2021年02月01日

791 諸塚村再訪 @(太白) “宮崎県諸塚村七つ山諸塚神社”

791 諸塚村再訪 @(太白) “宮崎県諸塚村七つ山諸塚神社”

20191110

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 宮崎県諸塚村と言ってもご存じない方は多いと思います。

 良く知られた椎葉村の東(北東)隣の椎葉よりさらに辺鄙な村という方が分かりやすいかも知れません。

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 栂尾神楽の栂尾を始め椎葉村には過去数十回は入っていますが諸塚村には過去45回程度です。

 諸塚神社にも2度、桂神社、桂八幡神社や二つの七つ山地名を奇妙に思い更に踏み入っています。

 特に民俗学者の宮本常一の“阿蘇小国の北里から一族の墓参に訪ねた老婆が七つ山の帰路戻ってこなかった…”といった話に惹かれて同地を尋ねたことがあったのですが、これは神社ではなく民俗学がらみの話になります。一方、神社調査の側面からは多少自慢めかした話になるのですが、78年前百嶋由一郎先生は“自分はまだ諸塚神社には行っていない…”と言われていました。それほど九州山地でも奥深い山奥の集落の話です。そろそろ重要この上ない諸塚神社などの位置づけぐらいはしなければならないと思うようになってきました。


諸塚山について

諸塚山は、古くから神山として旧高千穂郷の信仰の対象となっていた山で、諸塚村の名前はここからきています。諸塚村北部、高千穂町との境にあり、国道503号線の飯干峠から車で10分ほど上った六峰街道沿いに登山口があります。

山頂に十数基の円墳があると言われ、それが「諸塚(多くの塚=墳墓)と言う山名の由来で、諸塚村のシンボルと言えます。別名大白山とも、山尾根に七つの峰があるため七ツ山とも言います。山上の諸塚神社の祭神は二十八柱と大変多く、しかも天孫降臨以前の天神七代の祖神十三柱も含まれます。このような高天原時代の神を全部祭ったお宮はほかに例がないそうです。

諸塚村HPによる


 まだ、ほとんど分かっていないのですが、故)百嶋由一郎氏は、狗奴国の乱なのかナガスネヒコの乱なのか不明ですが(私が聴いていないと言う意味で)、大山祗は呉の太白の後裔である初代神武(カムヤマトイワレヒコ)の一族を自らの支配地域の中でも最も安全な諸塚村周辺に保護していた…ようだといった話をされていました。

また、一般にも太伯山や山上古墳は神武天皇などの墓であるとかいった話も流れているようです。

この点は、通説に沿って一般には別名大白山とも、山尾根に七つの峰があるため七ツ山とも言います。と対応します。

 「七ツ山神社明細帳」…ほか幾つかの記録には「太白山」「大白山」と表記にブレが認められます。

 太白が呉の太伯王の後裔としての神武天皇の意味と、金星、北極星、シリウスなど星の意味の「大白」の意味が輻輳している様にも見えます。


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当社は、九州山地の中央部の山岳地帯、耳川の支流七ツ山川流域に位置する。勧請年月は不詳であるが、一説によれば桓武天皇の御代(781805)、西海の方へ白旗が飛び去った。これを神掛の者に問うたところ、「吾は日向国旧杵之社諸塚神社也」と答えた。坂上田村麻呂を勅使として日向国に差下し、宮社を創建すると伝える。

 また、一説には昔唐土の大代大八という者、この地に来りて岩窟に入り、籠居二十一日遂に出ず、里人祠を立ててこれを祀り、諸塚大白太子大明神、又は諸塚大白山大司大明神社と称したと伝える。(七ツ山神社明細帳1890年)。本村の神山諸塚山(イザナギ・イザナミの神陵と伝えられる)の山頂には、空木ヶ原に西の神前・赤木ヶ原には東の神前と称して、山頂の諸神を遙拝する場所があり神社があった。山頂は古くから修験道場として信仰の霊山であった。

