735 合掌造りの里富山県五箇山の菅沼集落の塩硝小屋
20190319
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
五箇山のもう一つの合掌造りの里という菅沼集落を訪ねました。
夕刻が迫っているにも拘わらず観光客は多く人気の高さを示しています。
この神社の祭神は神明社でした。富山の砺波平野でもかなり見掛ける神社です。
神明神社 天照大御神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社である。神明社(しんめいしゃ)、神明宮(しんめいぐう)、皇大神社(こうたいじんじゃ)、天祖神社(てんそじんじゃ)などともいい、通称として「お伊勢さん」と呼ばれることが多い。
ウィキペディア(20190319 12:58)による
地名からしてスサノウ系の神社あるのではないかと考えていたのですが、天照大御神とは祭神入替でない限りは興味が無いので、ここでは以前から本では読んで知っていた五箇山の塩硝に図らずも偶然にも遭遇したことからこちらの話をすることにします。
塩硝とは何かと言われそうですが、まずは夕闇迫る菅沼をご紹介します。
この集落の入口に近いバス停の付近に資料館があったのです。
既に閉まっていましたが現地を見ただけで十分に感激したのでした。
この塩硝とは黒色火薬の産原料の一つである硝石の事なのです。
黒色火薬は、木炭、硫黄、硝石で造られます。
16世紀初頭、いよいよ戦国時代が始まる時代に、種子島に中国船ともポルトガル船とも言われる外洋船が来航し鉄砲が伝えられました。
種子島も膨大な海砂鉄のある島でしたが、領主に二丁鉄砲を売り渡したが、刀鍛冶はたちどころに複製し、日本は鉄砲の時代が始まったのでした。ところが、残念なことに火薬だけは自前で造れなかったのです。日本は緑豊かな火山列島ですので木炭と硫黄はふんだんに手に入りますが、唯一、無かったのが硝石だったのです。このため二度と会えない母に別れを告げ膨大な数の日本人婦女子が海外に売り飛ばされたという事実を我々は忘れてはならないはずなのです。
硝石(しょうせき、nitre、niter、saltpeterは、硝酸塩鉱物の一種。化学組成は KNO3(硝酸カリウム)、結晶系は斜方晶系。日本における古名は、煙硝、もしくは焔硝(えんしょう)。
硝酸カリウムが天然に産出する形態が硝石である。硝酸カリウムは窒素化合物の一種で、英語の「窒素」(nitrogen)は、硝石(niter)に由来する。
製造史天然の硝酸カリウムは、土壌中の有機物や、動物の排泄物に含まれる尿素、またそれが分解することによって生じたアンモニアなどの窒素化合物を、自然環境下に存在するバクテリアの亜硝酸菌や硝酸菌が分解する過程で、アミノ酸態やアンモニウム態の窒素化合物が硝酸イオンに酸化され、カリウムイオンと塩を形成することによって得られる。
水溶性で、土中に生成した硝酸カリウムは、雨が降ると深層に拡散してしまう。また硝酸カリウムは植物の根から養分として吸収される。このため表層土に硝酸カリウムが蓄積するためには、土中の有機物が豊富で、雨がかからず、植物が生育していないといった条件が揃わなくてはならない。硝石は古くは、雨の降らない乾燥地帯や、床下や穴蔵など、この条件を満たす環境の地表の土から採取された。
中国内陸部、スペイン、イタリアのような南ヨーロッパ、エジプト、アラビア半島、や西アジアのイラン、インドなど乾燥地帯では、天然に採取されている。一方、北西ヨーロッパや東南アジア、日本のような湿潤多雨な地域では天然では得がたく、おもに人畜の屎尿を原料にして、バクテリアによる酸化による生成を人工的に導く生産方法が工夫された。
