2020年06月18日

727 越前大野の篠座神社初見 “九頭竜川が生み出した大平野に蟠踞する大国主祭祀”

727 越前大野の篠座神社初見 “九頭竜川が生み出した大平野に蟠踞する大国主祭祀

20190309

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


二月の末から岡山県津山市〜兵庫県佐用町〜鳥取県鳥取市〜京都府京丹後市〜石川県金沢市〜富山県五箇山〜岐阜県白川郷〜飛騨高山まで進み、雨に祟られ同地から引返す途上九頭竜川を降り越前の大野市に入りましたが、ここで飲料水(霊水の御神水)を調達する必要もあり篠倉神社に参拝させて頂きました。

無題.png

九頭竜川沿いに国道158号線を転がり降り、大平野に降り立つとそこは越前大野(これはJR駅名)でした。休憩と不足していた飲料水の調達のために篠座神社を訪ねました。

 後で分かったのですが、どうやら越前でも最も重要で最初に見るべき神社に参拝したようでした。

 福井にもかなり入るようになりましたが、どちらかと言えば通過地に過ぎず、フィールド・ワークはまだまだ少なくこれからというところです。

 このため、現地に詳しい方からは“何を頓珍漢なことを言ってやがる”とのご批判を受けるでしょうが、今後、少しずつ訪問する神社を増やして行きたいと考えています。

 大野市は確かに福井の奥の懐深い子宮のような大平野といった所で、事実、朝倉「義景は、織田信長に対抗するため近江への出兵を繰り返し、天正元年(1573)の戦いに大敗すると、一乗谷に撤退し、最終的に大野郡の六坊賢松寺に逃れた しかし、織田軍に通じた大野郡司である従兄弟の朝倉景鏡の襲撃に遭い自害した」(「西国の山城」による)は最期の地として逃げ込んだところでもあり、墓所も置かれてもいる要地なのです(大野市和泉町)。

 まさに大野は越前朝倉氏の懐中といった土地と言えそうです。

 そのうち大野市の神社の大半を見たいと考えていますが、そのためにも福井県一県だけに絞り込んで調査を行いたいと考えています。といっても交通量が多く、容易に移動できないのが悩みです。

 それは、この朝倉氏が但馬の兵庫県養父市から移動してくる前に拠点としていた故地は、福岡県朝倉市一帯であり(勿論、その前は熊本県菊池市から熊本市の南から日向の西都市一帯なのです)、福岡県朝倉市〜兵庫県養父市+朝来市の調査は粗方行っていますので、次の調査対象地は必然的に越前大野から始めざるを得ないでしょう。これについては既に以下を書いていますので、関心をお持ちの方はとりあえずこちらからお読み頂きたいと思います。


 ひぼろぎ逍遥

533

但馬(下)

532

但馬(中)

531

但馬 (上)

146

「朝来」地名について B “朝倉氏と小佐氏”

145

「朝来」地名について A “但馬、朝倉、養父、志波” 

144

「朝来」地名について @ “兵庫県朝来市の朝来山から”

306

朝来地名とは何か?

    

無題.png

最初に目に入って来たのは最奥部の弁財天様でした。

通常、浮島に置かれる弁財天(印度の女神)祭祀は江戸期に成立したと考えていますが、宗像の市杵島姫(瀛ツ島姫)祭祀の置換えと考えています。

当然ながら、お妃とした夫神としては、海幸彦=草部吉見=ヒコヤイミミ=武甕槌…or大国主命が頭に浮かんで来ます(始めは阿蘇高森の草部吉見、後に大国主命)。


同社の奥に何故弁天様がおられるかがお分かり頂けたでしょうか?同社は大国主命を主神とするのです。

無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 ともあれ、先に同社のHPをお読み下さい。
無題.png

延喜式神名帳に掲載される古社。

戦乱により一時荒廃するも、大野城主金森長近により再興され、歴代藩主より厚い保護を受ける。

明治八年に県社列格。

大野原を領く産土神として崇敬され、殊に御霊泉の清水は、癒しの神水として奥越前(大野市・勝山市)をはじめ、県内外の参拝者らに広く親しまれている。

『養老元年に泰澄大師が麻生津から白山登拝を思い立ち、大野に到着したとき、南の方の林、清水湧き流れ出る所(篠座)に十日ばかり過ごされた。白山登拝の後、 再び篠座に還られたとき、虚空に声があって「我は大己貴命なり。かかる林泉の勝地であるから常に心を楽しませて降遊する」とのお告げがあり、泰澄大師は一 つの祠を営み、影降の尊容を刻んで安置申し上げた…。』

