728 越前大野の篠座神社初見 (続編)“九頭竜川が生み出した大平野に蟠踞する大国主祭祀”
20190309
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
本稿は 727越前大野の篠座神社初見の続編になります。
前ブログに於いて越前大野の篠座神社を取り上げましたが、この地は戦国大名の朝倉氏が墓所を置き、織田徳川連合軍の侵攻に対して撤退し滅んだ本拠地でした。
この朝倉氏とは福岡県の現朝倉市(旧甘木市〜旧朝倉町(志波)〜旧杷木町)一帯の筑後川右岸(北岸)から対馬海流に乗り日本海側の養父市、朝来市(いずれも兵庫県但馬地方)、福井県敦賀市から福井市に対して移動したのではないかと考えてきました。
勿論、それ以前は日向から肥後への移動の問題があるのですが、話を簡略化するためにここではその話には踏み込みません。
※ 越前大野の篠座神社については前ブログ 727or740「越前大野の篠座神社初見」 をお読み下さい。
そこで、福岡県朝倉市の神社でも旧県社クラスの重要な神社から3社を「福岡県神社誌」でご覧頂きます。


※この神社は厳密に言えばとなり町の筑前町にありますが、ほぼ、隣接しており取り上げています
「福岡県神社誌」1〜8p(部分切り取り)
ここに掲載した3社は福岡県朝倉市と旧朝倉郡の神社で最初に思い浮かぶような代表的な大社です。
二番目の稲原の祭神は以前から祭神が改竄されているのではないかと考えており、近畿大和朝廷と言うか藤原氏に対してか明治政府に対してか通りの良いものに変えられていると言う印象を持っています。
この旧朝倉郡に関しては当方の百嶋神社考古学に影響を受けたメンバーによって何度となく調査し、また、神社誌などを中心に逐一訪問し、ほぼ、全社調査をしたようなところであって、所謂山神様の山神社、大山祗神社=月読神社が数多く存在する上に、田神社と言われる田神社が60社(貶められた無格社として)存在しているのです。
故)百嶋由一郎氏は日向のタノカンサー(田神社)は大山祗と大幡主=カミムスビとの儀身体と言われていました。
これらの事から分かるように、福岡県朝倉市から旧朝倉郡にかけての一帯とは大国主命、その父神としての大山祗祭祀が極めて濃厚なエリアだった事がご理解頂けるのではないかと考えているのです。

朝倉氏の展開地、進出地の一つ山口島根県境の朝倉郵便局をご覧ください。

島根県吉賀町(旧六日市町)朝倉の朝倉郵便局
次に養父市のHPから養父市が朝倉氏の故地であった事をご紹介しましょう。

養父市教育研究所の市内視察研修が、平成16年8月19日にありました。17人の参加者が朝倉区長の才木 茂さんの案内で朝倉城を見学しました。
城の登り口には「越前の大名朝倉氏発祥の地」という解説板が建てられています。朝倉の集落は、越前一国を治めた戦国大名、越前朝倉氏の出身地です。朝倉氏は平安時代末期に、日下部一族の中から朝倉という地名を苗字として生まれた武将です。朝倉史跡保存会では朝倉区のまちづくりのシンボルとして、朝倉城やびくに城の草刈りや顕彰に努めています。
越前の朝倉氏は延元元年(1336)に初代の朝倉広景が、但馬から越前に入って始まりました。6代孝景は越前の守護となって、一乗谷の城下町を整備して栄えました。しかし天正元年(1573)に織田信長の軍勢に攻められ、11代の義景で滅びました。現在の一乗谷の城下町は、武家屋敷なども復元されて福井市の歴史公園となっています。
朝倉城は、集落から西方向に尾根を約300mほど登った標高152mの丘にある山城です。規模は南北180m、東西95mあります。城の南端は三本の堀切(ほりきり)で区画しています。そして城の平坦地である曲輪(くるわ)が8段、北方向に続いています。
そして最も先端部に南北36m、東西42mの広い曲輪が作られています。物見櫓(やぐら)を建てたと思われる櫓台が中心にあり、曲輪の端には低い土塁(どるい)が残っています。
朝倉区長の才木 茂さんは、「朝倉城は大きな城ではありませんが、形が整っている城で、堀切や土塁などがきっちと残っています。八鹿がよく見える景色のよいところのあります。福井市からも見学に来られます」と解説しました。
武将としての朝倉氏は、八鹿町朝倉に屋敷を構えて、鎌倉幕府を開いた源頼朝につかえた、朝倉高清を始祖としています。朝倉氏の一族は江戸時代には旗本になって、明治維新まで続きました。朝倉城は、武将の時代を静かに語り継いでいます。

