727 越前大野の篠座神社初見 “九頭竜川が生み出した大平野に蟠踞する大国主祭祀”
20190309
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
二月の末から岡山県津山市〜兵庫県佐用町〜鳥取県鳥取市〜京都府京丹後市〜石川県金沢市〜富山県五箇山〜岐阜県白川郷〜飛騨高山まで進み、雨に祟られ同地から引返す途上九頭竜川を降り越前の大野市に入りましたが、ここで飲料水(霊水の御神水)を調達する必要もあり篠倉神社に参拝させて頂きました。

九頭竜川沿いに国道158号線を転がり降り、大平野に降り立つとそこは越前大野(これはJR駅名)でした。休憩と不足していた飲料水の調達のために篠座神社を訪ねました。
後で分かったのですが、どうやら越前でも最も重要で最初に見るべき神社に参拝したようでした。
福井にもかなり入るようになりましたが、どちらかと言えば通過地に過ぎず、フィールド・ワークはまだまだ少なくこれからというところです。
このため、現地に詳しい方からは“何を頓珍漢なことを言ってやがる”とのご批判を受けるでしょうが、今後、少しずつ訪問する神社を増やして行きたいと考えています。
大野市は確かに福井の奥の懐深い子宮のような大平野といった所で、事実、朝倉「義景は、織田信長に対抗するため近江への出兵を繰り返し、天正元年(1573)の戦いに大敗すると、一乗谷に撤退し、最終的に大野郡の六坊賢松寺に逃れた しかし、織田軍に通じた大野郡司である従兄弟の朝倉景鏡の襲撃に遭い自害した」(「西国の山城」による)は最期の地として逃げ込んだところでもあり、墓所も置かれてもいる要地なのです(大野市和泉町)。
まさに大野は越前朝倉氏の懐中といった土地と言えそうです。
そのうち大野市の神社の大半を見たいと考えていますが、そのためにも福井県一県だけに絞り込んで調査を行いたいと考えています。といっても交通量が多く、容易に移動できないのが悩みです。
それは、この朝倉氏が但馬の兵庫県養父市から移動してくる前に拠点としていた故地は、福岡県朝倉市一帯であり(勿論、その前は熊本県菊池市から熊本市の南から日向の西都市一帯なのです)、福岡県朝倉市〜兵庫県養父市+朝来市の調査は粗方行っていますので、次の調査対象地は必然的に越前大野から始めざるを得ないでしょう。これについては既に以下を書いていますので、関心をお持ちの方はとりあえずこちらからお読み頂きたいと思います。
ひぼろぎ逍遥
533 | 但馬(下) | ||
532 | 但馬(中) | ||
531 | 但馬 (上) | ||
146 | 「朝来」地名について B “朝倉氏と小佐氏” | ||
145 | 「朝来」地名について A “但馬、朝倉、養父、志波” | ||
144 | 「朝来」地名について @ “兵庫県朝来市の朝来山から” | ||
306 | 朝来地名とは何か? | ||

最初に目に入って来たのは最奥部の弁財天様でした。
通常、浮島に置かれる弁財天(印度の女神)祭祀は江戸期に成立したと考えていますが、宗像の市杵島姫(瀛ツ島姫)祭祀の置換えと考えています。
当然ながら、お妃とした夫神としては、海幸彦=草部吉見=ヒコヤイミミ=武甕槌…or大国主命が頭に浮かんで来ます(始めは阿蘇高森の草部吉見、後に大国主命)。
同社の奥に何故弁天様がおられるかがお分かり頂けたでしょうか?同社は大国主命を主神とするのです。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
ともあれ、先に同社のHPをお読み下さい。

延喜式神名帳に掲載される古社。
戦乱により一時荒廃するも、大野城主金森長近により再興され、歴代藩主より厚い保護を受ける。
明治八年に県社列格。
大野原を領く産土神として崇敬され、殊に御霊泉の清水は、癒しの神水として奥越前(大野市・勝山市)をはじめ、県内外の参拝者らに広く親しまれている。
『養老元年に泰澄大師が麻生津から白山登拝を思い立ち、大野に到着したとき、南の方の林、清水湧き流れ出る所(篠座)に十日ばかり過ごされた。白山登拝の後、 再び篠座に還られたとき、虚空に声があって「我は大己貴命なり。かかる林泉の勝地であるから常に心を楽しませて降遊する」とのお告げがあり、泰澄大師は一 つの祠を営み、影降の尊容を刻んで安置申し上げた…。』

