車に乗っている日向の女性に宮司の奥さんの携帯を教えてもらうと、なんと東の桂神社の事だと言うのです。


諸塚の西の桂神社とは


古くからの伝承によれば、御祭神は関東葛(かつらぎ)の国より御降臨と言うも、詳細は不詳であるが、桂村の起源と深い関わりがあると考えられる。広く近郷の人々の信仰を集め、例祭は十一月十五日で今日まで変わることなく、僅か五世帯の氏子により、桂神楽と共に続け伝えられている。古くは「八幡宮」と称し、明治四年辛未現称に改め翌五年村社に列せられた。『高千穂神社仏閣記』によると「十一月五日祓斗リ関本ヨリ御光臨ノ神トイフ」とある。
 明治四十二年五月、地方庁の許可を受けて、小原井神社、年神社を合祀し、更に同十月天神社を合祀した。


品陀和気命(ほんだわけのみこと)       応神

息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)   神功皇后

大鷦鷯命(おおさざきのみこと)       仁徳天皇

天津粂命(あまつくめのみこと)       久米の皇子?

菅原道真公(すがわらみちざねこう)     天満宮


宮巡 〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜 運営:宮崎県神道青年会


同社(西の桂神社)の祭神はとりあえず由緒及び沿革の通りと従います。

思い込みとはとんでもない結果をもたらすもので、陽も陰って来ており、林道による山越えも不案内で、一旦、諸塚村の中心部まで降り、東の桂神社を目指したのですが、これまた一般道は諸塚ダムの手前で崖崩れが起こり通行止め、迂回路に入るも行き止まりで何とか引き換えし、再度、宮司夫人にお電話すると、全線二車線のスーパー林道を17キロ走って県道209号線を5キロ下れば桂集落に着くとの事、相当に無駄な迂回を行ないようやく6時を回った頃に到着したのでした。

既に夕闇の帳が降り辺りは暗くなっていました。ともあれなんとか無事に辿り着けたのでした。深謝。

ここからはお祭りが行われる東の桂神社の話になります。

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東の桂正八幡神社


さて、ここでは、北里伯耆守為義の墓所の話に触れない訳には行きません。


北里伯耆守為義の墓所

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 それは、肥後小国郷(現熊本県小国町)の北里氏と、宮崎県諸塚村桂山という凄まじい山奥のほぼ山の頂で稲作をして焼畑もして自給自足で生きてきた小さな落人の集落の間で交わされた記録と記憶の話。

まずは記憶の話です。時系列で。

1513年(永正10年)、阿蘇惟長(兄)が阿蘇惟豊(弟)から阿蘇宮の大宮司職を奪い返そうとして争いが起こる。

 惟長は薩摩の島津の力を借りる。惟豊は日向の甲斐氏を頼る。しかし、惟豊の軍は島津にやられて四散し壊滅する。

 惟豊の部下で阿蘇小国郷の領主北里伯耆守為義は日向の高千穂に逃れ、さらに山を越えた南の諸塚の桂山で自決して果てた。

 そこで家来の一人が伯耆守の遺骨を葬り、墓石をたて、墓守として住み着いた。それが今もつづいている桂山の甲斐氏となる。

 伯耆守の死から450年の間に家は5軒となり、桂山の甲斐氏の本家は諸塚神社の宮司をしている。宮司の家だけはいっさい百姓をせず、肥料を手にせず、墓を守り続けてきた。

この桂山の甲斐氏には、みずからの一族が北里伯耆守の家来の子孫であり、墓守をして現在に至るという伝承があります。でも、それを記録する文書はありません。

次に、記録の話です。

 小国郷の北里氏は、阿蘇兄弟の永正の合戦の後に立ち直り、明治の世まで小国郷を支配する。ちなみにこの北里氏は日本の近代医学の父とも呼ばれる北里柴三郎の一族です。

 この家の古文書のひとつ「北里軍記」には伯耆守戦死の一条がある。系図にも「墓地高千穂七ツ山桂村ニ在馬見ヨリ七里ヲ隔ツ」とある。

だが、北里の家の者が桂山を訪ねて墓参したことは昭和32年まで、ほぼなかった。そもそも記録文書を見ることがほぼなかった。この「ほぼ」という言葉に、「記録」と「記憶」の間に横たわる深い谷があるというわけです。

