2021年02月12日

795 諸塚村再訪 B (桂神社) “宮崎県諸塚村の桂神社とは一体何か?”

795 諸塚村再訪 B (桂神社) “宮崎県諸塚村の桂神社とは一体何か?”

20191112

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 本稿は ひぼろぎ逍遥 793諸塚村再訪(七つ山)“宮崎県諸塚村の二つの七ツ山と二つの桂正八幡神社”の続編です。

 諸塚村にはどうも七ツ山地名が二つも三つ?もあり、二つの桂正八幡神社があるのです。

 地理院地図では判然としませんが、柳原川沿いの東の七つ山の下手には上長川(カミナゴウ)があり、立岩(地理院地図では立岩)には立岩神社や太白諸塚神社が(ここでも昭文社の地図=県別マップル宮崎県2006では大平諸塚神社と誤記しています)あるのです。さらに上長川から東に県道209号上長川日之影線を辿ると桂地区があり、諸塚村桂山の北里伯耆守の墓所があるのです。

 今回はこの東の桂正八幡神社の話になります。

 地理院地図ではこの地区の南にある山も七ツ山と呼ばれているようで、諸塚神社のある七ツ山と併せ、2〜3ケ所の七ツ山地名があるのです。

 地名の七ツ山、山名の七ツ山、集落名の七ツ山…と混乱してしまいますが、これらの連続性のない七ツ山が飛び地になっているのでも集落の名称でもなく一つの大字七ツ山が山の東西に存在するから良く分からなくなっているのです。

つまり、普通は山や谷を境に別の地名が付されますが、そうでないと言う事はそれだけ同族意識が強かったのでしょう。

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桂神社 カーナビ検索 宮崎県東臼杵郡諸塚村七ツ山2039-2040 0982-65-4235


 一方、西の七ツ山川沿いの大白尾(ダイジロオ)から東に登ったところにあるのが浄覚寺に近い桂神社が在る七ツ山です。

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今回はこの大白尾(ダイジロオ)の西の桂神社から話を始めます。

 今般、熊本の女性メンバーが諸塚山に登り祈りを捧げるので一緒に来て欲しいと言われました。理由は、前々日まで60人規模のイベントを行うので、多分疲れて運転などできないと思うから…という意味でした。

 私自身も久しぶりに諸塚に入りたいとは思っていた事から、渡りに船とばかりに話に乗ったのですが、先行して、東の桂正八幡神社のお祭りと神楽にも行きたいと言う東京の女性と大阪の男性が阿蘇も見たいので私に案内して貰えないか…との話が加わり、数日前に阿蘇の八坂神社、熊野座神社(色見+上色見)国造神社、草部吉見神社、加えて宮崎県五ヶ瀬町鞍岡の祇園神社…を案内する羽目になってしまいました。  

しかも、彼ら一行は諸塚まで行くのです。すると、“諸塚まで二度も入る事になる事からあまりにも効率が悪い“と熊本のメンバーと相談すると、運転してくれる女性が見つかり一緒に諸塚山に登ることにしたからドライバーの件は必要ないとのことで、そのまま、東京、大阪のお二人(実際にはさらに二人が加わり四人まで増えたのですが)と諸塚に向かう事になったのでした。

 とにかく大変な山奥である上に、ドライバーも車も増えた事から私は単独で諸塚に入る事にして、十年ぶりに諸塚への単独行が始まったのでした。

 ただ、始め星祭の話を聴いた事から、天台修験だかの星祭の可能性を考えてしまい、てっきり西の桂正八幡神社の事だと思い込んでしまったのでした。

本来、星祭とは仏教の世界の事で正直面食らった上に、真言、天台のいずれもあると思うのですが「星供養」を何故宮司さんが…と思いました。

地図を見ると、神宮寺の趣のある付近の浄覚寺と関係がありそうです。ただ、寺名が浄覚寺となると、浄土真宗三世の覚如(親鸞は教団を創らなかったものの覚如が本願寺教団を創ります)が頭を過ります。 

