723 伊勢から紀伊の神社調査への下調べとして @ 伊賀の国の一宮 敢國神社
20190216
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
いよいよ奈良は大和の裏側、伊勢志摩への神社調査に入ろうと考えています。
南紀白浜には過去二〜三度踏み込んでいます。伊勢神宮も二度ほど熊野那智大社に一度と如何にも貧相で、いずれは本腰を入れて神社調査に入ろうと考えてきました。
「伊勢音頭」でも「伊勢へ七度熊野へ三度」…と歌うのですから残りの人生を考えてもそろそろ行かなければと思うものです。
当然、伊雑宮、猿田彦神社、椿大神社、幸神社、皇大神宮別宮 瀧原宮…、それに熊野速玉大社にも足を延ばそうと思っています。
その時の気分次第ですが、場合によっては和歌山まで南回りで四国に抜け戻ってくる事も考えています。
当然、旅そのものが目的ですから高速などは使わずに交通量が少ないルートを選択します。
山陰から滋賀県の北部を琵琶湖の右回りで伊賀に入る事を考えています。
当然、旧上野市辺りから調査を始めるのですが、まず、始めに向かう予定なのは伊賀の国の一宮 敢國神社 です。由緒書きは非常に丁寧に書かれていますので、ほぼ、全文を引用させて頂きます。

敢國神社の御祭神
主 神 大彦命 配 神 少彦名命 金山比当ス

敢國神社の御由緒
古来伊賀の国の一宮として、当国の人々の総鎮守大氏神として、仰ぎまつってその霊徳に浴してまいりました。
創建年代は658年ですが、貞観の頃には神階五位を授けられ延喜の制には大社に列せられました。また延長年間には朝廷より社殿が修造せしめられ、南北朝時代には後村上天皇が行幸ましまして、数日間参籠あらせられ、社領の御加増もありました。徳川時代には藩主藤堂家の崇敬厚く、社殿調度の修営・神器社領の寄進・祭儀神事の復興などが行われました。明治4年5月国幣中社に列せられ今日に至っております。
敢國神社の略史
当神社は今から1300年以上前に創建されました。くわしくは、7世紀の中期658年に創建と当社には伝わっています。創建当時は大彦命(おおひこみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神で敢國神社が創建されました。
創建以前のお話になりますが、当社の主神である大彦命は、350年頃第8代孝元天皇の長子として大和の国に生まれ、大和朝廷創建期の武人と云われています。
又、その子建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)と共に北陸・東海を征討する役目を負われ「四道将軍」のお一人として第10代崇神(すじん)天皇の詔により日本の東目の攻略を果たされた後、大彦命率いる一族は伊賀の国にお住みになり、その子孫は伊賀の国中広がっていきました。伊賀の国の阿拝(あえ)郡(現在の阿山郡は阿拝郡と山田郡が合併してできたもの)を中心に居住した為、阿拝氏を名乗るようになり、後に敢・阿閉・阿部・安倍と呼ばれるようになりました。「あえ」とは、「あべ」の原音であり、あべ姓の総祖神でもあると共に伊賀にお住まいの方の祖神でもあります。
又、古代伊賀地方には外来民族である秦(はた)族が伊賀地方に住んでおり彼らが信仰する神が当社の配神(はいしん)である少彦名命でありました。当時は現在の南宮山山頂付近にお祀りしていましたが、神社創建時には南宮山より現在地に遷してお祀りしています。このことから伊賀にお住みの方々はこの二神の混血の民族であると言っても過言ではないでしょう。
創建後、南宮山の社殿が山の下に遷された跡地に新しい神社の創建に当たっては当時の伊賀の有力な人達の頭を悩ましたことであろうと思われます。結局、美濃の国(現在の岐阜県)南宮大社の御祭神である金山比当ス(かなやまひめのみこと)を旧少彦名命の跡地に勧請しました。おそらくその頃南宮山(なんぐうさん)という名がついたのではないかと推測されます。
その南宮山の金山比当スが、敢國神社の本殿に合祀されたのは創建時より319年後の977年のことと記載されています。