 さあ、日向の山中の桂山の甲斐氏一族の記憶と、肥後の小国の北里氏一族の記録を突き合わせてみましょうか。

昭和32年、450年の時を経て、北里家の当主が初めて桂山へと北里為義の墓参に訪れます。当主は「北里軍記」に書かれていることの真偽を確かめようと思ったのですね。

 甲斐氏は北里家の当主の訪問に、ついに殿様の子孫が訪ねてきたと大喜びする。そのとき、甲斐氏のほうから、80年余り前に、小国の北里の者だと名乗るおばあさんが訪ねてきて一週間ほど滞在したという記憶を語るのです。このおばあさんは肥後の小国の北里の家では蚕を飼っていると語り、家の者たちにも必ず墓参させると言って帰っていったのですが、それきり音信は途絶えてしまった

 その話を聞いた北里家側で戸籍を調べてみれば、一族のうち七十歳を過ぎて行方不明になった女性がひとりいる。

その女性が行方不明になった頃、北里家では確かに養蚕をしていた。その女性は不運にも、日向の桂山から肥後の小国への帰途に遭難したのか病に倒れたのか。険しい峠を越え、阿蘇を越えてゆく、山また山のその道は、年老いた女性の足ではおそらく片道で少なくとも3日はかかりましょう。

 口承で伝えられてきた日向の桂山の甲斐氏の記憶は、北里家の記録と見事に符合した。それは北里家では思い出されることもなかった記憶でした。しかも、甲斐氏は、桂山で北里為義の墓守となったその経緯も語り伝え、それは北里の家では文書に閉じ込めてすっかり忘れ去られたことだったのでした。


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桂正八幡神社

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桂正八幡神社 本社は弓矢八幡神社とも称し応神天皇(品陀和気命・誉田別尊)を御祭神とする氏神様です。現在は大分県の宇佐神宮が八幡神社の総本社とされる。

 当社はその昔関東かつらぎの国より勧請したとの言い伝えがあり、「いくさ」の神として広く近郷の住民から信仰を集めていました。近世では戦時中に出征兵士の家族など多くの参詣があった。


桂神楽 

 桂神楽の起源については明らかではありませんが、桂村の始まり、特に桂正八幡神社との深い関わりがあるものと考えられます。桂正八幡神社は南北朝時代(1336〜1392年)に、関東かつらぎの国より勧請したと伝えられています。

桂神楽は俗に「かつらぼうり」とよばれて、高千穂の荘と呼ばれた現在の西臼杵や、東臼杵郡の諸塚村や椎葉村、熊本県の蘇陽町等広い地域で伝承されていたと伝えられております。

 大神楽(おおかぐら)は、宮遷宮や大願成就といった時に奉納される夜神楽で、普段は諸塚神社や矢村稲荷神社の例祭などで神楽三番の昼神楽が奉納されています。また、桂正八幡神社の例祭では神楽三番と願成就神楽、旧暦初午祭には稲荷神楽が奉納されています。

 もとは桂村の氏子を中心に伝承されてきた神楽も、保存伝承には大変な苦労があり、戦時中はほしゃこの中堅が応召、戦死するなど消滅寸前の時期もありましたが、現在では伊友、与狩内、上長川、矢村地区よりほしゃこが集い地区あげての保存活動により伝承され、平成元年1月に村指定の文化財、平成311月には県の無形文化財となりました。


このHPは東の桂正八幡神社で運営されているものです


 桂神社と理解していましたが、実際に調べると正八幡宮でした。

ただ、桂正八幡神社という名称も違和感を消せません。桂は葛城一族を暗示しており(実際に谷違いの諸塚神社の上手には「葛」地名があります)、直接的には宇佐の八幡宮とは結びつかないのです。

