2021年02月18日

797 筑豊に本物の神武天皇とその母神を祀る神社があった “福岡県飯塚市高祖神社”

797 筑豊に本物の神武天皇とその母神を祀る神社があった “福岡県飯塚市高祖神社”

20191118

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 太宰府地名研究会の11月期のトレッキングは飯塚市市街地南部のそれほど知られてはいない地味な神社を巡る事にしました。

 大分八幡宮が最初に出ていますが、それは単に集合場所に選んだだけものでした。

 ただ、初見の方もおられましたし、一通り見た上で、今回最も重要と考える高祖神社に向かう事にしました。


20191117日(日) 午前1100に大分八幡宮境内Pに集合を…

集合場所 大分八幡宮境内  カーナビ検索福岡県飯塚市大分1272 0948-72-0621


無題.png

        大分宮                  大分廃寺跡


@ 高祖神社         カーナビ検索  福岡県飯塚市高田1045

A 椿八幡宮         カーナビ検索 福岡県飯塚市椿352

B 須佐神社         カーナビ検索  福岡県飯塚市弁分355

C 田神社          カーナビ検索 福岡県飯塚市小正(おばさ)138 必要に応じて

D 三島神社         カーナビ検索  福岡県飯塚市菰田東2丁目12-4

E 白山神社         カーナビ検索  福岡県飯塚市上三緒618

F 天祖神社         カーナビ検索  福岡県飯塚市平恒207

G 大山祗神社        カーナビ検索地番不詳(不明なら大分廃寺跡を再探訪)


無題.png

順 路


 田神社については二度目の訪問になりますので要望が無い限り外します。

 大山祗神社も住所が出てこないため場合によっては外します。


A      高祖神社 これは間違いなく本物の神武と本物の神武の母神(神玉依姫)を祀る神社です

無題.png

「福岡県神社誌」上巻326p


以前から存在を気にしていましたが、ようやく価値ある本物の神武天皇を祀る神社を筑豊に発見しました

無題.png

 初代神武天皇と言えば知らぬ人のない神代史上のスターですが、実はこの人物を主神として祀る神社は非常に少ないのです。

 直ぐに頭に浮かぶのが宮崎県西諸県郡高原町の狭野神社ですが、それは神武天皇の幼少〜少年期とされるもので、所謂、東征を行なったなどとされる初代神武天皇(カムヤマトイワレビコ)を祀る神社というものはほとんど存在しないのです。勿論、百嶋神社考古学は認めません。

 その原因は最近になっておぼろげながら想像できるようになりました。

 まず、耳川の河口から東征したなどとされる有名な神武東征説話ですが、これは初代神武ではなく第10代とされる神武僭称贈る崇神の業績なのです。

 そして、藤原氏とは直接的に崇神を祖として成長した阿蘇氏であったが故に、崇神を神武と同一視する事を持って自らの氏族とは神武を輩出した最重要氏族であると見せ掛けたかったのだと考えられるのです。

 このことが神武天皇を正面に抱く神社が少ないと考えられるのです。

 崇神は第9代開化天皇=久留米高良大社の高良玉垂命と神功皇后(仲哀死後の)年嵩の臣下だったのですが、東征という大きな業績を持ったことから後の藤原が第10代として天皇にまで格上げし、それに沿って系譜や神話を創っているのです。


神武東征 神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いた彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って彼らに食事を差し上げた。彼らはそこから移動して、岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。

浪速国の白肩津に停泊すると、登美能那賀須泥毘古(ナガスネビコ)の軍勢が待ち構えていた。その軍勢との戦いの中で、五瀬命は那賀須泥毘古が放った矢に当たってしまった。五瀬命は、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、五瀬命は紀国の男之水門に着いた所で亡くなった。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20191118 による


椎根津彦 『古事記』に、神武東征の途中、速吸門で亀の背に乗り釣をしながら羽ばたくようにやって来た国神。海道をよく知っていることから天皇に仕へ、槁根津日子の名を賜った。倭国造の祖『日本書紀』には、珍彦とあり、水先案内として椎根津彦の名を賜わった。 また、天香山の土を取って来るなど天神地祇の神祭を助け、 兄磯城を討つ策りごとに功があり、倭国造になった。