西の神殿は焼失し、東の神殿は明治四十三年十二月十九日に現在の社殿に諸塚山山頂より移転した。明治三十九年国の勅令によって神饌幣帛料を供進すべき神社の指定を受け、郷社七ツ山神社の社格となった。その後大正十四年、旧称七ツ山神社を諸塚神社と改称する。

現在山頂には東の神殿跡に、諸塚神社元宮を平成二年に建立している。その傍らには神武天皇御遊幸記念碑が、紀元二六〇〇年を記念して建立されている。(昭和十六年)

当社の下流に立岩大明神があり、その昔、川沿いにそびえる高さ数丈なる子持岩の下に数畳敷きの窟があり、天之御中主命をお祭りしていたが、年代不詳の大洪水で大神の御霊代は栂の節に乗り、美々津に流れ着いた。村人これをとりおくも、尋ね来たる者なくつとにここに奉斎せり。いまは大神を諸塚神社に合祀せり。立岩の里人今も栂の節を焚かずとの言い伝えあり。その岩が昭和三十一年一月十日午後一時頃、大音響とともに割れて落ちた。現在はその上に大明神をお祭りし、秋の大祭では御神幸祭の御旅所となっている。


天之御中主命(あめのみなかぬしのみこと)                   =白山姫、天常立命

国常立命(くにのとこたちのみこと)                      =大幡主、白川伯王

国狭槌命(くにさづちのみこと)

泥土煮命(ういじにのみこと)                        

沙土煮命(すいじにのみこと)                        

豊斟渟命(とよくむぬのみこと)

大戸道命(おおとのじのみこと)

大戸辺命(おおとべのみこと)

面足命(おもだるのみこと)                         =金山彦

惶根命(かしこねのみこと)

伊弉諾命(いざなぎのみこと)

伊弉冉命(いざなみのみこと)

大山祇命おおやまつみのみこと)

品陀和気命(ほんだわけのみこと)

少彦名命(すくなひこなのみこと)

大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと)                   =卑弥呼=天照

建速素盞鳴命(たけはやすさのおのみこと)

大鷦鷯命(おおさざきのみこと)                   =仁徳(開化と神功の長子)

天太玉命(あめのふとだまのみこと)                     =ヤタガラス

息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)                  =神功

事代主命(ことしろぬしのみこと)                      =エビス(エブス)

天明玉命(あめのあけだまのみこと)

天神魂命(あめのかんみたまのみこと)

天饒速日命(あめのにぎはやひのみこと)

天表春命(あめのうえはるのみこと)

天下奉命(あめのしもまつりのみこと)

淀姫命(よどひめのみこと)                    =川 猛の妹で安曇磯羅の妃

宮巡 〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜運営:宮崎県神道青年会


天常立は百嶋メモによって天御中主=白山姫としても、国常立は白川伯王か大幡主(神産巣日神、神皇産霊尊)か不明です。面足尊は金山彦で良いでしょう。

ただ、宇比地邇神、須比智邇神辺りになるとお手上げです。

問題はこれらの神々が、何故、諸塚神社に祀られているかです。“まだ、ほとんど分かっていないのですが、冒頭に述べたように、呉の太白の後裔である初代神武(カムヤマトイワレヒコ)の一族を安全な諸塚村周辺に保護していた…ようだとしました。太白山、山上古墳はその痕跡なのでしょうか。”別名大白山とも、山尾根に七つの峰があるため七ツ山とも言います。と対応します。…大山祗がこの本物の神武(神武僭称贈る第10代崇神ではない)カムヤマトイワレヒコの一族を匿っていたという話は魅力的で、その方向で検討しています。それらは恐らく同社での伝承であって、九州山地の最奥部の人吉〜椎葉〜諸塚〜阿蘇…辺りの賢い宮司、禰宜で続けられていた秘密の神社の研究会(その片鱗が最近になり多少見えてきました)に継承されていた話を上米良純臣から百嶋由一郎辺りが引き継いでいた話であろうと考えています。 