 この点が実に重要で、平安末期など宇佐八幡宮が専横を振るった時代があり、地域としては仕方がなくホンダワケを受入れてはいるものの、それは後からの話であって、本来、自分たちが祀るのは、別の神様だったのですよ…と主張しているかの様です。

合祀した天神社(恐らくスサノウを祀る)や年神社:当然にも阿蘇草部吉見=ヒコヤイミミを祀る、小原井神社:木花開耶姫命、大己貴尊、少彦名尊を祀る の外にも、この一帯には金山彦を祀る飯干神社など、元々応神天皇を祀る祭祀など片鱗もなかったはずなのです。

 この正八幡宮についてはこれまで何度か取り上げていますが、表面的には、宇佐八幡宮に象徴される応神を表に上げた八幡宮とは本物の八幡宮ではなく、大幡主(博多の櫛田神社の主神)を奉斎するのが、正八幡宮であって、九州で言えば、筑後、豊前などを中心に相当数存在しています。

 この大幡主はあまり知られておらず分かり難いと思いますが、簡略化して言えば、造化三神の神産巣日神=神皇産霊尊=神魂命とするものであり、その大幡主の伯母が天御中主命=妙見神=北辰…となるのです。

 10年前に桂神社を踏んだ時には気に留めていなかったため良く参拝させて頂いていませんでしたので、境内摂社などに何らかの痕跡が見いだされたらと考えています。

 桂神社が何故「桂」と呼ばれているのかも、実は正八幡宮であったと分かった時点でこの神社の性格が粗方納得できました。

申し上げたように、この神社には北里伯耆守為義の墓所を探して足を踏み入れたのですが、丁度秋のお祭りが行われていた時で、境内には多くの氏子の方が集まっておられました。

 七つ山違いとして一人の方が230分も複雑な林道を案内して頂き無事に辿り着いた思い出がよみがえってきました。当時は奉納もしておりませんでしたので今回は正しく参拝させて頂くつもりです。


立岩神社、諸塚神社再訪


また、お祭りは朝10時から行われますので、再訪ですが、立岩神社と諸塚神社をお参りに行きました。

一方、1400メートルもの高峰諸塚山山頂には諸塚元宮があります。


諸塚神社は、諸塚山上の南急斜面に古くから社があり、奉られていましたが、明治13年に諸塚村立岩に移転しています。

旧神社跡には、関係各方面の浄財によって平成6年に元宮として再建されています。

 そこには、昭和15年に宮崎県が建立した「神武天皇御遊幸伝説地」の石碑があります。

諸塚村教育委員会HP


諸塚山縁起

諸塚山は、諸冊二尊(イザナギノミコト・イザナミノミコト)の御神稜であるという古い言い伝えを残し、山頂付近には多くの塚があります。 古くから英彦山・阿蘇山系の修験場といて知られるとともに、近郷の人々から神の山として崇拝されてきました。八合目の南面には諸冊二尊他神々を祀る諸塚神社元宮があり、昔は山頂をはさんで東西に神前と呼ばれる遥拝所もありました。 また一説には、天孫降臨の地といわれ、神武天皇とは深いつながりがあることから、昭和15年に宮崎県により神武天皇ご巡幸の地として、諸塚神社の境内に顕彰碑が建てられています。

諸塚山(大伯山)

諸塚山は、昔は大伯山ともいわれ、神楽唄には「剣立つ諸羽山に分け登り、あじろの浜に立つは白波」と唄われており、諸羽の山とも言われていました。山頂は多くの神々の塚があるので、自然に諸塚となり諸塚山となったようである。この山は、英彦山、霧島の高千穂の峰と共に有名な修験道場であり、周辺の住民の信仰厚く、天孫降臨の地といわれていた。山頂にはイザナギノミコト・イザナミノミコト、国常立命、木花開都姫命、大伯太子を祀ってあり、以前は、筑前の山伏英彦坊も修行に訪れていたようである。 現在山頂付近は、国有林になっており、ブナ・モミ・ナラ等の巨木が茂っている。 登山道があちこちから付けられているが、ここからは稜線沿いのブナ・アケボノツツジ等の群落の中を通り、役1時間で山頂に着ける。 みんなの自然です。手で取らず、写真で撮りましょう。

