2020年12月01日

771 菊池氏とは大山祗系の民族だった!“内倉武久氏ほか4人で宮崎熊本県境の狭上稲荷神社に…”

771 菊池氏とは大山祗系の民族だった!“内倉武久氏ほか4人で宮崎熊本県境の狭上稲荷神社に…”

20190831

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ここ一年で ひぼろぎ逍遥+ひぼろぎ逍遥(跡宮)に以下の三本をアップしてきました。


ひぼろぎ逍遥

723

菊池氏とは熊襲(トルコ系匈奴)であった “ようやくその尻尾を掴んだ”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

712

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)

稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(下)

711

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)

稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(上)


 この神社が如何に価値あるものであるかは徐々にお分かり頂くとしても、ここでは、これまで三度ほど参拝し見えて来た認識を現段階での理解でお知らせしようと思うものです。
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狭上稲荷神社 カーナビ検索 宮崎県西米良村村所503


 この狭上稲荷神社は西米良村という宮崎県でも辺境中の辺境の地にあるのですが、村の中心部の村所地区からも7キロ登りさらに3キロ谷底へ降りるとようやく辿り着く正しく大変な場所の僅かな小平地に鎮座している荷神社です。しかも狭上稲荷神社の傍には伝大山祗の墓とする古墳があるのです。この古墳には石棺があるらしいのですが、後述の「石櫃」地名と関係があるのではないかと考えています。

 実は、同社への道は川沿いに上がる直行ルートが本来の参道の様で、川沿いに今も上がってはこられるようですが、現在、車で入る事が出来る道がないため、延々10キロの山道で迂回し入るしかないのです。


九州山地中央部の山間地、一ツ瀬川と板谷川の合流点に位置する。地内には二基の古墳があり、小川の古墳一基とともに西米良古墳として県史跡に指定されている。一基は菊池記念館の裏の山中にあり、一基は当社の南側に位置している。

旧称狭上稲荷大明神と称し、創立年月日は不詳であるが、社蔵の由緒記によれば次のごとくである。

皇御孫尊阿田之長屋にご臨座し、大山祇命の娘、姉の磐長比唐畏れ給い、妹の木花咲哉比東ワ十鈴川上川に去ってしまった。大山祇命は跡を慕いて狭上の深川に跡を垂れ給う。爰に御陵あり、しかし空国にして祭る者がなかった。世降りて当社御陵を知る人も稀になっていた。時に天正年中、山中堂栄、煮田之尾勝房・山佐礼左近・西世法師の四人兄弟狭上の東西南北に柴の庵を結んで露命を繋いでいた。西世法師の夢に白髪の老翁が現れ、我は是れ大山祇命なり、我陵を以て稲荷を祭り尊敬せば汝が子孫長久なる事疑う事なし、と言われた。西世法師山谷の狐魅我を犯すとしてそのままにしていた。また夢見があったので此の神を祭り尊敬すると日数を経ずして白狐稗粟大小豆を携えて来て西世法師に与えた。その後米良佐太夫の時に新たに社を建立した。その子孫の米良半右衛門と言う者が球磨表に越したので、その後中武氏神司となりここに居住した。

この由緒によれば、創建は古く菊池氏の入所後、氏の弟米良佐太夫の再興に係り、その子孫によって代々護持されてきたものである。


宮巡 〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜 運営:宮崎県神道青年会

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社務所+宮司宅(左) 参拝道を歩む在りし日の内倉武久氏(右)


 今回、新メンバーであり人吉盆地の一角でblog「ひろっぷ」を書き続けておられる50代の女性に、芦北町の郷土史会というか史談会と言うか野坂の浦で活動中の吉田先生、さらに大阪から来られた内倉武久先生の3人をお連れしました。結果、私としては三度目の訪問となりました。

 折しも、朝日系の人気番組(地上波)「ポツンと一軒家」に6月か7月に間違って収録され放映されたこともあって多少は参拝客が増えたとか、ついでにお嫁さんもみつかったということです。

無論、私達の目的がそこに在る訳ではありません。

 四人の思いは各々あったでしょうが、少なくとも私が最も関心を持っていたのは南北朝期に宮方として闘い続けて敗れ去った菊池氏が何者であるかを掴むことにありました。

 皆さんが九州の中近世史を考える上でも菊池氏は無視できませんが、実は九州の古代史を考える上でも決して無視できない存在なのです。簡単に言えば岩手県が顕著なのですが、東北地方に菊地、菊池姓を名乗る方が大量におられる事は知られています。

