2020年08月01日

741 伊勢から紀伊の神社調査への下調べとして E “伊勢市の伊雑宮(佐美長神社) ”

741 伊勢から紀伊の神社調査への下調べとして E “伊勢市の伊雑宮(佐美長神社)

20190323

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今回は伊雑宮です。神社に強い関心を寄せる方ほど執着される強烈なインパクトを持つ神社です。

無題.png

伊雑宮(いざわのみや、正式名:伊雜宮)は、三重県志摩市磯部町上之郷にある神社。式内社(大社)論社で、志摩国一宮。皇大神宮(伊勢神宮内宮)の別宮の一社。度会郡大紀町の瀧原宮とともに、「天照大神の遙宮(とおのみや)」と呼ばれる。2013年(平成25年)の年間参拝者数は93,267人。

ウィキペディア20190323 2117による


伊雑宮は、天照大御神の御魂をお祀りし、「いぞうぐう」とも呼ばれます。古くから「遙宮とおのみや」として崇敬を集め、地元の人々によって海の幸、山の幸の豊饒ほうじょうが祈られてきました。

毎年624(6月月次祭当日)に行われる御田植式は、とても雅な神事で、「磯部の御神田おみた」の名で国の重要無形民俗文化財に登録され、日本三大田植祭の一つとされます。

同社HPによる

無題.png
無題.png

人気の高い伊雑宮、佐美長神社を考えれば伊勢神宮(あくまで内宮)の鎮座地を求めてさまよった倭姫命の動きが掴め、伊勢神宮への本質に迫る糸口が見いだせるのかも知れません。

無題.png伊勢神宮の神官に言わせれば、“良く「倭姫命世紀」をさも貴重なものかの様に考え言ってくる人がいるが、あれは鎌倉期に書かれたもので何の信憑性も無いものなんですがね…”と鼻であしらわれるという話を良く耳にしますが、まあ、始めからこういった調教された手合いに何かを期待しようとするのが間違いであって、自分の目と頭で考える事にしましょう。

実は、この倭姫命を単独で祀る神社が数社、佐賀県の嬉野市と鹿島市の境界一帯に分布しています。

後に倭姫命の功績を讃えて近年造られた神社はあるようですが(右→)、古くから祀る神社はこの神社群だけなのです。

これについては、ひぼろぎ逍遥の初期のリポートをご覧頂きたいと思います。結局、何も信用できないためこんなところからやらざるを得ないのです。


ひぼろぎ逍遥 012  日本で一つ、主神として倭姫命を祀る神社

無題.png

倭姫命に話が逸れましたのでこの際逸れる事にしますが、この女神様の素性を考えて見ましょう。

通説の学者には期待していませんので、学者が無視するウィキペディアから…。


倭姫命(やまとひめのみこと。生没年不詳)は、記紀に伝える古墳時代以前の皇族。第11垂仁天皇の第4皇女。母は皇后日葉酢媛命。天照大神を磯城の厳橿之本シキノイツカシノモト(笠縫神社、檜原神社比定)に神籬を立てて、垂仁天皇253月丙申、伊勢の地に祀った(現・伊勢神宮)皇女とされ、これが斎宮の直接の起源であるとも伝えられている。

10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命の跡を継ぎ、天照大神の御杖代として大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされる(御杖代は依代として神に仕える者の意味であるが、ここでは文字通り「杖の代わり」として遷幸を助ける意味も含まれる。ちなみに、倭姫命が伊勢神宮を創建するまでに天照大神の神体である八咫鏡を順次奉斎した場所は「元伊勢」と呼ばれる)。後に、東夷の討伐に向かう日本武尊(尊は倭姫命の甥王にあたる)に草薙剣を与えている。伊勢では、伊勢の地に薨じ、尾上御陵(おべごりょう)に埋葬されたと伝える。伊勢の地で天照大神を祀る最初の皇女で、これが制度化されて後の斎宮となった。

