2020年06月01日

721 那珂川市の伏見宮とは何か? “百嶋翁から伏見稲荷の元宮と聴いた那珂川の伏見宮”

721 那珂川市の伏見宮とは何か? “百嶋翁から伏見稲荷の元宮と聴いた那珂川の伏見宮”

20190210

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ひぼろぎ逍遥 705 2019年年頭に那珂川市の神社を探索する 公開しているとおり那珂川市において十数人規模のトレッキングを行ないました。以下その冒頭の部分を再掲載します。


 思えば那珂川町でのトレッキングがそろそろ十年に近づく太宰府地名研究会での神社探訪の起点でした。その当時はまだまだチンプンカンプンのよちよち歩きでしたが、メンバーも年を重ね、少しは神社を見る目が成長しているでしょうから、那珂川市政(市制)スタートを機会に、再度、旧那珂川町でのトレッキング(オープン参加)を企画したいと思います。

 ここではこれらの神社探訪の基礎資料として、簡潔にその概略をお知らせしたいと考えています。

 那珂川市は二千数百年前の神代〜古代に於いて湾入を見せていた古代博多湾の西の最奥部にある天恵の沃土といった場所で、欠史扱いされ架空などとされている神代〜古代に掛けての多くの神々の重要な場所がこの一帯なのでした。

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@  天御中主神社    カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町片縄東1丁目

A  地禄天神社     カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町中原6丁目7-8(地禄と十六は同じ)

B  十六神社      カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町那珂川町片縄北1丁目14-16 

C  現人神社      カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町仲3丁目7-8

D  安徳宮       カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町安徳36.

E  裂田神社      カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町安徳11.

F  伏見神社      カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町山田879

G  大山住神社     カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町別所687

H  日吉神社      カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町市ノ瀬441-1


 今回、七年ぶりに那珂川流域での神社調査を行いましたが、あまりにも重要な神社が目白押しのため、3月にも再び第二次那珂川神社トレッキングを行なおうと思っているところです。

 十数人によるトレッキングではありますが、ブロガーだけでも5人、ブログ数8の記録に残る調査体制ですので、将来にも参考になり、新たな発見までもが書き込まれ書きつづられることになるでしょう。

 今回不参加の他のブロガーも数人おられますので、多くの目による神社探査は貴重な資料にもなることでしょう。

ここでは、天御中主神社、裂田神社、日吉神社…などから幾つかリポートしますが、持禄神社=十六神社は同一で博多の櫛田神社の主神である大幡主=神産巣日神、神皇産霊尊で良いのですが、屋敷神などを加えれば、古代の博多湾岸汀線に恐らく千社近くあるのではと言ったのは故)百嶋由一郎氏でした。

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地図の外になりますがこの南、乙子神社から一キロほど上流に日吉神社があります


 さて、ここでは今回のトレッキングでも注視していた伏見宮を取り上げます。

 注視していた理由は、故)百嶋由一郎氏からこの那珂川の伏見宮は京都の伏見稲荷の元宮と聴いていたからです。

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まず「福岡県神社誌」を見れば、その冒頭から肥前の淀姫神社の祭神が祀られたと、また、また、その後、山城国より御香宮神社を勧請した云々と書かれています。


御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ、ごこうぐうじんじゃ)は京都市伏見区にある神社である。式内社で、旧社格は府社。通称御香宮、御幸宮。伏見地区の産土神である。神功皇后を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇ほか六神を祀る。神功皇后の神話における伝承から、安産の神として信仰を集める。

また社務所内に小堀遠州が伏見奉行所内に作ったとされる庭園が移設されている。

ウィキペディア(20190211 03:32による


この御香宮の祭神が気になりますが、同社HPにも、京都府神社庁HPにも出てこない事から頼りにできるのは「玄松子」しかありません。以下をご覧ください。


仲哀天皇應神天皇宇倍大明神瀧祭神 河上大明神/高良大明神 仁徳天皇菟道稚郎子尊白菊大明神


「福岡県神社誌」では「武内大臣合祭のことは不明なり」と書いています。

少し調べれば分かりそうなものですが、伏見の御香宮から持ち込まれたものとしか考えようがないではありませんか(お粗末)。

宇倍大明神が武内宿祢であることは 因幡國一之宮 宇倍神社 を持ち出すまでもなく神社関係者なら誰でもご存じの話だと思うのですが奇妙としか思えません。

この御香宮を勧請したとするのならば高良大明神(実は第9代開化天皇)も仁徳天皇(実は高良玉垂命と仲哀亡き後の神功皇后との長子=シレカシノミコト)も白菊大明神も持ち込んだことにしているはずなのです。

