2020年07月01日

731 米水津湾の神々 B “大分県佐伯市米水津小浦の粟島神社”

731 米水津湾の神々 B “大分県佐伯市米水津小浦の粟島神社

20190315

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 米水津湾の北の最奥部に竹野浦、小浦があります。

昔から磯釣りよりも波止釣りを好む事から竹野浦、小浦は最も好きな入り江です。

島野浦、深島、屋形島、沖黒瀬…と言った名だたる沖磯で撒き餌をふんだんに使って大物を釣ればそれは大漁にはなるでしょうが、本当の釣りとは普段の生活圏でめったに釣れない大物を仕留めるのが醍醐味と考えるからで、所詮、食べもしない魚を無駄に釣り上げるゲーム・フィッシングを横目で睨み静かな内湾の風情を楽しむのが初老の衰えた人間のやるべき釣りであろうと壮年期から思い実行して来たのでした。

とは言え、ここ15年釣りを止めて来ましたが、あまりにブログを書き過ぎると、眼精疲労、頸肩腕症候群、腱鞘炎…にさいなまれる事から、仕方なく体の調整のために釣り竿を持って神社を廻る事になってしまいました。

神様でも鯛を左手に竿を右手に持った恵比須様(実は事代主という古々代ヘブライ系民族)との遭遇が増えそうな気がしています。

さて、ここには粟島神社があります。一般的には少彦名命を祀る神社とされています。

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粟島神社 カーナビ検索 大分県佐伯市米水津大字小浦


祭神:主神 大名持命 少彦名命 配祀 加具突知命 言代主神 菅原道真公


同社の由緒を読む限り、南北朝期に粟島の神が持ち込まれたのであって、社名の通り主神は少彦名命なのかも知れません。

無題.pngそう思わせるものが参拝殿右手前の社に石持神事を見たからでした。

これは参拝の度に浜から小石を拾い奉納と参拝する風習が確認できたからで、これが大国主命のものであることは南九州から筑豊などに遍く認められるものである事からもしかしたら元々格上の大国主命の社はこれだったのかも知れないと思ったのでした。

大国主命が出雲の国の方だなどと言うのは藤原が創った話であって、日向の一の宮(この日向の意味は宮崎一国ではなく、古代日向=薩摩、大隅、日向の南九州全域を意味するのです)は宮崎県都農町にあり、この大社の主祭神は大国主命なのです。

そしてここにも石持ち神事が認められるのです。

この傾向は鹿児島、宮崎、福岡で顕著であり、この米水津でも確認した事になるのです。

間違っても出雲の方などと通説に惑わされない様に…。 写真は都濃神社の石持ち神事。

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では、南北朝以前には祭祀は存在しなかったのでしょうか?

この米水津は確かに四国を通じて熊野と連絡を取る中継地のような場所である上に、陸からの攻略はその地形からほぼ皆無であり、仮にあったとしても船で隣の浦に撤退すれば良いような安全な地なのです。

また、平安末期から伊予の水軍の支配領域のような場所であって、それもあってか米水津には色々な神々が祀られている様なのです。

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従って、表面に見えるものだけではなく少しその基層を探るべきでしょう。

安直ですが、まずはネット検索をすれば、「神社と古事記」氏の一文にこのように書かれていました。


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御祭神は大名持命と少彦名命を主祭神とし、加具突知命・言代主神・菅原道真公を相殿に祀る。

社伝によれば、南北朝時代の貞治年間(1362-1368年)に征西将軍懐良親王と、それを奉じる菊池武光が豊後国へ下向する際に日向灘で海難に遭遇した。

そこで、親王の侍臣である渡辺左衛門尉が紀州粟嶋明神(現在の和歌山県海南市の粟嶋神社)に祈願して無事に米水津の小浦に着岸した。

その報賽として社殿を建立してその御分霊を勧請したのが創祀。親王が第一歩を印した岩は現在、当社石垣の傍らにあり、注連縄を張って祀られているという。

また、異伝として、その創祀は貞治5年(正平21年、1366年)で、清原信重によるものであるともされる。

以後、在地の海民を中心に信仰を集めた。なお、江戸時代の宝永4年(1707年)には当社の産子の者が本社である海南市の粟嶋神社へ参拝し、その時に奉納した金幣3体が同社に現伝している。

