2020年06月09日

724 伊勢から紀伊の神社調査への下調べとして A 右離れ立ち葵の神紋を持つ奈良の墨坂神社

724 伊勢から紀伊の神社調査への下調べとして A 右離れ立ち葵の神紋を持つ奈良の墨坂神社

20190216

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


伊勢遠征への下調べを始めたところでしたが、トレッキングには参加しないもののある程度の間隔で電話を掛けてこられる方(30代の独身男性N氏)から奈良県のある神社について問い合わせが行われました。

その内容は、造化神開闢神を筆頭に盛り沢山の神社のため本質は如何なるものなのかというものでした。

この奈良県にある神社とは、一般にはあまり知られていないものの、我々にとっては非常に重要な一社であり、これも帰路に周るかも知れない事からシリーズ扱いとし、今回の下調べのAとして書く事にしたものです。

無題.png

場所は奈良市の南の桜井市の東の宇陀市の一角で、桜井市から東に進む途中に長谷寺もあるのです。

 では、同社HPから祭神を見ることにしましょう。


御祭神【主祭神】

神武天皇御東征のみぎり墨坂の地ですでに祭祀されておりました神々、天御中主神(アメノミナカヌシノカミ) 天地宇宙創造の神 高皇産霊神(タカムスビノカミ) 男女産霊の神 生成力を持たれる神神(ママ)皇産霊神(カンムスビノカミ) 生成力を我々人間の形とした御祖神(みおや) 伊邪那岐神(イザナギノカミ) 国生みと神生みの男神 伊邪那美神(イザナミノカミ)天津神の命により創造活動の殆どを司り、冥界を司る女神 大物主神(オオモノヌシノカミ)五穀豊穣厄除け国の守護神である の六神を総称して墨坂大神(スミサカノオオカミ・病気平癒 健康の神)と申し上げます。

【境内社】

[龍王宮]祭神 : 罔象女神(ミツハノメノカミ) 水の神 [大山祇神社]祭神 : 大山祇神(オオヤマヅミノカミ) 山の神

[祓戸の神]祭神 : 祓戸の神(ハライドノカミ)天神社、市岐島神社、菅原道真神社、恵比須神社、金刀比羅神社、愛宕神社、 稲荷神社、八幡神社 の11


御由緒 日本書紀の、神武天皇即位4年春の詔に「乃立霊畤於鳥見山中、其地号曰上小野榛原・下小野榛原 用祭皇祖天神焉」の記載があり、神武天皇みずから鳥見山中に霊畤(マツリノニワ)を築かれ、皇祖天神を祭祀し、「この地を上小野榛原(カミツオノハリハラ)、下小野榛原(シモツオノハリハラ)という」とあります。その上小野榛原が当地墨坂の地であり、現在は宇陀市榛原西峠地区内にあります。

無題.png

古事記ゆかりの地

記紀では、崇神天皇が即位して9年、大和国内には疫病が蔓延し、多くの人々が死に絶えようとしていた事を、大いに歎き悲しんだとあります。9年3月15日のある夜には、天皇の夢のなかに神人が現われて、「赤盾八枚・赤矛八竿(さお)を以て、墨坂神(すみさかのかみ)を祠れ。(また)黒盾八枚・黒矛八竿を以て、大坂神(おおさかのかみ)を祠れ。」と告げたのです。天皇は、さっそく墨坂神と大坂神に盾と矛を奉献(貢物)し、祀ったところ、疫病や災いが無くなり国内がやすらかになりました。

その後、天皇は近畿とその周辺までその勢力範囲を広げ国を治めることとなったので大和朝廷を確立した最初の天皇と考えられ、御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)と褒め称えられることもなったのです。

無題.png

元々N氏もあまりにも仰々しい神様達が並ばれ主神扱いされている事に違和感を持たれたからだったようですが、実のところ私も同様の印象を持ちました。

 それは、百嶋神社考古学によってこれらの神々の出自がある程度見当が着いているからであって、全く異なる民族が揃い踏みして祀られている神社とは、また、それを支える氏子とはどんな人々であるのかと思わざるを得ないのです。

 そのような勢揃いする場合は往々にして敗残した人々の神社の場合としか思えないのです。


天御中主神(白族) 高皇産霊神(高木大神系許氏) 皇産霊神(大幡主 白族)伊邪那岐神(新羅系昔氏)伊邪那美神(金山彦系瀛氏)大物主神(この系統こそ敗残させられた本来の神々か?)