ウィキペディア(20190324 0858による

無題.png
無題.png

故)百嶋由一郎氏の神代系譜にもこの倭姫命が書き込まれています。

これに従えば、神武僭称贈る崇神の姪にあたるのが倭姫命となるのです。

無題.png

百嶋由一郎神代系譜 031クマカブトアラカシヒコ


と、すると、私が以前から持っていた伊勢神宮への印象が少し変わってきます。

まず、元伊勢の一つ(大江山の二つの皇大神宮や峰山の比沼麻奈為神社)とされる丹後一宮籠神社の由緒に天照が後から加わっっていると言う話を不思議に思っていました。


御由緒

神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮の地眞名井原に匏宮(よさのみや)と申して豊受大神をお祀りして来ました。その御縁故によって第十代崇神天皇の御代に天照大神が倭国笠縫邑からお遷りになり、天照大神と豊受大神を吉佐宮(よさのみや)という宮号でご一緒に四年間お祀り申し上げました。その後天照大神は第十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになりました。それに依って当社は伊勢神宮内宮の元宮、更に外宮の元宮という意味で「元伊勢」と呼ばれております。


そもそも外宮は山幸系とでもいうか物部系の匂いのするもので、対して後から加わった天照を祀る内宮とは異質のものであるという印象を持っていました。

それが、天照大御神そのものも、また、それを持ち込んだ倭姫命も共に海幸系の高木大神〜藤原系の者であった事が見えてくると、伊勢全体神社群も藤原系の圧迫を受けて緊張した平衡を維持している様に見えるのです。

これまでの多くの神社へのネット検索に加え、今回の下調べシリーズで伊勢の神社群にメスを入れて行くに従い、徐々に藤原によって多くの神社群に侵蝕が見られる事が見えてきました。

その最も代表的なものが近畿大和朝廷の事実上の祖であった神武僭称贈る崇神の影であり、その象徴的先鋒としての存在が倭姫命だったのではないかという認識にまで高まりつつあります。

それは、故)百嶋由一郎氏が、本物の初代神武に対して、実際に祭政一致の宗教支配を行ったとみられる天照大御神はその母神を高木大神(タカミムスビ)系の人物であったとしており、贈る崇神の祖父にあたる阿蘇高森の草部吉見神(ヒコヤイミミ)のお妃が同じく高木大神(タカミムスビ)系の栲幡千千姫(タクハタチヂヒメ)命であった事と通底しているのです。

天照大御神は「葦原中国は私の子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命が治めるべき国」と天忍穂耳命に天降りを命じ正勝吾勝勝速日天忍穂耳命は天照とスサノオの誓約(ウケイ)により産まれた五人の皇子として、正統性を与えており、武甕槌=鹿島大神=正勝吾勝勝速日天忍穂耳命=阿蘇高森の草部吉見神…ともされる阿蘇系のヒコヤイミミ(高木大神への入婿)が後の藤原に繋がるのであって、高木大神、阿蘇氏連合が伊勢をも支配を進めている事が見えてくるのです。これについては以下を参考にして下さい。

草部吉見については、ひぼろぎ逍遥の初期に多くを書いていますが、天照の母神についてはあまり展開していませんので関心をお持ちの方は以下をお読み下さい。

新ひぼろぎ逍遥

737

佐用都比賣神社(兵庫県佐用町)の奥の院伯母宮は天照大御神の母神を祀る


話が大きく脱線してしまいましたので、ここでの伊雑宮については、天照大御神御魂を祀る神社として確認し、いずれ現地を踏み再度報告させて頂くとして、その際には佐美長神社も踏み、再考したいと考えています。そこで、最後にこの神社で控えめに掲げられている神紋の門光(一般には唐花と花菱とされます)について確認しておきたいと思います。何故か門光が控えめに…これこそ久留米高良大社の奥深く隠された九州王朝の神紋なのです(大祭の時だけ光を受けるのですが、同社の表、裏紋とも異なります)。

ただ、この神紋はHPを一手に作成した時のもので、直接には個々の神社と関係が無いのかも知れません。

無題.png

「倭は呉の太伯の後裔…」とは古代史ファン、神社探究者を問わずどなたもご存じのフレーズですが、中国(「三国志」の呉ではなく呉越同舟の呉)から前四〜五世紀に列島に避退して来たのが、周王朝に端を発した姫氏だったのです(「姫」=ジーは周王の姓だったのです)。