神武東征が神武の業績ではないと言えば何を馬鹿な…と言われそうですが、故)百嶋由一郎氏は十分にその根拠も含め背景もご存じだったようです。神代系譜にもそれが反映されています。

勿論、左端の赤枠内が初代神武であり、中央下の青枠内が神武僭称贈る崇神です。

無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 耳川から東征したなどと後世脚色された崇神の梶取りの椎根ツ彦は崇神の弟であって、その弟を大和の代官に据えたのですから良くできていますし、神武天皇をウガヤフキアエズの子としたのも、崇神の母神であった鴨玉依姫の前の夫(義理の父神)がウガヤダとしただけで、当然にも崇神の母神が玉依姫とされているのも、偶然を利用して、初代神武の母神たる神玉依姫に準え偽装が行われたことが分かるのです。

 ついでに言えば、この本物の初代神武の母神たる神玉依姫については、千葉県在住の女性メンバーである「未知の駅」女史による千葉県の玉前神社に関するリポートの転載版を参考にして下さい。

無題.png

 ひぼろぎ逍遥

632

上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (下)

631

上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (上)


 ついでに言わせて頂ければ、神武を宇佐安心院の足一騰宮、一柱騰宮で出迎えた宇佐ツ彦、宇佐ツ姫も単なる崇神の息子夫婦なのです。分かれば、極めて単純な偽装だった訳です。

 では、この神社の祭神はと言えば、玉依姫命、神日本磐余彦命、豊由氣大神(「福岡県神社誌」上巻326p)とされています。玉依姫を筆頭に掲げ本物の神武たる神日本磐余彦命を並べる配神からは、どう見ても本物の神武(ハツクニシラスではなくカムヤマトイワレ)と本物の玉依姫=神玉依姫を祀っているとしか考えられないのです。もうひとつの可能性として元は宝満宮だったことから鴨玉依姫(贈る崇神の母神)と大山咋(贈る崇神の父神)を祀る神社の可能性もあるのですが、唐花紋ですので本物の神武の社ですね。

無題.png

しかし、「高祖神社沿革」に栄えある神武天皇を筆頭に掲げない理由は何なのでしょうか?

 終戦直後ならば神武天皇を引っ込めた可能性はあるのですが、ことさら神武を下げ神玉依姫を筆頭に掲げるとする理由は神玉依姫に特別な縁故のある神社でもなければありえない様に思うのですが不思議です。

 当日は日曜日でしたが若い熱心な宮司がおられご案内頂いたのですが、宮司からとんでもない物をお教えいただきました。

 それが、この神殿の周囲に配された唐花でした。

 実は、この花菱とか唐花と言われる神紋で、表紋に左三つ巴、裏紋に木瓜を使う高良大社の最奥部にあるのもこの神紋なのです。

 つまり、呉の太伯の後裔である大率紀氏が使う神紋がはっきり描かれた神社は九州では特にめったに出くわす事はありません。強いて言えば八幡古表神社(福岡県築上郡吉富町小犬丸353-1)ぐらいでしょうか。

無題.png

このカムヤマトイワレヒコを祀る神社の千木も男神を表していたようで、神玉依姫を祀るとしても主神はやはり神武だったのでは無いかと考えています。

無題.png

本物の神武を祀ると考えた理由は同社に若宮神社が境内社としてあった事もあるのですが、

境内神社 若宮神社(オオササギノミコト)、須佐神社(スサノウ)、天満神社(菅原大神)

摂社   稲荷神社(宇賀魂神)、天神社(少彦名命)、大神神社(大名持神)

末社   春日神社(春日大神)


多少整合性に欠ける境内社の配神ですが、逆に信憑性を感じさせます。

実は、筑豊の川崎町など飯塚〜田川方面には神武東征ではなく神武巡行伝承が残っています。

この一帯から広島の福山周辺、そして岡山へと遠くは甲府や徳島まで延びています。

これについてはその最も突出した形が天津司神社で、以下をご参照ください。


ひぼろぎ逍遥

787

懸案だった二つの天都賀佐比古(彦)神社を参拝 “徳島県美馬市”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