無題.png

御 祭 神    大己貴大神

相   殿    少彦名命 市杵嶋姫命 豊受姫命 譽田別尊 木花咲耶姫命


 百嶋由一郎最終神代系譜をご覧頂くと大山祗(実は金海金氏のウマシアシカビヒコヂと天御中主命との間に産れたトルコ系匈奴)と埴安姫(博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビの娘)の間に産れた大国主、コノハナノサクヤが共に祭神とされている事がお分かり頂ければ、この篠座神社とは正しく大国主命と市杵島姫の後裔氏族の展開地であることが自ずとお分かり頂けるでしょう。

 「朝来」「朝倉」地名については、前述した以下をお読み頂きたいのですが、この物部氏の一翼を担った朝倉氏は九州(実は南九州の熊襲領域)から端を発し全国に朝倉地名を残しているのです。

無題.png

ひぼろぎ逍遥

306

朝来地名とは何か?


@ 宮崎県宮崎市金崎914 朝倉寺(曹洞宗)福岡県朝倉市にも朝暗(チョウアン)寺がありますね

これは敦賀の金崎城の金崎に繋がるものと思われます。

A 鹿児島県鹿屋市輝北町諏訪原朝倉

B 大分県豊後大野市朝地町朝地朝倉

以下九州外の朝倉、朝来地名… その後も発見していますので、実際にはもっと拾えるでしょう。

今は、トルコ系匈奴=熊襲が展開したルートを探る痕跡地名と考えています。

@      山口県山口市朝倉町

A      島根県鹿足郡吉賀町朝倉

B      島根県益田市美都町朝倉

C      島根県大田市朝山町朝倉

D      島根県出雲市大津朝倉

E      兵庫県養父市八鹿町朝倉(舞鶴の朝倉氏の故地とされている)

F      兵庫県朝来市(天空の城の朝来山で有名)

G      京都府京都市中京区朝倉町

H      京都府舞鶴市朝来

I      福井県舞鶴市(地名としては確認できないが、敦賀の金ケ崎城の戦国大名の朝倉氏は著名)

J      秋田県横手市朝倉町

以下瀬戸内海側

K      愛媛県今治市朝倉

L      香川県木田郡三木町朝倉

M      徳島県の朝倉駅(土讃線)

N      高知県高知市朝倉

O      和歌山県西牟婁郡上富田町朝来(JR紀勢線朝来あっそ駅は知られている)

P      奈良県桜井市朝倉(旧朝倉村は合併地名ですが何らかの背景が・・・)

Q      滋賀県米原市下丹生朝倉

R      岐阜県関市朝倉町

S      愛知県知多市朝倉町

21      千葉県山武郡芝山町朝倉

22      群馬県前橋市朝倉町  以下省略


 恐らくこの朝来地名、朝倉地名を残した氏族(民族)は物部氏と関係があると思うのですが、織田徳川連合軍と死闘を演じた浅井、朝倉の朝倉氏が、物部から武士(モノノフ=物部)として蘇った人々に思えるのです。

では、朝倉、朝来の震源地は熊本市の南の益城(マシキ)で良いのでしょうか?

 結論に急ぐ前に、ある神社の縁起をお読み頂きたいのです。


 熊本地震の犠牲地である益城町の「益城」も実は彼らトルコ系匈奴(熊襲)が付したもので、益城は「マシキ」ではなく「ウマシキ」と呼ばれるべきで、かつての福岡県甘木市(現朝倉市)の「アマギ」、福岡県飯塚市の馬敷「ウマシキ」と筑豊へと北方に向かって展開しているのです。

無題.png

豪雪地帯の越前の事、3月になっても雪囲いが残されていますが、この神殿の中には大国主命のご一家が祀られているはずです。ただ、大国主命は倭人の頭目であったカミムスビこと大幡主(博多櫛田神社の主神)への入婿であり、だからこそ「主」という同じ尊称を使っているのです。