明治6年(1873年)に郷社に列し、戦後は神社本庁に参加する。


実に参考になる参考にすべき話です。深謝。

ただ、「加具突知命・言代主神・菅原道真公を相殿に祀る」 については、小集落だけに合祀と言っても、それこそが先在した祭祀だった可能性を無視できないのです。

ただ、少しばかり祭神にバラつきがあり整合性に欠けています。

加具突知命とはこれまで何度となく申し上げてきた様に、同族として秦の始皇帝と姻戚関係を結び先行して列島に移動した瀛氏の金山彦のことでありイスラエル系の製鉄神です。

その流れの本流本家の血を母親から受けたのが菅公であってこの二神は繋がりがあるのですが、事代主=恵比須は一般的に大国主の長男とされ出雲系などと考えられています。

勿論、これは誤りなのですが、ただ、一般的には繋がりに整合性がないと言えるとしたのですが、だからこそ逆に整合性があるように見えるのです。

それは、事代主神とは古々代ヘブライ系の神であって、氏の金山彦や少し後に入って来た秦氏(秦の始皇帝の一族+秦の臣民=秦の支配を嫌って半島に逃げた)氏より千年近く前に列島に入っていたイスラエル系の人々が事代主=恵比須とすれば、この三系統はその点で整合性のある広義の同族と言えない事もないのです。

従って、その一点においてこの三神は本物に見えるのです。

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そのように思ったのはやはり米水津湾の南に聳える石槌山の存在でした。

実は、まだ愛媛の石鎚神社の主神が金山彦なのか大山祗なのかそれとも大幡主なのかが良く分からないようになっているのです。

不明ながら、やはり、金山彦に思えるのです。

してみると、南の宮之浦と併せ金山彦の気配を感じるのです。


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数年前までは全く気付かなかったのですが、穏やかな米水津がこれほど面白い土地とは思いもしませんでした。しかし、探索へのピースは限られており、伝承も薄く、もう暫くで消失してしまう事でしょう。

私達の任務は少しでも真実に迫り後世に伝える事です。

竹野浦の天満宮も書くべきですが、メンバーの一つあがりのカフェテラス氏が書かれていますのでここでは控えておきましょう。


百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データを必要な方は09062983254まで

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2020年07月03日

732 米水津湾の神々 C “米水津竹野浦の天満宮の写真が消えた〜代わりに津久見市の石鎚神社”

732 米水津湾の神々 C “米水津竹野浦の天満宮の写真が消えた〜代わりに津久見市の石鎚神社

20190316

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 多くの写真を撮っているとその管理がかなり難しく、私の場合はパソコンの専用フォルダーに県、市町村、○○神社、@度目…などと個別のフォルダーを創り全てそれに放り込めば、後は神社フォルダーの中でパソコンが県、市町村別に分類してくれます。

 このため、作成したフォルダーにデジカメから取り込み送り込みさえすれば良いのですが、時として操作ミスなのかデータが飛んでしまう事があります。今回もそれなのですが、ネット上の写真だけでは書けないためにリポートは止めます。いずれ再訪しますが無理やり書くほどの事もないでしょう。

このため、今回書く予定はなかったのですが、佐伯市の北隣のセメントの町津久見市の神社のリポートを行なう事にします。

 津久見市と言えば、まずは赤八幡宮と相場が決まっているのですが、

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 直ぐに橘一族による石清水八幡系の八幡宮であることが分かりますが、ここでは津久見も地名のとおり、大幡主系氏族(白族)のエリアである事が良く分かります。

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つまり、宇佐の南、国東半島から豊後東岸は全て橘一族のエリアなのです。

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見た目に麗しい神社はそれなりに見ますが、風格と言い荘厳さと言いそれだけでも一見の価値ある神社です。

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赤八幡宮は紀氏=橘一族の八幡宮として理解しておけば当面それで十分として、以前からこの一帯にも石鎚神社がある事に気付いていました。