 中近世期に目だった移動が確認できないため、恐らく八世紀以前の九州王朝の時代に何らかの理由で移動しているのではないかとも考えて来ました。

 そのうち糸口は掴めると思っていますが、この菊池氏が何者であるかはこれまで闇に包まれてきました。

 普通はその氏族が奉斎する神社の祭神や家紋を見れば凡その見当が着くのですが、菊池氏については、それが効かなかったのです。

 例えば神社ですが、いくら多くの菊池系神社を踏もうが祭神は菊池武光、武時、始祖の則隆…ぐらいで一向に祭神が見えてこないのです。

 また、家紋についても、皆さん良くご存じの並び鷹羽が知られています。しかし元々は日足紋を使っている事は分かっています。

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唯一、33番神楽でも知られ菊池氏の逃げ城と言われた現宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社だけに磐長(イワナガ)姫(通説で大山祗からコノハナノサクヤと共に送られるも返されたと言う酷い話に仕立てられた)が祀られ僅かにその痕跡を感じていましたが、ようやくその意味が見えて来たのです。

先に狭上稲荷神社の祭神を再度確認しましょう。〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜運営:宮崎県神道青年会 によれば 大山祇命 倉稲魂命 大宮姫命 大己貴命 菊池武光公及びその祖先 となりますし、同社の由緒に依れば、大山祇命 蒼稲魂命(恐らく倉稲魂命) 大己貴命 大己貴命 菊池武光公及びその祖先となります。ただ鹿児島県にだけ分布する大宮姫伝承の大宮姫命は含まれてはいません。

 確認されたい方は以下をお読み下さい。いずれにせよ菊池一族が奉斎する神々の見当がある程度は着くのです。これに銀鏡神社の磐長姫を考えれば菊池氏が何者かの見当が大凡着くのではないでしょうか。

 同社由緒は以下で確認下さい。


711

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)稲荷神社が

今も西米良村の最深部で息続ける(上)


では、我が百嶋由一郎最終神代系譜で確認して見ましょう。

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稲荷様とは伊勢の外宮の豊受大神こと辛国息長大姫大目姫(大山祗の長女神大市姫の娘)です。

狭上稲荷の祭神(当然にも稲荷を含む)も全て大山祗のファミリーであり、菊池氏が奉斎する神々がウマシアシカビヒコチ(トルコ系匈奴=大昭君系親漢派の南匈奴)と天御中主命(白族)の後裔であることが分かるのです。

 では、銀鏡神社の主神の磐長姫(通説でコノハナノサクヤの姉とされる)の方はどうなのでしょうか?

 その前に磐長姫が誰かが分かっておられない方が多いと思います。

 これについては、当方のバックナンバー ひぼろぎ逍遥(跡宮)020 細石神社とは何か?などを読んで頂くしかないのですが、分かり易いのは ひぼろぎ逍遥 487 安産の里無津呂の神々 子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト @ かも知れません。


487

安産の里無津呂の神々 子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト @


 一応の説明を致しますが、率直に言えばかなり分かり難いと思います。このため、先に分かり易い方の簡略化した説明をしておきます。

@  コノハナノサクヤは確かに高木大神の息子であるニニギのお妃になります(その子が糸島半島の桜谷神社の古計牟須姫命)。しかし、百嶋翁の話によると数年で別れ、豊玉彦=ヤタガラスの傘下に入り事実上のお妃のお一人となります。

A  とすると、ヤタガラスの姉がアカルヒメ=磐長姫ですから、コノハナノサクヤにとってアカルヒメとは義理の姉になるのです。

 これが磐長姫がコノハナノサクヤの姉とされる仕組みなのです。しかし、東米良の銀鏡神社の祭神がイワナガヒメとされた理由は不明です。もしかしたら天御中主命の勢力(白族)の支援を期待しての事だったのかも知れません。これで菊池氏が大山祗系の氏族である事がお分かり頂けるのではないでしょうか?

前述の如く通説では木花之佐久夜毘売は、ホデリ(ホアカリ?)、ホスセリ、ホオリの三柱の子を産むとしますが百嶋神社考古学ではそれを認めません。また、磐長姫と木花之佐久夜毘売とが実の姉妹である事も認めません。また、無関係でもないと言うより、むしろ関係性の強い従妹のような関係なのです。

B  南北朝期阿蘇氏と連携し戦い続けた菊池氏でしたが、彼らが自らの素性、つまり熊襲であった事を隠す必要が有り阿蘇氏と同様の鷹羽紋に変更し阿蘇氏一派つまり熊襲ではないと偽装した可能性が浮かび上がってきました。つまり朝敵と言われないための配慮だったのです。今後も探索します。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


まず、百嶋神社考古学で、イザナミはイザナギと別れた(神話では黄泉の国で喧嘩別れした事になっていますが)後、博多の櫛田神社の大幡主のお妃となり豊玉彦=豊国主=ヤタガラスとアカルヒメを産みます(これには多くの傍証がありますがここでは省略します)。

