2020年11月01日

761 熊本市にも神武天皇の母君を祀る神社があった

761 熊本市にも神武天皇の母君を祀る神社があった

20190610

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


昨年の今頃でしたが、ひぼろぎ逍遥(跡宮)のビアヘロ版に於いて、以下の二本をアップしています。

ビアヘロ062 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (上)

ビアヘロ063 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (下)

これは百嶋神社考古学の提携グループである千葉県在住の「未知の駅…」女史に依頼し無理に書き下ろして頂いた 玉前(タマサキ)神社に関するリポートでした。 

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まず、神社に関心をお持ちの方でも、“神武天皇と天照大御神が弟と姉の関係にある”などと言えば、笑い飛ばされる事になるでしょう。

ましてや、明治以降の国家神道の延長に在る現在の神社庁の見解に調教された神官などは、さらに小汚くヒステリックに非難されるであろう事は眼に浮かんでくるようです。

そのようなことは番犬が吠え捲るといった想定の範囲内ですのでどのように言われても構わないのですが、故)百嶋由一郎氏 は“神武天皇のお母さんを祀る神社は千葉県にある玉前神社です”と言われていました。同社に関する詳細については 「未知の駅」女史による力作レポート二本をお読み頂き下さい。

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玉前神社(たまさきじんじゃ)は、千葉県長生郡一宮町一宮にある神社。式内社(名神大社)、上総国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

無題.png祭神は次の1柱。

玉依姫命 (たまよりひめのみこと) 社伝では、玉依姫命は海からこの地に上がり、豊玉姫命から託された鵜葺草葺不合命を養育した。のち鵜葺草葺不合命と結婚し、神武天皇(初代天皇)らを産んだとされる。

『延喜式』神名帳を始めとして文献上は祭神は1座とされているが、古社記には鵜茅葺不合命の名が併記されている。そのほかに『大日本国一宮記』では前玉命とし、また天明玉命とする説もあった。

20190610 1013 による


少なくとも、同社は自ら神武天皇を産んだ母神を祀る神社であるとしている事だけは確認できそうです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)

                                                                                   

 さて、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の ビアヘロ060 天照大御神の母神は播磨の佐用町で祀られている “百嶋神社考古学概論入門編 A”も掲載しています。

 最近、佐用町に再度訪れる機会を得た事から佐用都比賣神社について書いていますので、これも8か月後にはオンエアする事になるでしょう。


737

佐用都比賣神社(兵庫県佐用町)の奥の院伯母宮は天照大御神の母神を祀る


百嶋神社考古学では、呉の太伯の後裔列島大率の子である神武と腹違いの姉の大日孁貴(オオヒルメノムチ)が後に対外的には卑弥呼と呼ばれ、最後に天照大御神と祀上げられた事を知っているのです。

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百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)


 前置きが長くなり過ぎました。本題に戻ります。以前、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)に以下を書きました。


363

「ひぼろぎ逍遥」 阿蘇の乙姫とは何か? “産山村乙宮神社のお姫さま”再考


363 「ひぼろぎ逍遥」 阿蘇の乙姫とは何か? “産山村乙宮神社のお姫さま” 再考 20170214

以下、一部、再掲。


以前、「ひぼろぎ逍遥」374 阿蘇の乙姫とは誰か? “産山村乙宮神社のお姫さま”(20160729において、このように書いています。

無題.png  最近は「この神社の神様はどなたの事でしょうか?」といった質問が頻繁に入ります。

勿論、直ぐに分かる場合もあれば、その神社の存在さえも知らない場合もあります。そうした中、「阿蘇の乙姫に来てるんですが、乙姫さまはどなたでしょうか?」という質問が入りました。

 この神社については承知していましたが、このようなある意味で俗受けする神社に関しては興味を持っていなかったことから直ぐにお答えできる状態ではありませんでした。

 菊池市旭志麓にも乙姫神社がありましたので、こちらの乙姫神社は見たことがありましたが、あまり本気で考えていなかったというのが正直なところでした。

 ただ、ある程度の見当は着いていたことから「多分、産山村の乙宮神社と関係があると思うけど、祭神の呼称が草部吉見神社と阿蘇神社と乙宮神社で共通しているかどうかが不明で、自信がないので直ぐには答えられない…」といったお答えをしていました。