では、征服した勢力とはと言えば、由緒に大和朝廷を確立した最初の天皇と考えられ、御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)と褒め称えられることもなったのです。”と書かれるように、ハツクニシラススメラミコトこと神武僭称贈る崇神を讃えさせられているから藤原氏(阿蘇系)であることは明らかで、 

この六神を総称墨坂大神とは悲しみが込められた祭神としか言いようがないのです。

従って、8世紀以降(近畿大和朝廷=藤原王朝)若しくは明治以降なのかもしれませんが、その祭神が天御中主命…であったとしても、それ以前に祀られていた本来の神とは全く別の敗残した神々であった様に思われるのです。

では、その神々とは如何なるものでしょうか?日本は朝鮮から中国の様に敗残した人々を徹底的に痛めつける(穴に埋め河に流す火で焼く)国々と異なり、粗末にできない粗末にしない国であり(祟りを恐れる意味もあるのですが)、境内社とされる龍王宮の罔象女神、大山祇神社の大山祇神=山の神こそが本来の神であった事が丸解かりの状態なのです。

簡単に言えば、この二神こそ物部=熊襲(実はトルコ系匈奴)であり、本来、この領域を支配していた神々であったと考えられるのです。

無題.png

始め龍王宮とは博多の櫛田神社の主神である大幡主の子の豊玉彦(ヤタガラス)を祀るものであり、罔象女神とするというのは多少違和感があったのですが、良く考えれば豊玉彦のお妃の一人であることから大山祗の長女(次女は木花咲耶姫、弟は大国主命)の罔象女神とする事は許容範囲になるのです。

無題.png
無題.png

百嶋神代系譜(004ヤタガラス系譜原本)


また、その父神である大山祗が共に神殿背後の最奥部に祀られている事は、この神社を奉斎する氏族にとっては最も大切な神々である事が分かるのです。偉い人は正面背後におられるのです。


無題.png

言うまでもなく墨坂神社の神紋は右離れ立葵です


百嶋神代系譜(004ヤタガラス系譜原本)にはきちんと墨坂神社がいかなる神社であるかが描かれていました。この右離れ立葵は天御中主命(白族)系ヤタガラスと大山祗系(熊襲=トルコ系匈奴)との間に成立した氏族であり(それらの延長上に徳川家もあるのですがそれについてはここでは触れません)、二つ葵と併せこの葵の神紋は金山彦(ヘブライ)系、大幡主(白族)系、大山祗(熊襲)系のスクラムを象徴するものであり、イザナギとか高皇産霊神などは無関係なわけです。

熊襲=トルコ系匈奴については直ぐにはご理解を得られないと思います。

これについてはネット上に10本以上公開していますが、とりあえず以下をお読み頂きたいと思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

623

続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu

622

タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (下)

621

タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (上)

ひぼろぎ逍遥

723

菊池氏とは熊襲(トルコ系匈奴)であった “ようやくその尻尾を掴んだ”


従ってこの神紋を使う神社の本来の祭神とは大山祗〜罔象女神を祀る境内社の主そのものなのです。

 ここまで分かれば下調べとしては十分でしょうから伊勢調査に併せてできるだけ足を延ばして見たいと思います。伊賀まで入ればそれほど遠くもないでしょう。

 最後にN氏からの要望もありましたので祓戸の神について少しお話ししておきます。

無題.png

大祓いの祝詞なるものがあります。多民族国家であった神代〜古代の列島に於いては多くの民族の衝突、従って虐殺が生じました。見てきたような話をしますが、列島は農業地帯であったことから食料生産のために必要な労働力と技術は残されます。ただ抵抗した戦闘員だけは殺されます。

当然にも配偶者や子供は残される事になるのです。このため子供と老人を守るために女は占領軍の男を新たな夫として受入れ、集落もその支配を受入れる事になるのです。その差配をしたのが宗教者としての神主などであり、その新体制を敷く為の儀式が大祓いだったのです。

 従って、祓戸の神とは基本的には従軍神官のような藤原が仕組んだものであり、あまり神社の本質には関わり合いはないものとお考えください。むしろ悲しみの刻印といったものに近いでしょう。


祓戸神


 気吹戸主=金山彦とは秦の始皇帝(姓は嬴エイ、氏は趙チョウ、諱は政セイ)と姻戚関係を結んだイスラエル系製鉄神=瀛氏で先行し列島へ渡海したため始皇帝の嬴(エイ)を瀛氏としたもの