565

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 D “天津司舞の天津司神社にやって来た”

564

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 C “天津神社にも奴奈川神社が置かれていた”(下)

563

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 B “天津神社にも奴奈川神社が置かれていた”(上)

562

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 A “糸魚川市の奴奈川神社は市杵島姫を祀る”


 もしかしたら、筑豊の神武東征伝承の起点なのかも知れません。今後の課題です。


百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データを必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

ビアヘロ175 丁巳歴史塾との合同神社トレッキング資料を公開します A 高宮八幡宮(飯塚市)

ビアヘロ175 丁巳歴史塾との合同神社トレッキング資料を公開します A 高宮八幡宮(飯塚市)

20201101

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 トレッキング順路 


@ 厳島神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市鹿毛馬1088

A 高宮八幡宮  カーナビ検索 福岡県飯塚市伊岐須886-2

B 水祖神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市庄司338-10

住所不明のため入口の庄司簡易郵便局の住所

C 水祖神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市川津608-1 

                住所不明のため隣のグランドベルズ飯塚の住所

 D 水祖神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市川津455

                 住所不明のため隣の阿弥陀寺(真言宗)の住所福岡県飯塚市川津467


A 高宮八幡宮 福岡県飯塚市伊岐須886-2


福岡県飯塚市に「伊岐須」という変わった地名の地域があります。

場所は、中心地の飯塚市役所から西に数キロといったところで、二瀬と言う地名があるからでしょうが河川邂逅部正面の小丘に高宮八幡宮が鎮座しています。

変わった地名という表現をしましたが、奈良時代のはじめ頃、和銅6年(713年)に「畿内七道諸国郡郷着好字」(国・郡・郷の名称をよい漢字で表記せよ)という勅令が発せられている事からの類推によるのです。一般的には二文字に依らない地名は、この好字令以前の既に確立し定着していた古い地名であった可能性があるからです。まず、始めに気になったのは伊岐須という地名の真ん中に「岐」がある事です。

当然にも神武天皇に弓を引いたとされる岐(クナトorフナト)の神=長脛彦を意識してしたのですが、あくまでもこれは切っ掛けでしかありません。

 実は、古代の常陸国の領域に東国三社と称せられる鹿島神社、香取神社、息栖神社があるのです。

 直ぐに「息栖」と「伊岐須」のどちらが古い地名であるかは単純には言えませんが、他に決め手がなければ、「好字令」(好字二文字にせよ!)以前の地名に思える飯塚の「伊岐須」の方が起源ではないかと考えてしまいます。以下、息栖神社HPより(省略)

この息栖神社は鹿島の武甕槌(実体は阿蘇の草部吉見=海幸彦)、香取の(実体はニギハヤヒ=猿田彦=山幸彦)に対して、天鳥船(その実体は長脛彦=天香香背男 カガセオ)とされ長脛彦ではないかとされているのです。

ただ、これは地名対応に過ぎず必ずしも神社が対応していると言う意味ではないことから早とちりは慎み冷静に考えて見る事にしましょう。

 

実は佐賀県唐津市の古代唐津湾の湾奥に伊岐佐ダム伊岐佐神社があり、兵庫県餘部にも伊岐佐神社があります。これらも長脛彦の一族の展開(逃亡)地と考えています。

無題.png

高宮八幡宮 カーナビ検索 福岡県飯塚市伊岐須8862

無題.png
無題.png

長髄彦 長髄彦(ながすねひこ)は、日本神話に登場する人物である。『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。安日彦(あびひこ)という兄弟がいるとされる。

饒速日命の手によって殺された、或いは失脚後に故地に留まり死去したともされているが、東征前に政情不安から太陽に対して弓を引く神事を行ったという東征にも関与していた可能性をも匂わせる故地の候補地の伝承、自らを後裔と主張する矢追氏による自死したという説もある。