ある日突然金山比当スの社殿が激しい音をたててゆれ、止むと同時に社殿前の御神木の幹に、虫食いの跡が文字となって現れ「興阿倍久爾神同殿」と言う8文字の漢字でした。神官の報告を受けた当時の伊香守高則は、早々主家の藤原兼家に報告、直ちに御神慮に従って金山比当スの遷座合祀が執り行われました。こうして当神社は三神をもって敢國神社・敢國津大神(あえくにつおおかみ)となって現在に至っております。
少彦名命を信仰する外来民族秦族は、色々な技術文化を日本に伝えています。たとえば伊賀の組紐伊賀焼・酒造等があります。又、芸能にもみられ、鎌倉時代に盛んになった能楽の祖と言われる観阿称は、伊賀の出身地であります。能楽が武士階級の娯楽に発展し、又、同じ頃に獅子神楽が庶民階級に発達していきました。当神社に伝わる獅子神楽(三重県無形文化財指定)もこの時期にできたものであろうと言われています。現在伊賀地方の各町で「町おこし」として執り行われている獅子神楽の原型とも言われ、伊勢下神楽に多大な影響を及ぼしたとも言われています。
敢國神社の御神徳
大彦命は第八代孝元天皇の皇子で、崇神天皇の御代四道将軍のお一人として北陸未開の地を教化した後、伊賀の国に永住せられ、国家繁栄の礎を築かれました。命の御遠征によるご活躍にあやかり、交通安全その他、健康長寿の神として御霊徳を仰がれて居ります。また少彦名命は医薬・酒造の祝神で、世に恵美須様と称し商売繁盛・大魚豊穣の守護神としてその御沢尽くるところがありません。
金山比当スはその御名の如く採鉱冶金機械工業など、近代産業の霊験を垂れ給う守護神であらせられます。
偉そうな事を言うつもりも力も持ちませんが、まず、正確に書かれたと思われる社伝に真摯な解釈が加えられておりそれだけで好感を持ちます。勿論、一部に異論はあるのですが、それは当方の不勉強によるものかも知れませんし詳しくなればなるほど完全に受け入れる方はおられないでしょう。
いずれにせよ非常に良くできた参考になるHPと感心してしまいました。宮司の力を感じます。
まず、祭神に大彦命というかなり後代の祖先神というような神様が主神として祀られています。
始め、少彦名命と並んでいるので大国主命でも祀っているのかなと錯覚したほどでしたが、金山彦と共に配神、随神として祀っているのです。
敢國神社の略史では @「外来民族である秦(はた)族が伊賀地方に住んでおり彼らが信仰する神が当社の配神(はいしん)である少彦名命でありました」A「少彦名命を信仰する外来民族秦族は、色々な技術文化を日本に伝えています」としており、金山彦も少彦名命も同族である可能性が高く、これまであれこれと考えていた少彦名命がどのような民族であったのかの一端を見せて頂いた気がしています。
過去、ひぼろぎ逍遥 176 少彦名命とは何か? ひぼろぎ逍遥(跡宮) 411 第三次奥出雲調査に行かなければならない B ひぼろぎ逍遥(跡宮)260 若き大国主命=大己貴(オオナムチ)ならぬ大己彦を祀る“春日市の白玄社”への再訪!などで書いてきましたが、若き日の大国主命は福岡県春日市辺りに住んでいた可能性があり、近くには少彦名命が幼馴染としていた可能性を見ています。
そもそも大国主命を出雲の国の人などと考えるのが大間違いで、彼は熊襲とされる大山祗命の実子であり、妹に木花咲耶姫、姉に神太市姫(ミズハノメ)を持つトルコ系匈奴であることは過去何度も書いてきました。
謎だったのは少彦名命の方で、金山彦〜秦氏に繋がる瀛(イン)氏であろうとの一端を見せて頂いたのです。
合わせて、大国主命の幼名と考えられる大巳彦or大己彦を祀る春日市の白玄社の付近には有名な須久岡本遺跡があり、須久に住んでいたから少彦名命は須久(スク)ノ彦(ヒコ)ノ命(ミコト)と呼ばれていたのです(「ナ」はソコナオナゴの所有の格助詞)。
このことから、「スク」という地名が(小郡市の津古生掛古墳の「ツコ」も含めて)、ヨーロッパ・ロシアから極東まで広がるペトロパブロフスク、ヤクートスク=ヤクーツク、ウラジヲストーク、アラスク(アラスカ)、チェルネンスク…という針葉樹を打ち込んだ砦集落〜城塞都市起源の都市国家地名(更に列島では「佐久」=柵にまで転化している)である可能性を感じさせるもので、彼らがどこを通って列島まで進出して来た民族であったかが垣間見られるのです。