ドイツやフランス、イギリスのような北西ヨーロッパでは、糞尿が浸透した家畜小屋の土壁から硝石を得ていた。また、東南アジアでは、伝統的に高床式住居の床下で鶏や豚を多数飼育してきたため、ここに排泄された鶏糞、豚糞を床下に積んで発酵、熟成させ、ここから硝石を抽出したほか、熱帯雨林の洞穴に大群をなして生息するコウモリの糞から生成したグアノからも抽出が行われてきた。
また、何十年かたった古民家の床下の土を集め、温湯と混ぜた上澄みに炭酸カリウムを含む草木灰を加えて硝酸カリウム塩溶液を作り、これを煮詰めて放冷すれば結晶ができる。この結晶をもう一度溶解して再結晶化すると精製された硝石となる。この方法を「古土法」といった。
ウィキペディア(20190319 16:08)による
この硝石が僅かながらも自前で製造できたのが、この五箇山だったのです。
戦国時代イエズス会系のポルトガル宣教師が所謂キリシタン大名と取引を行い法外な利得を得ていた交易品はこの黒色火薬
だったのであり、この火薬を鉄砲で武装した戦国大名に売却し儲けていたのです。
ところが、この交易の帰路大量に運ばれたのが日本人婦女子でありそれをバダビアのサンダカン娼館などに売り飛ばしていたのがカトリックの祭司どもだったのです。
一説には35万人とも50万人とも言われる日本人婦女子が火薬と交換され奴隷貿易が行われていたのです。
この事を知った秀吉が、伴天連追放令、禁教令〜家康以降の徳川政権もキリスト教を禁止し、天草島原の乱にまで行き着き、明治維新までの独立と平和を得たのですが、明治維新と太平洋戦争の敗北によって、文部科学省もキリスト教国に気を使いこの事実に目を瞑っているのです。
これについては既に以下を公開していますのでお読み頂きたいと思います。
宣教師は奴隷商人と結託し、日本人を海外に輸出していた。これが豊臣秀吉を激怒させ、伴天連追放令にまで発展した。宣教師は決して布教に従事する平和的な存在ではない。
彼らは日本人の売買に関与し、秀吉はそれを止めさせるための交渉を行っていた。
戦国時代、合戦の後には捕虜の売買が日常的に行われており、人買いという商売も成立していた。豊臣秀吉は国内での人身売買を許さず、仲介人や船主を磔刑とした。秀吉の伴天連追放令は、人身売買の禁令を外国人にも発布したのと言えよう。秀吉の通訳であったロドリゲスは、死の間際まで秀吉は布教の話題を取り上げることはなかったと記している。
天文年間、弘治年間頃から主に九州の日本人、特に女性が宣教師によって海外に売られた。弘治元年十月(西暦1555年11月)、マカオの宣教師カルネイロは、多くの日本人がポルトガル商人に買われ、マカオに輸出されていると手紙に記した。やがて、宣教師らは人身売買が日本への布教を妨げると判断。それを受けたポルトガル国王は元亀元年三月六日(西暦1570年3月12日)、ポルトガル人が日本人の売買に関わることを禁止した。合わせて日本人奴隷の解放と、それに反する者の全財産を没収することが決まった。
このように一部の宣教師は人身売買に反対したが、イエズス会自体は人身売買を許可していた。国王の発布した法であっても拘束力は弱く、その後も日本人の売買は続いた。天正十五年、秀吉はコエリョに対し『五ヶ条の詰問』を叩きつけ、南蛮人が日本人を奴隷として売り買いし、他国へ『輸出』していることに激怒している。コエリョは日本人が奴隷を売るから買ったのだ、と反論。秀吉は南蛮人の奴隷売買を日本人が真似てしまったのだと言い返した。…
この討論の直後、天正十五年六月十八日に伴天連追放令が発布された。同時に秀吉は、宣教師に海外に売られた日本人を直ちに帰国させるよう命じており、まだ日本の港にいる日本人奴隷は買い戻すよう命じた。慶長元年、イエズス会は奴隷商人への破門を議決。慶長二年四月、インド副王はポルトガル国王名で、日本人奴隷の売買、日本刀の輸出を禁じた。このようにイエズス会も日本人売買禁止令を出したが、従うポルトガル人は少なかった。…なぜこういった歴史を教えないのですか?
