724 伊勢から紀伊の神社調査への下調べとして A 右離れ立ち葵の神紋を持つ奈良の墨坂神社
20190216
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
伊勢遠征への下調べを始めたところでしたが、トレッキングには参加しないもののある程度の間隔で電話を掛けてこられる方(30代の独身男性N氏)から奈良県のある神社について問い合わせが行われました。
その内容は、造化神開闢神を筆頭に盛り沢山の神社のため本質は如何なるものなのかというものでした。
この奈良県にある神社とは、一般にはあまり知られていないものの、我々にとっては非常に重要な一社であり、これも帰路に周るかも知れない事からシリーズ扱いとし、今回の下調べのAとして書く事にしたものです。

場所は奈良市の南の桜井市の東の宇陀市の一角で、桜井市から東に進む途中に長谷寺もあるのです。
では、同社HPから祭神を見ることにしましょう。
御祭神【主祭神】
神武天皇御東征のみぎり墨坂の地ですでに祭祀されておりました神々、天御中主神(アメノミナカヌシノカミ) 天地宇宙創造の神 高皇産霊神(タカムスビノカミ) 男女産霊の神 生成力を持たれる神神(ママ)皇産霊神(カンムスビノカミ) 生成力を我々人間の形とした御祖神(みおや) 伊邪那岐神(イザナギノカミ) 国生みと神生みの男神 伊邪那美神(イザナミノカミ)天津神の命により創造活動の殆どを司り、冥界を司る女神 大物主神(オオモノヌシノカミ)五穀豊穣厄除け国の守護神である の六神を総称して墨坂大神(スミサカノオオカミ・病気平癒 健康の神)と申し上げます。
【境内社】
[龍王宮]祭神 : 罔象女神(ミツハノメノカミ) 水の神 [大山祇神社]祭神 : 大山祇神(オオヤマヅミノカミ) 山の神
[祓戸の神]祭神 : 祓戸の神(ハライドノカミ)天神社、市岐島神社、菅原道真神社、恵比須神社、金刀比羅神社、愛宕神社、 稲荷神社、八幡神社 の11社
御由緒 日本書紀の、神武天皇即位4年春の詔に「乃立霊畤於鳥見山中、其地号曰上小野榛原・下小野榛原 用祭皇祖天神焉」の記載があり、神武天皇みずから鳥見山中に霊畤(マツリノニワ)を築かれ、皇祖天神を祭祀し、「この地を上小野榛原(カミツオノハリハラ)、下小野榛原(シモツオノハリハラ)という」とあります。その上小野榛原が当地墨坂の地であり、現在は宇陀市榛原西峠地区内にあります。

古事記ゆかりの地
記紀では、崇神天皇が即位して9年、大和国内には疫病が蔓延し、多くの人々が死に絶えようとしていた事を、大いに歎き悲しんだとあります。同9年3月15日のある夜には、天皇の夢のなかに神人が現われて、「赤盾八枚・赤矛八竿(さお)を以て、墨坂神(すみさかのかみ)を祠れ。亦(また)黒盾八枚・黒矛八竿を以て、大坂神(おおさかのかみ)を祠れ。」と告げたのです。天皇は、さっそく墨坂神と大坂神に盾と矛を奉献(貢物)し、祀ったところ、疫病や災いが無くなり国内がやすらかになりました。
その後、天皇は近畿とその周辺までその勢力範囲を広げ国を治めることとなったので大和朝廷を確立した最初の天皇と考えられ、御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)と褒め称えられることもなったのです。

元々N氏もあまりにも仰々しい神様達が並ばれ主神扱いされている事に違和感を持たれたからだったようですが、実のところ私も同様の印象を持ちました。
それは、百嶋神社考古学によってこれらの神々の出自がある程度見当が着いているからであって、全く異なる民族が揃い踏みして祀られている神社とは、また、それを支える氏子とはどんな人々であるのかと思わざるを得ないのです。
そのような勢揃いする場合は往々にして敗残した人々の神社の場合としか思えないのです。
天御中主神(白族) 高皇産霊神(高木大神系許氏) 皇産霊神(大幡主 白族)伊邪那岐神(新羅系昔氏)伊邪那美神(金山彦系瀛氏)大物主神(この系統こそ敗残させられた本来の神々か?)
では、征服した勢力とはと言えば、由緒に“大和朝廷を確立した最初の天皇と考えられ、御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)と褒め称えられることもなったのです。”と書かれるように、ハツクニシラススメラミコトこと神武僭称贈る崇神を讃えさせられているから藤原氏(阿蘇系)であることは明らかで、
この六神を総称墨坂大神とは悲しみが込められた祭神としか言いようがないのです。
従って、8世紀以降(近畿大和朝廷=藤原王朝)若しくは明治以降なのかもしれませんが、その祭神が天御中主命…であったとしても、それ以前に祀られていた本来の神とは全く別の敗残した神々であった様に思われるのです。
では、その神々とは如何なるものでしょうか?日本は朝鮮から中国の様に敗残した人々を徹底的に痛めつける(穴に埋め河に流す火で焼く)国々と異なり、粗末にできない粗末にしない国であり(祟りを恐れる意味もあるのですが)、境内社とされる龍王宮の罔象女神、大山祇神社の大山祇神=山の神こそが本来の神であった事が丸解かりの状態なのです。
簡単に言えば、この二神こそ物部=熊襲(実はトルコ系匈奴)であり、本来、この領域を支配していた神々であったと考えられるのです。

