2020年06月27日

730 米水津湾の神々 A “大分県佐伯市米水津宮野浦の天満宮の景行伝承”

730 米水津湾の神々 A “大分県佐伯市米水津宮野浦の天満宮の景行伝承

20190313

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 米水津湾の南の湾奥に宮野浦があり少し奥まった所に天満宮があります。

この一帯と言わず旧米水津村の漁師の経済力を感じさせるかのようにどこも立派な神社を持っておられます。この点大都市近郊にもかかわらず、少し山手の神社の疲弊ぶりと比べると目の覚める思いがします。

 まず、参拝殿に入ると、競うかのように奉納された真新しい絵馬や天上絵が配されています。

 豊かな農村部でも割れ、破れ、掠れた絵馬が目立つのですが、改めて漁撈の民の神社への思いを意識せざるを得ません。

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では、由来記をご覧頂きましょう。

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由来記にはかなり興味深い事が書かれています。

景行天皇伝承でも通常聴かない、米水津寄港とかお供の官女を西野浦に葬ったという話まで出ています。

我々九州王朝論者は景行も近畿大和からやって来たなどと惚けた考えは持っておらずえられず、仮に古典に従えば、前つ君の平定説話の置換え…などとなるのですが、無論、架空などとは考えてはいません。

ただ、由来を書いた木盤のそれは読み難いので、下に出した石盤に穿たれた方をお読み下さい。

通常、豊後なら日田市や竹田市や野津辺りの土蜘蛛の話を聴きますが、これは全く知りませんでした。

それだけでもリアルで面白いのです。

全てを陸路で移動したとは到底考えられないため米水津への寄港はリーズナブルです。

当時でもバイキング同様、舟による移動、川沿いに溯上する侵攻が普通のはずで、その点波静かな米水津湾は格好の移動の泊地だったはずなのです。

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天満宮ですから菅公を祀るのは当然とするでしょうが、何故か他人事と言った書きぶりで、本来の祭神は菅公ではないよ…とまでは言わないまでも何やらそっけない印象を受けます。多分、そうだったのです。

 天満宮は元々天満宮だったとは思えないもので、藤原氏が雷に撃たれ“道真の祟りじゃ”として全国に道真を祀らせたついでに古くからの煙たい神社が軒並み天満宮に変えられてしまったと考えています。

 菅原神社、老松神社、天神社、天満宮…といった道真を祀る神社群でも天満宮は道真の母方系の金山彦の流れを持つ大伴系の人々の神社ではないかと考えてきました。

 そもそも道真公は博多の櫛田神社の主神の大幡主の子の豊玉彦=ヤタガラスの流れを汲む武夷鳥の後裔本家と、金山彦の後裔本家の伴一族(大伴)の女の本家同志の間に産れた家系であり(百嶋説)、この天満宮についても、金山彦の流れを汲む人々だったのではないかと思います。

 そう考えるのは、背後地の山が石槌山と名付けられているからで、それは神社に奉納された絵馬に付された家紋を見ていてもその思いを深めます。オモダカ紋、チョウジ紋…があり、やはりと思ったものです。

 しかも、八角形のオモダカ紋、チョウジ紋ですから、金山彦、スサノウ、ナガスネヒコの流れも、また、愛媛県の大三島の大山祗を見るのです。



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 オモダカ紋は、八坂神社、祇園神社の宮司家の流れを汲む人々ですので、当然にもこの神社もそのような神社であるはずなのです。つまり、天満宮の基層部、その底流にある民族、氏族が垣間見えるのです。


 石槌山は愛媛の石槌山、石槌神社の意味で、これを付した人々がこの地に住み着いておられる事を感じるのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データを必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記