磐長姫は博多の櫛田神社の大幡主(白族)を父神として金山彦(瀛氏)の妹神であるクマノフスミ(イザナミの後の神名)を母神として生まれたアカルヒメ(スサノウのお妃で姫島に戻ってきた)とします。

一方、コノハナノサクヤヒメ大山祇(越智族)を父神として、博多の櫛田神社の大幡主の妹である埴安姫母神として産れた大国主命の妹とします。

このため妙な表現になりますが、父神も母神も異なるものの、アカルヒメの父神とコノハナノサクヤヒメの母神が兄妹であることから、腹違いで種違いの従姉妹といった関係にはなるのです。

これは勿論伏せられていますが、百嶋先生がこの事実を把握された事により、問題が鮮明になってくるのです。

これを神話では姉妹としていますが、アカルヒメことが醜かったから返されたとする神話には、阿蘇氏の後裔としての藤原の作為が感じられ、金山彦系を貶める意図があるように思えるのです。

ただ、磐長姫の名誉のために申しあげておきますが、イワナガヒメ=アカルヒメは新羅の王子様であったスサノウから逃げて国東半島正面の姫島に上陸したとされているのであり、スサノウが但馬の出石に追いかけてきたほどの女神であったとすれば、到底醜かったなどとは思えないのです。

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百嶋由一郎氏の講演録CD神代系譜、手書きスキャニングDVD等を必要とされる方は09062983254まで

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2020年12月03日

772 沖縄の波上神社とは何か? “ノロの修行に通っているN女史から波上宮のお札を頂いた”

772 沖縄の波上神社とは何か? “ノロの修行に通っているN女史から波上宮のお札を頂いた”

20190904

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 沖縄と言えば波上宮と相場が決まっています。

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波上宮 カーナビ検索 沖縄県那覇市若狭1丁目2511


うちのメンバーには特異なキャラクターの方がおられます。カシュガルや白頭山に行ったりする独身男や、ノロの修行に毎年沖縄に足を運んでいる女性もいる訳で、今回はその女性からこの神社のお札を頂いた事から同社の話を書くことにしました。ただ、私は先島には何度か行きましたが同社は踏んでいません。このため何だと馬鹿にされるかもしれませんが分かる範囲でお知らせしたいと思います。

当方のブログでは石垣島〜西表島に関するリポート「先島」を書いています。僅かですが、沖縄に数多く存在する御嶽(ウタキ)を取り上げています。本来、御嶽が基層に在り、神社は中近世以降の物と思いますが、それも沖縄の特殊性であり素直に受け入れておこうと思います。

 いずれこの女性からリポートが書かれるとは思いますが、未踏ながら良い機会を得ましたので波上宮(別表神社)を取り上げる事にします。

 社名は見ての通りであって、波の上とはそのままのもので理解して良いと思います。

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ここにも久米地名があり、それだけでも一文を書きたいくらいので興味深いのですが、話が逸れますので避けます。ただ、神秘性に欠けまるでリゾート地の造られた癒しを意識してしまいそうです。


波上宮 『日本の神々 -神社と聖地- 13 南西諸島』では、主祭神からも分かるように熊野信仰の系列に連なっており、また琉球王国の総鎮守であると述べている。現在も沖縄総鎮守として信仰されている。

主祭神

伊弉冊尊 (いざなみのみこと)

速玉男尊 (はやたまをのみこと) 左神座

事解男尊 (ことさかをのみこと) 右神座

相殿神竈神(火神) 産土大神 少彦名神(薬祖神)


慶長10年(1605年)に倭僧・袋中良定が著した『琉球神道記 巻第五』の「波上権現事」では当宮を琉球国第一大霊現と述べ、さらに以下のような当宮の創設伝承を記している。

南風原の里主という者が釣りをしていると、ある日浜辺で「光り、ものを言う」霊石を見つけた。この石に祈るたびに豊漁となるので、諸神がこの霊石を奪おうとした。そこで里主が当地へ逃れると「吾は熊野権現也、この地に社を建て祀れ、然らば国家を鎮護すべし」との神託があった。里主は琉球王府にこれを奏上し、社殿が創建された。

上記の伝承は、琉球の固有信仰として古くからあった石体信仰と熊野信仰が結合したものであろうと『古代文学講座11 霊異記・氏文・縁起』では考察している。また、上記と同様の伝承が康熙52年(1713年、和暦では正徳3年)に国王へ上覧された琉球王府編纂の地誌『琉球国由来記 巻11』にも記されている。