始め龍王宮とは博多の櫛田神社の主神である大幡主の子の豊玉彦(ヤタガラス)を祀るものであり、罔象女神とするというのは多少違和感があったのですが、良く考えれば豊玉彦のお妃の一人であることから大山祗の長女(次女は木花咲耶姫、弟は大国主命)の罔象女神とする事は許容範囲になるのです。


百嶋神代系譜(004ヤタガラス系譜原本)
また、その父神である大山祗が共に神殿背後の最奥部に祀られている事は、この神社を奉斎する氏族にとっては最も大切な神々である事が分かるのです。偉い人は正面背後におられるのです。

言うまでもなく墨坂神社の神紋は右離れ立葵です
百嶋神代系譜(004ヤタガラス系譜原本)にはきちんと墨坂神社がいかなる神社であるかが描かれていました。この右離れ立葵は天御中主命(白族)系ヤタガラスと大山祗系(熊襲=トルコ系匈奴)との間に成立した氏族であり(それらの延長上に徳川家もあるのですがそれについてはここでは触れません)、二つ葵と併せこの葵の神紋は金山彦(ヘブライ)系、大幡主(白族)系、大山祗(熊襲)系のスクラムを象徴するものであり、イザナギとか高皇産霊神などは無関係なわけです。
熊襲=トルコ系匈奴については直ぐにはご理解を得られないと思います。
これについてはネット上に10本以上公開していますが、とりあえず以下をお読み頂きたいと思います。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
623 | 続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu |
622 | タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (下) |
621 | タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (上) |
ひぼろぎ逍遥
723 | 菊池氏とは熊襲(トルコ系匈奴)であった “ようやくその尻尾を掴んだ” |
従ってこの神紋を使う神社の本来の祭神とは大山祗〜罔象女神を祀る境内社の主そのものなのです。
ここまで分かれば下調べとしては十分でしょうから伊勢調査に併せてできるだけ足を延ばして見たいと思います。伊賀まで入ればそれほど遠くもないでしょう。
最後にN氏からの要望もありましたので祓戸の神について少しお話ししておきます。

大祓いの祝詞なるものがあります。多民族国家であった神代〜古代の列島に於いては多くの民族の衝突、従って虐殺が生じました。見てきたような話をしますが、列島は農業地帯であったことから食料生産のために必要な労働力と技術は残されます。ただ抵抗した戦闘員だけは殺されます。
当然にも配偶者や子供は残される事になるのです。このため子供と老人を守るために女は占領軍の男を新たな夫として受入れ、集落もその支配を受入れる事になるのです。その差配をしたのが宗教者としての神主などであり、その新体制を敷く為の儀式が大祓いだったのです。
従って、祓戸の神とは基本的には従軍神官のような藤原が仕組んだものであり、あまり神社の本質には関わり合いはないものとお考えください。むしろ悲しみの刻印といったものに近いでしょう。
祓戸神
気吹戸主=金山彦とは秦の始皇帝(姓は嬴エイ、氏は趙チョウ、諱は政セイ)と姻戚関係を結んだイスラエル系製鉄神=瀛氏で先行し列島へ渡海したため始皇帝の嬴(エイ)を瀛氏としたもの
瀬織ツ姫=金山彦を父神としヤタガラスの父である大幡主の妹の埴安姫(この埴安を埴輪と考える方がおられますが、実は金山彦に象徴される製鉄の鋳型=金型とお考えいただく方がより正確かと考えます)の母神として産まれたプリンセスである櫛稲田姫(藤原が創った「出雲神話」でスサノウのお妃となった金山彦の娘)

右の写真は同社HPに掲載されているものです。
“奈良春日大社の文久式年造替時の社殿を元治元年(1864年)に拝領の上建造されました。当社本殿はその時の春日大社楼門の材として使用されていたものです。”
と書かれています。普通は藤原の守護神の春日大社の材を有難がっている藤原の配下との印象を持ちますが、実は春日大社の表面的な祭神である鹿島大神=草部吉見神=武甕槌の本当の祭神とはそのお妃の豊受大神=辛国大神大目命=伏見稲荷であり、その母神こそ墨坂神社神殿背後に置かれた境内社の罔象女神なのです。それが分かるのが上に掲載した百嶋由一郎最終神代系譜(部分)の黄色枠に表現された関係なのです。故)百嶋翁も訪れた墨坂神社も参拝したい一社です。
百嶋由一郎が残した神代系譜や手書きスキャニングデータ、講演音声CDを必要な方は09062983254まで