2021年02月03日

792 諸塚村再訪 A(七つ山) “宮崎県諸塚村の二つの七つ山と二つの桂正八幡神社”

792 諸塚村再訪 A(七つ山) “宮崎県諸塚村の二つの七つ山と二つの桂正八幡神社”

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


無題.png792 諸塚村再訪(太白) “宮崎県諸塚村七つ山諸塚神社”から続く…

 単なる通過ではなく諸塚神社を目的で足を踏み入れたのが諸塚村訪問の最初でした。 

同社に対する興味もさることながら、二十数年来、宮本常一に傾倒していたからでしたが、十年ほど前にその当時拾った「七つ山の北里伯耆守為義の墓を訪ねた老婆」の話が何とも素晴らしく何故が心惹かれて訪ねて行った事がありました。

その為義公の墓のある坂道に辿り着き少し奥の家(実は東の桂正八幡宮の宮司宅だったのです)の前まで足を延ばすと、普通の農家とは思えないそれなりに立派なお宅からピアノの音が聞こえて来たのでした。当時、このような山奥に何故、雛にも稀な…美しい御姫様でもおられるのでは…と思った記憶が今も蘇ってきます。


「山に生きる人びと」 著者: 宮本常一 


 それ以来訪問していなかったのですが、今般、諸塚村に入る機会というか必要性(関東〜関西など数人の方を案内する)を得た事から、いよいよ諸塚神社も書き留めておこうと思い立ったのでした。

このため、ここからはこの北里伯耆守為義公の墓にまつわる話に少しですが触れさせていただきます。


それは、肥後小国郷(現熊本県小国町)の北里氏と、宮崎県諸塚村桂山という凄まじい山奥のほぼ山の頂で稲作をして焼畑もして自給自足で生きてきた小さな落人の集落の間で交わされた記録と記憶の話。

まずは記憶の話です。時系列で。

1513年(永正10年)、阿蘇惟長(兄)が阿蘇惟豊(弟)から阿蘇宮の大宮司職を奪い返そうとして争いが起こる。

 惟長は薩摩の島津の力を借りる。惟豊は日向の甲斐氏を頼る。しかし、惟豊の軍は島津にやられて四散し壊滅する。

 惟豊の部下で阿蘇小国郷の領主北里伯耆守為義は日向の高千穂に逃れ、さらに山を越えた南の諸塚の桂山で自決して果てた。

 そこで家来の一人が伯耆守の遺骨を葬り、墓石をたて、墓守として住み着いた。それが今もつづいている桂山の甲斐氏となる。

 伯耆守の死から450年の間に家は5軒となり、桂山の甲斐氏の本家は諸塚神社の宮司をしている。宮司の家だけはいっさい百姓をせず、肥料を手にせず、墓を守り続けてきた。

この桂山の甲斐氏には、みずからの一族が北里伯耆守の家来の子孫であり、墓守をして現在に至るという伝承があります。でも、それを記録する文書はありません

次に、記録の話です。

 小国郷の北里氏は、阿蘇兄弟の永正の合戦の後に立ち直り、明治の世まで小国郷を支配する。ちなみにこの北里氏は日本の近代医学の父とも呼ばれる北里柴三郎の一族です。

 この家の古文書のひとつ「北里軍記」には伯耆守戦死の一条がある。系図にも「墓地高千穂七ツ山桂村ニ在馬見ヨリ七里ヲ隔ツ」とある。

だが、北里の家の者が桂山を訪ねて墓参したことは昭和32年まで、ほぼなかった。そもそも記録文書を見ることがほぼなかった。この「ほぼ」という言葉に、「記録」と「記憶」の間に横たわる深い谷があるというわけです。

 さあ、日向の山中の桂山の甲斐氏一族の記憶と、肥後の小国の北里氏一族の記録を突き合わせてみましょうか。

昭和32年、450年の時を経て、北里家の当主が初めて桂山へと北里為義の墓参に訪れます。当主は「北里軍記」に書かれていることの真偽を確かめようと思ったのですね。

 甲斐氏は北里家の当主の訪問に、ついに殿様の子孫が訪ねてきたと大喜びする。そのとき、甲斐氏のほうから、80年余り前に、小国の北里の者だと名乗るおばあさんが訪ねてきて一週間ほど滞在したという記憶を語るのです。このおばあさんは肥後の小国の北里の家では蚕を飼っていると語り、家の者たちにも必ず墓参させると言って帰っていったのですが、それきり音信は途絶えてしまった

 その話を聞いた北里家側で戸籍を調べてみれば、一族のうち七十歳を過ぎて行方不明になった女性がひとりいる。

その女性が行方不明になった頃、北里家では確かに養蚕をしていた。その女性は不運にも、日向の桂山から肥後の小国への帰途に遭難したのか病に倒れたのか。険しい峠を越え、阿蘇を越えてゆく、山また山のその道は、年老いた女性の足ではおそらく片道で少なくとも3日はかかりましょう。

 口承で伝えられてきた日向の桂山の甲斐氏の記憶は、北里家の記録と見事に符合した。それは北里家では思い出されることもなかった記憶でした。しかも、甲斐氏は、桂山で北里為義の墓守となったその経緯も語り伝え、それは北里の家では文書に閉じ込めてすっかり忘れ去られたことだったのでした。


