797 筑豊に本物の神武天皇とその母神を祀る神社があった “福岡県飯塚市高祖神社”
20191118
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
太宰府地名研究会の11月期のトレッキングは飯塚市市街地南部のそれほど知られてはいない地味な神社を巡る事にしました。
大分八幡宮が最初に出ていますが、それは単に集合場所に選んだだけものでした。
ただ、初見の方もおられましたし、一通り見た上で、今回最も重要と考える高祖神社に向かう事にしました。
2019年11月17日(日) 午前11:00に大分八幡宮境内Pに集合を…
集合場所 大分八幡宮境内 P カーナビ検索福岡県飯塚市大分1272 0948-72-0621

大分宮 大分廃寺跡
@ 高祖神社 カーナビ検索 福岡県飯塚市高田1045
A 椿八幡宮 カーナビ検索 福岡県飯塚市椿352
B 須佐神社 カーナビ検索 福岡県飯塚市弁分355
C 田神社 カーナビ検索 福岡県飯塚市小正(おばさ)138 必要に応じて
D 三島神社 カーナビ検索 福岡県飯塚市菰田東2丁目12-4
E 白山神社 カーナビ検索 福岡県飯塚市上三緒618
F 天祖神社 カーナビ検索 福岡県飯塚市平恒207
G 大山祗神社 カーナビ検索地番不詳(不明なら大分廃寺跡を再探訪)

順 路
田神社については二度目の訪問になりますので要望が無い限り外します。
大山祗神社も住所が出てこないため場合によっては外します。
A 高祖神社 これは間違いなく本物の神武と本物の神武の母神(神玉依姫)を祀る神社です

「福岡県神社誌」上巻326p
以前から存在を気にしていましたが、ようやく価値ある本物の神武天皇を祀る神社を筑豊に発見しました

初代神武天皇と言えば知らぬ人のない神代史上のスターですが、実はこの人物を主神として祀る神社は非常に少ないのです。
直ぐに頭に浮かぶのが宮崎県西諸県郡高原町の狭野神社ですが、それは神武天皇の幼少〜少年期とされるもので、所謂、東征を行なったなどとされる初代神武天皇(カムヤマトイワレビコ)を祀る神社というものはほとんど存在しないのです。勿論、百嶋神社考古学は認めません。
その原因は最近になっておぼろげながら想像できるようになりました。
まず、耳川の河口から東征したなどとされる有名な神武東征説話ですが、これは初代神武ではなく第10代とされる神武僭称贈る崇神の業績なのです。
そして、藤原氏とは直接的に崇神を祖として成長した阿蘇氏であったが故に、崇神を神武と同一視する事を持って自らの氏族とは神武を輩出した最重要氏族であると見せ掛けたかったのだと考えられるのです。
このことが神武天皇を正面に抱く神社が少ないと考えられるのです。
崇神は第9代開化天皇=久留米高良大社の高良玉垂命と神功皇后(仲哀死後の)年嵩の臣下だったのですが、東征という大きな業績を持ったことから後の藤原が第10代として天皇にまで格上げし、それに沿って系譜や神話を創っているのです。
神武東征 神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いた彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って彼らに食事を差し上げた。彼らはそこから移動して、岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。
浪速国の白肩津に停泊すると、登美能那賀須泥毘古(ナガスネビコ)の軍勢が待ち構えていた。その軍勢との戦いの中で、五瀬命は那賀須泥毘古が放った矢に当たってしまった。五瀬命は、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、五瀬命は紀国の男之水門に着いた所で亡くなった。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20191118 による
椎根津彦 『古事記』に、神武東征の途中、速吸門で亀の背に乗り釣をしながら羽ばたくようにやって来た国神。海道をよく知っていることから天皇に仕へ、槁根津日子の名を賜った。倭国造の祖『日本書紀』には、珍彦とあり、水先案内として椎根津彦の名を賜わった。 また、天香山の土を取って来るなど天神地祇の神祭を助け、 兄磯城を討つ策りごとに功があり、倭国造になった。
神武東征が神武の業績ではないと言えば何を馬鹿な…と言われそうですが、故)百嶋由一郎氏は十分にその根拠も含め背景もご存じだったようです。神代系譜にもそれが反映されています。
勿論、左端の赤枠内が初代神武であり、中央下の青枠内が神武僭称贈る崇神です。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
耳川から東征したなどと後世脚色された崇神の梶取りの椎根ツ彦は崇神の弟であって、その弟を大和の代官に据えたのですから良くできていますし、神武天皇をウガヤフキアエズの子としたのも、崇神の母神であった鴨玉依姫の前の夫(義理の父神)がウガヤダとしただけで、当然にも崇神の母神が玉依姫とされているのも、偶然を利用して、初代神武の母神たる神玉依姫に準え偽装が行われたことが分かるのです。
ついでに言えば、この本物の初代神武の母神たる神玉依姫については、千葉県在住の女性メンバーである「未知の駅」女史による千葉県の玉前神社に関するリポートの転載版を参考にして下さい。