従って、福井県の主要な人々とは、この海人族とトルコ系匈奴=熊襲の後裔であり物部氏の本隊であった事が見えてくるのです。粗いながらも但馬から丹波丹後への調査が終わりましたので、今後は越前を集中的に歩きます。これをある程度やり切れば新たな世界が見えてくるような気がしています。


百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データを必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2020年06月21日

728 越前大野の篠座神社初見 (続編)“九頭竜川が生み出した大平野に蟠踞する大国主祭祀”

728 越前大野の篠座神社初見 (続編)“九頭竜川が生み出した大平野に蟠踞する大国主祭祀

20190309

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 本稿は 727越前大野の篠座神社初見の続編になります。

 前ブログに於いて越前大野の篠座神社を取り上げましたが、この地は戦国大名の朝倉氏が墓所を置き、織田徳川連合軍の侵攻に対して撤退し滅んだ本拠地でした。

 この朝倉氏とは福岡県の現朝倉市(旧甘木市〜旧朝倉町(志波)〜旧杷木町)一帯の筑後川右岸(北岸)から対馬海流に乗り日本海側の養父市、朝来市(いずれも兵庫県但馬地方)、福井県敦賀市から福井市に対して移動したのではないかと考えてきました。

 勿論、それ以前は日向から肥後への移動の問題があるのですが、話を簡略化するためにここではその話には踏み込みません。

  越前大野の篠座神社については前ブログ 727or740「越前大野の篠座神社初見」 をお読み下さい。

そこで、福岡県朝倉市の神社でも旧県社クラスの重要な神社から3社を「福岡県神社誌」でご覧頂きます。 

無題.png
無題.png

※この神社は厳密に言えばとなり町の筑前町にありますが、ほぼ、隣接しており取り上げています

「福岡県神社誌」18p(部分切り取り)

 ここに掲載した3社は福岡県朝倉市と旧朝倉郡の神社で最初に思い浮かぶような代表的な大社です。

二番目の稲原の祭神は以前から祭神が改竄されているのではないかと考えており、近畿大和朝廷と言うか藤原氏に対してか明治政府に対してか通りの良いものに変えられていると言う印象を持っています。

 この旧朝倉郡に関しては当方の百嶋神社考古学に影響を受けたメンバーによって何度となく調査し、また、神社誌などを中心に逐一訪問し、ほぼ、全社調査をしたようなところであって、所謂山神様の山神社、大山祗神社=月読神社が数多く存在する上に、田神社と言われる田神社が60社(貶められた無格社として)存在しているのです。

 故)百嶋由一郎氏は日向のタノカンサー(田神社)は大山祗と大幡主=カミムスビとの儀身体と言われていました。

 これらの事から分かるように、福岡県朝倉市から旧朝倉郡にかけての一帯とは大国主命、その父神としての大山祗祭祀が極めて濃厚なエリアだった事がご理解頂けるのではないかと考えているのです。

無題.png

朝倉氏の展開地、進出地の一つ山口島根県境の朝倉郵便局をご覧ください。

無題.png

島根県吉賀町(旧六日市町)朝倉の朝倉郵便局


 次に養父市のHPから養父市が朝倉氏の故地であった事をご紹介しましょう。

無題.png

養父市教育研究所の市内視察研修が、平成16819日にありました。17人の参加者が朝倉区長の才木 茂さんの案内で朝倉城を見学しました。

城の登り口には「越前の大名朝倉氏発祥の地」という解説板が建てられています。朝倉の集落は、越前一国を治めた戦国大名、越前朝倉氏の出身地です。朝倉氏は平安時代末期に、日下部一族の中から朝倉という地名を苗字として生まれた武将です。朝倉史跡保存会では朝倉区のまちづくりのシンボルとして、朝倉城やびくに城の草刈りや顕彰に努めています。

越前の朝倉氏は延元元年(1336)に初代の朝倉広景が、但馬から越前に入って始まりました。6代孝景は越前の守護となって、一乗谷の城下町を整備して栄えました。しかし天正元年(1573)に織田信長の軍勢に攻められ、11代の義景で滅びました。現在の一乗谷の城下町は、武家屋敷なども復元されて福井市の歴史公園となっています。