本欄、親鸞は真密、台密を問わず星祭などを嫌ったはずなので不思議ですが、あまり不正確な情報での浅酌は止めておきましょう。

いずれにせよ、西の桂神社の北東には星の久保山があり、北辰(妙見)信仰とも重なるのです。

とばかりに早合点してしまったことが大きな間違いに発展してしまったのでした。

結果、西の桂神社に直行できる宮崎県五ヶ瀬町から飯干峠越えの国道503号線を選び、なんとか夕方4時半頃には境内まで上がったのですが、明日お祭りが行われると言う雰囲気ではなく、おかしいと思って、同行で別の車に乗っている日向の女性に宮司の奥さんの携帯を教えてもらうと、なんと東の桂神社の事だと言うのです。


諸塚の西の桂神社とは


古くからの伝承によれば、御祭神は関東葛(かつらぎ)の国より御降臨と言うも、詳細は不詳であるが、桂村の起源と深い関わりがあると考えられる。広く近郷の人々の信仰を集め、例祭は十一月十五日で今日まで変わることなく、僅か五世帯の氏子により、桂神楽と共に続け伝えられている。古くは「八幡宮」と称し、明治四年辛未現称に改め翌五年村社に列せられた。『高千穂神社仏閣記』によると「十一月五日祓斗リ関本ヨリ御光臨ノ神トイフ」とある。
 明治四十二年五月、地方庁の許可を受けて、小原井神社、年神社を合祀し、更に同十月天神社を合祀した。


品陀和気命(ほんだわけのみこと)       応神

息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)   神功皇后

大鷦鷯命(おおさざきのみこと)       仁徳天皇

天津粂命(あまつくめのみこと)       久米の皇子?

菅原道真公(すがわらみちざねこう)     天満宮


宮巡 〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜 運営:宮崎県神道青年会


同社(西の桂神社)の祭神はとりあえず由緒及び沿革の通りと従います。

思い込みとはとんでもない結果をもたらすもので、陽も陰って来ており、林道による山越えも不案内で、一旦、諸塚村の中心部まで降り、東の桂神社を目指したのですが、これまた一般道は諸塚ダムの手前で崖崩れが起こり通行止め、迂回路に入るも行き止まりで何とか引き換えし、再度、宮司夫人にお電話すると、全線二車線のスーパー林道を17キロ走って県道209号線を5キロ下れば桂集落に着くとの事、相当に無駄な迂回を行ないようやく6時を回った頃に到着したのでした。

既に夕闇の帳が降り辺りは暗くなっていました。ともあれなんとか無事に辿り着けたのでした。深謝。

ここからはお祭りが行われる東の桂神社の話になります。

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東の桂正八幡神社


さて、ここでは、北里伯耆守為義の墓所の話に触れない訳には行きません。


北里伯耆守為義の墓所

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 それは、肥後小国郷(現熊本県小国町)の北里氏と、宮崎県諸塚村桂山という凄まじい山奥のほぼ山の頂で稲作をして焼畑もして自給自足で生きてきた小さな落人の集落の間で交わされた記録と記憶の話。