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まず、「熊本県神社誌」上米良純臣(編著)173pには

村社 乙姫神社 阿蘇町乙姫1317 祭神 若比盗_ 仁寿元年(851

 とあり、若比盗_を探し出せば良いことになります。

 同じく「神社誌」181pには

乙宮神社 産山村産山2241 祭神 若比盗_・健磐龍命 (若比桃~誕の地と云う)

 とあり、乙宮神社の由緒には、

阿蘇神社の摂社で勧請年代不詳、旧村社で産山地区一円の産土神として崇敬されている。

阿蘇宮六宮に、若比盗_は、彦御子神の妃として祀られているところから、古来より本村では、阿蘇大神御嫡孫、御生誕の地は乙宮であり、「産山」という地名の起こりであると言い伝えられている。

神殿は総ケヤキ造りで、華麗な彫刻と枡組が施され荘厳である。                    産山村HPより

以下略載


 そこまで書いてきて改めて周辺情報を浚うと、いつも読ませて頂いている、吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流 .224 を再度読み直していると、重要な記述について読み飛ばしていた事に気付きました。


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前回『弓梓弓と水の女神 断片集F No178で古田シズヨ女史が開いた龍宮乙姫の岩戸が熊本の鹿本にあると伝えたが、乙姫神社の調査で熊本に少なくとも三社は乙姫神社があることが分かった。
一つはわりと有名な阿蘇乙姫の乙姫神社。それから旭志村姫井の乙姫神社。
そして最後に熊本市上南部の乙姫神社の三社だ。
そしてこの三社の乙姫神社で祀られている祭神は若比当スとなっている。
阿蘇神社は一ノ宮 二ノ宮 三ノ宮と十二ノ宮まであるがその五ノ宮の惟人命=彦御子神の后が若比当スだ。なぜ若比当スが乙姫なのか謎が残る。

ちなみに惟人命とその母の蒲智比当ス=蒲池媛は神功皇后の三韓征伐に従軍している。
蒲池媛は宇土半島の郡浦神社あたりが出身ともいわれていて郡浦神社では蒲池媛を祀っている。
國造神社の祭神である速瓶玉神に嫁いでいるのは雨宮媛となっているが蒲池媛と同じ人物かははっきりしない。
雨宮媛については小国出身ともいわれている。草部吉見神社の言い伝えによるが、国龍命は日向国から火と水を求める二つの玉を持ってきたという。火の玉を干珠、水の玉を満珠と称する。
高麗軍が攻めてきたときに、草部吉見神社で九ノ宮に祀られる速瓶玉命とその妃の雨宮媛がこの珠を使って高麗軍を撃退したという。この速瓶玉神の子供が阿蘇神社五ノ宮の惟人命となる。
神功皇后の塩満珠は一般的には住吉大神から授かったことになっているが、蒲池媛は神功皇后に塩満珠を渡したという伝承もある。どうも蒲池媛は海人系のようだ。若比当スが蒲池媛の可能性もあるようだ。
さて熊本市上南部の乙姫神社であるがこの神社は合併社で奈我神社、乙姫神社、住吉大社の3社が今は合祀されている。
奈我神社は六国史の一つ『日本三代実録』にも登場する古社で貞観十八年(876)七月に肥後国合志郡・正六位上奈我神社の川辺から白亀一匹とある。奈我神社の祭神は初代神武天皇の母君の玉依姫命となっている。
乙姫神社の祭神の若比当スよりも玉依姫命の方が乙姫なのではないかとも思ってしまう。
奈我神社の奈我だがこれは龍神ナーガに繋がる気がする。神功皇后 蒲智比当ス=蒲池媛 雨宮媛 若比当スの関係についてはもう少し詳しく調べて再度報告させていただきたい。