朝倉城は、集落から西方向に尾根を約300mほど登った標高152mの丘にある山城です。規模は南北180m、東西95mあります。城の南端は三本の堀切(ほりきり)で区画しています。そして城の平坦地である曲輪(くるわ)が8段、北方向に続いています。

そして最も先端部に南北36m、東西42mの広い曲輪が作られています。物見櫓(やぐら)を建てたと思われる櫓台が中心にあり、曲輪の端には低い土塁(どるい)が残っています。

朝倉区長の才木 茂さんは、「朝倉城は大きな城ではありませんが、形が整っている城で、堀切や土塁などがきっちと残っています。八鹿がよく見える景色のよいところのあります。福井市からも見学に来られます」と解説しました。

武将としての朝倉氏は、八鹿町朝倉に屋敷を構えて、鎌倉幕府を開いた源頼朝につかえた、朝倉高清を始祖としています。朝倉氏の一族は江戸時代には旗本になって、明治維新まで続きました。朝倉城は、武将の時代を静かに語り継いでいます。

無題.png

養父市の中心部に朝倉という字地名があり朝倉と言う交差点があることをお知らせして次回に繋ぎたいと思います。

無題.png

朝来市から養父市への幹線道路の終点付近にこの「朝倉」交差点があります  養父市八鹿町朝倉


朝倉氏が室町期の守護大名の斯波氏に仕えていた事は比較的知られています。


朝倉氏

但馬には、開化天皇の後裔とも孝徳天皇の後裔とも伝わる日下部氏が、平安時代から大武士団を形成し栄えていた。朝倉氏は、この日下部氏の流れをくむ氏族のひとつである。

朝倉氏の本貫は但馬国養父郡朝倉(兵庫県養父市八鹿町朝倉)である。但馬朝倉氏から分かれ越前に移った系統が越前朝倉氏である。越前朝倉氏は、越前国守護・斯波氏に仕えて、甲斐氏、織田氏に次ぐ斯波三守護代の第三席となり、後に朝倉氏自体が守護に任命されるようになって自立し、越前国を支配する戦国大名になった。

日下部氏の流れをくむ氏族は他に、山陰最大の守護大名・山名氏の家老職である太田垣氏・八木氏・田公氏などがある。とくに太田垣氏・八木氏は山名氏の分国の守護代を勤めて山陰道・山陽道で栄えた。

越前朝倉氏

越前朝倉氏は南北朝時代、足利氏の一族である斯波氏に仕えた朝倉広景から始まる。通字は「景(かげ)」。

次代の朝倉高景は斯波高経に仕えて、高経が守護に任じられた越前国に所領を与えられた。高経が室町幕府によって越前守護を追われて討伐された貞治の変の際には、幕府軍に寝返って所領を安堵されている。その後、外来の武士ながら越前国に定着して勢力を築いた。斯波氏が越前守護に復帰すると帰参するが、既に越前に勢力を築いていた朝倉氏の存在を斯波氏も無視する事は無題.png出来ず、室町時代に入ると、甲斐氏・織田氏とともに守護代に任ぜられるようになった。

室町時代後期に入ると、朝倉孝景(英林孝景)は守護代の甲斐常治とともに、主である斯波義敏と対立して長禄合戦を引き起こした。足利将軍家の家督争いなどから発展した応仁の乱では、山名宗全率いる西軍から細川勝元率いる東軍に寝返った。越前では甲斐氏を圧迫して国内をほぼ統一し、斯波氏に代わって越前国守護に取り立てられた。孝景は分国法である『朝倉敏景十七ヶ条』を制定し、戦国大名としての朝倉氏初代となった。

軍記物『朝倉始末記』によると、孝景が1471年(文明3年)に一乗谷城を築いたとされる。近年では、15世紀前半には朝倉氏が一乗谷に移っていたとの見解が出されている。それ以前に朝倉氏が本拠としていた黒丸については、坂井郡三宅黒丸(現・福井県福井市三宅町)説のほか、足羽郡北庄黒丸(現・福井市中央)説がある。              ウィキペディア(20190310 2032による