ウィキペディア(20190904 16:32による


 どちらにしても、琉球の戦国時代の結果成立した15世紀以降の琉球王府の祭祀なのです。

 しかし、列島から離れた孤島のこと南北朝争乱期を経た熊野水軍と熊野の神々が祀られている事に歴史の結果を感じます。

 もしかしたら、敗残した宮方の勢力(例えば赤松一派とか)が進出、避退した結果なのかも知れません。

伊弉冊尊が筆頭主祭神になっていますが、夫神のイザナギが祀られていない事をしっかり確認して頂きたいと思います。速玉男尊は博多の櫛田神社の大幡主(ヤタガラスの父神)、事解男尊は金山彦、相殿の神竈神(火神)も金山彦と同体、産土大神は今のところ不明です。少彦名神(薬祖神)は大国主の協力者として知られている奇妙な神様ですが、逆に大幡主系の神であることを裏付けています。

同社にはもう一つの性格があります。聞得大君(きこえおおぎみ)です。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏の講演録CD神代系譜、手書きスキャニングDVD等を必要とされる方は09062983254まで

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百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)この系譜でイザナミ=クマノフスミが金山彦の妹と分かります


聞得大君「聞得」は大君の美称辞で、「君」は「カミ」の意で、従って「大君」は君の最高者という意味であるという説がある。琉球方言で、チフィウフジンガナシ(聞得大君加那志)と称した。宗教上の固有名詞となる神名は「しませんこ あけしの」「てだしろ」である。

聞得大君は琉球王国最高位の権力者である国王のおなり神に位置づけられ、国王と王国全土を霊的に守護するものとされた。そのため、主に王族の女性が任命されている。琉球全土の祝女の頂点に立つ存在であり、命令権限を持った。ただし祝女の任命権は国王に一任されていた。また、琉球最高の御嶽である斎場御嶽を掌管し、首里城内にあった十御嶽の儀式を司った。


ウィキペディア(20190904 17:04による


 恐らくこれが本来の在地神(渡来神)であり、産土大神かも知れませんが、聞得が何者であるかが分からなければ意味がありません。

 ただ、百嶋由一郎氏が残された手書きデータの中に「聞得大君」が河泊=河童=最下層ユダヤとの書き込みがありました。

突飛に思われる方は多いと思いますが台湾でも河伯は河童と理解されており決して荒唐無稽な話では全くないのです。今後ともこの方向で探索を継続します。

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手書きスキャニングデータ 百嶋神社考古学02  007八女津姫系図 007E(大蛇伝説)金朱露


冒頭でノロの修行に毎年沖縄に足を運んでいる女性の話に触れましたが、彼女はイザイホウの久高島にも何度も足を運び長期滞在もしています。このノロが「聞得大神」に深く重なっているのです。


琉球王国は、第一尚氏王統の時期に既に、首里の佐司笠/差笠(さすかさ)という祭司と国頭地方由来の阿応理屋恵(煽りやへ/オーレー)という祭司を最高位とする祭政一致を行ってはいたが、当時はまだ各地域の神女体制は階層化されていなかったとされる。第二尚氏王朝の尚真王の治世に、全国の神女体制を整理し、琉球の信仰と統治機構を一体化した全国的な祭政一致体制を確立した。「ノロ」という呼称はそのときに神職の正式名称として制定されたものだが、祭祀制度そのものはそのとき初めて制定されたものではなく、以前から各地域に女性の祭司がおり、各地域の祭祀を司っていたと考えられている。尚真王はすでにあったこれらを整備し、中央集権的に階層化したのである。なお、ノロにあたる女性の祭司を八重山では「ツカサ(司:「神」と同義)」と呼称する。また、これら神職者は総称として便宜上「神女」と通称される。


ノロ 琉球王国の神女体制 これは尚真王代に全国のノロの頂点として制定されたのが「とよむせだかこ」(名高き霊力溢れる君)の異名を持つ聞得大君だった(聞得大君は「最も名高い君」という意味)。聞得大君は琉球国王を守護する国王のおなり神であり、王国を守護し豊穣をもたらす神とされた。事実、初代の聞得大君は尚真王の妹である。それまで、国王に仕える神女の権威は国王を上回るようになっており、尚真王の即位についても、母オギヤカが高級神女と結託して謀略を巡らしただめだったという逸話も残っている。(この伝説ではしばしば「聞得大君が関与した」という言説が出てくるが、それは誤りで、尚真王以前に聞得大君職は存在していない。おそらく佐司笠か阿応理屋恵ではないか)。こうした国王と神官の権力関係も尚真王の時代に改められ、聞得大君職は権力として国王の下位に置かれている。