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白菊大明神も分かり難いかも知れませんが、伏見稲荷大社内三ノ峰にある白菊大神の稲荷社(京都市伏見区)があることでもお稲荷様である事が分かります。

さて、ここから少し同社の本質に解析を進めたいと思います。

肥前の淀姫が何故ここに持ち込まれているかを不思議に思われる方が多いと思います。

ただ、十年程前からこの事実と言うより現象については気づいていました。

それは糸島市でも大社として知られる桜井神社の参拝殿の天井には淀姫大明神でしたか大元の桜井神社よりも大きな神額が掛けられているのです。

さらに言えば、糸島市でも良く知られた産宮神社の祭神である奈留多姫は表向き第二代綏靖天皇の母とのとんでもない縁起(綏靖天皇の子である草部吉見の子の阿蘇ツ姫の子の雨宮姫の子が奈留多姫なのであって実に四代遡った御先祖様を産んだことにしているのです)になっているものの、その奈留多姫とウガヤフキアエズの間に産れたのが豊姫(淀姫)と逆賊とされた河上タケル(ヤマトタケルの熊襲退治)なのです。また、福岡市南区塩原にも淀姫稲荷神社があることも一応は頭に入れておくべきでしょう。

そして、この伏見神社にも由緒筆頭に淀姫が掛かれ祀られている事は、何らかの政治的変動によって脊振山系の南側から北側に避退している事が見えてくるのです。

このヤマトタケルの熊襲退治は良く知られていますが、何やら鹿児島だか宮崎だかに奈良からヤマトタケル(ヤマトオグナ=オウスノミコト)が攻めてきた事にされていますが、これは熊襲内部の内ゲバでしかなく、恐らく菊池〜山鹿〜玉名方面から佐賀市(旧大和町)の川上温泉郷周辺にいた河上タケルが誅罰されたのであり、その現場は脊振山系の南麓で起こった事だったのです。

当然、攻めてきた方角に逃げる馬鹿はいない事から、その意味でも奈良見当などでは無い事は明らかで、故)百嶋由一郎氏も“河上タケルは許されその一族は福岡市早良区に纏まって逃げ今も集落をなしていますが、知っていても気の毒だからお教えできない…”と言われていました。

これついて情報をお持ちの方はご連絡頂きたいと思います(09062983254まで)。

詳しくお知りになりたい方は旧「大和町誌」にも記述がありますし、当方の「淀姫」(以下)を読まれてもある程度お分かり頂けるでしょう。

九州王朝論の立場とか吹聴している団体が福岡市などにもありますが、こんなことさえ調べようとも知ろうとも、勿論、知ってもいないし、神功皇后が三瀬村で産まれている事も知らないのです。漫画です。


ひぼろぎ逍遥

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淀 姫 C ” みやま市高田町江ノ浦の淀姫神社について”

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淀 姫 B

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淀 姫 A

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淀 姫 @


また、この熊襲退治の話に絞り込んだパワー・ポイントを作成していますので、希望される方は千円+送料込程度でお送りできます(09062983254まで)。

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予定された紙面が終わりますので、この程度でこの話は終わりとして、次のブログで稲荷の本質に迫りたいと思います。


百嶋由一郎最終神代系譜(部分)(下)

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2020年06月03日

722 僭越ながらようやく稲荷が少しは分かってきたような気がしています

722 僭越ながらようやく稲荷が少しは分かってきたような気がしています

20190211

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


「向う横丁のお稲荷さん」という手毬うた お手玉うた(童わらべ歌)がありますが、この歌に登場するお仙は江戸中期に実在した茶屋の美人看板娘というのですから多少の驚きを感じます。

「大阪府高槻市にある笠森稲荷(笠森神社)。ここから江戸の谷中へ勧請された稲荷社の境内(または門前)の茶屋でお仙が働いていた」と言うのです。


向う横丁のお稲荷さんへ一銭あげて ざっとおがんで お仙の茶屋へ腰をかけたら 渋茶を出した渋茶よこよこ 横目で見たらば米の団子か 土の団子か お団子 団子この団子を 犬にやろうか猫にやろうか