特に面白いのは、「伊賀にお住みの方々はこの二神の混血の民族であると言っても過言ではないでしょう」の部分で、皇国史観の延長上に放置されている日本人自生説、単一民族説といった外来神を意識しない議論では一歩たりとも前進できない中、宮司と思われる方が踏み込んで提案されている事に拍手を送りたいと思います。
安曇族は元より、琵琶湖沿岸には新羅系、秦系の民族が大量に入っている事は多くの方が議論されている訳で、そろそろ踏み込んだ解析に入る時期が到来していると思うのですが、旧態以前の停頓が遍く広がっているのが現在の神社を取り巻く環境なのです。真実を伝えないままこのまま放置すると、神社そのものが捨て去られる時代が目前まで来ている様に思うものです。では、さらに解析を進めましょう。
そもそも主神の大彦とは

百嶋由一郎金神神代系譜(部分)
大彦は九州王朝系の第8代天皇(どうせ藤原が自らに都合が良いようにやった事ですが)とされたオオヤマトネコヒコクニクルと山下影姫の間に産れた武内宿祢の兄にあたる人物なのです。
普通は武内宿祢の父親とされる屋主忍男武雄心命のお妃が山下影姫とされるのですが、百嶋先生は“千束八幡の武雄社に記録あり”とのメモを残しておられます。
山下影姫もナガスネヒコの妹である武内足尼とヤタガラスの血をひく葛城高千那姫を母とし彦太忍信を父とする人物であり、後はご自分でこの系譜を検討して頂きたいと思います。
この神代系譜を見て頂ければ分かりますが、第9代開化天皇=高良玉垂命と大彦とは腹違いの弟と兄の関係にあります。
この開化天皇=ワカヤマトネコヒコは仲哀亡き後の神功皇后を正妃として仁徳天皇以下5人の皇子を得るのですが、神功皇后紀の舞台が周防から九州北部であるようにその活動領域は九州だったのであり、当然にも孝元天皇も九州に居たのであって、この神社の由緒に云う 「当社の主神である大彦命は、350年頃第8代孝元天皇の長子として大和の国に生まれ、大和朝廷創建期の武人と云われています」 というこの一点については受け入れ難いのですが、まだ見ぬ神社でもありこれ以上は憚られる事となるでしょう。
この大彦は神武僭称贈る崇神天皇の時代に開化天皇の指揮下で送られた四道将軍の一人であり東北の安倍氏のルーツともされる人物なのです。
これを自らの業績として大々的に宣伝したのが後の藤原氏である阿蘇系の崇神=ミマキイリヒコ(「日本書紀」に都怒我阿羅斯等=ツヌガノアラシトとして登場する人物)であり、実力や業績があったとしてもこの人物は天皇でも何でもなく、開化天皇と神功皇后に仕えていた将軍だったのです。
実は日向からとされる神武東征も崇神がやった事であり、本物の神武天皇は神武巡行と云われる調査旅行を行っているのです。
これを後の藤原氏が自らの格上げのために崇神は偉大な天皇だったとしたのが「古事記」「日本書紀」だったのです。
最後に金山彦についても触れておきたいと思います。

祭神でもある金山彦は瀛氏としています。この意味は秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ一族を表しています。始皇帝は、姓は嬴(エイ)氏は趙(チョウ)、諱は政(セイ)であり、姻戚となった金山彦は先行し渡海したため瀛氏と自ら呼んだのです。製鉄神でもあった彼らは金属を得やすい火山列島に移動したのでもあるのです。列島に進出した彼らは、我々がトルコ系匈奴と考える熊襲の大山祗の姉のオチ姫を妃とするとともに、博多の櫛田神社の大幡主の妹の埴安姫を受入れ、相互に、瀛氏、白族、越智族のスクラムが組まれた時代があり、列島の開闢から初期の九州王朝成立前夜に繋がるのですが、この時期、金山彦も九州島(熊本県山鹿市と考えていますが)にいたのです。この辺りについてはひぼろぎ逍遥(跡宮)から 281 大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か?以下@〜Sや 106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”外5本程度書いていますので必要な方はお読み頂きたいと思います。いずれにせよ、現地を踏むことなくこのような文章を書くのは下調べとしても違法ですのでここまでとします。
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