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乙姫神社 カーナビ検索熊本県熊本市東区上南部4-3


 読み飛ばしていたのは奈我神社の祭神は初代神武天皇の母君の玉依姫命となっている。部分です。

なんとも酷いミスをしていたもので、慌てて調べているのですが、ここで言う玉依姫(タマヨリヒメ)命とは「古事記」神話に登場するタマヨリヒメではなく、本物の神武天皇の母神である神玉依(カムタマヨリ)姫だったのです。

つまり、孤立無縁で何も関連するものがなかった千葉県の玉前神社を持ち出すまでもなく、神玉依姫の痕跡が熊本市に存在していたとはかなり衝撃的な再認識でした。


 無題.png奈賀神社の祭神は神玉依姫だった

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乙姫神社(おとひめじんじゃ)は、熊本県熊本市東区上南部にある神社。上南部乙姫神社・奈我神社乙姫宮とも呼ばれる。御朱印の有無は不明。上南部神社とも呼ばれ、奈我神社・乙姫神社・住吉大社の三社が合祀された神社である。正面鳥居の扁額は「奈我神社」、県道沿いの鳥居の扁額は「乙姫宮」とある。

奈我神社の御祭神は、初代神武天皇の母である玉依姫命で、第38代天智天皇の勅命でその2年(663年)に鎮座した。

『日本三代実録』に「貞観18年(876年)7月に肥後国合志郡・正六位上奈我神社の川辺から白亀一匹」と見え、国史見在社。

乙姫神社は阿蘇の12神の一つで、平安時代の貞観17年(875年)に若比当スを乙姫大明神として合祀したという。阿蘇神社の五ノ宮の惟人命(彦御子神)の后にあたる。

玉依姫命が乙姫であって、乙姫は若比当スを指すのではないという指摘があるが、当社と同名の神社は他に、阿蘇市乙姫、菊池市(旧旭志村姫井)にもあり、いずれも御祭神は若比当ス。

無題.png平成25年(2013年)922日には1350年式年祭が斎行された。50年に一度、遷宮祭が行われるが、稚児行列が地域を練り歩き、乙姫太鼓の音が響き渡った。

例祭は1025日。神楽奉納で知られる。「乙姫神社神楽」、正式には「肥後神楽(上南部)」として、市指定無形民俗文化財に指定されている。

この神楽の起源は定かではないが、江戸時代中期の安永3年(1774年)までは確実にさかのぼれるという。

言い伝えによれば阿蘇の方から神楽流で、物静かで優雅な舞であったが、戦後、熊本肥後神楽会の影響受け、勇壮活発な箇所を取り入れた独特のものとなったという。全十三座。                              無題.pngによる


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再度、二番目の 百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)を見て頂きます。

百嶋先生は神玉依姫とは天御中主命の流れを汲む神産巣日神、神皇産霊尊、神魂命とされ博多を拠点としていた櫛田神社の主神=大幡主の姉であるとされていました。

この神玉依姫と博多周辺に居たと考えられる列島大率姫氏の間に産れたのが神武僭称贈る崇神ではない本物の初代神武天皇であり、大伽耶の姫:高木大神=高御産巣日神、高皇産霊尊の伯(淑?)伯母との間に産れたのが天照大御神とされていたのですが、この白川伯王系の人々は本拠地の熊本から博多湾岸に移動している(百嶋翁の言)事から、元々の本拠地が熊本にあっても一向におかしくはなかったのです。

それどころか、百嶋翁も言われたように熊本市を貫流する白川とはこの白川伯王系の人々により付された(中国表記の白水が白川となったもの)ものであり、この上南部の地とは古代の熊本でも一等地と言って良く、実際に神玉依姫の一族が住んでいた無題.png可能性さえ感じさせるのです。

 従って、熊本→博多→千葉に移動した起点を思わせるものであると共に、現在、熊本城が鎮座する熊本市千葉城町の千葉が持ち出された先が、千葉県の千葉である可能性さえも考えておく必要があるのです。