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宮本常一の著書はあるのですが、手っ取り早くはネット上から 無題.pngをお読み頂く事もできます。

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概略はお分かり頂けたかと思いますが、実は諸塚村には二つの七つ山地名が存在し、二つの桂正八幡神社(宮)があります。その上に、諸塚神社は東の正八幡宮宮司家が兼務されておられます。

 ただ、もう少し正確に言えば、七つ山という大字が二つある訳ではなく、星の久保と呼ばれる千メートル近い山の東西に広がる大字があるために外部の者には二つの七つ山地区があると勘違いするのです。

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東の桂正八幡神社

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西の桂正八幡神社


この桂正八幡神社が如何なる神社なのかを考える前に、少しばかり周辺の地名やこの地方の歴史に思いを巡らして見たいと思います。

まず、二つの七つ山の二つの桂正八幡神社の間に聳える星の久保(嶽)の星の久保という地名が気になります。

星の久保とは、間違いなく982.6mの高峰なのですが、本来、久保とは窪地の意味であって、山頂に付される地名としては馴染みません。

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星の久保山頂(恐らく山頂は右手の頂)


ただ、グーグル・マップで山頂を確認すると、右手の山頂に対してテレビ塔が置かれた西の高みとの間に確かに窪地の様な鞍部が認められます。

ご覧の通り北には祖母傾山系が望める場所であり、少しへこんだ鞍部こそが「鞍」地名である事を考えれば、この地で山岳修験の人々が星を見通し、祭りを行なった場所であろうと思いを膨らませます。

始めは久保とは瘤(コブ)であり、溶岩ドームのような岩塊でもあるのかとも考えたのですが(九州西岸では、大事をウーゴト、栂:トガをツガとホウヅキをフウヅキ…と発音するなど中央語のO音がU音と対応する傾向が認められ中央語の瘤が窪、久保と表記されたのか)、実際にはそのような地形は確認できず、やはりこの枕の凹みのような窪地が星祭の窪とでも呼ばれたのではないかとそのメスを収めたのでした。つまり、星の瘤とはホシノコブorホシノコボと呼ばれていた事が想像できます。

では、次に七つ山とは何かを考えて見ましょう。

これまた奇妙奇天烈な地名であり、安直に七つの連峰と考えて済ませる事は容易なのですが、やはり熊野と九州を繋ぐ修験のルート上の地である事を考えると、この天文をも知り尽くした修験者(山法師)の存在を無視できないのです。

まず、西の桂正八幡神社の地図を見ると大白尾(ダイジロオ)があります。

あくまでも一つの仮説ですが、表記が大白とある以上、太白(呉の太白)の意味も十分に考えられるのですが、大陸では大白に金星、シリウス、北極星を当てる場合があり、もしも、北極星に相当するとすれば、星の久保という地名と併せ七つ山の「七つ」とは北斗七星を暗示しており、妙見信仰(北辰信仰)=天御中主命信仰と深く繋がっている事が見えるのです。

そして、星の久保(修験者の山は通常「嶽」と表記する)山直下の諸塚神社の27神の筆頭神が天御中主命である事とも対応するのです。

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ついでに勝手ながら上長川(カミナゴウ)、下長川という二つの地名も考えてみます。勿論、東の桂正八幡は七つ山にあるのであって、この上長川、下長川は同社とは直接的な関係はないようです。

九州では谷川を「タンゴウ」「タンゴ」と呼ぶように、川を「コウ」「ゴウ」と呼んでいた形跡があります。従って、「ゴウ」は川の意味で良いようにも思うのです。まさか「郷」の意味ではないでしょうが、上、下はそのままとして、問題は「長」の解釈です。

古くは所有の格助詞としての「ノ」に対応する「ナ」があります。類例としては「そこおなご」が分かり良いでしょう。多分、上の川と下の川の古代表記の名残だろうと思います。

もう一つの桂神社の「桂」の意味ですが、諸塚神社の奥に「葛」集落「黒葛原」集落があるように、葛城一族の後裔氏族の意味の可能性があるように思います。

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何故ならば、葛城一族とは呉太白の後裔である神武天皇(カムヤマトイワレ…)のさらなる後裔である武内宿祢の後裔氏族である以上、神武伝承が残る諸塚にこの葛、桂はピッタリだからです。

「葛城」も「桂木」も同じ意味であることは言うまでもありません。

この諸塚神社の傍に二つの桂神社が在る事は実に象徴的で、共に葛城一族の後裔である可能性があるのです。

つまり、武内宿祢の後裔氏族という事になりそうです。

一般には、武雄心命と山下影姫の間に武内宿祢が生れているとされますが、百嶋神社考古学ではそれを否定します。これについては以下の百嶋由一郎金神神代系譜をご覧ください。

ただ非常に難解です。私も解読中ですので共に考えましょう。

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百嶋由一郎金神神代系譜(部分)


 言うまでもなく、開化天皇=高良玉垂命は呉の太伯の後裔である神武天皇のそのまた後裔なのですが、この開化の腹違いの兄が武内宿祢になるのです。


 最期に、諸塚村の「諸塚」が何故「諸塚」と呼ばれているかについて温めている話があるのですが、もう少し孵卵器に入れておこうと思います。


百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データを必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記