御 祭 神 大己貴大神
相 殿 少彦名命 市杵嶋姫命 豊受姫命 譽田別尊 木花咲耶姫命
百嶋由一郎最終神代系譜をご覧頂くと大山祗(実は金海金氏のウマシアシカビヒコヂと天御中主命との間に産れたトルコ系匈奴)と埴安姫(博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビの娘)の間に産れた大国主、コノハナノサクヤが共に祭神とされている事がお分かり頂ければ、この篠座神社とは正しく大国主命と市杵島姫の後裔氏族の展開地であることが自ずとお分かり頂けるでしょう。
「朝来」「朝倉」地名については、前述した以下をお読み頂きたいのですが、この物部氏の一翼を担った朝倉氏は九州(実は南九州の熊襲領域)から端を発し全国に朝倉地名を残しているのです。

ひぼろぎ逍遥
306 | 朝来地名とは何か? |
@ 宮崎県宮崎市金崎914 朝倉寺(曹洞宗)福岡県朝倉市にも朝暗(チョウアン)寺がありますね
これは敦賀の金崎城の金崎に繋がるものと思われます。
A 鹿児島県鹿屋市輝北町諏訪原朝倉
B 大分県豊後大野市朝地町朝地朝倉
以下九州外の朝倉、朝来地名… その後も発見していますので、実際にはもっと拾えるでしょう。
今は、トルコ系匈奴=熊襲が展開したルートを探る痕跡地名と考えています。
@ 山口県山口市朝倉町
A 島根県鹿足郡吉賀町朝倉
B 島根県益田市美都町朝倉
C 島根県大田市朝山町朝倉
D 島根県出雲市大津朝倉
E 兵庫県養父市八鹿町朝倉(舞鶴の朝倉氏の故地とされている)
F 兵庫県朝来市(天空の城の朝来山で有名)
G 京都府京都市中京区朝倉町
H 京都府舞鶴市朝来
I 福井県舞鶴市(地名としては確認できないが、敦賀の金ケ崎城の戦国大名の朝倉氏は著名)
J 秋田県横手市朝倉町
以下瀬戸内海側
K 愛媛県今治市朝倉
L 香川県木田郡三木町朝倉
M 徳島県の朝倉駅(土讃線)
N 高知県高知市朝倉
O 和歌山県西牟婁郡上富田町朝来(JR紀勢線朝来あっそ駅は知られている)
P 奈良県桜井市朝倉(旧朝倉村は合併地名ですが何らかの背景が・・・)
Q 滋賀県米原市下丹生朝倉
R 岐阜県関市朝倉町
S 愛知県知多市朝倉町
21 千葉県山武郡芝山町朝倉
22 群馬県前橋市朝倉町 以下省略
恐らくこの朝来地名、朝倉地名を残した氏族(民族)は物部氏と関係があると思うのですが、織田徳川連合軍と死闘を演じた浅井、朝倉の朝倉氏が、物部から武士(モノノフ=物部)として蘇った人々に思えるのです。
では、朝倉、朝来の震源地は熊本市の南の益城(マシキ)で良いのでしょうか?
結論に急ぐ前に、ある神社の縁起をお読み頂きたいのです。
熊本地震の犠牲地である益城町の「益城」も実は彼らトルコ系匈奴(熊襲)が付したもので、益城は「マシキ」ではなく「ウマシキ」と呼ばれるべきで、かつての福岡県甘木市(現朝倉市)の「アマギ」、福岡県飯塚市の馬敷「ウマシキ」と筑豊へと北方に向かって展開しているのです。

豪雪地帯の越前の事、3月になっても雪囲いが残されていますが、この神殿の中には大国主命のご一家が祀られているはずです。ただ、大国主命は倭人の頭目であったカミムスビこと大幡主(博多櫛田神社の主神)への入婿であり、だからこそ「主」という同じ尊称を使っているのです。
従って、福井県の主要な人々とは、この海人族とトルコ系匈奴=熊襲の後裔であり物部氏の本隊であった事が見えてくるのです。粗いながらも但馬から丹波丹後への調査が終わりましたので、今後は越前を集中的に歩きます。これをある程度やり切れば新たな世界が見えてくるような気がしています。
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