2020年09月01日

751 地元の鉾納社に15年ぶりに訪問した @ “熊本県小国町黒渕の草部吉見系神社”

751 地元の鉾納社に15年ぶりに訪問した @ “熊本県小国町黒渕の草部吉見系神社”  

20190417


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


本グループの研修所でもある温泉付き中古別荘は日田市の天ケ瀬温泉がある谷底から数百メートル上がった高原地帯にあります(標高450m)。

この高原地帯から反対側の南の谷には杖縦温泉のある深い谷があり、そこが熊本県と大分県の県境になっています。

このため、当研修所から車で5分も走ると熊本県に入り、杖縦温泉を経て20分ほどで小国町の中心部に移動する事ができます。

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天ケ瀬温泉もかなりの高温泉ですが、杖立温泉は98度の蒸気みたいな温泉ですから、この二つの峡谷は、共に巨大な断層帯に雨が流れ込み一部が浸透し地熱で温泉となっている事が分かるのです。

このため、研修所の温泉も源泉50度、湯口43度というお湯を入れればそのまま入ることができる文字通りの源泉掛け流しの最適温泉なのです。

この研修所の概要は 以下をご覧ください。

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地名研究会 天ケ瀬温泉研修所オープン “以前のチラシから”


この隣県の熊本県小国町の神社については両神社を始めいくつか取り上げていますが、15年程前に訪問した鉾納社をご紹介したいと思います。

今回、同社に参拝したついでにこの地区の奥まった普段行かない地域をさ迷い歩いていると、二社の若宮神社を発見し、非常に驚きました。

と、言うのは、高良玉垂命と神功皇后の間に産れた仁徳天皇(オオササギノミコト)を祀るのが若宮神社であり、熊本県にはこの祭祀形態が非常に少ないのです(ないと言う意味ではないので誤解されない様に)。

と、すると、この半世紀前には容易に入り込むことができなかった様な崖の上のような集落に若宮神社があるのは、敗残に伴う避退であり移住ではないかと思わざるを得なかったのです。

一つの集落は北河内であり、これは九州王朝の最大拠点であった福岡県八女市の北川内(旧上陽町)からの避退ではないかとさえ思ったのでした。

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大伴部博麻呂は、661年白村江の戦いで唐の捕虜になりました。唐の日本出撃準備を知った彼は祖国に知らせるために自分を奴隷として売り、そのお金で仲間を帰国させ国に知らせました。

30年後帰国した博麻呂を持統天皇がその功績をたたえたと『日本書記』に記されています。


白江戦は近畿大和朝廷が戦ったなどと言うのは大嘘で、正しく九州王朝の本体が唐〜新羅連合軍と激突したのでした。

その中で雄々しく、闘い結果、捕虜になった大伴部博麻呂の出身地が八女の北川内なのです。


持統4(690)1022日「詔軍丁筑紫國上陽東S人大伴部博麻曰「於天豐財重日足天皇七年、救百濟之役、汝、爲唐軍見虜。洎天命開別天皇三年、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元寶兒、四人、思欲奏聞唐人所計、緣無衣粮、憂不能達。於是、博麻謂土師富杼等曰『我欲共汝還向本朝。緣無衣粮、倶不能去。願賣我身以充衣食。』富杼等、依博麻計、得通天朝。汝獨淹滯他界、於今卅年矣。朕、嘉厥尊朝愛國・賣己顯忠。故、賜務大肆、幷絁五匹・綿一十屯・布卅端・稻一千束・水田四町。其水田、及至曾孫也。免三族課役、以顯其功。」

・要約すると、大伴部博麻は、筑紫国(筑後国)上陽東S(かみつやめのごおり/八女市上陽町)の人で、斉明天皇7(661)、百済救援戦のために倭国の一軍丁(いくさよほろ:一兵士)として出兵し、唐軍捕虜となった。

天智天皇3(※これは一般的に云われている663年又は664年ではなく、天智天皇即位3年の670年のことだと見るべき)、大伴部博麻は、土師連富杼(はじのむらじほど)・氷連老(ひむらじおゆ)・筑紫君薩夜麻(筑紫君薩野馬/ちくしのきみさちやま)・弓削連元寶(ゆげのむらじがんほう)の子(名前不詳)4人が、「唐人の計る所」を聞き(天智天皇に)奏上)したいと思うが、衣食に事欠く様ではそれができないと憂えているのを知った。