とうとう とんびに さらわれた

無題.pngによる


このような親しみのある話もあるにはあるのですが、何故か奇妙で陰鬱で得体の知れないおどろおどろしさを感じさせるのも私が稲荷神社に対して持つ偽らざる印象です。

しかし、それは狐、狸が人を化かした…といった話から持たされた印象であって、狐狸妖怪によるイメージがそうさせているだけの事なのでしょう。

実際、何故、あれほどの赤鳥居が並べられなければならないのか?それだけでも強烈な印象を受けてしまいます。

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これまで稲荷神社に関してはあまり書いていませんでしたが、良く分からなかった事は否定できません。

勿論、これだけではないのですが、最近、宮崎県西米良村の狭上稲荷神社関連で3本(現在未公開)ほど稲荷神社について書くに至り、ようやく見当が着いてきたという切っ掛けを得た思いがしています。

稲荷については、“福岡県春日市の白川伯王益寿稲荷こそ最も古い稲荷様…云々”と故)百嶋翁も言われており稲荷の起源が九州にある事は間違いない上に、“伏見稲荷の原点も那珂川町(現那珂川市)の伏見神社”と言っておられることからこの難敵の稲荷への探索を深めなければならないと考えています。


 ひぼろぎ逍遥

461

白川稲荷の祭礼に出くわした “大分県杵築市大田の白川稲荷”

149

白川伯王益寿稲荷の分霊分社の発見か? “田渋荘の三宮八幡宮手前の小社”


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)未公開(公開は16ケ月後の予定)

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亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(下)

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亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(上)


 伏見稲荷の正体を突き止める手掛かりが一つあります。それは伏見稲荷の「四大神」で、この四大神が山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦であり、福岡県豊前市に四社ほど集中し存在する「四公神社」であることは故)百嶋翁も話しておられ、当方も「ひぼろぎ逍遥」で報告しております(以下写真はそのうちの二社)。


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四公(シコウ)神社とは何か?


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この四公社の祭神である山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒこそ伏見稲荷の主神である宇迦之御魂神、倉稲魂命であり、実は伊勢の外宮の豊受大神でもあるのです。

そうです猿田彦のお妃でもあった天鈿女命(アメノウヅメ)でありだからこそ伏見稲荷でもお傍にお仕えされているのです。

話は逸れますが、この田中大神も藤原により第9代とされた開化天皇であろうとも…聴いています。

問題は佐田彦大神で、実は四大神と同体の神の可能性があるのです。

それをゴリオシして出雲の佐田神社の佐田大神まで佐田彦大神で山幸彦であるとする震源地は無論伊勢神宮であり明治前後からの神祇官なのです。

出雲の佐田大社の佐田大神は大山咋であり断じて猿田彦ではないのです。

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四大神が中社の摂社というのも証左のような気がします 何故なら佐田彦大神と四大神は同体だからです


辛国息長大目(支那ツ姫)命=福岡県香春町の香春神社の主神こそ稲荷様=伊勢外宮様なのですが、大目命とは、九州で多い事を「ウウカ」と言うように大目と表記されたものも元はウウメでありウヅメなのです。この点でも猿田彦=山幸彦を夫とされている事が分かるのです。

当然にも短期ですが稲荷様の先の夫神は阿蘇高森の草部吉見(ヒコヤイミミ)様=海幸彦で、稲荷様が当時絶大な力を持った九州の女神様であり、政治が彼女を中心に動いた事を今尚留めているのです。

知らないのは神社庁に大嘘で調教された神主、禰宜ばかりで嘘と思い込みと不勉強と肖りで塗り込められているのです。悲しい限りです。列島の神道もいよいよ集団絶滅へと向かいつつあるようです。

95%嘘で固められた古事記に基づく神代系譜など何の役にも立ちませんので、百嶋神代系譜をお考えいただきたいのですが、この系譜によって、伏見稲荷様=伊勢の外宮様がどのような系統の人なのかをお考え頂きたいと思うものです。