そうでなければ、太伯山、大白山…と言った名称にはならないはずです。何故なら、列島の初期の天皇家とは周王朝の流れを汲む呉太伯の後裔だからです。

そして、神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)は祀られていないのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分) 上   百嶋由一郎極秘系譜(部分)下

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百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データを必要な方は09062983254まで


諸塚神社 当社は、九州山地の中央部の山岳地帯、耳川の支流七ツ山川流域に位置する。勧請年月は不詳であるが、一説によれば桓武天皇の御代(781805)、西海の方へ白旗が飛び去った。これを神掛の者に問うたところ、「吾は日向国旧杵之社諸塚神社也」と答えた。坂上田村麻呂を勅使として日向国に差下し、宮社を創建すると伝える。

 また、一説には昔唐土の大代大八という者、この地に来りて岩窟に入り、籠居二十一日遂に出ず、里人祠を立ててこれを祀り、諸塚大白太子大明神、又は諸塚大白山大司大明神社と称したと伝える。(七ツ山神社明細帳1890)。

本村の神山諸塚山(イザナギ・イザナミの神陵と伝えられる)の山頂には、空木ヶ原に西の神前・赤木ヶ原には東の神前と称して、山頂の諸神を遙拝する場所があり神社があった。山頂は古くから修験道場として信仰の霊山であった。

西の神殿は焼失し、東の神殿は明治四十三年十二月十九日に現在の社殿に諸塚山山頂より移転した。明治三十九年国の勅令によって神饌幣帛料を供進すべき神社の指定を受け、郷社七ツ山神社の社格となった。その後大正十四年、旧称七ツ山神社を諸塚神社と改称する。

現在山頂には東の神殿跡に、諸塚神社元宮を平成二年に建立している。その傍らには神武天皇御遊幸記念碑が、紀元二六〇〇年を記念して建立されている。(昭和十六年)

当社の下流に立岩大明神があり、その昔、川沿いにそびえる高さ数丈なる子持岩の下に数畳敷きの窟があり、天之御中主命をお祭りしていたが、年代不詳の大洪水で大神の御霊代は栂の節に乗り、美々津に流れ着いた。村人これをとりおくも、尋ね来たる者なくつとにここに奉斎せり。いまは大神を諸塚神社に合祀せり。立岩の里人今も栂の節を焚かずとの言い伝えあり。その岩が昭和三十一年一月十日午後一時頃、大音響とともに割れて落ちた。現在はその上に大明神をお祭りし、秋の大祭では御神幸祭の御旅所となっている。    宮巡〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜運営:宮崎県神道青年会 による


にも拘らず、何故か初代神武(カムヤマトイワレ…)が諸塚神社の27神に祀られていない事は、明治以降の改竄ではないかと考えています。何故なら、神武は神武巡行を行なっていますが、神武東征は第10代とされた神武僭称贈る崇神(ハツクニシラススメラ…)の事蹟だったからではないでしょうか。

 もう一つの可能性は、手前の立岩大明神の大白太子大明神が神武天皇(カムヤマト…)かも知れません。


793 諸塚村再訪(七つ山) “宮崎県諸塚村桂正八幡神社”へと続く…

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2021年02月03日

792 諸塚村再訪 A(七つ山) “宮崎県諸塚村の二つの七つ山と二つの桂正八幡神社”

792 諸塚村再訪 A(七つ山) “宮崎県諸塚村の二つの七つ山と二つの桂正八幡神社”

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


無題.png792 諸塚村再訪(太白) “宮崎県諸塚村七つ山諸塚神社”から続く…

 単なる通過ではなく諸塚神社を目的で足を踏み入れたのが諸塚村訪問の最初でした。 

同社に対する興味もさることながら、二十数年来、宮本常一に傾倒していたからでしたが、十年ほど前にその当時拾った「七つ山の北里伯耆守為義の墓を訪ねた老婆」の話が何とも素晴らしく何故が心惹かれて訪ねて行った事がありました。