 瀬織ツ姫=金山彦を父神としヤタガラスの父である大幡主の妹の埴安姫(この埴安を埴輪と考える方がおられますが、実は金山彦に象徴される製鉄の鋳型=金型とお考えいただく方がより正確かと考えます)の母神として産まれたプリンセスである櫛稲田姫(藤原が創った「出雲神話」でスサノウのお妃となった金山彦の娘)

無題.png

無題.png右の写真は同社HPに掲載されているものです。

奈良春日大社の文久式年造替時の社殿を元治元年(1864年)に拝領の上建造されました。当社本殿はその時の春日大社楼門の材として使用されていたものです。”

と書かれています。普通は藤原の守護神の春日大社の材を有難がっている藤原の配下との印象を持ちますが、実は春日大社の表面的な祭神である鹿島大神=草部吉見神=武甕槌の本当の祭神とはそのお妃の豊受大神=辛国大神大目命=伏見稲荷であり、その母神こそ墨坂神社神殿背後に置かれた境内社の罔象女神なのです。それが分かるのが上に掲載した百嶋由一郎最終神代系譜(部分)の黄色枠に表現された関係なのです。故)百嶋翁も訪れた墨坂神社も参拝したい一社です。

百嶋由一郎が残した神代系譜や手書きスキャニングデータ、講演音声CDを必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2020年06月12日

725佐用都比賣神社(兵庫県佐用町)の奥の院伯母宮は天照大御神の母神を祀る

725佐用都比賣神社(兵庫県佐用町)の奥の院伯母宮は天照大御神の母神を祀る

20190207

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


以前、ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ060天照大御神の母神は播磨の佐用町で祀られている “百嶋神社考古学概論入門編 A”を書きました。

故)百嶋由一郎氏が“兵庫県(播磨)の佐用町の佐用都比賣神社に祀られているようだ…”と話していた事からその仮説の重要性は十分に承知していたつもりですが、その問題をある程度理解できるようになってからは中々訪問する機会を得ませんでした。

今般、岡山県津山市の「津川原」(これについてもリポートを書いています)の探訪に入ったついでに隣県の佐用町まで足を延ばし実見する機会を得ましたので、再びリポートさせて頂くことにしました。

以下はビアヘロ060の冒頭の部分ですが、思い起こして頂く為に一部を再掲載させて頂きます。

今般、岡山県津山市〜兵庫県佐用町〜鳥取県鳥取市〜京都府京丹後市〜石川県金沢市〜富山県五箇山〜岐阜県白川郷〜飛騨高山まで進み長野県安曇野〜山梨県山中湖湖畔の友人の別荘に行く予定でしたが、雨に祟られ飛騨高山で引返す事にしました。

往復2000キロ10日間の旅でしたが、草臥れただけだったかも知れません。

無題.png

ただ、ブログばかり書いていると腱鞘炎、頸肩腕症候群、眼精疲労も辛く、ネタ切れもあり、思わず飛び出してしまったのでした。以下再掲載。


 天照大御神と言えば知らぬ者の無い列島開闢に関わる最高神ですが、この神の母神が兵庫県の佐用町の佐用姫神社の境内摂社に祀られています。

 天照大御神の母神などという話をすると、それこそ好い加減な輩と言われそうですが、我々百嶋神社考古学の者には、それこそ国史扱いにされている「古事記」「日本書紀」そのものが偽書であり、事実、百嶋由一郎氏も「古事記」の95%が嘘だと言い切っておりました。

このため通説派の方々のご指摘など耳に入れる意志が毛頭ない事は言うまでもありません。彼等の誤りだとの指摘の根拠はと問えば「記紀」に求められておられるのですから議論する価値などありはしないのです。勿論、これも百嶋由一郎氏から面受の者として聴いた話です。

 “天照、”神武“は、勿論、同時代に糸島から福岡市南区の油山の裾野の一帯に住んでいた”(直接このフレーズの表現ではありませんが、そういう趣旨で話されていました)“神武は福岡市南区柏原(カシワラ)、天照は福岡市南区桧原(ヒバル)に居られた…”決して南九州だかの高千穂などではないのです。

 そして、福岡市南区には樋井川まで流れているのです。

 勿論、この神武は神武僭称贈る崇神(ハツクニシラス…)ではなく、呉の太伯(周王家姫氏カムヤマトイワレヒコ)後裔の本物の神武の話です。以下、グループの宮原誠一氏から引用します。


テーマ:神社見聞調考 2017(平成29)301日 宮原誠一の神社見聞蝶(004)