ノロ 任命と成巫儀礼 ノロは原則として世襲制で、ノロ殿地(どぅんち)と呼ばれる家系から出る。これらの多くは、琉球王国時代に王府より任命されたもので、元々は各地域の有力按司(あじ)の肉親(姉、妹、妻など)と考えられている。これは、琉球の信仰の背景にある、おなり神信仰に由来すると考えられる。新たなノロの就任に当たっては、久高島のイザイホーに代表されるように、それぞれの地域で認証儀礼が設けられているケースが確認できる。また、ユタのように、カンダーリィ(神垂れ)と呼ばれる原因不明の体調不良といった巫病、夢の啓示などにより、ノロに選ばれる例もみられる。王国時代には、ノロの任命継承が不予などにより順当に行われなかった場合に、そうした形で近親者から後継者が選ばれた例がある。また、現在の久高島では、こうした霊感の強い人物(サーダカ、サーダカウマリ)を断絶したノロの後継者として選ぶということが行われている。ノロは原則として終生職であるが、現在の久高島では、久高ノロと外間ノロ以外の神人には引退儀礼がある(2008年現在、両ノロは存在しない)。また、三代後(祖母から孫娘)に霊格である霊威(セジ)が引き継がれると考えられている。

ウィキペディア(20190904 17:14による


 かつて、ノリだけで八代の河童共和国の大統領特別補佐官をしていた当時、台湾の河童共和国からの話を拾った事がありました。

 その中でもこの「河伯」の話が出て来ました。この中で何度も確認したそうですが、やはり「カッパ」と発音していたという話を聴いていました。

 台湾東北部の花蓮港あたりから船に乗れば八重山経由で沖縄は一衣帯水であって、このルートでも同一派が進出している事はまず間違いないでしょう。

 ただ、このユダヤ最下層の勢力は半島経由でも列島に進出していますので、沖縄の聞得大君の一派がどのルートで入っているかは今後の課題です。

 なお、「伊弉冊尊が筆頭主祭神になっていますが、夫神のイザナギが祀られていない事をしっかり確認して頂きたいと思います」と前述しました。このことについては何度か書いていますが、再度簡略化した説明を加えれば、百嶋神社考古学では、イザナギとイザナミはかなり早い段階で別れ、イザナミは大幡主(博多の櫛田神社の主神)のお妃となっているとします。

 これが、熊野神社などでは祭神としてイザナギが祀られず、多賀神社などでは両神を護持している理由なのです。

 事実、「日本書紀」でも一書に曰くとして“イザナミからイザナギにもう別れましょう”と書いていますので、この政略結婚は早い段階で破綻しているようです。

 ただ、スサノウはイザナギ、イザナミの子であって、現在でも博多の櫛田神社の三神の一角を占めており、そこには金山彦の娘としてのイザナミが反映されていると考えるべきなのです。

 九州中心に多くの神社を見ていますが、イザナミを祀りイザナギを排除している神社はどう見ても多数派であるという印象は拭えません。


百嶋由一郎氏の講演録CD神代系譜、手書きスキャニングDVD等を必要とされる方は09062983254まで

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2020年12月06日

773 No.120 祓戸の大神(瀬織津比)と櫛稲田姫@ “宮原誠一の神社見聞牒からの転載”

773 No.120 祓戸の大神(瀬織津比)と櫛稲田姫@ “宮原誠一の神社見聞牒からの転載”

20190918

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


宮原誠一の神社見聞牒(120)
令和元年(2019)0830

No.120 櫛稲田姫生誕伝説の地・熊本県山鹿市の旧稲田村@


熊本県山鹿市菊池市一帯は「肥川 ひのかわ」と呼ばれる菊池川が流れ、八岐大蛇(やまたのおろち)神話の櫛稲田姫(くしなだひめ)生誕の伝説の地・熊本県山鹿市に旧稲田村があります。櫛稲田姫の本来の名称は「稲田媛」。
旧稲田村は、1889年、山鹿郡庄村、石淵村、高橋村、下高橋村、津袋村、小島村が合併して発足しました。村の名称の名残が「稲田小学校」としてあります。
櫛稲田姫は、『古事記』では櫛名田比売、『日本書紀』では奇稲田姫(くしいなだひめ)、稲田媛(いなだひめ)です。

1.八岐大蛇神話
「記紀」の八岐大蛇神話から神話の舞台は島根県と多くの方が思われることでしょう。
この神話の元は、古代の熊本県山鹿市菊池市一帯を支配していた二つの豪族感の争いにスサノオが仲裁し、二人の豪族が和平した物語であり、これが古事記の八岐大蛇神話に形を変えて取り込まれたと考えています。

