ビアヘロ173 鰐神社再訪 “佐賀県神埼市志波屋の二つの鰐神社”
20201022
太宰府地名研究会 古川 清久
佐賀県神埼市というよりも吉野ケ里遺跡の北の山際の一角に志波屋と呼ばれる地区があり、二つの鰐神社(王仁神社)があり、少し下った場所に在る王仁神社の方には中国からのインバウンド狙いもしくは中国への肖りとしか思えない王仁氏来訪を伝承する施設まで造られているのです。
勿論、以前から関心を持っていたのは県道脇に鎮座する方の寂れ草臥れた装いの鰐大明神の方である事は言うまでもありません。
この神社の祭神が何なのか、この神社を創った(恐らく鰐氏を招請した)人々が誰であるかの話に入る前に、少し視野を拡げて考察して見ましょう。
まず、「志波屋」という変わった地名です。3文字であることから「好字令」以前の地名である事は在る程度推定ができます。
当然にも「志波」が地名固有名詞の語幹であることは論を待たないでしょう。
恐らくこの「志波」という地名を付した集団こそが王仁博士を招聘した氏族であり、渡海能力のある(操船技術と渡洋航海が可能な船を準備できた)人々だったはずなのです。
直ぐに分かるのは近くの熊野宮であり、吉野ケ里遺跡の付近にも熊野神社が数社拾えることから熊野神社系統の氏族つまり博多の櫛田神社の大幡主系の人々だった事は一目です。
確かに関係があるのです。
この朝倉市に合併編入となった旧杷木町(大分自動車道杷木IC)には古くは杷木よりも勢力があった志波地区があり、これが神埼市の志波屋の移動ではないかと考えて来ました。
仮想 神埼市志波屋 → 朝倉市志波 → …… 宮城県塩釜市 志波彦神社 鹽竈神社
お考えください、「朝倉」地名は全国に30ケ所は拾え、戦国武将の朝倉義景のご先祖は室町期の大守護大名斯波氏の臣下だったのです。
このことについては、以前にも取り上げています。詳しくはこちらをお読み頂くとして、話を先に進めます。
ひぼろぎ逍遥〜新ひぼろぎ逍遥
666 | 陸奥の志波彦神社 鹽竈神社 とは福岡県朝倉市志波から進出した 豊玉彦系氏族が奉斎する神社(下) |
665 | 陸奥の志波彦神社 鹽竈神社 とは福岡県朝倉市志波から進出した 豊玉彦系氏族が奉斎する神社(上) |
317 | 列島の「朝倉」地名コレクション “狗那国拡散の痕跡地名か?“ |
146 | 「朝来」地名について B “朝倉氏と小佐氏” |
145 | 「朝来」地名について A “但馬、朝倉、養父、志波” |
144 | 「朝来」地名について @ “兵庫県朝来市の朝来山から” |
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
685 | 宮原さんに曳かれて天満宮へ “朝倉市古賀の天満宮は天満宮なのか?” |
684 | 宮原さんに曳かれて朝暗神社へ “朝倉市須川の朝暗神社の基層には 誰が祀られているのか?” |
633 | 鰐大明神が鎮座する佐賀県神埼市志波屋とは |
王仁神社参拝殿正面 この立派な方の鰐神社の正面には鳥が置かれ剣唐花紋が打たれていました
この神紋は鴨玉依姫が使っていたもので、後には応神に渡されたもののようです。
これには草部吉見系氏族=後の藤原が関係していると見るべきでしょう。
既に以前の参拝の時からも、この王仁博士を招聘した氏族の見当は粗方付いていました。
それは、前述の通り熊野宮との関係からの推定でした。
立派な設えの鰐神社の由緒には以下の様にも書かれています。

王仁神社の背景に熊野神社があり、ある時代天満宮ともされていた事を考えると、参拝殿の屋根に鳥が置かれている意味も多少は伺えます。
皆さんも天満宮、八幡宮などに鳥(鳩)文字を設えた神額を見たことが在られる方もおられるでしょう。
これは大幡主=カミムスビを奉斎する正八幡宮などを建てる氏族…橘一族が関係している事が見えてきます。彼らは大きな帆を持つ渡洋航海可能な大型船を駆使する集団であり、有明海に突き出した吉野ケ里の岬状の丘陵地の脇を流れる澪筋と大きな干満を利用し、直接接岸していた可能性さえ想定できるのです。
だからこそ王仁の上陸地点、居留地さえも有明海側に準備していたはずなのです。
繰り返しになりますが、重要なのは王仁博士を招聘した人々と招聘され渡海してきた大量の人々とは区別される必要はあり、結局「鰐族」とは何なのかを考えざるを得なくなります。
ここで、改めて通説に沿った立場からの鰐氏とは何かを考えて見ましょう。
和珥氏(わにうじ) は、「和珥」を氏の名とする氏族。5世紀から6世紀にかけて奈良盆地東北部に勢力を持った古代日本の中央豪族である。和珥は和邇・丸邇・丸とも書く。
出自については2世紀頃、日本海側から畿内に進出した日の御子信仰または太陽信仰をもつ朝鮮系鍛冶集団とする説や、漁労・航海術に優れた海人族であったとする説がある。