<諸塚村 諸塚村観光協会>

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先行ブログでも触れましたが、諸塚神社の由緒には天御中主命を筆頭に27神が祀られているとします。

 また、諸塚山山頂の諸塚元宮縁起には諸塚元宮には諸塚大白太子大明神、又は諸塚大白山大司大明神社が祀られていると称したと伝える。ただ、太白山、大白山という山名や天之御中主命を祀るとする立岩神社があり、太白太子大明神とはどうみても初代神武を祀るように思えてなりません。

昭和15年に宮崎県により神武天皇ご巡幸の地(神武巡行伝承であり東征説話とは別)として、諸塚神社の境内に顕彰碑が建てられているにも拘らず、諸塚神社の27祭神には初代神武天皇は祀られてはいないのです。このため初代神武に思える太白太子大明神は祭神として外されている(敗戦直後の占領軍対策)様にも思えるのです。


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

ビアヘロ173 鰐神社再訪 “佐賀県神埼市志波屋の二つの鰐神社”

ビアヘロ173 鰐神社再訪 “佐賀県神埼市志波屋の二つの鰐神社”

20201022

太宰府地名研究会 古川 清久


佐賀県神埼市というよりも吉野ケ里遺跡の北の山際の一角に志波屋と呼ばれる地区があり、二つの鰐神社(王仁神社)があり、少し下った場所に在る王仁神社の方には中国からのインバウンド狙いもしくは中国への肖りとしか思えない王仁氏来訪を伝承する施設まで造られているのです。

 勿論、以前から関心を持っていたのは県道脇に鎮座する方の寂れ草臥れた装いの鰐大明神の方である事は言うまでもありません。

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この神社の祭神が何なのか、この神社を創った(恐らく鰐氏を招請した)人々が誰であるかの話に入る前に、少し視野を拡げて考察して見ましょう。

 まず、「志波屋」という変わった地名です。3文字であることから「好字令」以前の地名である事は在る程度推定ができます。

当然にも「志波」が地名固有名詞の語幹であることは論を待たないでしょう。

恐らくこの「志波」という地名を付した集団こそが王仁博士を招聘した氏族であり、渡海能力のある(操船技術と渡洋航海が可能な船を準備できた)人々だったはずなのです。

直ぐに分かるのは近くの熊野宮であり、吉野ケ里遺跡の付近にも熊野神社が数社拾えることから熊野神社系統の氏族つまり博多の櫛田神社の大幡主系の人々だった事は一目です。

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確かに関係があるのです。

 この朝倉市に合併編入となった旧杷木町(大分自動車道杷木IC)には古くは杷木よりも勢力があった志波地区があり、これが神埼市の志波屋の移動ではないかと考えて来ました。

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仮想 神埼市志波屋 → 朝倉市志波 → …… 宮城県塩釜市 志波彦神社 鹽竈神社


 お考えください、「朝倉」地名は全国に30ケ所は拾え、戦国武将の朝倉義景のご先祖は室町期の大守護大名斯波氏の臣下だったのです。

このことについては、以前にも取り上げています。詳しくはこちらをお読み頂くとして、話を先に進めます。


 ひぼろぎ逍遥新ひぼろぎ逍遥

666

陸奥の志波彦神社 鹽竈神社 とは福岡県朝倉市志波から進出した

豊玉彦系氏族が奉斎する神社(下)

665

陸奥の志波彦神社 鹽竈神社 とは福岡県朝倉市志波から進出した

豊玉彦系氏族が奉斎する神社(上)

317

列島の「朝倉」地名コレクション  “狗那国拡散の痕跡地名か?“

146

「朝来」地名について B “朝倉氏と小佐氏”

145

「朝来」地名について A “但馬、朝倉、養父、志波” 

144

「朝来」地名について @  “兵庫県朝来市の朝来山から”


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

685

宮原さんに曳かれて天満宮へ “朝倉市古賀の天満宮は天満宮なのか?”