まずは記憶の話です。時系列で。

1513年(永正10年)、阿蘇惟長(兄)が阿蘇惟豊(弟)から阿蘇宮の大宮司職を奪い返そうとして争いが起こる。

 惟長は薩摩の島津の力を借りる。惟豊は日向の甲斐氏を頼る。しかし、惟豊の軍は島津にやられて四散し壊滅する。

 惟豊の部下で阿蘇小国郷の領主北里伯耆守為義は日向の高千穂に逃れ、さらに山を越えた南の諸塚の桂山で自決して果てた。

 そこで家来の一人が伯耆守の遺骨を葬り、墓石をたて、墓守として住み着いた。それが今もつづいている桂山の甲斐氏となる。

 伯耆守の死から450年の間に家は5軒となり、桂山の甲斐氏の本家は諸塚神社の宮司をしている。宮司の家だけはいっさい百姓をせず、肥料を手にせず、墓を守り続けてきた。

この桂山の甲斐氏には、みずからの一族が北里伯耆守の家来の子孫であり、墓守をして現在に至るという伝承があります。でも、それを記録する文書はありません。

次に、記録の話です。

 小国郷の北里氏は、阿蘇兄弟の永正の合戦の後に立ち直り、明治の世まで小国郷を支配する。ちなみにこの北里氏は日本の近代医学の父とも呼ばれる北里柴三郎の一族です。

 この家の古文書のひとつ「北里軍記」には伯耆守戦死の一条がある。系図にも「墓地高千穂七ツ山桂村ニ在馬見ヨリ七里ヲ隔ツ」とある。

だが、北里の家の者が桂山を訪ねて墓参したことは昭和32年まで、ほぼなかった。そもそも記録文書を見ることがほぼなかった。この「ほぼ」という言葉に、「記録」と「記憶」の間に横たわる深い谷があるというわけです。

 さあ、日向の山中の桂山の甲斐氏一族の記憶と、肥後の小国の北里氏一族の記録を突き合わせてみましょうか。

昭和32年、450年の時を経て、北里家の当主が初めて桂山へと北里為義の墓参に訪れます。当主は「北里軍記」に書かれていることの真偽を確かめようと思ったのですね。

 甲斐氏は北里家の当主の訪問に、ついに殿様の子孫が訪ねてきたと大喜びする。そのとき、甲斐氏のほうから、80年余り前に、小国の北里の者だと名乗るおばあさんが訪ねてきて一週間ほど滞在したという記憶を語るのです。このおばあさんは肥後の小国の北里の家では蚕を飼っていると語り、家の者たちにも必ず墓参させると言って帰っていったのですが、それきり音信は途絶えてしまった

 その話を聞いた北里家側で戸籍を調べてみれば、一族のうち七十歳を過ぎて行方不明になった女性がひとりいる。

その女性が行方不明になった頃、北里家では確かに養蚕をしていた。その女性は不運にも、日向の桂山から肥後の小国への帰途に遭難したのか病に倒れたのか。険しい峠を越え、阿蘇を越えてゆく、山また山のその道は、年老いた女性の足ではおそらく片道で少なくとも3日はかかりましょう。

 口承で伝えられてきた日向の桂山の甲斐氏の記憶は、北里家の記録と見事に符合した。それは北里家では思い出されることもなかった記憶でした。しかも、甲斐氏は、桂山で北里為義の墓守となったその経緯も語り伝え、それは北里の家では文書に閉じ込めてすっかり忘れ去られたことだったのでした。


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桂正八幡神社

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桂正八幡神社 本社は弓矢八幡神社とも称し応神天皇(品陀和気命・誉田別尊)を御祭神とする氏神様です。現在は大分県の宇佐神宮が八幡神社の総本社とされる。

 当社はその昔関東かつらぎの国より勧請したとの言い伝えがあり、「いくさ」の神として広く近郷の住民から信仰を集めていました。近世では戦時中に出征兵士の家族など多くの参詣があった。


桂神楽 

 桂神楽の起源については明らかではありませんが、桂村の始まり、特に桂正八幡神社との深い関わりがあるものと考えられます。桂正八幡神社は南北朝時代(1336〜1392年)に、関東かつらぎの国より勧請したと伝えられています。

桂神楽は俗に「かつらぼうり」とよばれて、高千穂の荘と呼ばれた現在の西臼杵や、東臼杵郡の諸塚村や椎葉村、熊本県の蘇陽町等広い地域で伝承されていたと伝えられております。

 大神楽(おおかぐら)は、宮遷宮や大願成就といった時に奉納される夜神楽で、普段は諸塚神社や矢村稲荷神社の例祭などで神楽三番の昼神楽が奉納されています。また、桂正八幡神社の例祭では神楽三番と願成就神楽、旧暦初午祭には稲荷神楽が奉納されています。