ひぼろぎ逍遥
632 | 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (下) |
631 | 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (上) |
ついでに言わせて頂ければ、神武を宇佐安心院の足一騰宮、一柱騰宮で出迎えた宇佐ツ彦、宇佐ツ姫も単なる崇神の息子夫婦なのです。分かれば、極めて単純な偽装だった訳です。
では、この神社の祭神はと言えば、玉依姫命、神日本磐余彦命、豊由氣大神(「福岡県神社誌」上巻326p)とされています。玉依姫を筆頭に掲げ本物の神武たる神日本磐余彦命を並べる配神からは、どう見ても本物の神武(ハツクニシラスではなくカムヤマトイワレ)と本物の玉依姫=神玉依姫を祀っているとしか考えられないのです。もうひとつの可能性として元は宝満宮だったことから鴨玉依姫(贈る崇神の母神)と大山咋(贈る崇神の父神)を祀る神社の可能性もあるのですが、唐花紋ですので本物の神武の社ですね。

しかし、「高祖神社沿革」に栄えある神武天皇を筆頭に掲げない理由は何なのでしょうか?
終戦直後ならば神武天皇を引っ込めた可能性はあるのですが、ことさら神武を下げ神玉依姫を筆頭に掲げるとする理由は神玉依姫に特別な縁故のある神社でもなければありえない様に思うのですが不思議です。
当日は日曜日でしたが若い熱心な宮司がおられご案内頂いたのですが、宮司からとんでもない物をお教えいただきました。
それが、この神殿の周囲に配された唐花でした。
実は、この花菱とか唐花と言われる神紋で、表紋に左三つ巴、裏紋に木瓜を使う高良大社の最奥部にあるのもこの神紋なのです。
つまり、呉の太伯の後裔である大率紀氏が使う神紋がはっきり描かれた神社は九州では特にめったに出くわす事はありません。強いて言えば八幡古表神社(福岡県築上郡吉富町小犬丸353-1)ぐらいでしょうか。

このカムヤマトイワレヒコを祀る神社の千木も男神を表していたようで、神玉依姫を祀るとしても主神はやはり神武だったのでは無いかと考えています。

本物の神武を祀ると考えた理由は同社に若宮神社が境内社としてあった事もあるのですが、
境内神社 若宮神社(オオササギノミコト)、須佐神社(スサノウ)、天満神社(菅原大神)
摂社 稲荷神社(宇賀魂神)、天神社(少彦名命)、大神神社(大名持神)
末社 春日神社(春日大神)
多少整合性に欠ける境内社の配神ですが、逆に信憑性を感じさせます。
実は、筑豊の川崎町など飯塚〜田川方面には神武東征ではなく神武巡行伝承が残っています。
この一帯から広島の福山周辺、そして岡山へと遠くは甲府や徳島まで延びています。
これについてはその最も突出した形が天津司神社で、以下をご参照ください。
ひぼろぎ逍遥
787 | 懸案だった二つの天都賀佐比古(彦)神社を参拝 “徳島県美馬市” |
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
565 | 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 D “天津司舞の天津司神社にやって来た” |
564 | 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 C “天津神社にも奴奈川神社が置かれていた”(下) |
563 | 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 B “天津神社にも奴奈川神社が置かれていた”(上) |
562 | 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 A “糸魚川市の奴奈川神社は市杵島姫を祀る” |
もしかしたら、筑豊の神武東征伝承の起点なのかも知れません。今後の課題です。
百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データを必要な方は09062983254まで