北辰一刀流の千葉周作は北辰=妙見=天御中主命系の名である上に千葉氏は天御中主命系の月星や九曜星を家紋としているのです。

 ちなみに、熊本の旧表記は「隈本」であり(加藤清正が委縮を嫌い熊に換えた…)この隈地名を持って北部九州に展開した白族が居住した拠点地の地名が有名な「雑餉隈」…以下の大量の○○隈地名なのです。

 この一帯(南部から大江に掛けて)には天御中主系白族、金山彦系瀛氏が居たようであり、金山彦の娘であり、後に本物の神武天皇の本物のお妃となる吾平津姫と乙姫(鹿児島県では「大宮姫伝承」=天智天皇の妃説もあるのですが、乙姫)との関係さえも考えておく必要までも有るように思うのです。


百嶋由一郎氏の講演録CD神代系譜、手書きスキャニングDVD等を必要とされる方は09062983254まで

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2020年11月03日

762 真実の出雲(旧朝倉郡)の国譲りの背景を考える

762 真実の出雲(旧朝倉郡)の国譲りの背景を考える

20190623

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


これまで出雲の国譲り神話の舞台は北部九州であったという事を何度も書いてきました。

それは、福岡県筑前町弥永697-3の大己貴神社の南500メートルほどの所にある田神社(天神社)が元は日隈宮と呼ばれていたと言う事と、数十年前まで「日隈宮」という小字が存在していたという事実を確認したからでした。

これらについて関心をお持ちの方には、まず、以下辺りからお読み頂ければと思っています。

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国譲りが行われた旧朝倉郡一帯


ひぼろぎ逍遥

260

若き大国主命=大己貴(オオナムチ)ならぬ大己彦を祀る“春日市の白玄社”への再訪!

177

大国主を出雲の神様と考えておられる方に対して僭越ながらも…

176

少彦名命とは何か?


スポット041オオナムチの移転先@ スポット042オオナムチの移転先A

スポット050「日隅宮」の発見は何を意味しているか


福岡県飯塚市桂川町に出雲交差点が…

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これから筑前町現地の「日隅宮」跡地を探す作業に入らなければならないようです。

勿論、もし、小字日隅宮が国譲り以前の宮の名称でもあるのならば、現在の大己貴神社が鎮座している場所も含めて検討する必要があるでしょう。このように考えてくると、飯塚市(朝倉市の北に隣接する)に存在する、桂川町の「出雲」交差点までもが俄かに信憑性を以て再考すべきではないかと思うのです。

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福岡県飯塚市桂川町出雲交差点


一方、この旧朝倉郡には天の安河を思わせる旧夜須町も存在した


  夜須町は、福岡県朝倉郡にあった町2005322日に、三輪町と合併して筑前町となった。

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高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に対して、「あなたが今後住まうべき天日隅宮(あまのひすみのみや)は、今、私がつくりましょう。その敷地の規模は、千尋もあるたく縄を百八十結びにしっかり結んで設定しよう。その宮殿建築の制式は、柱は高く太く、板は広く厚くしよう」と記されている。

大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)

•高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴命に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)

神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)

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何故か出雲神話の大国主命を祀る大己貴神社も存在します

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大己貴神社 カーナビ検索 福岡県朝倉郡筑前町弥永697-3 пF 0946-24-5805


出雲の国譲りの背景とは何か


 今回は、出雲が筑後川北岸一帯であったと言う突飛な話(これについてはいずれ取上げるつもりですが)を一つ飛び越えて、「古事記」に登場する「出雲」の国譲り(葦原中津国国譲り)の各民族勢力の思惑と背景について考えて見たいと思います。以下は「古事記」の国譲りの部分です。


天照大御神の命以ちて、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国は、我が御子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命知らす国ぞ。」と言因さし賜ひて、天降したまひき。

是に天忍穂耳命、天の浮橋に多多志て詔りたまひけらく、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国は、伊多久佐夜芸弖有那理。」と告りたまひて、更に還り上りて、天照大神に請したまひき。