 もとは桂村の氏子を中心に伝承されてきた神楽も、保存伝承には大変な苦労があり、戦時中はほしゃこの中堅が応召、戦死するなど消滅寸前の時期もありましたが、現在では伊友、与狩内、上長川、矢村地区よりほしゃこが集い地区あげての保存活動により伝承され、平成元年1月に村指定の文化財、平成311月には県の無形文化財となりました。


このHPは東の桂正八幡神社で運営されているものです


 桂神社と理解していましたが、実際に調べると正八幡宮でした。

ただ、桂正八幡神社という名称も違和感を消せません。桂は葛城一族を暗示しており(実際に谷違いの諸塚神社の上手には「葛」地名があります)、直接的には宇佐の八幡宮とは結びつかないのです。

 この点が実に重要で、平安末期など宇佐八幡宮が専横を振るった時代があり、地域としては仕方がなくホンダワケを受入れてはいるものの、それは後からの話であって、本来、自分たちが祀るのは、別の神様だったのですよ…と主張しているかの様です。

合祀した天神社(恐らくスサノウを祀る)や年神社:当然にも阿蘇草部吉見=ヒコヤイミミを祀る、小原井神社:木花開耶姫命、大己貴尊、少彦名尊を祀る の外にも、この一帯には金山彦を祀る飯干神社など、元々応神天皇を祀る祭祀など片鱗もなかったはずなのです。

 この正八幡宮についてはこれまで何度か取り上げていますが、表面的には、宇佐八幡宮に象徴される応神を表に上げた八幡宮とは本物の八幡宮ではなく、大幡主(博多の櫛田神社の主神)を奉斎するのが、正八幡宮であって、九州で言えば、筑後、豊前などを中心に相当数存在しています。

 この大幡主はあまり知られておらず分かり難いと思いますが、簡略化して言えば、造化三神の神産巣日神=神皇産霊尊=神魂命とするものであり、その大幡主の伯母が天御中主命=妙見神=北辰…となるのです。

 10年前に桂神社を踏んだ時には気に留めていなかったため良く参拝させて頂いていませんでしたので、境内摂社などに何らかの痕跡が見いだされたらと考えています。

 桂神社が何故「桂」と呼ばれているのかも、実は正八幡宮であったと分かった時点でこの神社の性格が粗方納得できました。

申し上げたように、この神社には北里伯耆守為義の墓所を探して足を踏み入れたのですが、丁度秋のお祭りが行われていた時で、境内には多くの氏子の方が集まっておられました。

 七つ山違いとして一人の方が230分も複雑な林道を案内して頂き無事に辿り着いた思い出がよみがえってきました。当時は奉納もしておりませんでしたので今回は正しく参拝させて頂くつもりです。


立岩神社、諸塚神社再訪


また、お祭りは朝10時から行われますので、再訪ですが、立岩神社と諸塚神社をお参りに行きました。

一方、1400メートルもの高峰諸塚山山頂には諸塚元宮があります。


諸塚神社は、諸塚山上の南急斜面に古くから社があり、奉られていましたが、明治13年に諸塚村立岩に移転しています。

旧神社跡には、関係各方面の浄財によって平成6年に元宮として再建されています。

 そこには、昭和15年に宮崎県が建立した「神武天皇御遊幸伝説地」の石碑があります。

諸塚村教育委員会HP


諸塚山縁起

諸塚山は、諸冊二尊(イザナギノミコト・イザナミノミコト)の御神稜であるという古い言い伝えを残し、山頂付近には多くの塚があります。 古くから英彦山・阿蘇山系の修験場といて知られるとともに、近郷の人々から神の山として崇拝されてきました。八合目の南面には諸冊二尊他神々を祀る諸塚神社元宮があり、昔は山頂をはさんで東西に神前と呼ばれる遥拝所もありました。 また一説には、天孫降臨の地といわれ、神武天皇とは深いつながりがあることから、昭和15年に宮崎県により神武天皇ご巡幸の地として、諸塚神社の境内に顕彰碑が建てられています。

諸塚山(大伯山)