無題.png 稲荷様は山幸彦様のお妃なのです

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


重要なのは夫神ではなく女神様の方です。

父神はスサノウ(新羅の王子様)であり「辛国」の意味もそこにあるのです、母神は大山祗命(トルコ系匈奴)の長女である神大市姫=弥都波能売神=罔象女神(ミヅハノメ)弟、妹に大国主命、木花咲耶姫というスサノウ系(実質は新羅系というより金山彦系)と大山祗命(トルコ系匈奴)のプリンス+プリンセスの組み合わせであり、始め雲南省麗江から肥後に進出した黎族の流れを汲む阿蘇氏との縁組が試みられたのですが、うまく行かずに実質的な王統が転換されているのです。

つまり、阿蘇系に根を持つ藤原系が貶めるために、アメノウヅメがストリップ紛いの真似をしたとか猿田彦を猿と貶めているのであって、伏見稲荷も伊勢神宮も藤原氏ともっと激しく争うべきなのです。

この点、出雲の佐田大社の佐田大神を佐田彦(猿田彦の実名)などと明治維新期に成り上がりの神祇官が騒いで今は屈辱ながら従っていますが、元の宮司家は猿田彦などでは無いと今もネット上で訴えておられます。まあ、どちらも苦しみながら闘い続けておられるという事でしょうか?我々は高みの見物でしかないのですが…。

これについては以下をお読み下さい。


ひぼろぎ逍遥

51

出雲の佐田神社と安心院の佐田神社

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

295

大宮神社と猿田彦大神 N “ひぼろぎ逍遥051 出雲の佐田神社と

安心院の佐田神社 再掲”


どちらにせよ稲荷様に付き纏う陰鬱さと強面と不安感は、物部として後の藤原である阿蘇系から徹底的に弾圧されたスサノウ系(金山彦〜ナガスネヒコ系)と大山祗(熊襲=トルコ系匈奴)の影が反映されている事によるものでしょう。

 なお、大山祗=トルコ系匈奴=熊襲という話はなかなか受け入れられないと思いますし、未公開の内容でもあり、僅かに公開しているビアヘロ069 続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu 

外をお読み頂くしかありません。それまでは百嶋神代系譜015金印からお考えください。

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2020年06月06日

723 伊勢から紀伊の神社調査への下調べとして @ 伊賀の国の一宮 敢國神社

723 伊勢から紀伊の神社調査への下調べとして @ 伊賀の国の一宮 敢國神社

20190216

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 いよいよ奈良は大和の裏側、伊勢志摩への神社調査に入ろうと考えています。

 南紀白浜には過去二〜三度踏み込んでいます。伊勢神宮も二度ほど熊野那智大社に一度と如何にも貧相で、いずれは本腰を入れて神社調査に入ろうと考えてきました。

 「伊勢音頭」でも「伊勢へ七度熊野へ三度」…と歌うのですから残りの人生を考えてもそろそろ行かなければと思うものです。

 当然、伊雑宮、猿田彦神社、椿大神社、幸神社、皇大神宮別宮 瀧原宮…、それに熊野速玉大社にも足を延ばそうと思っています。

その時の気分次第ですが、場合によっては和歌山まで南回りで四国に抜け戻ってくる事も考えています。

 当然、旅そのものが目的ですから高速などは使わずに交通量が少ないルートを選択します。

山陰から滋賀県の北部を琵琶湖の右回りで伊賀に入る事を考えています。

 当然、旧上野市辺りから調査を始めるのですが、まず、始めに向かう予定なのは伊賀の国の一宮 敢國神社 です。由緒書きは非常に丁寧に書かれていますので、ほぼ、全文を引用させて頂きます。

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敢國神社の御祭神 


主 神 大彦命 配 神 少彦名命 金山比当ス

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敢國神社の御由緒


古来伊賀の国の一宮として、当国の人々の総鎮守大氏神として、仰ぎまつってその霊徳に浴してまいりました。

創建年代は658年ですが、貞観の頃には神階五位を授けられ延喜の制には大社に列せられました。また延長年間には朝廷より社殿が修造せしめられ、南北朝時代には後村上天皇が行幸ましまして、数日間参籠あらせられ、社領の御加増もありました。徳川時代には藩主藤堂家の崇敬厚く、社殿調度の修営・神器社領の寄進・祭儀神事の復興などが行われました。明治45月国幣中社に列せられ今日に至っております。