彼ら呉王夫差の後裔は揚子江流域から海路列島の入口であった九州西岸の肥前、肥後から筑紫の国へと入っており、それこそが列島国家の萌芽だったのであり、多かれ少なかれこの人々の血が倭人から後の日本国人に注がれているのです。

この人々を祀り上げた多くの民族、氏族によって形成されたのが列島最初の国家であり、九州王朝だったのです。決して、奈良の山奥から西に東にと広がったのではないのです。

この呉の大率姫氏が列島史上表面に現れたのが天照と神武だったのであり、天照の母神については前に少し触れましたが、神武の母神は千葉県の玉崎神社に祀られているのです。これも以下をお読み下さい。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

632

上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (下)

631

上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (上)

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2020年08月03日

742 伊勢から紀伊の神社調査への下調べとして F “主神として大市姫を祀る神社があった”

742 伊勢から紀伊の神社調査への下調べとして F “主神として大市姫を祀る神社があった”

20190323

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 めったに出くわさない神様とはあるもので、大市姫を祀る神社もその一つです。

 これは絶対に訪問したい一社で…と考えていると、津市には町中と山手に二つの大市神社があったのです。これまで神大市姫を主神として祀る神社には鹿児島県で遭遇してますが、伯母の大市姫は初めてです。

無題.png

三重県津市岩田6-24             大市神社

三重県津市安濃町妙法寺824          大市神社


どうやら、今回の調査旅行では最も見たい神社になりそうです。

主神として大市姫を祀る神社に出くわす事はそれなりに多くの神社を見てきた者としても経験が無いだけに妙に心が弾んでいます。

 町中の神社の方はネット上から三重県神社庁なのか皇学館大学なのかによる資料が出てきますので一部をご紹介します。


大市神社(町中)

《主》大市比売命,《配》祖母嶽神,罔象女神,建速須佐之男神,天照大御神,大名牟遅命,少彦名神,布都御魂神,事代主神,市杵島姫命,宇迦之御魂神,天水分神,大山祇命,菅原道真

無題.png

大市神社 カーナビ検索 三重県津市岩田6-24


鎮座の年代は明らかでないが、古老の口伝によると現在の鎮座地より乾(北西)の方角に一里(約4キロ)余りの場所に大市村があり、その河岸に延喜式内の大市神社があった。洪水の時にこの社が流失して石田川(現在の岩田川)の河岸の古松にかかったのを無題.png里人が之を引上げて鎮祭して川松社と号したことから川松明神と通称されるようになり云った。神威が著明なので石田村の産土神と崇敬される様になった。河辺の御鎮座のために何度も水害に遭うこととなり、いつの頃にか現在地に遷座されたということである。

明治15年5月1日に郷社に列格許可になり、明治40年に佐伯社、山中社、須賀神社、津興神社、が合祀され、明けて明治41年に船積稲荷神社、伊奈利神社がそれぞれ合祀された。昭和20年 終戦後に社格が廃止された。

境内社 伊奈利社

祭神 宇迦之御魂神 伊邪那岐命 市杵島姫命 大山祇命 

<由緒>当社は元綿内町清長院境内に鎮座して居たが、明治のはじまりの際に当社地へ遷座された。明治元年 旧藩主藤堂高猷公奥羽征討を拝命された時、神官石上清長に鎮撫の祈祷をさせた。清長が丹精を込めて祈ったところ眠けを催し夢の中で美しい神様が現れ稲穂と鏡を持って清長に向い「あなたの心からの祈祷に感応したのでこの鏡を授ける。常に精魂込めておまつりを続けるならば神の御加護をいただける」とお告げをされた。らたちまち清長は覚醒し、不思議に思い神前を見るとまさに夢の中で見た鏡が机の上にあった。よろこびありがたく奉ったところ不思議な事に暖気があったので此の事を高猷公に申し上げた。すると高猷公は神様の御心に感じ入り、奥羽鎮静後お礼の報告に時に多額の金銭を寄付され神殿等を新築された。


大市神社(山手)

《主》大市比売命《合》須佐之男命,天照皇大神,忍穂耳命,月読命,市杵島姫命,宇加之御魂命,大物主命,火産霊神,大山祇神,大山咋命,武甕槌命の御子,猿田彦命,木花之佐久夜毘売命,日吉大明神,八衢比古神,八衢比売神,応神天皇,仁徳天皇,安閑天皇,舎人親王,菅原道真,