養父市の中心部に朝倉という字地名があり朝倉と言う交差点があることをお知らせして次回に繋ぎたいと思います。

朝来市から養父市への幹線道路の終点付近にこの「朝倉」交差点があります 養父市八鹿町朝倉
朝倉氏が室町期の守護大名の斯波氏に仕えていた事は比較的知られています。
朝倉氏
但馬には、開化天皇の後裔とも孝徳天皇の後裔とも伝わる日下部氏が、平安時代から大武士団を形成し栄えていた。朝倉氏は、この日下部氏の流れをくむ氏族のひとつである。
朝倉氏の本貫は但馬国養父郡朝倉(兵庫県養父市八鹿町朝倉)である。但馬朝倉氏から分かれ越前に移った系統が越前朝倉氏である。越前朝倉氏は、越前国守護・斯波氏に仕えて、甲斐氏、織田氏に次ぐ斯波三守護代の第三席となり、後に朝倉氏自体が守護に任命されるようになって自立し、越前国を支配する戦国大名になった。
日下部氏の流れをくむ氏族は他に、山陰最大の守護大名・山名氏の家老職である太田垣氏・八木氏・田公氏などがある。とくに太田垣氏・八木氏は山名氏の分国の守護代を勤めて山陰道・山陽道で栄えた。
越前朝倉氏
越前朝倉氏は南北朝時代、足利氏の一族である斯波氏に仕えた朝倉広景から始まる。通字は「景(かげ)」。
次代の朝倉高景は斯波高経に仕えて、高経が守護に任じられた越前国に所領を与えられた。高経が室町幕府によって越前守護を追われて討伐された貞治の変の際には、幕府軍に寝返って所領を安堵されている。その後、外来の武士ながら越前国に定着して勢力を築いた。斯波氏が越前守護に復帰すると帰参するが、既に越前に勢力を築いていた朝倉氏の存在を斯波氏も無視する事は出来ず、室町時代に入ると、甲斐氏・織田氏とともに守護代に任ぜられるようになった。
室町時代後期に入ると、朝倉孝景(英林孝景)は守護代の甲斐常治とともに、主である斯波義敏と対立して長禄合戦を引き起こした。足利将軍家の家督争いなどから発展した応仁の乱では、山名宗全率いる西軍から細川勝元率いる東軍に寝返った。越前では甲斐氏を圧迫して国内をほぼ統一し、斯波氏に代わって越前国守護に取り立てられた。孝景は分国法である『朝倉敏景十七ヶ条』を制定し、戦国大名としての朝倉氏初代となった。
軍記物『朝倉始末記』によると、孝景が1471年(文明3年)に一乗谷城を築いたとされる。近年では、15世紀前半には朝倉氏が一乗谷に移っていたとの見解が出されている。それ以前に朝倉氏が本拠としていた黒丸については、坂井郡三宅黒丸(現・福井県福井市三宅町)説のほか、足羽郡北庄黒丸(現・福井市中央)説がある。 ウィキペディア(20190310 20:32)による
ところが、室町期に朝倉氏が仕えた斯波氏の「斯波」に相当する「志波」という地名が現朝倉市の杷木町に存在するのです。
百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データを必要な方は09062983254まで

朝倉郡
朝倉郡(あさくらぐん)は、福岡県の郡。人口31,302人、面積119.07km2、人口密度263人/km2。(2018年10月1日、推計人口)以下の1町1村を含む。筑前町(ちくぜんまち)東峰村(とうほうむら)
明治29年(1896年) 4月1日 - 郡制の施行のため、上座郡・下座郡・夜須郡の区域をもって発足。以下の町村が所属。郡名はかつて上座を「かみつあさくら」、下座を「しもつあさくら」と読んでいたことにちなむ。(2町24村) 旧・上座郡(11村) - 小石原村、宝珠山村(現・東峰村)、松末村、杷木村、久喜宮村、志波村、高木村、朝倉村、宮野村、福成村、大庭村(現・朝倉市)旧・下座郡(5村) - 三奈木村、金川村、蜷城村、福田村、立石村(現・朝倉市)旧・夜須郡(2町8村) - 上秋月村、秋月町、安川村、甘木町、馬田村(現・朝倉市)、大三輪村、栗田村(現・筑前町)、三根村(現・飯塚市、筑前町)、中津屋村、安野村(現・筑前町)7月1日 - 郡制を施行。郡役所が甘木町に設置。…
昭和26年(1951年)4月1日 - 松末村・杷木町・久喜宮村・志波村が合併し、改めて杷木町が発足。(3町16村) ウィキペディア(20190310 21:49)による
志波柿で知られた志波地区ですが、現地で神社調査をしていると、昔は「志波」の方が「朝倉」より格上で繁盛していたと言った話を聴いていました。
もしかしたらこの「志波」が、朝倉氏の仕えた斯波氏と関係があるのではないかと気付いたのは3年ほど前でした。
この志波地区の神社調査によって、さらに遠方の塩竈市の志波彦神社との関係まで考えています。
これについては、以下をお読み下さい。
639 | 志波彦神社(塩竈市)の志波彦とは塩土老翁か豊玉彦か? |