No-0041/8)3人の豊姫ともう一人の玉依姫

古代有名氏神で女性神に、豊玉彦の姫君である豊玉姫・玉依姫(海童女二神)、安曇磯良の妃・豊姫(ゆたひめ)、神武天皇の母・玉依姫がおられ、この4名の姫君は神社の祭神、由緒等で混乱・誤記があちこちと見られる。

ここでは百嶋神社考古学神代系図に沿って、この4名の姫君の関係を明らかにすると共に、その神格を紹介します。

豊姫(とよひめ)は、豊玉姫、玉依姫、豊姫(ゆたひめ)の総称として用いられ、これが混乱の原因になっているようです。豊姫の呼び方は、トヨ姫、ユタ姫、ヨド姫とも呼ばれ、この読み名も混乱に拍車をかけている。

豊玉姫は竜宮神・乙姫神ともいわれ、豊姫(ゆたひめ)は河上大明神ともいわれる。

1 四姫君の総論

まず、四姫君について、次のようにまとめた。

1.()玉依姫

白川伯王(白族)の子・福岡市櫛田神社祭神・大幡主の姉にあたり、玉依姫(たまよりひめ)と呼び、神武天皇の母に当たる。以後、()玉依姫と称し、区別し用いる。

2.豊玉姫

豊玉彦(海神)の姫君で豊玉姫、「とよたまひめ」と称す。彦火火出見命(饒速日)の妃でその子は鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)であり、乙宮の祭神、竜宮神・乙姫神でもある。豊比盗_社の祭神は、この「豊玉姫」を指す。後に大国主の妃になられ、別名「田心姫」とも言い、福岡県・宗像大社の祭神の一人であり、海北の「道主貴みちぬしむち」でもある。

3.()玉依姫

豊玉彦(海神)の姫君で玉依姫、「たまよりひめ」と称す。日吉神社の祭神「大山咋」の妃で崇神帝の母であり、その前は鵜草葺不合命の妃であり、安曇磯良(あずみいそら)の母であった。宝満宮の祭神であり、以後、()玉依姫と称し、区別し用いる。

玉依姫は、藤大臣物部保連(玉垂命)と神功皇后の異国征伐時に、父である海神・豊玉彦に干珠・満珠の玉を借受けにゆく姫君として有名。

4.豊姫

鵜草葺不合命と奈留多姫(なるたひめ)の間の姫君で豊姫、「ゆたひめ」と称す。熊襲タケル後の河上タケルの妹に当たる。安曇磯良の妃となられ、後に佐賀県・川上神社(與止日女神社)の河上大明神になられる。奈留多姫は天忍日命と雨宮姫との間の姫君。(高木大神・神沼河耳 神代系図(6)参照)

以上が四姫君の概要である。

)から4)の三姫君は豊姫の総称として用いられてきた。

豊玉彦は海神と呼ばれ、後の天穂日命である。その父は大幡主であり、外洋航海の腕効きでもあった。海神・豊玉彦の二人の姫君、豊玉姫・()玉依姫は海童女二神と呼ばれる。鵜草葺不合命は大海祗(おおわたつみ)であり、その子、豊姫・大海姫は海童少女二神と呼ばれ、福岡市の志賀海神社の祭神でもあり「少童命(わたつみのみこと)」二神とも呼ばれる。なお、志賀大明神は安曇磯良であり、安曇磯良・豊姫・大海姫はいずれも鵜草葺不合命の子である。この三神を総して、海祗(わたつみ)三神という。安曇磯良は筑前国では「志賀大明神」、日立国では「鹿島大明神」、大和国では「春日大明神」となられている。

ここで、百嶋由一郎氏が残された神代系譜をご覧頂きましょう

無題.png

百嶋由一郎極秘系譜(部分)天御中主+大幡主+高木大神が造化三神ですね…


ご覧の通り、列島大卒:姫氏(呉の太伯=「君長」)と白川伯王の娘の神玉依姫=玉前様(千葉県長生郡一宮町一宮にある神社 式内社、上総国一宮 旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社に祀られている)の間に産れたのが本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)であり、同じく列島大卒:姫氏と高木大神の叔母の間に産れたのが大日女貴→卑弥呼→天照大御神と書かれているのです。

 つまり、神武と天照とは腹違いの弟と姉の関係にあったことになるのです。

 それを、天照から下って、下って神武天皇と描いた背景には、藤原がその直接の起源を偽神武こと贈る崇神を神武と思わせ権威付けしたかったからであろうと考えていますが、それを知ってか知らずか(多分、津田を始めとして真面目に調べてなどいないはずですが)、神武は崇神に準える必要から残し、二代〜九代までは全て架空としているのです。