ところが、室町期に朝倉氏が仕えた斯波氏の「斯波」に相当する「志波」という地名が現朝倉市の杷木町に存在するのです。


百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データを必要な方は09062983254まで

無題.png

朝倉郡

朝倉郡(あさくらぐん)は、福岡県の郡。人口31,302人、面積119.07km2、人口密度263/km2。(2018101日、推計人口)以下の11村を含む。筑前町(ちくぜんまち)東峰村(とうほうむら)

明治29年(1896年) 41 - 郡制の施行のため、上座郡・下座郡・夜須郡の区域をもって発足。以下の町村が所属。郡名はかつて上座を「かみつあさくら」、下座を「しもつあさくら」と読んでいたことにちなむ。224村) 旧・上座郡(11村) - 小石原村、宝珠山村(現・東峰村)、松末村、杷木村、久喜宮村、志波村、高木村、朝倉村、宮野村、福成村、大庭村(現・朝倉市)旧・下座郡(5村) - 三奈木村、金川村、蜷城村、福田村、立石村(現・朝倉市)旧・夜須郡(28村) - 上秋月村、秋月町、安川村、甘木町、馬田村(現・朝倉市)、大三輪村、栗田村(現・筑前町)、三根村(現・飯塚市、筑前町)、中津屋村、安野村(現・筑前町)71 - 郡制を施行。郡役所が甘木町に設置。…

昭和26年(1951年)41 - 松末村・杷木町・久喜宮村・志波村が合併し、改めて杷木町が発足。(316村)                      ウィキペディア(20190310 2149による


 無題.png志波柿で知られた志波地区ですが、現地で神社調査をしていると、昔は「志波」の方が「朝倉」より格上で繁盛していたと言った話を聴いていました。

 もしかしたらこの「志波」が、朝倉氏の仕えた斯波氏と関係があるのではないかと気付いたのは3年ほど前でした。

 この志波地区の神社調査によって、さらに遠方の塩竈市の志波彦神社との関係まで考えています。

 これについては、以下をお読み下さい。

639

志波彦神社(塩竈市)の志波彦とは塩土老翁か豊玉彦か?

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2020年06月24日

729 米水津湾の神々 @ “大分県佐伯市米水津色利浦の立岩神社の衝撃”

729 米水津湾の神々 @ “大分県佐伯市米水津色利浦の立岩神社の衝撃

20190313

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 寒い部屋でユーチューブ動画をTVに写し(芸人とオカマと外人と化け物で創られる地上波は見る価値はないため…世界最高水準の8KTVで世界最低水準の安物番組を見させられているのが日本列島民族ですので)それを視聴しながらブログを書き続けるとしても精神衛生上良くない上に体の変調(頸肩腕症候群、腱鞘炎、眼精疲労)をきたす事から、40年間やった魚釣りを15年ぶりに復活させ、少しは外で体を動かそうと飛騨から戻って舌の根も乾かぬ間に神社調査と魚釣りを併せた奇妙な旅に出たのでした。

 場所は大分県でも最東南部(豊後水道に突き出した鶴見崎の南側の大きな入江)でした。

 魚釣りを始めた20代前半から釣り雑誌を読み漁っていた頃憧れの眼差しを注いでいたのがこの米水津、蒲江、その南の島野浦(宮崎県)一帯でした。

無題.png

勿論、この一帯でも何度か神社を見て廻っていますが、判別する材料が乏しかった昔は見過ごしていたものが、徐々に小さな差を見分ける事が多少はできるようになってきたようなのです。

無題.png

同社は米水津湾の南側の高台に置かれた神社で何の変哲もない集落の鎮守様と言った普通の神社でしょう。

しかし、同社の由緒が岩に刻んであり、私にとっては非常に新鮮な驚きとも発見とも言うべき知見を得たのでした。

無題.png

150段の参道の左手に置かれた由来記にはかなり興味深い事が書かれていました。


祭神:天津日高日子穂穂出見命 上筒之男命


それは、冒頭の “当権現山に鎮座まします天津日高日子穂穂出見命 上筒男命 を祭祀する立岩神社は…” “明治六年村社に列し立岩大権現・粟島神社を立岩神社に改称した。” の部分でした。

 まず、粟島神社は通常は少彦名命を祀るもので、この点、小浦の粟島神社と対応している様にも見えますがこれは今後の課題です。

 少なくとも粟島祭祀については触れて無い訳で、過去は祭祀があったとしても、現在の祭神は 天津日高日子穂穂出見命 一柱(天津日高日子穂穂出見命と上筒男命との二柱という風にも読めますが)となりそうです。