敢國神社の略史


当神社は今から1300年以上前に創建されました。くわしくは、7世紀の中期658年に創建と当社には伝わっています。創建当時は大彦命(おおひこみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神で敢國神社が創建されました。

創建以前のお話になりますが、当社の主神である大彦命は、350年頃第8代孝元天皇の長子として大和の国に生まれ、大和朝廷創無題.png建期の武人と云われています。

又、その子建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)と共に北陸・東海を征討する役目を負われ「四道将軍」のお一人として第10代崇神(すじん)天皇の詔により日本の東目の攻略を果たされた後、大彦命率いる一族は伊賀の国にお住みになり、その子孫は伊賀の国中広がっていきました。伊賀の国の阿拝(あえ)(現在の阿山郡は阿拝郡と山田郡が合併してできたもの)を中心に居住した為、阿拝氏を名乗るようになり、後に敢・阿閉・阿部・安倍と呼ばれるようになりました。「あえ」とは、「あべ」の原音であり、あべ姓の総祖神でもあると共に伊賀にお住まいの方の祖神でもあります。

又、古代伊賀地方には外来民族である秦(はた)族が伊賀地方に住んでおり彼らが信仰する神が当社の配神(はいしん)である少彦名命でありました。当時は現在の南宮山山頂付近にお祀りしていましたが、神社創建時には南宮山より現在地に遷してお祀りしています。このことから伊賀にお住みの方々はこの二神の混血の民族であると言っても過言ではないでしょう。

創建後、南宮山の社殿が山の下に遷された跡地に新しい神社の創建に当たっては当時の伊賀の有力な人達の頭を悩ましたことであろうと思われます。結局、美濃の国(現在の岐阜県)南宮大社の御祭神である金山比当ス(かなやまひめのみこと)を旧少彦名命の跡地に勧請しました。おそらくその頃南宮山(なんぐうさん)という名がついたのではないかと推測されます。

その南宮山の金山比当スが、敢國神社の本殿に合祀されたのは創建時より319年後の977年のことと記載されています。

ある日突然金山比当スの社殿が激しい音をたててゆれ、止むと同時に社殿前の御神木の幹に、虫食いの跡が文字となって現れ「興阿倍久爾神同殿」と言う8文字の漢字でした。神官の報告を受けた当時の伊香守高則は、早々主家の藤原兼家に報告、直ちに御神慮に従って金山比当スの遷座合祀が執り行われました。こうして当神社は三神をもって敢國神社・敢國津大神(あえくにつおおかみ)となって現在に至っております。

少彦名命を信仰する外来民族秦族は、色々な技術文化を日本に伝えています。たとえば伊賀の組紐伊賀焼・酒造等があります。又、芸能にもみられ、鎌倉時代に盛んになった能楽の祖と言われる観阿称は、伊賀の出身地であります。能楽が武士階級の娯楽に発展し、又、同じ頃に獅子神楽が庶民階級に発達していきました。当神社に伝わる獅子神楽(三重県無形文化財指定)もこの時期にできたものであろうと言われています。現在伊賀地方の各町で「町おこし」として執り行われている獅子神楽の原型とも言われ、伊勢下神楽に多大な影響を及ぼしたとも言われています。無題.png


敢國神社の御神徳


大彦命は第八代孝元天皇の皇子で、崇神天皇の御代四道将軍のお一人として北陸未開の地を教化した後、伊賀の国に永住せられ、国家繁栄の礎を築かれました。命の御遠征によるご活躍にあやかり、交通安全その他、健康長寿の神として御霊徳を仰がれて居ります。また少彦名命は医薬・酒造の祝神で、世に恵美須様と称し商売繁盛・大魚豊穣の守護神としてその御沢尽くるところがありません。

金山比当スはその御名の如く採鉱冶金機械工業など、近代産業の霊験を垂れ給う守護神であらせられます。


 偉そうな事を言うつもりも力も持ちませんが、まず、正確に書かれたと思われる社伝に真摯な解釈が加えられておりそれだけで好感を持ちます。勿論、一部に異論はあるのですが、それは当方の不勉強によるものかも知れませんし詳しくなればなるほど完全に受け入れる方はおられないでしょう。