爾に高御産巣日神、天照大御神の命以ちて、天安河の河原に、八百万の神を神集へに集へて、思金神に思はしめて詔りたまひけらく、「此の葦原中国は、我が御子の知らす国と言依さし賜へりし国なり。故、此の国に道速振る荒振る国つ神等の多在りと以為ほす。是れ何れの神を使はしてか言趣けむ。」とのりたま爾に思金神及八百万の神、議り白しけらく、「天菩比神、是れ遣はすべし。」とまをしき。故、天菩比神を遣はしつれば、乃ち大国主神に媚び附きて、三年に至るまで復奏さざりき。ひき。

是を以ちて高御産巣日神、天照大御神、亦諸の神等に問ひたまひけらく、「葦原中国に遣はせる天菩比神、久しく復奏さず。亦何れの神を使はさば吉けむ。」ととひたまひき。爾に思金神、答へ白しけらく、「天津国玉神の子、天若日子を遣はすべし。」とまをしき。故爾に天之麻迦古弓、天之波波矢を天若日子に賜ひて遣はしき。是に天若日子、其の国に降り到りて、即ち大国主神の女、下照比売を娶し、亦其の国を獲むと慮りて、八年に至るまで復奏さざりき。

故爾に天照大御神、高御産巣日神、亦諸の神等に問ひたまひけらく、「天若日子久しく復奏さず。亦曷れの神を遣はしてか、天若日子が淹留まる所由を問はむ。」ととひたまひき。是に諸の神及思金神、「雉、名は鳴女を遣はすべし。」と答へ白しし時に、詔りたまひけらく、「汝行きて天若日子に問はむ状は、『汝を葦原中国に使はせる所以は、其の国の荒振る神等を、言趣け和せとなり。何にか八年に至るまで復奏さざる。』ととへ。」とのりたまひき

故爾に鳴女、天より降り到りて、天若日子の門なる湯津楓の上に居て、委曲に天つ神の詔りたまひし命の如言ひき。爾に天佐具売、此の鳥の言ふことを聞きて、天若日子に語りて言ひけらく、「此の鳥は、其の鳴く音甚悪し。故、射殺すべし。」と云ひ進むれば、即ち天若日子、天つ神の賜へりし天之波士弓、天之加久矢を持ちて、其の雉を射殺しき。

爾に其の矢、雉の胸より通りて、逆に射上げらえて、天安河の河原に坐す天照大御神、高木神の御所に逮りき。是の高木神は、高御産巣日神の別の名ぞ。故、高木神、其の矢を取りて見したまへば、血、其の矢の羽に著けり。…

無題.pngによる


まず、冒頭の 天照大御神の命以ちて、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国は、我が御子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命知らす国ぞ。 から始めましょう。

 これは高木大神の言葉です。では、天忍穂耳命(実は阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミ)は我が御子なのでしょうか?

 勿論、実子ではありません。ただ、高木大神の次女の栲幡千々姫(タクハタチジヒメ)をお妃とし高木大神への入り婿となったとすれば、我が御子との表現は俄かに現実味を帯びてくるはずです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


@  大幡主への入り婿)の領域が高木大神と後の藤原氏となる草部吉見系阿蘇氏の連合軍に国移り=国譲りを要求されたのが、この出雲の国譲りの話である事が分かるのです。

従って、現出雲(島根県)とは国譲りの結果、大国主系が移動した国だったこと(つまり現出雲の国とは藤原が造った移転先でありテーマ・パークでしかないのです)が見えてくるのです。

A  冒頭の「天照大御神の命以ちて」に続き、爾に高御産巣日神、天照大御神の命以ちて、天安河の河原に、八百万の神を神集へに集へて とあるように、何故、天照大御神が登場するのでしょうか?