その為義公の墓のある坂道に辿り着き少し奥の家(実は東の桂正八幡宮の宮司宅だったのです)の前まで足を延ばすと、普通の農家とは思えないそれなりに立派なお宅からピアノの音が聞こえて来たのでした。当時、このような山奥に何故、雛にも稀な…美しい御姫様でもおられるのでは…と思った記憶が今も蘇ってきます。


「山に生きる人びと」 著者: 宮本常一 


 それ以来訪問していなかったのですが、今般、諸塚村に入る機会というか必要性(関東〜関西など数人の方を案内する)を得た事から、いよいよ諸塚神社も書き留めておこうと思い立ったのでした。

このため、ここからはこの北里伯耆守為義公の墓にまつわる話に少しですが触れさせていただきます。


それは、肥後小国郷(現熊本県小国町)の北里氏と、宮崎県諸塚村桂山という凄まじい山奥のほぼ山の頂で稲作をして焼畑もして自給自足で生きてきた小さな落人の集落の間で交わされた記録と記憶の話。

まずは記憶の話です。時系列で。

1513年(永正10年)、阿蘇惟長(兄)が阿蘇惟豊(弟)から阿蘇宮の大宮司職を奪い返そうとして争いが起こる。

 惟長は薩摩の島津の力を借りる。惟豊は日向の甲斐氏を頼る。しかし、惟豊の軍は島津にやられて四散し壊滅する。

 惟豊の部下で阿蘇小国郷の領主北里伯耆守為義は日向の高千穂に逃れ、さらに山を越えた南の諸塚の桂山で自決して果てた。

 そこで家来の一人が伯耆守の遺骨を葬り、墓石をたて、墓守として住み着いた。それが今もつづいている桂山の甲斐氏となる。

 伯耆守の死から450年の間に家は5軒となり、桂山の甲斐氏の本家は諸塚神社の宮司をしている。宮司の家だけはいっさい百姓をせず、肥料を手にせず、墓を守り続けてきた。

この桂山の甲斐氏には、みずからの一族が北里伯耆守の家来の子孫であり、墓守をして現在に至るという伝承があります。でも、それを記録する文書はありません

次に、記録の話です。

 小国郷の北里氏は、阿蘇兄弟の永正の合戦の後に立ち直り、明治の世まで小国郷を支配する。ちなみにこの北里氏は日本の近代医学の父とも呼ばれる北里柴三郎の一族です。

 この家の古文書のひとつ「北里軍記」には伯耆守戦死の一条がある。系図にも「墓地高千穂七ツ山桂村ニ在馬見ヨリ七里ヲ隔ツ」とある。

だが、北里の家の者が桂山を訪ねて墓参したことは昭和32年まで、ほぼなかった。そもそも記録文書を見ることがほぼなかった。この「ほぼ」という言葉に、「記録」と「記憶」の間に横たわる深い谷があるというわけです。

 さあ、日向の山中の桂山の甲斐氏一族の記憶と、肥後の小国の北里氏一族の記録を突き合わせてみましょうか。

昭和32年、450年の時を経て、北里家の当主が初めて桂山へと北里為義の墓参に訪れます。当主は「北里軍記」に書かれていることの真偽を確かめようと思ったのですね。

 甲斐氏は北里家の当主の訪問に、ついに殿様の子孫が訪ねてきたと大喜びする。そのとき、甲斐氏のほうから、80年余り前に、小国の北里の者だと名乗るおばあさんが訪ねてきて一週間ほど滞在したという記憶を語るのです。このおばあさんは肥後の小国の北里の家では蚕を飼っていると語り、家の者たちにも必ず墓参させると言って帰っていったのですが、それきり音信は途絶えてしまった

 その話を聞いた北里家側で戸籍を調べてみれば、一族のうち七十歳を過ぎて行方不明になった女性がひとりいる。

その女性が行方不明になった頃、北里家では確かに養蚕をしていた。その女性は不運にも、日向の桂山から肥後の小国への帰途に遭難したのか病に倒れたのか。険しい峠を越え、阿蘇を越えてゆく、山また山のその道は、年老いた女性の足ではおそらく片道で少なくとも3日はかかりましょう。