無題.png

 これが明治期の村社昇格により通りの良いものが選ばれたものか、元々祭祀が存在したのかは不明ですが、我々が関心を持つのはそこではありません。

 問題は、天津日高日子穂穂出見命 上筒男命 上筒男命単独(住吉三神の内上筒男命だけを単独で祭祀している)祭祀が重要な上に、もしかしたら天津日高日子穂穂出見命を上筒男命と認識している可能性も考えられるのです。

 皆さんご存じの通り、住吉神社の祭神については通常住吉三神として一括され、上、中、底をセットで祭り、各々に神としての独立性を問題としないのが一般的な傾向なのです。

 ところが、同社に於いては上筒男命を独立して祭祀しているのです。

 これは非常に稀なことで、○ 上筒男命を単独で祭祀している事 ○ もしかしたらそれを天津日高日子穂穂出見命と認識している可能性があるのです。

 我々 百嶋神社考古学 の立場では、上筒男命がアヅミノイソラ、中筒男命が神武僭称贈る崇神、底筒男命も藤原が第9代とした開化天皇(妃は神功皇后)=高良玉垂命とします。

 筒男命を祀るのは住吉神社が代表的ですが、瀬戸内海から壱岐、対馬を軸に祀られる住吉神社でも代表的な博多の住吉は贈る崇神、下関のそれはアズミノイソラ、大阪のそれは開化=高良玉垂命であり、事実、故)百嶋由一郎氏もそのように話しておられました。

 ただ、神社探訪の現場でも、その実例に遭遇する事は無く、百嶋先生の話の裏取りが無かったのでした。

 ところが、今回この痕跡のような事例に遭遇しようやく糸口を掴んだ思いを持っています。

無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


まず、天孫邇邇芸命と木花之佐久夜毘売命の御子で鵜葺草葺不合命の父。邇邇芸命に、一夜の交わりで妊娠したのを疑われた木花之佐久夜毘売命が、 疑いを晴らすために産屋に火を放って、その中で火照命・火須勢理命・火遠理命の三柱の御子を生む。とするのが通説です。


日本神話で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の子。母は木花開耶姫(このはなのさくやびめ)。山幸彦の名で知られ、海神の娘豊玉姫(とよたまひめ)と結婚して鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)をもうけた。火遠理命(ほおりのみこと)。天津日高日子穂穂出見命(あまつひこひこほほでみのみこと)。→海幸山幸(うみさちやまさち)

デジタル大辞泉の解説による


 通説が、日子穂穂出見命を天孫邇邇芸命と木花之佐久夜毘売命の御子で鵜葺草葺不合命の父とするのは、前半は偽装で、後半は正しいのです。

 つまり、日子穂穂出見命=ニギハヤヒ=山幸彦の子が鵜葺草葺不合命(妃は豊玉姫)であると言うのは正しく、二代降った子の安曇磯羅が実は上筒男命なのです。従って、立岩神社の祭神とする日子穂穂出見命の流れの孫神の安曇磯羅が上筒男命であるとする由来は何らかの真実を伝えている様に思うのです。

ここで、百嶋由一郎最終神代系譜をご覧ください。

 左の赤枠が底筒男、青枠が中筒男、右の上筒男(表筒男)であり、同時代に生きた神々だったのです。

 まだ、魚釣りもあり米水津〜蒲江は何度も入ると思いますので、この豊後の最東南部が古代から神代に掛けてどのような世界であったのかが少しずつでも見えてくるのではないかと思っています。

 実は、この神社の南に聳える高峰は石槌山です。

 石槌と言えば愛媛の石槌神社であり、佐伯市の北隣の津久見市の一の宮赤八幡宮の傍にも小さな石槌神社が在り、地元の集落では今でも四月にフェリーに乗ってバスで愛媛の石槌神社に参拝する風習が連綿と続いていると話されていましたが、この恐らく金山彦信仰圏がこの米水津にも存在していたと考えています。それ以外にも大国主命、少彦名命祭祀や大三島の大山祗祭祀もあり相当に面白い所です。


百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データを必要な方は09062983254まで

無題.png
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記