古事記にみる八岐大蛇神話Wikipedia)から要約
高天原を追放された須佐之男命(すさのおのみこと)は、出雲国の肥河の上流の鳥髪に降り立った。箸が流れてきた川を上ると、美しい娘を間に老夫婦が泣いていた。その夫婦は足名椎(あしなつち)と手名椎(てなつち)といい、娘は櫛名田比売(くしなだひめ)といった。
夫婦に娘は8人いたが、年に一度、高志から八俣遠呂智という8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物がやって来て娘を食べてしまう。今年も八俣遠呂智の来る時期が近付いたため、最後に残った末娘の櫛名田比売も食べられてしまうと泣いていた。須佐之男命は、櫛名田比売との結婚を条件に八俣遠呂智の退治を請け負った。
まず、須佐之男命は神通力で櫛名田比売を櫛に変えて自分の髪に挿した。それから足名椎命と手名椎命に7回絞った強い酒を造らせ、8つの門を作り、それぞれに酒を満たした酒甕を置き構えた。待っていると八俣遠呂智がやって来て、8つの頭をそれぞれの酒甕にのぱし酒を飲み干し、八俣遠呂智が酔って寝てしまった。この時、須佐之男命は十拳剣(とつかのつるぎ) を抜き切り刻んだ。このとき、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきた。これが「草那藝之大刀 くさなぎのたち(天叢雲剣 あめのむらくものつるぎ)」という。
八俣遠呂智を退治した須佐之男命は、櫛名田比売と暮らす場所を求めて出雲の根之堅洲国の須賀の地へ行き、そこで「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」と詠んだ。

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八岐大蛇と素戔嗚尊(柳瀬・玉垂神社)

福岡県高良大社の「高良玉垂宮神秘書」第1条に「ヤマタノオロチと天叢雲の剣」について古典的記載があります。

高良玉垂宮神秘書 第1条部分
天岩戸の後(中略)樋の川の奥へ入り給う。その川の川上より箸一対流れ下る、人が在ると思し召し、川を伝いに入り給う。片原に在家見えたり。立ち寄りてご覧ずるに、夫婦と姫一人みえたり。泣き悲しみ限りなし。スサノヲ尊、尋ね給う。いかなる人にてあるか?答えていわく。この浦は三年に一度、この川に「いけにえ」あり。今年はわが姫に当たりて、男の肌に触れない女を「いけにえ」に供えるなり。スサノヲ尊聞こし召す。ここに至って、そうあるければ、悪龍を退治すべしと仰せあれば、翁、答えて申す。御意にそうすべし。喜びいわく、翁夫婦の名を足名椎(あしなつち) 手名椎(てなつち)という。姫の名を稲田姫と云うなり。
スサノヲ尊その意を得て、まず、「ヤハシリ酒」という毒酒を作りて、舟一艘に積み、上の社に段を構え、姫の形に人形を作り置きたまう。
風水龍王、人形の形が酒に映りて、酒の下に人があると思いて、毒酒を飲み干す。もとより、かくのごとくせんがための企みであれば、川岸に酔い臥したり。スサノヲ尊、これをご覧じてトツカの剣を抜きて、散々に切りたまう。八の尾をことごとく切り給う。その中の一つに切れない尾があり、ご覧ずるに、氷のごとくになる剣あり。取りてご覧ずるに、後の天照大神の三種のうちの宝剣なり。この剣は近江国の伊吹山にて失いたまう。(中略)
スサノヲ尊、宝剣をもって、もとの斎所にもどられ、神たち集まりて、この宝剣を天照大神に贈呈され、喜びはかぎりなし。その時、スサノヲ尊と天照大神仲直りたまう。(中略)この宝剣は風水龍王の八つの尾の中の尾にあり。剣のあるところから煙立ちて叢雲のごとくに在るにより、叢雲の剣と申すなり。
その後、草木に火をつけ国土を焼かんせしを伝え聞き、この剣をもって草をなぎ払いたまう。この時より草薙の剣と申すなり。

記紀の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)説話の原典でしょうか。オロチを騙していかに毒酒を飲ませるかがよく表現されています。考えてみれば、オロチも単純で、酒甕に映った人形姫を、その酒下にいる姫と思って酒を飲み干すのですから。
実は、この説話は大山祗と金山彦との山鹿菊池地方での争いを説話化したものと云われています。菊池の大山祗と山鹿の金山彦との百年戦争と言われ、ヤマタノオロチの説話の材料にされ、金山彦夫妻が足名椎手名椎夫妻、大山祗はオロチに例えられている。その争いを仲裁したのが素戔嗚尊です。オロチ問題が終わったことは二人の豪族間の争いが終結したことを意味します。倭国大乱前のことです。

2.金山彦と天叢雲剣
八岐大蛇神話には金山彦(金鑚大神)と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)がセットで組み込まれています。天叢雲剣の誕生秘話です。