諸塚山は、昔は大伯山ともいわれ、神楽唄には「剣立つ諸羽山に分け登り、あじろの浜に立つは白波」と唄われており、諸羽の山とも言われていました。山頂は多くの神々の塚があるので、自然に諸塚となり諸塚山となったようである。この山は、英彦山、霧島の高千穂の峰と共に有名な修験道場であり、周辺の住民の信仰厚く、天孫降臨の地といわれていた。山頂にはイザナギノミコト・イザナミノミコト、国常立命、木花開都姫命、大伯太子を祀ってあり、以前は、筑前の山伏英彦坊も修行に訪れていたようである。 現在山頂付近は、国有林になっており、ブナ・モミ・ナラ等の巨木が茂っている。 登山道があちこちから付けられているが、ここからは稜線沿いのブナ・アケボノツツジ等の群落の中を通り、役1時間で山頂に着ける。 みんなの自然です。手で取らず、写真で撮りましょう。

<諸塚村 諸塚村観光協会>

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先行ブログでも触れましたが、諸塚神社の由緒には天御中主命を筆頭に27神が祀られているとします。

 また、諸塚山山頂の諸塚元宮縁起には諸塚元宮には諸塚大白太子大明神、又は諸塚大白山大司大明神社が祀られていると称したと伝える。ただ、太白山、大白山という山名や天之御中主命を祀るとする立岩神社があり、太白太子大明神とはどうみても初代神武を祀るように思えてなりません。

昭和15年に宮崎県により神武天皇ご巡幸の地(神武巡行伝承であり東征説話とは別)として、諸塚神社の境内に顕彰碑が建てられているにも拘らず、諸塚神社の27祭神には初代神武天皇は祀られてはいないのです。このため初代神武に思える太白太子大明神は祭神として外されている(敗戦直後の占領軍対策)様にも思えるのです。


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2021年02月15日

ビアヘロ174 丁巳歴史塾との合同神社トレッキング資料を公開します @ 厳島神社(飯塚市)

ビアヘロ174 丁巳歴史塾との合同神社トレッキング資料を公開します @ 厳島神社(飯塚市)

20201101

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


北九州の丁巳歴史塾との“武漢肺炎ウイルス退散神社トレッキング”に向けて “飯塚市水祖神社”外


既に何度も廻っている飯塚市ですが、漸く神社トレッキングを本格的に行える条件が整ってきたようです。これまでトレッキング資料については未公開としていましたが広く参加を集うことから公開する事としました。既に太宰府地名研究会で数回トレッキングを行なっています。

一部重複しますが、北九州中心の丁巳歴史塾とのトレッキング”に際して飯塚では最も重要な厳島神社とナガスネヒコが居たと考える高宮八幡神社を巡り“飯塚市水祖神社”を加える事にしました。


 トレッキング順路 


@ 厳島神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市鹿毛馬1088

A 高宮八幡宮  カーナビ検索 福岡県飯塚市伊岐須886-2

B 水祖神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市庄司338-10

住所不明のため入口の庄司簡易郵便局の住所

C 水祖神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市川津608-1 

                住所不明のため隣のグランドベルズ飯塚の住所

 D 水祖神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市川津455

                 住所不明のため隣の阿弥陀寺(真言宗)の住所福岡県飯塚市川津467



@ 厳島神社   カーナビ検索 福岡県飯塚市鹿毛馬1088

   

無題.png百嶋由一郎先生から“飯塚市鹿毛馬の某神社が白川伯王の流れを汲む本家であり、厳島神社の元宮、白川伯王家の源流の一族の神社である”と聞かされていました。正面の鹿毛馬(カケノマ)神籠石については、過去何度か訪れていましたが、神籠石の踏査などをやると大抵はくたびれ目の前の神社でさえ見に行きません。今回はこの崇高な神社をご案内致します。飯塚市の中心部から20分もあれば行ける神社(百嶋先生は最後まで公表されませんでしたので)に向かう事にしました。