旧添下郡鳥見郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近、あるいは桜井市付近に勢力を持った豪族という説もある。なお、長髄とは記紀では邑の名であるとされている。

登美夜毘売(トミヤヒメ)、あるいは三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)ともいう自らの妹を、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨し無題.png饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の妻とし、仕えるようになる。 中世の武将の伊達家が長髄彦の子孫であると言われている[要出典]。 神武天皇が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち、このときの戦いで天皇の兄の五瀬命は矢に当たって負傷し、後に死亡している。

その後、八十梟帥や兄磯城を討った皇軍と再び戦うことになる。このとき、金色の鳶が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった。日本書紀・神武紀には、この時の様子を次のように記している。

ここに長髄の名前が地名に由来すると記されているが、その一方で鳥見という地名が神武天皇の鳶に由来すると記されている。さてその後、長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命という。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べた。天皇は天つ神の子である証拠として、天の羽羽矢と歩靱を見せ、長髄彦は恐れ畏まったが、改心することはなかった。そのため、間を取り持つことが無理だと知った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)に殺された。    ウィキペディア(20170517 19:28による


では、高宮神社をご覧頂きましょう。石炭鉱害復旧事業が法外に大量投入された筑豊飯塚の事、この一帯も沈下が顕著であり、埋め立てによって結果この高宮は中ぐらいの高宮に変わったそうですが、それなりの微高地にこの神社は鎮座していました。


無題.png

高宮神社 カーナビ検索 福岡県飯塚市伊岐須885


まず、不思議なことに三の鳥居は大山神社となっていました


摂社に大山祗命、大国主命がおられる事から、あってもおかしくない鳥居ですが、小さな摂社の割にはあまりにも立派な鳥居である事からバランスが取れていない事は言うまでもありません。

無題.png

全て猿田彦の石塔で、数から考えてもこの一帯がある時期ニギハヤヒの勢力圏であった事を語っています


 藤吉郎が猿とされたのは徳川の意図が見えますし、柿本人麻呂が猿丸太夫とされた様に貶める意味が込められているのです。猿田彦を表すのに猨田彦とした理由は分かりません。

 獣編+袁ではなくと書かれていますが、これは貶められた名の猿ではないとの思い(猨田彦)が反映されているような気もしますが、猨田彦もサルタヒコ、エンダヒコと読むのです。

ただ、ウイキペディア氏も言われている様に、“長脛彦は饒速日命の手によって殺された、若しくは失脚後に故地に留まり死んだともされています。

百嶋神社考古学では猿田彦はニギハヤヒであり山幸彦になるのですが、これが神社の配神と関係でどのような位置付けになるのかは良く分かりません。

「日本書紀」神武天皇条に神武東征に先立ち天磐船に乗って大和に飛来した者があり、その名をニギハヤヒ(饒速日)というとします。

ニギハヤヒは大和の土豪の長髄彦の妹を娶り、初めはナガスネヒコと共に神武の侵攻に抵抗します。

しかし、神武とニギハヤヒはそれぞれの天羽羽矢を見せあうことによって互いに天神の子であることを認め合いニギハヤヒはナガスネヒコを殺して神武に降伏する事になるのです。

そしてニギハヤヒは物部氏の遠祖になったと言われるのですが、そのニギハヤヒは「古事記」では、磯城攻略後、疲れと飢えで動けなくなった神武への救援者として登場しています。

記紀によればニギハヤヒが飛来した所は畿内となってしまいます。

百嶋神社考古学では神武巡幸はあるが、神武東征を行ったのは崇神としますので、長脛彦と衝突した神武は初代神武であって崇神ではないのです。

このため、長脛彦がいたのは飯塚であり、後に富の長脛彦と言われるように、金富神社、大冨神社がある行橋〜豊前の一帯だったのではないかと考えるのですが、今後の課題です。