 カーナビで見つけていただけでしたが一向に見つからずそれっきりにしていたのでした。

 今回、時間的余裕もあったことから、赤八幡宮をゆっくり参拝し、付近の古老にお聴きすると、直ぐ傍に有る事を教えて頂きました。

 それでも迷って見つけられなかったのですが、もう一人のおばあさんから教えて頂き、ようやく辿り着くことができました。何の事は無い、百メートルと離れていなかったのです。

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石鎚神社 カーナビ検索 大分県津久見市宮本町22-9


 熱心に石槌神社の場所を教えてくれた初老のおばさんは、“毎年、四月にはバスを仕立てて石鎚さんに行くんですよ…”と言われていました。

 この豊後東岸の石鎚信仰圏は非常に興味深く、これだけに焦点を当てた調査をすべきかも知れません。

 とりあえず、落ち着きました。ただ、公民館には誰もおられず、祭壇は見る事ができませんでしたが、津久見市のもう一つの石鎚と併せ、もう一度考えて見ようと思います。

 問題は石鎚とは何かであり、金山彦で良いのではないかと思っています。

 と言ったものの、具体的にはスサノウと言うべきかも知れません。

 スサノウはヤマタノオロチ退治に依り金山彦と大幡主妹の埴安姫の間に産まれた櫛稲田姫をお妃にしている事から金山彦系ともスサノウ系とも言えるのです。

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石鎚神社 本社 カーナビ検索 愛媛県西条市西田甲797


御祭神と御神徳   同社HP

石鎚神社は石鎚毘古命(いしづちひこのみこと)をお祀り申し上げています。石土毘古命(いわつちひこのみこと)もしくは、石鎚大神(いしづちおおかみ)とも申し上げ、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)の第2番目の御子にあたります。諸願成就の神様で知られますが、特に家内安全・厄除開運・当病平癒の神として篤い信仰を受けています。


“石鎚神社は石鎚毘古命をお祀り申し上げています”とありますが、石鎚毘古命が誰かが分からなければ意味はありません。故)百嶋由一郎氏から聴いておけば良かったのですが、そのうち分かると思います。

 謎があるから神社探査は興味深いのであって、信仰心を持ってしまえばお仕舞なのです。

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百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データを必要な方は09062983254まで

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2020年07月06日

733 合掌造りの里富山県五箇山で見た五七の桐紋 “相倉集落の地主神社”

733 合掌造りの里富山県五箇山で見た五七の桐紋 “相倉集落の地主神社

20190316

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今回初めて富山県の合掌造りの里で知られる五箇山郷に踏み入りました。

226日に日田市をスタートし 3月に入りひな祭り前後には日本海側の南砺市から五箇山トンネルを貫け最初の合掌造りの里に辿り着いたのでした。初見ですのでもしも多少の誤りがあってもお許し下さい。


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地主神社 カーナビ検索 富山県南砺市相倉


この地には庄川の上流の相倉と下流の菅沼に二つの合掌造り集落があります。

と、言っても観光化され残されているのがこの二地区という訳であって、それ以外の現在の工法で造られた住居が卓越した地域にも、かつては、昔ながらの合掌造りが数多くあったはずなのです。

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天王山という地名が下梨集落の背後にありますが、これだけでも日本海側から入った白族を感じさせます

 合掌造りの集落も昔は相当あったと申しましたが、今でもこれほどの規模で残っている事は驚異としか言いようがありません。ある意味で合理性があるシステムなのかも知れません。

 まず、あれほどの材を組み合わせ巨大な住居をこさえているのですが、これは帆柱や竜骨を組み合せ船や城を造る事ができるような人々が関与しているとしか思えません。最初に見たのは相倉の集落でした。

 元々、白川郷と白川伯王家とに関係があるのだろうか?と言うのが今回の調査旅行の隠れたテーマでした。

白川郷は岐阜県で五箇山郷は富山県ですが、古代においてはそんなことは一切関係が無く、恐らく、政争、争乱を避け逃げ込んだ人々が住み着いた土地だったのかも知れません。

そうでもなければこれほどの無理をし、塩も容易には手に入らない豪雪と寒さに閉じ込められる過酷な環境の地に好んで住み着く人などないはずなのです。この点に全ての関心がありました。この痕跡の一端でも得られれば成功です。相倉集落の北側に南面して(天子南面す)鎮座していたのは地主神社でした。