九州王朝前夜 百嶋先生講演 20117
自分たちの一族である長髄彦が神武天皇に対して弓を引いた。それで、それをお詫びするために長髄彦の親父である素戔鳴は大変苦労されて、何とか天照大神にお詫びする方法を考え出された。それが、天叢雲(あめのむらくも)の剣の献上です。天叢雲の剣でピンとこられない方は、ヤマトタケルが後々お使いになった草薙の剣です。
その献上の使者として、お立ちになったのが少年、大山咋(天葺根命アメノフキネノミコト)。これは佐賀におけるお名前です。熊本にいる頃は国造神社の祭神(速瓶玉命はやみかたまのみこと)です。後々のお名前が比叡山の日吉大社大山咋神です。

神社研究会 百嶋先生講演 20115
素戔鳴尊が暴れられて、天照を困らせられました。それで周囲から反発を食らいまして、素戔鳴はそれを後悔して、天叢雲の剣を打って、それを天照に献上なさいました。その献上の使者となったのが佐田大神(天葺根命)です。その時は、まだ若い青年でした。この功績で佐田大神となったのです。ところが、出雲佐田大社は大社から格下げされてしまいました。その理由は、佐田大神(福岡・熊本では大山咋神)の長男坊主(稲飯命)がこともあろうに熊襲(羽白熊鷲)とタイアップして天皇家に喧嘩を仕掛けたのです。それで、息子の馬鹿騒ぎによって大神の大を消されたのです。それで出雲の佐太神社となったのです。挙句の果てに、猿田彦大神に勘違いされています。出雲の佐太神社の祭神は大山咋神です。

天叢雲の剣は、素戔鳴尊が天照大神にお詫びする方法で考え出されたものです。素戔鳴尊は金山彦に叢雲の剣の製作を頼まれました。それが、天叢雲の剣の製作と天照大神への献上です。金山彦が天叢雲剣を打って、献上の使者となったのが、若き大山咋・天葺根命でした。
「剣のあるところから煙立ちて叢雲のごとくにあるにより、叢雲の剣と申すなり。」
叢雲(むらくも)とは積雲もしくは積乱雲に近い雲とされます。おそらく、製鉄の折、溶鉱炉から立ち込める炎と煙がその様に見えたのでしょう。

金山彦は鉱山開発の神様であり、製鉄の神様であり、溶鉱炉の炎を制御し、火災防止の神様になられます。昔、村中で大火があると、村神社の境内に火災防止・再発防止のために秋葉神社(迦具土神、軻遇突智神 かぐつちのかみ)が境内社として建立されました。
また、金山彦と大市姫(おちひめ)の間の姫君が吾平津姫(あいらつひめ)で、後の神武天皇・大白太子の后です。金山彦は九州王朝初期の重要な地位におられました。


玉名・山鹿・菊池の神々 百嶋先生講演 20122
金山彦(金鑚大神)が、九州王朝の治政がある程度落ち着いたところで、金山彦の本来の仕事である貴重な鉱物資源を堀るために、場所を移して、ある程度住んでおられた場所が熊本県の山鹿です。
従って、熊本県山鹿の相良の土地(吾平神社)で神武天皇のお后・吾平津姫をお生み申し上げ、今度は、金山彦の嫁さん(大市姫)が変わって、埴安姫との間のお子さんとして櫛稲田姫をお生みになった。櫛稲田姫の出身地は熊本山鹿の稲田ですが、櫛稲田の名前で有名なのは佐賀の神埼櫛田神社です。紋章は"円天角地に十字剣"です


弥生期の出雲は、鉄王国といえるほどの鉄生産地ではありませんでした。
金山彦の「叢雲剣」は熊本の山鹿で作成されたのかもしれません。


弥生の鉄をつかんでいたのは、どう見ても九州です。それも工具や武器の出土は福岡を抜いて熊本がトップに躍り出ました。わたしは邪馬台国と戦争をしていた狗奴国は熊本だと思っています、そして、鉄の武器の差で狗奴国が勝ったと思っているのです。(中略)
弥生遺跡の鉄出土の比較を見ると、一つの遺跡だけでも熊本の鉄製品は圧倒的です。鳥取の青谷上寺地遺跡と比べると、熊本が自前ですべて作っているのですが、鳥取は他の地方からの移入品がありました。
        ブログ「地図を楽しむ・古代史の謎」伊藤管理人
        『えっ?鉄がありすぎる九州に邪馬台国はない?』より抜粋

3.大宮神社
熊本県山鹿市志志岐をすぎると山鹿の市街地に入ります。
盆の「千人灯籠踊り」で有名な大宮神社を素通りし、来民(くたみ)を経て高橋の旧稲田村に至ります。櫛稲田姫生誕の伝説の地・熊本県山鹿市の旧稲田に高橋金神社が鎮座です。