以前も触れた事がありますが、「白家神道」など聴いた事もないという方のためにも、学者の権威を無視するためにも、敢えて彼らが無視するウィキペディア(20150417 2030から紹介させて頂きます。


白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の皇孫の延信王清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家である。皇室祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元白川家(しらかわけ)は花山源氏を出自とする堂上家である。花山天皇の皇孫の延信王(のぶざねおう)が源姓を賜り臣籍降下して神祇官長官である神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を世襲するようになったために「伯家」とも、また、神祇伯に就任してからは王氏に復するのが慣例であったことから「白川王家」とも呼ばれた。

白川伯王家の成立

白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、神祇伯就任とともに「」を名乗られたことである。「王」の身位天皇との血縁関係で決まり、本来は官職に付随する性質のものではない。非皇族でありながら、王号の世襲を行えたのは白川家にのみ見られる特異な現象である。以下、このことに留意しつつ白川家の成立について説明する。…中略…

吉田家との地位逆転

室町時代になると、代々神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた卜部氏吉田兼倶吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して吉田家が全国の神社の大部分を支配するようになり、白川家の権威は衰退した。江戸時代に白川家は伯家神道を称して吉田家に対抗するも、寺社法度の制定以降は吉田家の優位が続いた。

家格は半家、代々の当主は近衛中将を経て神祇伯になった。江戸時代の家禄は200石。他に神祇領・神事料100石。

王号返上と家系断絶

明治時代になると王号を返上し、白川家の当主の資訓子爵に叙せられた。資訓の後を継いだ資長には実子がなく、伯爵上野正雄北白川宮能久親王庶子)の男子の久雄養子に迎えたが、後にこの養子縁組は解消となり、白川家は断絶となる。


白川伯王が何かついては、既にひぼろぎ逍遥 159 秦の始皇帝と市杵島姫、173博多の櫛田神社の祭神とは何か? で説明していますので詳しい説明は省きます。

 ただ、簡略化して言えば、秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦の一族が、始皇帝の姓である「臝」を許され「瀛」(イン)を名乗り、その一族と強固な姻戚関係で結ばれた白族(白川伯王→博多櫛田神社の主祭神大幡主→豊玉彦=豊玉主=ヤタガラス)を含め強固な「瀛一族」が形成されたのです。

 この「瀛」という姓を名乗ることが許された神代の有名な人物に、宗像三女神の一人である市杵島姫=津島姫があるのですが、古代の社格について言えば、本当は宗像大社よりも上位の神社だったのです。

 その証拠に、九州王朝の巨大山城である鹿毛馬神籠石の正面に鎮座しているではないですか。

 ともあれ、社殿をご紹介致しましょう。

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無題.png神社縁起はご覧の通り宗像同様の配神(三女神)ですが、むしろ、宗像大社が、この厳島神社と同様だと表現する方が正しいはずなのです。ただ、これだけではこの神社の重要性は言い尽せない様に思います。

なお、牧野神社についても、もしかしたら百済の目支(マキ)国を意味しているかも知れません。

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筑前国総鎮守-櫛田神社

博多祇園山笠で有名な櫛田神社の神紋は上の通りです。勿論、祇園山笠の祇園は右の五花無題.png木瓜紋ですが、主祭神で ある大幡主は六角形の三盛り亀甲に五三桐をシンボルとしています。 ここで、鹿毛馬の厳島神社神紋を見て頂きましょう。 千木は女神である事を表していますが、三盛亀甲(これは剣付き唐花) これだけでもこの厳島神社が大幡主の傘下にあったことが分かります。宗像も確認しましょう。

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楢紋は、宗像大社の神紋。大社の御神木である楢の木から。
 『神社名鑑』には、梶紋とあるが、電話で確認したら楢であるとのこと。 
「玄松子の記憶」より

これだけでは何とも…と言われる方は多いでしょう。その向きには次の写真をご覧いただきましょう。


無題.png厳島神社の宮司家が「白土」を姓としている事が分かります、しかし、何故か土に「、」点が付いています



この厳島神社にも数軒の白土さんがおられる事が境内の氏子の名を見ても分かります。点のある白土さん、点の無い白土さんがおられるのですが、宮司家は明らかに点付きの「白土」様です。