684

宮原さんに曳かれて朝暗神社へ “朝倉市須川の朝暗神社の基層には

誰が祀られているのか?”

633

鰐大明神が鎮座する佐賀県神埼市志波屋とは




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王仁神社参拝殿正面 この立派な方の鰐神社の正面には鳥が置かれ剣唐花紋が打たれていました


 この神紋は鴨玉依姫が使っていたもので、後には応神に渡されたもののようです。

これには草部吉見系氏族=後の藤原が関係していると見るべきでしょう。

既に以前の参拝の時からも、この王仁博士を招聘した氏族の見当は粗方付いていました。

それは、前述の通り熊野宮との関係からの推定でした。

立派な設えの鰐神社の由緒には以下の様にも書かれています。


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 王仁神社の背景に熊野神社があり、ある時代天満宮ともされていた事を考えると、参拝殿の屋根に鳥が置かれている意味も多少は伺えます。

 皆さんも天満宮、八幡宮などに鳥(鳩)文字を設えた神額を見たことが在られる方もおられるでしょう。



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 これは大幡主=カミムスビを奉斎する正八幡宮などを建てる氏族…橘一族が関係している事が見えてきます。彼らは大きな帆を持つ渡洋航海可能な大型船を駆使する集団であり、有明海に突き出した吉野ケ里の岬状の丘陵地の脇を流れる澪筋と大きな干満を利用し、直接接岸していた可能性さえ想定できるのです。

 だからこそ王仁の上陸地点、居留地さえも有明海側に準備していたはずなのです。

 繰り返しになりますが、重要なのは王仁博士を招聘した人々と招聘され渡海してきた大量の人々とは区別される必要はあり、結局「鰐族」とは何なのかを考えざるを得なくなります。

 ここで、改めて通説に沿った立場からの鰐氏とは何かを考えて見ましょう。


和珥氏(わにうじ) は、「和珥」を氏の名とする氏族。5世紀から6世紀にかけて奈良盆地東北部に勢力を持った古代日本の中央豪族である。和珥は和邇・丸邇・丸とも書く。

出自については2世紀頃、日本海側から畿内に進出した日の御子信仰または太陽信仰をもつ朝鮮系鍛冶集団とする説や、漁労・航海術に優れた海人族であったとする説がある。

また出自伝承に関し、和邇氏族は孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命(天押帯日子命)から出たと称しているが、この天足彦国押人命という名は実体が殆ど無いものであり、和邇氏族の実際の上祖は天足彦国押人命の子とされる和邇日子押人命であったと考えられる。氏族名の「和邇」とは鰐のトーテムを意味すると考えられ、龍蛇、鰐信仰を持っていた海人族の安曇氏と同族で、その祖神は綿津見豊玉彦命であったと見られる。

ウィキペディア 20201022 12:46による


仮にこれが正しいとした上で孝昭天皇の皇子 天足彦国押人命(天押帯日子命)とされる天足彦が誰であるかを考えて見ましょう。

イスラエル系の金山彦と白族の大幡主の妹である埴安姫の間に産まれた櫛稲田姫がヤマタノオロチ神話を経てスサノウの妃となり産まれたのがナガスネヒコでその妹オキツヨソ足姫が草部吉見=ヒコヤイミミイとの間に産まれたのが天足彦なのです。

鰐氏が単なる渡来系氏族と言うよりもイスラエル系氏族とされる理由の一端にこの秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦の一族「瀛」の後裔氏族としての性格に関係している可能性はあるのではないでしょうか。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