YAHOO知恵袋による
これについては詳しく書いていますので以下を検索して頂きたいと思います。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
ビアヘロ059キリシタン史跡世界遺産登録に狂奔する列島文化の堕落を撃て
http://hiborogi.sblo.jp/article/183963627.html
ひぼろぎ逍遥
634 | キリシタン史跡世界文化遺産登録に狂奔する列島文化の堕落を撃て |
ひぼろぎ逍遥
スポット190 再び再び九州王朝論者の皆様に対して キリシタン史跡世界文化遺産登録から
まさにこの隠された問題に直結するのがこの硝石だったのです。
さて、この五箇山の合掌づくりの家では藩政時代、黒色火薬の原料である煙硝(えんしょう)が秘密裡に製造されていました。(加賀藩では「塩硝」の字を使っていました。)製造された塩硝は「塩硝の道」とよばれる険しい山道を人力や牛を使って輸送され、全て殿様のお膝元である金沢へと届けられていたのです。「塩硝の道」は地図にも書き記されない秘密の輸送ルートであったそうです。五箇山そして白川郷の塩硝づくりは加賀藩が300年間以上にもわたって行ってきた藩の直轄事業でした。加賀の塩硝は「日本一良質である」とされていたそうです。人里はなれて外界から隔離された山間の村は、藩が主導する煙硝の密造には好都合の場所だったのです。
この塩硝づくり、山村生活の廃棄物と「発酵」の力をうまく利用したものです。作り方は次のとおりです。
塩硝づくりは堆肥づくりの応用です。堆肥づくりの中に「化学」を見出し、塩硝づくりの手法を完成された先人の知恵は感嘆するに余りあります。他藩の塩硝づくりが「古い家の縁の下から自然発生したものを採集する」というものであったのに対し、加賀藩では「人為的に塩硝を製造していた」のです。
明治中期に安価なチリ硝石が輸入されるようになって以来、五箇山で塩硝づくりは消滅しましたが、鉄砲伝来の時代に端を発するといわれる五箇山の塩硝づくりは、加賀藩の発酵産業がいかに発達し、高いレベルにあったかを今に伝える記憶のひとつです。
塩硝
また、現在、「消費型社会」の反省から「循環型社会」への立ち戻りが提唱されていますが、この塩硝づくりも自然循環システムに支えられた産業でした。合掌づくりの屋根の葺き替えが終わると、古いかやは桑畑の肥料になります。桑はカイコのえさになります。カイコのはいた糸は美しい絹糸となり織物に仕立てられ、カイコの糞は塩硝づくりに利用されます。自然からの恩恵に感謝し、自然と共存してきた、五箇山の人々の慎ましくも賢い生き方に感心させられますね。
〒933-1973富山県東砺波郡上平村菅沼 五箇山民俗館 電話 0763-67-3652
塩硝の館 電話 0763-67-3262
塩硝の館では塩硝の製造方法をミニチュアの人形や影絵などでわかりやすく説明しています。
https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/hakkou/hakkou11.html
結局、五箇山地方では加賀藩の時代に塩硝の製造が盛んに行われ普通の民家の地下で原料を埋め、発酵させ、煮詰めて塩硝を製造したのでした。
ただ、戦国時代の真っ盛りには生産技術が伝えられているようですが、如何せん生産規模が少な過ぎ、最大の需要があった戦国時代には間に合わず全量自給には遠く及ばなかったようです。
これで、五箇山の経済基盤の一端が見えました。時代は移り江戸期にはこの製造方法を守るためにこのような隠れ里が利用された事、伝え聴く古来流刑地でもあった事、ある意味で官営の製造施設であった事、この塩硝による財力が五箇山全域の基盤となっていた事までは理解できたのでした。