無題.png

この石塔上部の紋章が椿のように見え気になったのですが、社務所を見て氷解しました。椿は猿田彦のシンボルであることは伊勢の椿大神社でも明らかです。

 本殿に祀られている神様については後段に譲るとして、摂社から話を進めましょう。

 美保神社と言えば事代主ですが、実態として事代主は格下の神で、このような社が造られる事もまれで、そもそも数こそ多いものの違和感があります。

 無題.png鳥居との関係からも神殿上部の神紋(隅切り角に三引き)からも、本来、この社殿には次の大山祗大神と大国主命(実は親子)が入るべきなのです。

 このように、事代主命こと恵比須さんは少し格上げされ過ぎているようです。

 ある時代の高宮神社は、スサノウ、長脛彦を隠し、大山祗、大国主を前面に掲げる神社だったのかも知れないのです。


美保神社の神紋 三島神社の神紋

無題.png

大山祗神社(左)疫神社(恐らく忌部の社の意味でしょう)とされる大国主命を祀る摂社(右)


 無題.pngさて、高宮八幡宮の祭神です。まず、福岡市の高宮にも高宮八幡宮がありますが、玉依姫命、応神天皇、神功皇后の三柱を祀っておられます。

さらに気になるのは宗像大社の高宮です。それは、百嶋神社考古学では宗像大社の本来の祭神は大国主命とするからです。この大山祗神社の大山祗と、疫神社とする大国主命こそが、宇佐神宮が覆い被さってくる前の本来の祭神に見えるのです。そうでもなければ、大山祗神社の神額を付けた鳥居など造られるはずはないのです。

 勿論、この摂社があるからこの鳥居が寄進された可能性はあるのですが、元々大山祗神社の鳥居があった事から寄進された可能性もあるのです。 
無題.png

左)「福岡県神社誌」上巻 339p 右)現在の高宮八幡宮の由緒(2015年)


 祭神がコロコロ変わっているのには目が回りますが、昭和19年編纂の「福岡県神社誌」にある誉田別命(ホンダワケ)=別王応神、贈)仲哀天皇、スサノウという非常に特異な配神が気になるのか、現在は今の宇佐神宮に沿った祭神に変えられています(2015年)。

しかし、それでもスサノウを残すところがこの神社の非常に興味深い特異性を示しています。

 そこで、何故、宇佐八幡宮に関係がないスサノウが殊更に祀られているのでしょうか?

 一つの仮説を提出しておきたいと思います。

伊岐須の高宮八幡にはやはりスサノウの子である岐神(クナトノカミ)が見え隠れします。

それは「伊岐須」という地名が対応する東国三社の一つである息栖神社が長脛彦を祀るとする事からの類推でしかないのですが、スサノウの子がナガスネヒコである事から八幡宮に衣替えしても、なお、スサノウが祀られている事にその背景を見てしまうのです。

 さらに言えば、確かに仲哀天皇が祀られるタイプの八幡宮はあるのですが(大分市の柞原八幡宮…他) 、

長脛彦の妹である瀛津世襲足媛命(オキツヨソタラシヒメノミコト)から帯中津日子命(まさか中津市にいた訳ではないでしょうね)=仲哀も出てきている事から、それが高宮八幡宮に反映されているのではないかと考えるのです。

では、高宮とはと考えると、大山祗と大国主命祭祀が色濃く残っている事から始めはスサノウと金山彦の血を引いた祭祀から大山祗と大国主命の系統の祭祀へと移行し、最終的に阿蘇を起源とする藤原の息の掛かった宇佐神宮に覆いかぶさられたのがこの高宮八幡宮の性格ではないかと見たのでした。

簡単に言えば、昭和19年の「福岡県神社誌」の祭神である応神、仲哀、スサノウの三神を、スサノウ、長脛彦、仲哀とすれば、スサノウ〜長脛彦の妹瀛津ヨソ足姫(武内足尼)=菅原の一祖〜天足彦〜ヤマトタケル命〜仲哀天皇〜という栄えある本流が復元できるのです。


百嶋由一郎最終神代系譜(部分)   以下追補)