 無論、点付きの「土」という文字はない訳で、普通ならこの理由は全く分からないはずです。

 しかし、百嶋先生は十分お分かりだったようで、明治期に当時の神祇官→神祇庁が同社に押し掛け、千年以上続いた「白王」姓をけしからんとして変名を迫った結果であるとされていました。


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結果、白川伯王の「王」の横一棒を抜いた「土」へと変更したという歴史を留めるために痕跡としての「、」を残されたのです。 川伯→白(土+)へと。 ※「、」は、栄えある王の横一文字を削らされた印ですね。

この「点」についての謂れを、ちょうど境内の掃除をされていた宮司(90歳)の息子さんにお尋ねしたところ、“五代前の宮司からそのように聴いています”とのお答えを頂きました。

白川伯王家の本流、源流であり御本家であるという意味がお分かり頂けたと思います。


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白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”


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796 諸塚村再訪 C(諸塚元宮) “諸塚山頂の神々の画像を貰いました”

796 諸塚村再訪 C(諸塚元宮) “諸塚山頂の神々の画像を貰いました”

20191115

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 宮崎県諸塚村の東の七つ山桂正八幡宮の大祭に参加したのは119日(土)でしたが、この祭に参加かできなかった熊本の女性メンバーが、全体で5名のパーティーで1213日に掛けて諸塚山山頂に登り山上でお祭りをしてきました。

 来年三月にも40人を動員してお祭りをするとの計画も立てていますので勢いに留まるところがありません。

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諸塚山(1,341.6m)画像はネットから切り取ったもの


 今回はその下見でもあった様ですが、そのおかげで諸塚山山頂と諸塚元宮の画像が送られてきました。

 そこで、再度、諸塚元宮について考えて見たいと思います。

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山頂に十数基の円墳があると言われ、それが「諸塚(多くの塚=墳墓)」と言う山名の由来で、諸塚村のシンボルと言えます。別名大白山とも、山尾根に七つの峰があるため七ツ山とも言います。山上の諸塚神社の祭神は二十八柱と大変多く、しかも天孫降臨以前の天神七代の祖神十三柱も含まれます。このような高天原時代の神を全部祭ったお宮はほかに例がないそうです。

諸塚山について(諸塚村公式HPによる


何でも疑ってかかるのが私の習性ですから申し上げますが、山頂に十数基の円墳があると言われ、それが「諸塚(多くの塚=墳墓)」と言う山名の由来 には違和感以上のものを感じさせます。

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諸手、両差し…とは両方、二つを意味するもので、だからこそ諸々、諸人と複数以上の事を意味する言葉が造られているのです。

このため、「諸塚」の意味をそのまま考えれば、二つの塚があるからorあったから、「諸塚山」と呼ばれ、村名にまでなったと考える価値はあると思います。

この場合の二神とはイザナギ+イザナミであって、確か諸塚神社とかその手前の立岩神社辺りに鎮座する天神社(道真を祀るとしますが、当然、イザナギ+イザナミとの間に産れたのがスサノウであり、道真にはスサノウの血を引くナガスネヒコ、オキツヨソタラシの血が注がれている)。

山尾根に七つの峰があるため七ツ山とも言います も、どうも七つの峯ではないという気がしています。

 まず、どこからどこまでを数えるか…もありますが、それは置くとしても、諸塚神社祭神(27神)の筆頭神に天御中主命を祀っている事からすれば、それは妙見信仰(北辰=北極星信仰)であり、七つ山とは北斗七星としか考えようがないのです。