 口承で伝えられてきた日向の桂山の甲斐氏の記憶は、北里家の記録と見事に符合した。それは北里家では思い出されることもなかった記憶でした。しかも、甲斐氏は、桂山で北里為義の墓守となったその経緯も語り伝え、それは北里の家では文書に閉じ込めてすっかり忘れ去られたことだったのでした。


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宮本常一の著書はあるのですが、手っ取り早くはネット上から 無題.pngをお読み頂く事もできます。

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概略はお分かり頂けたかと思いますが、実は諸塚村には二つの七つ山地名が存在し、二つの桂正八幡神社(宮)があります。その上に、諸塚神社は東の正八幡宮宮司家が兼務されておられます。

 ただ、もう少し正確に言えば、七つ山という大字が二つある訳ではなく、星の久保と呼ばれる千メートル近い山の東西に広がる大字があるために外部の者には二つの七つ山地区があると勘違いするのです。

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東の桂正八幡神社

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西の桂正八幡神社


この桂正八幡神社が如何なる神社なのかを考える前に、少しばかり周辺の地名やこの地方の歴史に思いを巡らして見たいと思います。

まず、二つの七つ山の二つの桂正八幡神社の間に聳える星の久保(嶽)の星の久保という地名が気になります。

星の久保とは、間違いなく982.6mの高峰なのですが、本来、久保とは窪地の意味であって、山頂に付される地名としては馴染みません。

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星の久保山頂(恐らく山頂は右手の頂)


ただ、グーグル・マップで山頂を確認すると、右手の山頂に対してテレビ塔が置かれた西の高みとの間に確かに窪地の様な鞍部が認められます。

ご覧の通り北には祖母傾山系が望める場所であり、少しへこんだ鞍部こそが「鞍」地名である事を考えれば、この地で山岳修験の人々が星を見通し、祭りを行なった場所であろうと思いを膨らませます。

始めは久保とは瘤(コブ)であり、溶岩ドームのような岩塊でもあるのかとも考えたのですが(九州西岸では、大事をウーゴト、栂:トガをツガとホウヅキをフウヅキ…と発音するなど中央語のO音がU音と対応する傾向が認められ中央語の瘤が窪、久保と表記されたのか)、実際にはそのような地形は確認できず、やはりこの枕の凹みのような窪地が星祭の窪とでも呼ばれたのではないかとそのメスを収めたのでした。つまり、星の瘤とはホシノコブorホシノコボと呼ばれていた事が想像できます。

では、次に七つ山とは何かを考えて見ましょう。

これまた奇妙奇天烈な地名であり、安直に七つの連峰と考えて済ませる事は容易なのですが、やはり熊野と九州を繋ぐ修験のルート上の地である事を考えると、この天文をも知り尽くした修験者(山法師)の存在を無視できないのです。

まず、西の桂正八幡神社の地図を見ると大白尾(ダイジロオ)があります。

あくまでも一つの仮説ですが、表記が大白とある以上、太白(呉の太白)の意味も十分に考えられるのですが、大陸では大白に金星、シリウス、北極星を当てる場合があり、もしも、北極星に相当するとすれば、星の久保という地名と併せ七つ山の「七つ」とは北斗七星を暗示しており、妙見信仰(北辰信仰)=天御中主命信仰と深く繋がっている事が見えるのです。

そして、星の久保(修験者の山は通常「嶽」と表記する)山直下の諸塚神社の27神の筆頭神が天御中主命である事とも対応するのです。

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ついでに勝手ながら上長川(カミナゴウ)、下長川という二つの地名も考えてみます。勿論、東の桂正八幡は七つ山にあるのであって、この上長川、下長川は同社とは直接的な関係はないようです。

九州では谷川を「タンゴウ」「タンゴ」と呼ぶように、川を「コウ」「ゴウ」と呼んでいた形跡があります。従って、「ゴウ」は川の意味で良いようにも思うのです。まさか「郷」の意味ではないでしょうが、上、下はそのままとして、問題は「長」の解釈です。