あくまでも思考の冒険であり、シュミレーションの一つですが、この神社は、当初スサノウ(新羅)系氏族、金山彦系氏族の祀る祭祀が成立し(スサノウと金山彦の娘櫛稲田姫の兄妹=長脛彦、オキツヨソタラシヒメ)、その後大山祗、大国主(トルコ系匈奴)系氏族への転換が起こり(これは立岩遺跡が甕棺から古墳へと変わっている事と対応する)、その後700年代半ばに宇佐神宮の影響下で八幡宮へと変わったものと考えられそうです。

無題.png

それが、大山神社との神額を持つ鳥居があり、大山祗、大国主命を祀る摂社がある意味であり、八幡宮としては異質なスサノウが残されている理由だろうと考えられそうです。

また、スサノウ(新羅)系氏族、金山彦系氏族の祀る祭祀が存在した時代があったはずです。

長脛彦の妹である瀛津襲足姫(オキツヨソタラシヒメ)の後裔には、天足彦、ヤマトタケルとその子仲哀天皇があります。そう考えれば、それが八幡神社となってもスサノウ、仲哀を残している理由かもしれません。このように、伊岐須という地名から常陸の息栖神社のカガセオ=長脛彦を推定したのですが、必ずしも的外れではなかったようです。

最後に伊岐須の意味ですが少し見当が付きました。「岐」の意味を調べてください。枝の様に二つに別れる所のことなのです。

つまり、この伊岐須は二瀬でもありますが、二又瀬の意味なのです。

そして、神社の前には象徴的な河川邂逅部がありますね。そうです。井(水路)の岐の洲が伊岐須の意味だったのです。従って、付近の伊川温泉の伊川地区も、井川の意味なのです。


関連メモ 無題.png岡山県宍粟市一の宮町「生栖」に鹿島神社があり二股川の上に池王神社が祭神はスサノウ…

 実は、古代の常陸国の領域に東国三社と称せられる鹿島神社、香取神社、息栖神社があるのです。

 直ぐに「息栖」と「伊岐須」のどちらが古い地名であるかは単純には言えませんが、他に決め手がなければ、「好字令」(好字二文字にせよ!)以前の地名に思える飯塚の「伊岐須」の方が起源ではないかと考えてしまいます。以下、息栖神社HPより

この息栖神社は鹿島の武甕槌(実体は阿蘇の草部吉見=海幸彦)、香取の(実体はニギハヤヒ=猿田彦=山幸彦)に対して、天鳥船(その実体は長脛彦=天香香背男 カガセオ)とされ長脛彦ではないかとされているのです。これも地名対応に過ぎず必ずしも神社が対応していると言う意味ではないことから早とちりは慎み冷静に考えて見る事にしましょう。

無題.png
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2021年02月21日

798 筑豊にも大山祗を祀る三嶋神社が在った “福岡県飯塚市菰田東の三嶋神社”

798 筑豊にも大山祗を祀る三嶋神社が在った “福岡県飯塚市菰田東の三嶋神社”

20191119

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 飯塚市の市街地の一部と言える住宅街の一角に三嶋神社があります。

無題.png

三嶋神社と言えば愛媛県の大三島の大山祗神社が頭に浮かびますが、その最も西の一社が飯塚市にあるのです。

 古くは古代遠賀湖、遠賀湾といえる様なものが飯塚市周辺辺りまで延びており、潮汐限界と言った場所であり、二つの河川を堀とした非常に守り易い地域だった事は想像に難くありません。

 実は、筑後川北岸の現朝倉市(旧甘木、朝倉、杷木)の平野周辺部(山地)に分布する大山祗祭祀圏と太宰府から米の山峠を越え筑豊の中心部である飯塚市に入る(熊本市の南の益城の置換えである「馬敷」=実はウマシキの置換え文字の「甘木」も含め)ラインの頂点にこの菰田が位置しているのです。