無題.png

無題.png大市神社 カーナビ検索 三重県津市安濃町妙法寺 824


延喜式内社である。社伝によれば大市杢之助の氏神で大市村に鎮座、社殿も大きく近郷近在の貴賤みなここに参詣して諸願成就に満足し、村も栄えたが、慶長五年(1600)石田光成の戦乱によって社殿焼失をみ、氏子など嘆き悲しみ、慶長一六年(1611)一一月この地より西へ五丁の所に小祠を建てて御神体を遷置し、須佐之男命をも併せ祀り、この地の産神としたもので、旧社地には大松一本が残っていたという。後、そこに明法寺という寺院を建立したが、明治五年には無住無壇となり廃寺となったということである。津市内にも大市神社がある。古老の口碑によれば洪水で大市神社の大松が流れたのを岩田川で拾い上げ、この松が縁となって大市比売神を祀り云々とのことであるが、この妙法寺地区内にある浄土寺の山号が大市山であること大市という字名があり、流れる川を大市川ということ、庄屋平右エ門の姓を大市ということ等々から考えると大市氏が建て興した村なるが故に大市村と言いその祖を祀る故に大市神社と言ったものと思われる。長谷山の麓の山の尾根に在り前には安濃川の支流穴倉川が流れ社叢にも恵まれており南方には古墳群もあり古代集落やその氏神の存在にふさわしい場所であるといえよう。


では、何故この神社に執心なのかをご説明致しましょう実はとんでもなくどえらい神様なのです。

 まず、ネット上ではこの大市姫がどのような扱いを受けているかを探ってみました。

 大市姫が祀られている神社はあるのはあるのですがそれほどは確認できません(上位五50位検索)。

 中には、主神として大市姫とあるのに有名な神大市姫=では弥都波能売神、罔象女神と間違えられている神社もあり、殆ど見るべきものがありません。

 それだけでもこの津市の二社がいかに貴重この上ないものであるかが多少はお分かり頂けるでしょう。

 実のところ、この状態では神社庁とか大社の禰宜から神主の方でもほとんどお分かり頂いていないのではないかと思うものです。

それは迫害の結果かも知れませんし、最低でも厚遇されてはいなかったのではないでしょうか?

無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏が残された最終神代系譜には 大市姫が出てきます。

 天御中主命とウマシアシカビヒコヂの間に産れた大山祗の姉が大市姫でありその栄えある名を継承したと考えられるのが愛媛県に多い越智氏であると考えています。

 大三島の大山祗神社は皆さんも良くご存じだと思います。

 この女神様は当時最も優れた製鉄技術を持っていた金山彦との間に本物の神武天皇の本物のお妃となったアイラツヒメを産み、神武高兄五瀬命を産んでいるのです。

 どれほど重要な女神様であるかがお分かり頂けるでしょう。

 この女神様と間違われる神大市姫とは大市姫の弟である大山祗の長女であり、弟には大国主命が妹にはどなたもご存じの木花咲耶姫がおられるのです。

 まさに神々の中の頂点とも言うべき女神様なのです。

 一方、神大市姫はスサノウとの間にアメノウヅこと豊受大神=伊勢稲荷様を産んでおられるのです。

 伊勢の外宮様とはこの神大市姫の娘になる訳で、伊勢では間違えられても致し方ありませんが、この津市に於いて、我々百嶋神社考古学の者がトルコ系匈奴=熊襲と考える大市姫を正確に大市姫として伝え祀り守っておられる氏子の方々には敬意を表したいと思います。

 特に大市姫はイスラエル系であり秦の始皇帝と姻戚関係を結び先行し列島に移られた金山彦のお妃となられているのです。この三重県でも熊野市に金山町があり金山彦を祀る金山神社があり、関係を探りたいと考えています。

 そもそも三重県安濃町とは穴太衆を思わせますが、金山は穴を掘る人々がいなければならないのです。間違いやすい姪の神大市姫については、主神として祀る大王神社がありますのでご覧ください。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

522

鹿児島県姶良市寺師の大王神社初見


百嶋由一郎氏の音声CD、神代系譜と手書き資料のスキャニングデータを必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 20:02| Comment(0) | 日記