無題.png

神武天皇の母神 神玉依姫を祀る玉前神社 カーナビ検索 千葉県長生郡一宮町一宮3048(左)


天照大神の母神 大伽耶の姫を祀る佐用都姫神社 カーナビ検索 兵庫県佐用町本位田甲261(右)


詳しくは、と言っても、作業を始めた段階でしかないのですが、ひぼろぎ逍遥(跡宮)273 として、兵庫県佐用町の佐用都比売神社とは何か? 20160709太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 をお読み頂きたいと思います。


ひぼろぎ逍遥

632

上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (下)

631

上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (上)

610

神武天皇の母神は千葉県一ノ宮町に祀られている “百嶋神社考古学概論入門編 B”

609

天照大御神の母神は播磨の佐用町で祀られている “百嶋神社考古学概論入門編 A”

   

無題.png

 百嶋先生からお話をお聴きした時には既に一度訪問していましたが、十年前の事でもあり全くチンプンカンプンで如何なる神社であるかが全く分かりませんでした。

その後、再訪してある程度の文書も記したのですが、九州王朝は8世紀に奈良から最も遠い但馬に避退した(海路で考えれば九州への倍の距離が必要)。その手引きをしたのは橘一族であったという先生の説を自ら検証するために踏み入った延長上の訪問でした。それでも見飛ばしていてはどうにもなりません。

無題.png

今回は蔦紋を使う高木大神の社殿裏の最奥部の安全な場所に伯母宮があるのですから、天照大御神の父神か天照の腹違いの弟である神武(呉太伯の後裔)の母神との表現である事が分かります。

最早、同社の宮司や禰宜に聴いてもお分かりになる方はおられないと思うのですが、最低でも神武天皇が白族(天御中主命)系の母神だったのに対して、天照大御神は高木大神系のお妃との間に産れた方であった事が分かります。

 ここで分からないのは同社の神殿上部には縦切りの男千木が置かれていることです。

 佐用都姫は宗像の市杵島姫に違いありません。

この女神様は藤原の祖である阿蘇高森の草部吉見(ヒコヤイミミ)と大国主命を夫としています。

 播磨は「風土記」に依るまでもなく大国主命の領域でもあります(射楯兵主神社)。

無題.png

同社案内板(上)同社神殿上部


佐用都比賣神社は表向き女神様を看板にしていますが、千木は男神を意味しており、もしかしたら大国主命が祀られた時代があり、藤原の世となり草部吉見を祀った時代もあったのではないかと思わせます。

 何故ならば、大国主命は播磨の支配者であった時代があり(但馬の出石にスサノウを押し込め、播磨、但馬を支配した)、近畿大和朝廷の時代には高木大神の次女である栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメ)をお妃としたヒコヤイミミが祀られていた可能性もあるのです。

 また、神紋からは元々高木大神を祀る神社だったのかも知れません。

 屋根には「郡古霊」と書かれているようです。

佐用郡の古霊との控えめな表記で修飾語を多用する高木大神としては非常に珍しい書き方です。

無題.png

百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データを必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2020年06月15日

726 比沼麻奈爲神社初見 “京丹後にもう一つの元伊勢を見出した”

726 比沼麻奈爲神社初見 “京丹後にもう一つの元伊勢を見出した”

20190308

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


先にも書きましたが、二月の末から岡山県津山市〜兵庫県佐用町〜鳥取県鳥取市〜京都府京丹後市〜石川県金沢市〜富山県五箇山〜岐阜県白川郷〜飛騨高山まで入りました。

本来は、更に長野県安曇野〜山梨県山中湖湖畔の友人の別荘に行く予定でしたが、雨に祟られ飛騨高山で引返す事になりました。往復2000キロ10日間の旅でしたが、草臥れただけだったかも知れません。

 ブログばかり書いていると腱鞘炎、頸肩腕症候群、眼精疲労…もひどくなり、ネタ切れもあって思わず飛び出してしまったからでした。

そこで京丹後を通過中に熊本の神社ウォッチャーでもある霊能者の女性から、峰山の比沼麻奈爲神(ヒヌマナイ)神社に行かれたらどうですか?とのアドバイスを受けました。

 既に、通過した後でしたので復路に参拝する事として五箇山を目指したのですが、帰路、好天気の中最高の条件で参拝の機会を得ました。

 元伊勢、元外宮については、大江山の皇大神宮を始め宮津の籠神社を何度も足を運びましたが、京丹後の比沼麻奈爲についてはついぞ知見を持ちませんでした。良く考えれば、但馬から丹後丹波へと貫ける豊岡から舞鶴へと向かう途上何度も通過していた所で、何の事は無い、道路から数百メートル入るだけの場所であったからでした。教えて頂いたF女史には改めてお礼申し上げたいと思います。