古くは所有の格助詞としての「ノ」に対応する「ナ」があります。類例としては「そこおなご」が分かり良いでしょう。多分、上の川と下の川の古代表記の名残だろうと思います。

もう一つの桂神社の「桂」の意味ですが、諸塚神社の奥に「葛」集落「黒葛原」集落があるように、葛城一族の後裔氏族の意味の可能性があるように思います。

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何故ならば、葛城一族とは呉太白の後裔である神武天皇(カムヤマトイワレ…)のさらなる後裔である武内宿祢の後裔氏族である以上、神武伝承が残る諸塚にこの葛、桂はピッタリだからです。

「葛城」も「桂木」も同じ意味であることは言うまでもありません。

この諸塚神社の傍に二つの桂神社が在る事は実に象徴的で、共に葛城一族の後裔である可能性があるのです。

つまり、武内宿祢の後裔氏族という事になりそうです。

一般には、武雄心命と山下影姫の間に武内宿祢が生れているとされますが、百嶋神社考古学ではそれを否定します。これについては以下の百嶋由一郎金神神代系譜をご覧ください。

ただ非常に難解です。私も解読中ですので共に考えましょう。

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百嶋由一郎金神神代系譜(部分)


 言うまでもなく、開化天皇=高良玉垂命は呉の太伯の後裔である神武天皇のそのまた後裔なのですが、この開化の腹違いの兄が武内宿祢になるのです。


 最期に、諸塚村の「諸塚」が何故「諸塚」と呼ばれているかについて温めている話があるのですが、もう少し孵卵器に入れておこうと思います。


百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データを必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2021年02月06日

793 始めて踏む淡路島の高良神社を確認した “兵庫県南あわじ市“

793 始めて踏む淡路島の高良神社を確認した “兵庫県南あわじ市“

20191030

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 四国の高良神社についてはほぼ全社を確認していますが、淡路島まで足を踏み入れた事は一度もなく、同社が淡路島に存在する事も頭の片隅にはあったのですが、高知の「もう一つの歴史教科書問題」 無題.png 氏から“淡路島に行かれるなら高良神社も…”とアドバイスを受け、淡路島は兵庫県であった事を改めて思い出した次第です。

 ともあれ、無題.pngの伊藤女史に随行する讃岐、淡路への調査旅行がなければ決して踏まなかった神社のはずなのです。

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淡路島の中心部である洲本市から南あわじ市一帯の要路に位置する場所であることは間違いないのですが


伊藤女史は立派な所にお泊りになりましたが、当方は車中泊を決め込み早朝から同社を訪問しました。

 鎮守の社と言うには余りにも狭い一角に追いやられているという印象は否めませんが、良く手入れされ掃除も行き届いた神社でした。

 鳥居の神額は高良社、参拝殿の神額は高良神社、石の神殿は高良大明神…とあり紛れもない高良神社でした。

 境内には他の祭祀は無く、むしろ他所から降ろされた神社、移転させられたか、地域の努力によって守られた神社ではなかったか…との印象も持ちました。

 実は迂闊でしたが、淡路島にはもう一つの高良神社があるようです。

 後で気づいたのですが、それこそ後の祭りであって、今となってはどうにもなりません。

兵庫県南あわじ市賀集八幡南207 高良神社 祭神 武内宿祢 以下は兵庫県神社庁データ


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広田田の高良神社神殿(久留米の高良神社には筑後川の洪水で流されるため石造神殿が多いのですが)


さて、参拝殿から北の丘陵を望むと国道28号線を挟んで神社の参道らしきものが見えました。

同社はここから降ろされたのでしょうか?

その神社は応神天皇を筆頭とする新参の八幡神社でありその神宮司だったようです。

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案の定八幡神社とその神宮司が新しい支配者として豪奢な神殿と造像起搭の面持で鎮座していました

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何度も取り上げて来た高良神社ですがここでは百嶋神代系譜から誰が祀られているかをお知らせしましょう
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百嶋由一郎極秘系図(全部)


百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。実費程度で、貴重な資料が手に入ります。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記