実は、百嶋神社考古学では大日孁貴(オオヒルメムチ)⇒卑弥呼⇒天照は高木大神系の人物なのです。

これについての詳細は、以下をお読み頂きたいのですが、簡略化して言えば本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ 神武僭称第10代崇神天皇=ハツクニシラススメラ…ではないという意味で)の姉である大日孁貴=天照の母神とは、高木大神の叔母にあたる人の様で、百嶋由一郎最終神代系譜(部分)002百嶋系図(極秘)にも登場しています。

 この天照大御神の母神を祀る神社が兵庫県佐用町の佐用津姫神社の境内摂社である天照祖神社の可能性があるのです。

 この摂社は市杵島姫(別名佐用津姫or佐代姫)を看板に祀る神社ですが、市杵島と草部吉見=ヒコヤイミミとが夫婦であったため、その意味では背後に居るのはやはり国譲りを強要した高木大神なのです。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

725

佐用都比賣神社(兵庫県佐用町)の奥の院伯母宮は天照大御神の母神を祀る


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今回は蔦紋を使う高木大神の社殿裏の最奥部の安全な場所に伯母宮があるのですから、天照大御神の父神か天照の腹違いの弟である神武(呉太伯の後裔)の母神との表現である事が分かります。

最早、同社の宮司や禰宜に聴いてもお分かりになる方はおられないと思うのですが、最低でも神武天皇が白族(天御中主命)系の母神だったのに対して、天照大御神は高木大神系のお妃との間に産れた方であった事が分かります。

 ここで分からないのは同社の神殿上部には縦切りの男千木が置かれていることです。

 佐用都姫は宗像の市杵島姫に違いありません。

この女神様は藤原の祖である阿蘇高森の草部吉見(ヒコヤイミミ)と大国主命を夫としています。

 播磨は「風土記」に依るまでもなく大国主命の領域でもあります(射楯兵主神社)。

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同社案内板(上)同社神殿上部


最期に 天安河の河原に坐す天照大御神、高木神の御所に逮りき。

是の高木神は、高御産巣日神の別の名ぞ。高木大神の支配領域(彦山周辺)を見ておきましょう。

彦山周辺には48大行事社(高木神社)があります。この48社のエリアこそ高木大神の本拠地なのです。

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神代系譜 足尼A


百嶋由一郎氏の講演録CD神代系譜、手書きスキャニングDVD等を必要とされる方は09062983254まで

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2020年11月06日

763 草部吉見の政略結婚を考える

763 草部吉見の政略結婚を考える

20190625

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 百嶋由一郎氏が残した手書きデータには非常に興味深い研究内容が書き留められています。

 今回はこの中から後の藤原氏に繋がる草部吉見=ヒコヤイミミの政略結婚に関わる部分を拾い出して見ようと思います。

 そもそも政略結婚と言った場合、単なる養子として他の先住氏族に入り婿として選ばれるという事はその人物が優秀であるというに留まりますが、多くの氏族と複数の姻戚関係を結べると言うことになると、その氏族が相当に有力であった事を示しています。

 つまりヒコヤイミミがいわば引っ張りだこの民族指導者であった事がお分かり頂けると思います。


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吉見さんのお妃と言えば、栲幡千千姫命(タクハタチチヒメ)、瀛杵島姫(イツキシマヒメ)、瀛津世襲足姫(オキツヨソタラシヒメ)、辛国息長大姫大目命…がある程度知られていますが、百嶋先生は、そのお妃の変化を以下の資料で描いておられます。

@  若年期には高木大神の次女の栲幡千千姫命との間に天豊ツ姫(阿蘇ツ姫)、天忍日を…

A  青年期にはスサノウのお妃となったヤタガラスの姉のアカルヒメとの間に大山咋(佐田大神:佐田彦とは別神、日吉、日枝、山王、松尾…)を…

B  金山彦の娘でスサノウのお妃となる櫛稲田姫の間に産れるナガスネヒコの妹である瀛津世襲足姫との間に天足彦(ヤマトタケルの父)、建御名方(勿論大国主の息子などではない)を

C  伏見稲荷であり伊勢の外宮である豊受大神との間に御年神=ハイキの神=贈る孝安天皇を

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手書き資料 スキャニング・データ:百嶋神社考古学初期15230502)多氏系統分類一覧


をもうけているのです。

@  からCまでその順でお妃を貰い、それに併せ別人とする意味で名を変えているのです。

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多氏時代別系譜


草部吉見様の姻戚関係が非常に良く分かる神代系譜です



百嶋由一郎氏の講演録CD神代系譜、手書きスキャニングDVD等を必要とされる方は09062983254まで

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