2020年08月06日

743 伊勢から紀伊の神社調査への下調べとして G “伊賀市の山奥に若宮が…”

743 伊勢から紀伊の神社調査への下調べとして G “伊賀市の山奥に若宮が…”

20190323


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 三社ですが、三重県伊賀市の山奥に若宮の名を冠した神社があります。

 若宮神社            三重県伊賀市老川219

 若宮八幡神社          三重県伊賀市高尾1794-1

 若宮大明神・千方神社      三重県伊賀市高尾中出


無題.png

こちらは津市ですが一緒に廻る事にしましょう。

川上山若宮八幡宮        三重県津市美杉町川上3498


 何故、若宮に拘るかお分かりにならないかと思いますが、それは我々が考える九州王朝の若宮(事実上呉太伯の流れを汲む最期の天皇=仁徳)が久留米高良大社の高良玉垂命=開化の長子(母神は神功皇后)の痕跡が辿れるかも知れないという淡い思いを消せないからです。

 若宮神社            三重県伊賀市老川219

 祭神:天押雲命・火之迦具土神・速玉男命

 若宮八幡神社          三重県伊賀市高尾1794-1

 祭神:仁徳天皇・素盞嗚尊・火之迦具土神・大山祇神

 若宮大明神・千方神社      三重県伊賀市高尾中出

こちらに来るには、国道165号線から県道39号線を南下し脇道を左折した。1kmほど手前県道39号線に面して、若宮八幡神社があった。若宮明神は、この神社から分祀されたようだ。藤原千方伝説地

無題.png

川上山若宮八幡宮        三重県津市美杉町川上3498

祭神:大鷦鷯命・素盞嗚尊・譽田別命・磐之媛命

拾い出しはかなり増えてきした。第一次調査としては十分な量になるでしょう。

当然ながら、現地を踏むと他の神社を訪問する事になりますし、臨機応変に予定を変える事にもなります。

 既に外宮、内宮については何度も足を運んでいますので、春の行楽と伊勢神宮の喧騒を避け、できれば熊野速玉大社(熊野もこの神社は訪ねていませんので)まで足を延ばそうと思っていますの。

そのためこれ以上増やすわけにも行きません。多くなると記憶が一致せずブログを書く際に混乱することになりますので、ここらでそろそろ下調べは終わりにしたいと考えています。

 故)百嶋由一郎氏の言によれば、九州王朝は仁徳の時代に二隊に別れて上方落語の「高津の冨」で有名な大阪の高津に移動している(難波高津宮への「九州王朝神霊東遷」)その故地かも知れないし、最近メンバーの宮原誠一氏のリポート「神社見聞諜」No.98 「仁徳天皇と那珂川の高津神社(追記)で提案された福岡県那珂川市こそが本物で、事績を移したのが大阪ではないかとの提案をされておられます。

 この場所は、後の高良玉垂命=ワカヤマトネコヒコ(藤原が第9代とした開化天皇)が仲哀亡き後の神功皇后と住んでいた可能性がある裂田神社の付近だけに今後の探索が肝要です。百嶋神社考古学では、高良玉垂命(実は開化天皇)と仲哀死後の神功皇后との間に産れた第二子、第三子(朝日豊盛命、夕日豊盛命=九躰皇子の二子、三子…長子は仁徳天皇)とします。

無題.png以下省略


無題.png 今時、とぼけた畿内説論者とか安本系の敬初期東遷説論者などどうでも良いのですが、特に九州王朝論者とお考えの方はこちらも是非お読み頂きたいと思います。

百嶋神社考古学では、高良玉垂命(実は開化天皇)と仲哀死後の神功皇后との間に産れた第二子、第三子(朝日豊盛命、夕日豊盛命=九躰皇子の二子、三子…長子は仁徳天皇)とします。

 五人は高良玉垂命と神功皇后との間に産れた皇子で、四人は別腹か神功の連子と考えています。

無題.png

  史料批判云々を言うなら藤原の都合に合わせて造った…「記」「紀」の価値を疑え…。


百嶋由一郎最終神代系譜(左)と「高良玉垂宮神秘書」の一部(右)

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記