また出自伝承に関し、和邇氏族は孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命(天押帯日子命)から出たと称しているが、この天足彦国押人命という名は実体が殆ど無いものであり、和邇氏族の実際の上祖は天足彦国押人命の子とされる和邇日子押人命であったと考えられる。氏族名の「和邇」とは鰐のトーテムを意味すると考えられ、龍蛇、鰐信仰を持っていた海人族の安曇氏と同族で、その祖神は綿津見豊玉彦命であったと見られる。
ウィキペディア 20201022 12:46による
仮にこれが正しいとした上で孝昭天皇の皇子 天足彦国押人命(天押帯日子命)とされる天足彦が誰であるかを考えて見ましょう。
イスラエル系の金山彦と白族の大幡主の妹である埴安姫の間に産まれた櫛稲田姫がヤマタノオロチ神話を経てスサノウの妃となり産まれたのがナガスネヒコでその妹オキツヨソ足姫が草部吉見=ヒコヤイミミイとの間に産まれたのが天足彦なのです。
鰐氏が単なる渡来系氏族と言うよりもイスラエル系氏族とされる理由の一端にこの秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦の一族「瀛」氏の後裔氏族としての性格に関係している可能性はあるのではないでしょうか。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
ただ、ここではこの議論にこれ以上は踏み込まず、宮城県の志波彦神社 鹽竈神社に繋がっている事をお知らせして終わりとします。こちらもスケールの大きな話であり、詳しくは前掲の10本ほどのブログをお読み頂きたいと思います。
新ひぼろぎ逍遥
665 陸奥の志波彦神社 鹽竈神社 とは福岡県朝倉市志波から進出した豊玉彦系氏族が奉斎する神社(上)
仙台湾に向かう宮城県塩竈市に東北鎮護・陸奥国一之宮 志波彦神社 鹽竈神社 があります。
結論から先に言えば、この神社とは福岡県を西に流れる筑後川の北岸、現朝倉市の志波から持ち出された神社だと分かるのです。
その話に入る前に、まずは同社の公式HPから、由緒、ご祭神を確認して頂きましょう。以下同社HP
鹽竈神社
鹽竈神社の御祭神は別宮に主祭神たる塩土老翁神・左宮に武甕槌神・右宮に経津主神をお祀りしておりますが、江戸時代以前はあまり判然とせず諸説があった様です。陸奥國最大の社として中古より崇敬された神社の御祭神がはっきりしないのは奇異な感じがしますが、呼称も鹽竈宮・鹽竈明神・鹽竈六所明神・或いは三社の神など様々あった様です。そこで伊達家4代綱村公は社殿の造営に際し、当時の名だたる学者を集めて研究せしめ現在の三神とし、又現在の別宮の地にあった貴船社と只州(糺)宮は現在の仙台市泉区の古内に遷座されました。
鹽土老翁神は『古事記』『日本書紀』の海幸彦・山幸彦の説話に、釣り針を失くして困っていた山幸彦に目無籠(隙間のない籠)の船を与えワダツミの宮へ案内した事で有名ですが、一方博識の神としても登場しています。
武甕槌神(茨城県鹿島神宮主祭神)・経津主神(千葉県香取神宮主祭神)は共に高天の原随一の武の神として国譲りに登場し、国土平定の業をなした神です。社伝によれば、東北地方を平定する役目を担った鹿島・香取の神を道案内されたのが鹽土老翁神の神であり、一説には神々は海路を亘り、七ヶ浜町花渕浜(現在の鼻節神社付近)からこの地に上陸されたと言われ、又鹽土老翁神はシャチに乗って海路を渡ってきたと言う伝えもあります。
やがて鹿島・香取の神は役目を果たし元の宮へ戻りましたが、鹽土老翁神は塩釜の地に残り、人々に製塩法を教えたとされています。塩釜の地名の起こりともなっております。
御祭神の伝承の異説
日本を代表する古社、奈良県の春日大社の縁起を伝える『春日権現験記』(1309)によりますと武甕槌神は陸奥国塩竈浦に天降り、やがて鹿島に遷ったとされる注目すべき記述があります。
志波彦神社
志波彦神社は志波彦大神をお祀りしております。あまり馴染みのない御神名ですが、『延喜式』の神名帳に記載されている2861社の中でもわずか225社しかない「名神大社」と言う格別の崇敬を朝廷より受けていた神社です。
元々は東山道より多賀城に至る交通の要所宮城郡岩切村(現仙台市宮城野区岩切)の冠川の辺(現八坂神社境内)に鎮座しておりましたが、中世以降衰微の一途を辿り境内も狭隘だったため、明治4年の国幣中社列格の際に社殿造営の事が検討され、明治7年12月24日この地を離れ鹽竈神社別宮に遷座され、この際の御祭文に後日鹽竈神社境内に社殿を造営する旨が奏上されました。
大正11年当時の宮司山下三次が政府に造営の陳情をしましたが、翌年の関東大震災発生にて効を奏せず、次代古川左京宮司が時の政府に強く訴えかけてようやく昭和9年に着手、明治・大正・昭和の神社建築の粋を集め昭和13年に完成したのが現社殿です。造営前の社殿地には2階建て社務所が建っておりましたが現在の場所に降ろし、その場所に志波彦神社を建立しております。 紙面の関係でここまでとします。