 以下は愛媛県の西部の八幡浜一帯の三島(三嶋)神社の分布を示すために出したものですが、ご覧の通り濃厚な分布を見せています。

無題.png

立派な神社ですが、以下もネットから拾ったものですが、この神社が何故飯塚市に鎮座しているかは尚も不明です。

 ただ、西から注ぐ穂波川と筑豊の大河遠賀川が合流する場所だけに、三嶋神社の西の拠点としていた事だけは想像できるでしょう。

 と書いて、そう言えば筑後川の河口に三嶋神社が在った事を思い返しました。

無題.png

@  三島神社

無題.png

三嶋湟咋 古事記』での表記は三嶋湟咋、『日本書紀』では三島溝咋三島溝橛耳神(恐らくミヅハノメ:古川)と表記される。古事記では神や命(みこと)といった尊称はないが、国津神とされる。

陶津耳命(すえつみみ、加茂建角身命、八咫烏)と同一神とされる。これに従えば実際は天津神となる。

神武天皇が皇后を求めたところ、大久米命比売多多良伊須気余理比売をお勧めになり、この乙女は大物主神が三嶋湟咋の娘である勢夜陀多良比売との間に生まれた子とした。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』201910291923による


コノハナノサクヤはニニギと別れた後ヤタガラスの妃となり名を前玉姫と変えます…溝辺から関東へ

無題.png
無題.png

同社縁起


三嶋神社は大分県臼杵市にも一社ありますが、その震源地は日向国の西都市にあるのです。

大山祗とその子、神大市姫(ミズハノメ)、大国主命、コノハナノサクヤ姫の三兄姉妹を祀る濃厚な祭祀圏が宮崎県に存在し、大国主命を島根県の旧出雲国などととぼけたお伽話を信じ込まされているのが我が列島(劣等)民族なのです。

無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 宮崎県西都市の西都原第2古墳群にはその中でもひときわ目立つ柄鏡型前方後円墳があり大山祗の墓と言われています。

無題.png

そして、その古墳のある丘陵を降ると正面に大山祗を祀るとする石貫神社があり、付近にはその娘とするコノハナノサクヤ姫(大国主命の妹)を祀る都萬神社(日向国二宮)があります。

 さらに言えば、日向市の南の都農町には都濃神社があり大国主命が主神とされているのです。

 では、何故、南九州に出雲の神様が一の宮として鎮座されているのでしょう。

 これこそが日本の神代史の最大の偽装であり、出雲を大和より古い(勿論そうなのですが)古代出雲王国などとはしゃぐ輩が日本の神代史の本質を見いだせず骨抜きにしているのです。

 この問題についてはこれまでにも多くの話を書いてきましたが、この大山祗の一族とは朝鮮半島の金武官伽耶に移動して来た王昭君の一族であるトルコ系匈奴(東西分裂後の南北分裂により産みだされた)の一派であり、火山灰土壌の稲作不適地であった日向に移動してきた騎馬を使う民族だったと考えられます。

 彼らは海上交通権を握った大幡主(博多の櫛田神社の主神)=カミムスビの神とタッグを組み列島の古代を席巻したのでした。

無題.png
無題.png

この大山祗と大幡主=カミムスビの擬神体こそが日向に顕著な田神(タノカンサー)様であり、筑後川北岸の旧朝倉郡(甘木、朝倉、杷木)を中心に分布している60社の田神社(一社を除き全て無格社)と山地に展開する山神様=大山祗神社群なのです。

 この朝倉郡一帯の葦原中津国を奪われたのが真実の国譲りであり、それを要求したのが高良山から彦山に拠点を移した高木大神と阿蘇氏(ここでは草部吉見系=藤原氏の祖)の連合であり、結果大山祗系は伊予に、大幡主(カミムスビ)への入婿となった大国主は現出雲へ、大幡主系は讃岐から阿波、熊野へと配置換えが行われたようなのです。

 これについては、故)百嶋翁は細かい断片しか語っていません。その復元が我々の任務なのです。

 出雲神話に騙されておられる方が異常に多過ぎるのですが、現出雲は古代から博多を拠点に大幡主の一族が対馬海流に乗って領域を広げた言わば植民領域だったのです。

これを理解しなければ古代史はただの漫画になってしまいます。


百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データを必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記