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地主神は時たま遭遇しますが、まだ、正体が掴めていません。

九州で遭遇した数社の経験からは、単なる経験からの推測ですが金山彦ではないかと考えていました。

 九州でも福岡県八女市や大分県の国東半島でも見掛けるのですが、まさか、このような場所にあるとは考えてもいませんでした。

地主神社は青丸の下梨地区にもあるのですが、一般的には京都の地主神社を軸に考えるでしょう。

この神社のように 主祭神 大国主命、父母神の素戔嗚命・奇稲田姫命、奇稲田姫命の父母神の足摩乳命・手摩乳命を正殿に大田大神、乙羽竜神、思兼大神を相殿に祀る”ウィキペディア20190317 21:37による…とするのはあまりにも組み合わせに違和感があり俄かには同意できません。

まず、奇稲田姫命の父母神が足摩乳命・手摩乳命というのはOKなのですが(実は金山彦と埴安姫)、大国主の父母神が素戔嗚命・奇稲田姫命と言うのはあり得ない話なのです。

百嶋由一郎最終神代系譜に従えば、素戔嗚命・奇稲田姫命の子は金山彦系で朝敵とされたナガスネヒコ、オキツヨソタラシヒメ(兄、妹)というヘブライ系製鉄氏族であって大国主命などではないのです。

しかし、大国主命の母神(父神は大山祗)は白族系の埴安姫であることから、奇稲田姫命の母神(父神は金山彦)も埴安姫であることから、母神を軸に考えれば一部は照応するのです。

この辺りが神社研究65年の末、死の直前に書かれた百嶋由一郎最終神代系譜の凄さで、この地主神社の正体をある程度炙り出しているのです。

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しかし、天皇家の一族が使う五七桐を金山彦が使うはずはないので、もしかしたら、神武天皇(本物の初代天皇で神武僭称贈る崇神ではない)の本物のお妃が金山彦の娘のアイラツヒメである事から、この神紋が残されているのかも知れないのです。これは根拠があるのではなく、無理やり整合させた場合です。


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百嶋由一郎005アイラツ姫神代系譜(部分)


幹線道に近い坂梨地区の地主神社の神紋は五七桐ではないのですが、こちらはこの神紋がまずいと思い修験の神紋に換えたのではないでしょうか。これも聴き込みができず(寒いので皆さん家の中ですので)初見でこのような判別は危険なのですが、そう何度も訪問できる所でもなく、仮に何度か足を運んだとしても新たな情報が得られるとも思えないため、この不十分な仮説を提出しておきたいと思います。

とりあえず、二つの百嶋由一郎神代系譜を使えば非常にうまく整合するので、逆にこの系譜の信憑性を裏付ける一つの裏取りにはなるのかも知れません。

 しかし、不安があるのは三五桐神紋なら姻戚関係を結んだ一族が使えるためすっきりするのですが、五七の桐紋は天皇家の一族そのもののものであることから、地主神社の名でこの神紋が使われている事が説明できる可能性は、ある時期神武天皇を支え神武天皇そのものを祀った可能性があったのかも知れません。

 決め手となるピースがないためこれ以上の浅酌は不可能でしょう。

 正面参道から入れば良かったのですがラッセルされていない脇参道から入ったところ670センチはある残雪に足を取られ、八戸の連隊 陸軍第8師団(歩兵第5)の八甲田山状態に陥り、誤って溝に落ちかけ冷や汗ものでした。

 次に向かったのは富山県南砺市菅沼855の菅沼集落でした。

 これについては、次のブログに回す事にします。

最後に気になる事があるのですが、五箇山の意味が気になるのです。

 何故、五箇山なのか?単なる五個の集落という事で良ければ悩まないで済むのですが、佐賀県の吉野ヶ里町と福岡市の県境に沿った脊振山系の福岡県側に何故か佐賀県の村が存在し、現在ダムに沈みつつあります。この重要な集落が五ケ山で、古代の要地であった事から関連を考えたいのです。


百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データを必要な方は09062983254まで

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