無題.png
無題.png

御祭神 豊受大神 配祀 瓊瓊杵尊 天兒屋根命 天太玉命


祭神は比較的分かり易く、豊受大神を主神に、随神として ニニギ(高木大神の息子)、アマノコヤネ(草部吉見=ヒコヤイミミ)、アマノフトタマ(ヤタガラス=豊玉彦)の四神が配されています。

 印象としては高木大神(許氏)系、藤原(阿蘇氏)系、大幡主(白族)系…と、一見すると初期の近畿大和朝廷のバランスを反映しているようにも思えます。

 まず、「ヒヌマナイ」と呼んでいる事に目を向けざるを得ません。

 マナイは籠神社に隣接する天真名井や大山の天の真名井を思わせます。日の真名井ですね。

当然、神社の傍らには無残にも河川改修がされてしまっていますが立派な流水の小河川が注いでいる上に、神社の左手の崖には横穴が穿たれており、始めは災害に備えて神宝を匿うためのものかとも考えていたのですが、宮司にお尋ねすると“昔は横穴の井戸で数戸の住家に給水していた”ものとのことでした。

 初見ながら、「比沼麻奈為」(ヒヌマナイの「ヌ」とは「ノ」の古形の所有の格助詞)とは日?(樋)?の真奈井と呼ばれる湧水の地に置かれた神社程度の意味の社名ではないかとしておきたいと思います。

 境内を進むと立派に掃き浄められた砂場の参道と砂山が見えてきます。

無題.png

たまたまお会いした宮司からお話をお聴きすると、五十戸ほどの集落で維持されている神社との事、どうしてこれほどの維持管理ができるのか不思議な思いがしましたが、今後も訪問できる機会はあると思いますので神社の性格を含めて今後とも考えて行きたいと思っています。

 まずは、同じ元伊勢としても、参拝客の足が途絶えた大江山の皇大神宮、人知れずひっそりと佇む同社、かたや天橋立で参拝客が絶えない宮津の繁盛する神社と…つくずくも不公平なものと思うばかりです。

無題.png

参拝殿と雪囲いの残る参拝殿


 参道を右に折れると参拝殿+神殿があり、更に右手には稲荷社が鎮座ましましておられます。

 百嶋神社考古学に於いては、豊受大神とは伏見稲荷と同体であって、稲荷社が神殿真横に置かれている事は、主神そのものが排除されたか、主神の稲荷としての神性のみが外に出された可能性もあるのかも知れません。

 逆に境内社に五角柱の社日(天照大神、少彦名命、埴安姫命、倉稲魂命、大己貴命)祭祀があるものの、配祀神 瓊瓊杵尊 天兒屋根命 天太玉命 に相対する境内社が無い以上、この三神は神殿内にあるはずです。

 では、何故、千木が男神を示しているのでしょうか?まあ、伊勢の外宮も同じですが。

 考えられる事は豊受大神が男神だったとは考えないことから、お妃とした男神とは誰だったのかを考えてしまいます。

無題.png

故)百嶋由一郎氏は、“豊受大神=伊勢の外宮様が天兒屋根命こと草部吉見(ヒコヤイミミ)=海幸彦を夫としておられた期間は三年程度であった…対して、ニギハヤヒ=猿田彦=山幸彦は死ぬまで添い遂げておられました…”と言われていました。

 従ってこの男千木とは、もしかしたら山幸の可能性もあり海幸の可能性もあり謎は深まります。

実のところ神殿内の祭神を見たいとの思いは消せません。

 特に北部九州では神殿内に自らの紋章を打った神像を置いてあるものに遭遇する事もかなりあり、ある程度判別が付く場合もあるのですが、普段簡単に行ける地域の外延部にあたるためそれほど頻繁には入れず、地域の傾向も掴めていないものの勝手な感想、初回の初見と言ったところで今回のリポートを閉じたいと思います。

何度か通い周辺の神社をある程度把握しないと見えてこない部分もあることから、徐々に作業を進めたいと考えています。

初回から馴染みへと進めば(何やらジョロカイのようですが)見えてくるものもあるでしょう。

百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データを必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記