山上の諸塚神社の祭神は二十八柱と大変多くも、山頂の元宮(28神)に対して直下の諸塚神社(27神)の違いがどこにあるのかが気になります。

 以下は直下の諸塚神社の祭神(27神)です。

天之御中主命、国常立命、国狭槌命、泥土煮命、沙土煮命、豊斟渟命、大戸道命、大戸辺命、面足命、惶根命、伊弉諾命、伊弉冉命、大山祇命、品陀和気命、少彦名命、大日孁貴命、建速素盞鳴命、大鷦鷯命、天太玉命、息長足姫命、事代主命、天明玉命、天神魂命、天饒速日命、天表春命、天下奉命、淀姫命(27神)

 では、外されたのはどの神様でしょうか?諸塚元宮の縁起を見ても判然としません。

 恐らく神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)ではないかと思います。つまり、終戦(敗戦)直後の進駐軍(占領軍)対策ではなかったかと考えています(諸塚山山頂の神武天皇巡行碑)。

 そう考える根拠は、「諸塚神社(元宮)」が別名諸塚大白太子大明神と呼ばれているからであり、大白太子とは本物の初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)=お妃はアイラツヒメ (呉の太伯の後裔の意味であり「倭」は呉の太伯の末)以外には考えようがないからです。彼は呉の太伯の直系なのです。


「諸塚山縁起」がありますが、ここには諸塚山の別称「太伯山」(大白山)に関して記述があります。


「太伯山」…一説に日本の皇室の祖が、呉(中国の王朝名)の太伯であるとされ、諸塚山はその太伯を祀ったことから、その名がついたといわれています。


言うまでもなく、呉の太伯とは、中国周王朝の古公亶父の長男だった人で、皇位継承をめぐる混乱から次男と共に江南に逃れ、その血筋の良さから越人に担がれ呉の祖とされた人です。

后稷を始祖とし姓は周王朝宗家の姫(キ)姓とされます。姫氏は紀氏であり、諸塚山には呉の太伯が生前に住んでいて死後に葬られたという伝承もあるのです。


説明板にはこんなことが書いてある。

諸塚山縁起「由来」

諸塚山は諸冊二尊(イザナギノミコト・イザナミノミコト)の御神陵であるという古い言い伝えを残し、山頂付近には多くの塚があります。古くから英彦山系、阿蘇山系の修験場として知られるとともに近郊の人々から神の山として崇拝されてきました。

八合目の南面には諸冊二尊他の神々を祀る諸塚神社元宮があり、昔は山頂をはさんで東西に神前と呼ばれる遥拝所もありました。また一説には天孫降臨の地といわれ神武天皇とは深いつながりがあることから、昭和十五年に宮崎により神武天皇巡幸の地として諸塚神社の境内に顕彰碑が建てられています。

「名称」〜諸塚山にはいくつかの別称があります〜

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諸塚山〜山頂付近に多くの塚があることから生まれたといわれています。文献によれば江戸時代の弘化二年(1845)にはこう呼ばれていたようです。

大白山〜冬に山頂が雪でまっ白におおわれることから呼ばれたという説と、高千穂町の方から諸塚村の山頂付近に輝く宵の明星(金星)によるという説があります。

太伯山〜一説に日本の皇室の祖が呉(中国)の太伯であるとされ諸塚山はその太伯を祀ったことからその名がついたといわれています。

諸羽の山〜諸塚の神楽歌にこの名が見られます。「剣立つ諸羽の山にわけ登る あじろが浜に立つは白波」

諸塚村・諸塚村観光協会

九州の山と沢 No2


無題.png山頂の社のようですが猿越山神社なる奇妙な名の社の写真が送られてきました。

 猿越山は石槌山に近い高知県の山ですが、有名な石槌神社と関係があると考えて良いでしょう。

石鎚大神は、伊邪那岐命と伊邪那美命の第二子で、天照皇大神の兄に当たるとされているのですが、それならばスサノウの弟かなにかになるはずです。

 しかし、社の下の紋章を見ると大三島の大山祗を思わせます。

もしかしたらそうなのかも知れません。

 これは今後の課題ですが、そもそも石鎚大神自体が謎なのです。今のところ金山彦の後裔と解釈していますが、それで良いかは不明です。

 ますます、諸塚元宮の存在が際立ってきました。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記