大宮神社(おおみやじんじゃ)
所在地:熊本県山鹿市山鹿196
祭 神:景行天皇、阿蘇十二神
延久4(1072)、菊池則隆が阿蘇十二神を勧請して併せ祀り、田地36町歩を寄進した。山鹿の鎮守として篤い崇敬を受けてきた。明治4(1871)、山鹿神宮と改称。昭和15(1940)、大宮神社と改称。

境内後方の末社群
宮地嶽神社、出雲宮(大国主大神)、甲斐神社(足手荒神)、西宮神社(えびす大神)、興玉宮(猿田彦命大神)、出雲宮(月弓尊)、乙宮神社(ウジノワキイラツコ)、高住神社(豊玉彦)、生目神社( 平景清公)、菅原神社、金刀比羅宮、地主神社(埴安姫)
※足手荒神:足名椎・手名椎夫妻

大宮神社 熊本県山鹿市山鹿196

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大宮大明神

菊池氏が阿蘇十二神を勧請して併せ祀った事績か、社紋は菊池氏の「並び鷹羽」紋です。鬼板(鬼瓦)には九州王朝の紋章「五七桐紋」が打ってあります。明治の山鹿神宮の社号から祭神は開化天皇が考えられます。本来の古宮の祭神は社号からして大宮売神=豊玉姫が推考されますが、後に開化天皇を祀るようになったと考えられ、延久4年に至って菊池氏により阿蘇神社の性格が強くなります。
由緒では、景行帝が九州巡幸の際、現社地に行宮(あんぐう 仮の御所)を営んだことに伝える。「山鹿灯籠祭」は景行天皇御到着のおり、濃霧のなか里人が松明をもってお迎えしたのが起源とされる。
「火の祭」は松明に因むことが多いが、山鹿の灯籠祭は女性的であることから、古宮の祭神は女性神である可能性が高いと思っています。(大善寺玉垂宮の鬼火、阿蘇神社の火振り神事は男性的です)

4.櫛稲田姫と高橋金神社
高橋金神社は高橋八幡神社の境内に鎮座です。
小さな社殿に祀られる前は、石の祠のみが風雨に晒されたままでした。
なお、高橋金神社は「ひぼろぎ逍遙」管理人の古川清久氏に案内をして頂きました。
 祭神:金山彦命=足名椎命=面足尊 おもだるのみこと=国狭槌尊=金鑚大神=迦具土神
    埴安姫命=手名椎命=惶根尊 かしこねのみこと
高橋金神社は櫛稲田姫の父母・金山彦と埴安姫を祀ります。
この地が櫛稲田姫生誕の伝説の地・熊本県山鹿市の旧稲田となります。

高橋金神社

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5.高橋八幡神社


高橋金神社がある境内が高橋八幡神社です。
高橋八幡神社は八幡神社となっていますが、八幡宮の趣は全くありません。後の時代の社号の変更でしょう。
社紋は金山彦の神紋「円天角地に十字剣」です。
神額は大山祗の額縁、本殿の彫刻には馬、ウサギの彫刻があります。
高橋八幡神社は金山彦と大山祗関係を祀る神社とみました。

祭神 金山彦、埴安姫夫妻
   大山祗、草野姫(かやのひめ 元埴安姫)夫妻

祭神は想定です。埴安姫と草野姫は同一神です。
金山彦と大市姫(おちひめ)のお子様が、吾平津姫(あいらつひめ)、五瀬命となります。
大市姫は大山祗の姉様となります。
金山彦と埴安姫のお子様が稲田姫です。
草野姫は、その前は金山彦の妻で「埴安姫」と名乗られました。
大山祗、草野姫夫妻のお子様が、罔象女神、大国主命、木花開耶姫となります。
これで、金山彦と大山祗との新たな縁組みが整ったことになります。
古代は紛争と和平と再縁組みはセットでした。これがお互いに存続する古代の知恵でした。
その後、櫛稲田姫と罔象女神(神大市姫かむおちひめ)は素戔嗚尊の妃となられます。素戔嗚尊の戦利品といったところです。


高橋八幡神社


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金山彦の神紋「円天角地に十字剣」
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その他に境内社・若宮神社(祭神仁徳天皇)があります。高橋八幡神社は、社伝由緒では菊池家7代当主・菊池隆定(11671222)が創建したことになっています。
菊池隆定は、高橋金神社の祭神が金山彦、埴安姫夫妻であり、櫛稲田姫の両親であることを承知の上で、この地に高橋八幡神社を建立されたのではないでしょうか。社殿は八幡宮の趣は全くありません。八幡神社の名称は武家の対面上、形式を繕った感です。

無題.png

若宮神社


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大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か?

   

百嶋由一郎氏の講演録CD神代系譜、手書きスキャニングDVD等を必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記