そこで、大伴部博麻は、土師富杼等に、自分も共に帰還したいがそれはできないので、我が身を(奴隷に)売った資金で、筑紫君薩夜麻らを帰国させ、唐人の計る所を奏上させるようにと願った。

(※筑紫君薩夜麻<筑紫君薩野馬>らが帰国した年は、翌671年末か672年正月頃だったと思われ、天智天皇は67112月崩御したので、この奏上は届かなかったと思う)

持統天皇4(690)、帰国した大伴部博麻に対して、持統天皇は、彼が行ったことに対して「朕、嘉厥尊朝愛國・賣己顯忠」=「朕は、その尊朝愛国、己を売り忠を顕すことを嘉(よみ)す」との勅され、「務大肆(むたいし/従七位下)の官位、あわせて絁5匹・綿11屯・布30端・稲千束(五百石ほど)・水田4町を賜り、その水田は曾孫まで相続させる。三族の課役を免除して、その功を顯わす。」と勅言された。

「正見行脚」による

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込み入った等高線からもこの地が如何に急峻な土地であるかお分かり頂けるでしょう


これは非常に薄い思い付きだけによるもので、今となっては確認する術を持ちませんが、多くの神社を見ていると、どう考えてもこの地に若宮神社が存在する理由はこれ以外に思いつかないのです。

すぐ向こうの小国の中心部一帯にも多くの神社はあるのですが、この地は阿蘇外輪山の延長領域であって、その火山灰が堆積した岩塊が穿たれ大峡谷を成すその縁のような場所なのであって、阿蘇系神社を軸に小国周辺に存在する神社とは全く異なる若宮神社が複数存在する事に感動をさえ呼び起こすのです。

このような神社が存在している事をあらかじめ知っておいて頂きたいことから、先走りしましたが、本来のテーマである鉾納社に引き継ぎたいと思うものです。

751 地元の鉾納社に15年ぶりに訪問した A “熊本県小国町黒渕の草部吉見系神社” に続く

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2020年09月03日

752 地元の鉾納社に15年ぶりに訪問した A “熊本県小国町黒渕の草部吉見系神社”

752 地元の鉾納社に15年ぶりに訪問した A “熊本県小国町黒渕の草部吉見系神社”  

20190417


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 本稿は751 地元の鉾納社に15年ぶりに訪問した @ “熊本県小国町黒渕の草部吉見系神社”に続くものですので、もしお読みでなければ、一つ遡って引き継いで頂きたいと思います。


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参拝殿にも鉾納社と書かれた神額が掲げられ阿蘇神社の宮司による書であることから阿蘇系の神社である事は明らかです。

しかも、国龍命=草部吉見(ヒコヤイミミ)が主神である事が書かれており、一般的には阿蘇系神社の範疇に入るでしょう。

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ただ、ここには神武天皇の女一皇子と書かれているのです。

 ギリギリ少しは正しい部分がある話なのですが、かなりの説明を要します。

 その前に又彦八井命(国龍命の妃)は見当が着きません。

それは、多くのお妃を持つ方ですからですが、阿蘇系が覆い被さって来る前の同社を想像すると、多賀神社あったと考えられるのです。

この社は言うまでもなくイザナギとイザナミを祀る神社であり、その間に産れたのがスサノウなのです。

そこでその系統からヒコヤイミミのお妃となった人を探せば、自ずとスサノウと櫛稲田姫との間に産れたオキツヨソ足(タラシ)姫=ナガスネヒコの妹である可能性があるのですが、あくまでも推定でしかありません。

問題は神武天皇の女一皇子としていることです。

故)百嶋由一郎氏は、本当の初代神武天皇の本当のお妃であった吾平津姫(アイラツヒメ)は威徳天皇を産んだ後、神武巡行(神武東征は崇神が九州王朝の開化天皇=高良玉垂命の臣下として行なったもの)には随行せず(これは日南市油津の吾平津神社の伝承)九州島に残り、表現は悪いのですが“草部吉見の父である神沼河耳に払い下げられている”“それが熊本県の宇土半島、宇城市の郡浦神社の蒲池姫…”と言われていました。