ただ、ここではこの議論にこれ以上は踏み込まず、宮城県の志波彦神社 鹽竈神社に繋がっている事をお知らせして終わりとします。こちらもスケールの大きな話であり、詳しくは前掲の10本ほどのブログをお読み頂きたいと思います。

新ひぼろぎ逍遥

665 陸奥の志波彦神社 鹽竈神社 とは福岡県朝倉市志波から進出した豊玉彦系氏族が奉斎する神社(上)

                                     

 仙台湾に向かう宮城県塩竈市に東北鎮護・陸奥国一之宮 志波彦神社 鹽竈神社 があります。

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 結論から先に言えば、この神社とは福岡県を西に流れる筑後川の北岸、現朝倉市の志波から持ち出された神社だと分かるのです。

 その話に入る前に、まずは同社の公式HPから、由緒、ご祭神を確認して頂きましょう。以下同社HP


鹽竈神社

鹽竈神社の御祭神は別宮に主祭神たる塩土老翁神・左宮に武甕槌神・右宮に経津主神をお祀りしておりますが、江戸時代以前はあまり判然とせず諸説があった様です。陸奥國最大の社として中古より崇敬された神社の御祭神がはっきりしないのは奇異な感じがしますが、呼称も鹽竈宮・鹽竈明神・鹽竈六所明神・或いは三社の神など様々あった様です。そこで伊達家4代綱村公は社殿の造営に際し、当時の名だたる学者を集めて研究せしめ現在の三神とし、又現在の別宮の地にあった貴船社と只州()宮は現在の仙台市泉区の古内に遷座されました。

鹽土老翁神は『古事記』『日本書紀』の海幸彦・山幸彦の説話に、釣り針を失くして困っていた山幸彦に目無籠(隙間のない籠)の船を与えワダツミの宮へ案内した事で有名ですが、一方博識の神としても登場しています。

武甕槌神(茨城県鹿島神宮主祭神)・経津主神(千葉県香取神宮主祭神)は共に高天の原随一の武の神として国譲りに登場し、国土平定の業をなした神です。社伝によれば、東北地方を平定する役目を担った鹿島・香取の神を道案内されたのが鹽土老翁神の神であり、一説には神々は海路を亘り、七ヶ浜町花渕浜(現在の鼻節神社付近)からこの地に上陸されたと言われ、又鹽土老翁神はシャチに乗って海路を渡ってきたと言う伝えもあります。

やがて鹿島・香取の神は役目を果たし元の宮へ戻りましたが、鹽土老翁神は塩釜の地に残り、人々に製塩法を教えたとされています。塩釜の地名の起こりともなっております。

御祭神の伝承の異説

日本を代表する古社、奈良県の春日大社の縁起を伝える『春日権現験記』(1309)によりますと武甕槌神は陸奥国塩竈浦に天降り、やがて鹿島に遷ったとされる注目すべき記述があります。

志波彦神社

志波彦神社は志波彦大神をお祀りしております。あまり馴染みのない御神名ですが、『延喜式』の神名帳に記載されている2861社の中でもわずか225社しかない「名神大社」と言う格別の崇敬を朝廷より受けていた神社です。

元々は東山道より多賀城に至る交通の要所宮城郡岩切村(現仙台市宮城野区岩切)の冠川の辺(現八坂神社境内)に鎮座しておりましたが、中世以降衰微の一途を辿り境内も狭隘だったため、明治4年の国幣中社列格の際に社殿造営の事が検討され、明治7年12月24日この地を離れ鹽竈神社別宮に遷座され、この際の御祭文に後日鹽竈神社境内に社殿を造営する旨が奏上されました。

大正11年当時の宮司山下三次が政府に造営の陳情をしましたが、翌年の関東大震災発生にて効を奏せず、次代古川左京宮司が時の政府に強く訴えかけてようやく昭和9年に着手、明治・大正・昭和の神社建築の粋を集め昭和13年に完成したのが現社殿です。造営前の社殿地には2階建て社務所が建っておりましたが現在の場所に降ろし、その場所に志波彦神社を建立しております。 紙面の関係でここまでとします。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