ただ、この吾平津姫は金山彦と大山祗の妹である大市姫の間に産れた最重要人物と言って良いようなプリンセスだったのです。

“これは明らかな失政でありこのことが、ナガスネヒコと神武の衝突の遠因となっている…”“結果、神武に代わって姉の大日孁貴=卑弥呼=天照が神政政治を行っている”“この事が所謂「魏志倭人伝」にも表現されており、男弟王と従者として卑弥呼の世話を行っていた…云々と表現されているが、あれが神武と威徳ですよ…”と言われていたのです。

 それは良いとして、結果アイラツヒメは神沼河耳との間にその後在来の高木大神系勢力を継承する阿蘇神社の健磐龍命を産み、一方、神沼河耳はスサノウの姉にあたる神俣姫との間に草部吉見=国龍命が産れているのです。

 これを持って、神武の皇后であったアイラツヒメの子が我々である以上、あくまで誇張し拡大した意味ですが草部吉見と健磐龍命は神武天皇の子である…従って阿蘇氏は天皇家の一族であると言う誇大表現となっているのです。

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鉾納社の謂れは以下をお読み下さい。

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ただ、何故、粟島神社=少彦名命が祀られているかは不明です。

 肥後でも有明海沿岸北部を中心にかなりの数の粟島神社が拾えることからその延長と考える事は可能ですし、大国主命祭祀が肥後にもある程度存在する事は承知していますので、違和感はないのですが、接続性に欠けるため直ぐには理解できずにいます。今後の課題です。

 15年前に来た時には、阿蘇系の神社であるものの、年禰神社などと同様の草部吉見系の神社である事は気づきましたが、祭神の解析など全くできませんでした。今回再訪し多少は解析できる部分が出てきた事はささやかな喜びを感じます。しかし、どう見ても阿蘇系が覆い被さって来る前の祭祀の方が地元の方のルーツの様に思えます。こういった事は地域に落ち着き聴き取り調査などを行わなければ軽々には言えませんが、単に阿蘇系として片づける事に不安を感じます。


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2020年09月06日

753 県境を越えた足元にも九州王朝系神社があった “熊本県小国町小川内、下城の若宮神社”  

753 県境を越えた足元にも九州王朝系神社があった “熊本県小国町小川内、下城の若宮神社”  

20190417

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 九州におられない方には中々分からないと思いますが、筑後川の上流部、室原翁の蜂の巣城攻防戦で知られた下筌ダム〜松原ダムから杖立温泉の大峡谷と阿蘇の外輪山の外延部の高原地帯との落差を最も強く感じられるのが杖立温泉正面の断崖でしょう。

これも松原ダムのダム湖とその付け替え道路があるため堤体と同じ程度の高低差が消えているのであって、それを差し引けばその高低差は本来倍加するはずのものなのです。

今回、この崖上に二つの若宮神社が存在する事に気付き、遅れ馳せながらお知らせしたいと思うものです。

特に知って頂きたいのは九州王朝論者なのですが、その九州王朝説の信奉者と自認する方でさえ“仁徳天皇などは近畿大和朝廷の天皇に過ぎない”などと通説に騙されているのが関の山で情けない限りです。

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この小国町グリーン・+ロードの大橋梁の高低差も写真では実感が掴めないのではないでしょうか。

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グリーン・ロードを走り北河内集落に入りしばらく進むと左手にきちんとした神社がありました。

 どうせ、天満宮か熊本に一番多い菅原神社か阿蘇系神社だろうと思っていたのですが、何と若宮神社でした。

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小さな集落ですが立派な社が三つも造られています。個々の祭神は不明です。

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今度はグリーン・ロードを逆向きに峡谷の方に戻り下城地区に向かいましたが、

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大峡谷とグリーン・ロードの大橋梁に近い所にもう一つの若宮神社を見出しました。

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ある意味、猿田彦=ヤタガラス=ニギハヤヒとは山幸彦なのであってそれを祀るのは阿蘇系では無い事を示しているのです。

つまり、阿蘇神社でも草部吉見系は海幸彦であって猿田彦とは山幸彦系なのです。

 だからこそ、阿蘇外輪山の縁に居るのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記