いずれにせよ非常に良くできた参考になるHPと感心してしまいました。宮司の力を感じます。

 まず、祭神に大彦命というかなり後代の祖先神というような神様が主神として祀られています。

 始め、少彦名命と並んでいるので大国主命でも祀っているのかなと錯覚したほどでしたが、金山彦と共に配神、随神として祀っているのです。

敢國神社の略史では @「外来民族である秦(はた)族が伊賀地方に住んでおり彼らが信仰する神が当社の配神(はいしん)である少彦名命でありました」A「少彦名命を信仰する外来民族秦族は、色々な技術文化を日本に伝えています」としており、金山彦も少彦名命も同族である可能性が高く、これまであれこれと考えていた少彦名命がどのような民族であったのかの一端を見せて頂いた気がしています。

過去、ひぼろぎ逍遥 176 少彦名命とは何か? ひぼろぎ逍遥(跡宮) 411 第三次奥出雲調査に行かなければならない B ひぼろぎ逍遥(跡宮)260 若き大国主命=大己貴(オオナムチ)ならぬ大己彦を祀る“春日市の白玄社”への再訪!などで書いてきましたが、若き日の大国主命は福岡県春日市辺りに住んでいた可能性があり、近くには少彦名命が幼馴染としていた可能性を見ています。

そもそも大国主命を出雲の国の人などと考えるのが大間違いで、彼は熊襲とされる大山祗命の実子であり、妹に木花咲耶姫、姉に神太市姫(ミズハノメ)を持つトルコ系匈奴であることは過去何度も書いてきました。

 謎だったのは少彦名命の方で、金山彦〜秦氏に繋がる瀛(イン)氏であろうとの一端を見せて頂いたのです。

 合わせて、大国主命の幼名と考えられる大巳彦or大己彦を祀る春日市の白玄社の付近には有名な須久岡本遺跡があり、須久に住んでいたから少彦名命は須久(スク)ノ彦(ヒコ)ノ命(ミコト)と呼ばれていたのです(「ナ」はソコナオナゴの所有の格助詞)。

 このことから、「スク」という地名が(小郡市の津古生掛古墳の「ツコ」も含めて)、ヨーロッパ・ロシアから極東まで広がるペトロパブロフスク、ヤクートスク=ヤクーツク、ウラジヲストーク、アラスク(アラスカ)、チェルネンスク…という針葉樹を打ち込んだ砦集落〜城塞都市起源の都市国家地名(更に列島では「佐久」=柵にまで転化している)である可能性を感じさせるもので、彼らがどこを通って列島まで進出して来た民族であったかが垣間見られるのです。

 特に面白いのは、伊賀にお住みの方々はこの二神の混血の民族であると言っても過言ではないでしょう」の部分で、皇国史観の延長上に放置されている日本人自生説、単一民族説といった外来神を意識しない議論では一歩たりとも前進できない中、宮司と思われる方が踏み込んで提案されている事に拍手を送りたいと思います。

 安曇族は元より、琵琶湖沿岸には新羅系、秦系の民族が大量に入っている事は多くの方が議論されている訳で、そろそろ踏み込んだ解析に入る時期が到来していると思うのですが、旧態以前の停頓が遍く広がっているのが現在の神社を取り巻く環境なのです。真実を伝えないままこのまま放置すると、神社そのものが捨て去られる時代が目前まで来ている様に思うものです。では、さらに解析を進めましょう。

 そもそも主神の大彦とは

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百嶋由一郎金神神代系譜(部分)


 大彦は九州王朝系の第8代天皇(どうせ藤原が自らに都合が良いようにやった事ですが)とされたオオヤマトネコヒコクニクルと山下影姫の間に産れた武内宿祢の兄にあたる人物なのです。

 普通は武内宿祢の父親とされる屋主忍男武雄心命のお妃が山下影姫とされるのですが、百嶋先生は“千束八幡の武雄社に記録あり”とのメモを残しておられます。

 山下影姫もナガスネヒコの妹である武内足尼とヤタガラスの血をひく葛城高千那姫を母とし彦太忍信を父とする人物であり、後はご自分でこの系譜を検討して頂きたいと思います。

 この神代系譜を見て頂ければ分かりますが、第9代開化天皇=高良玉垂命と大彦とは腹違いの弟と兄の関係にあります。

 この開化天皇=ワカヤマトネコヒコは仲哀亡き後の神功皇后を正妃として仁徳天皇以下5人の皇子を得るのですが、神功皇后紀の舞台が周防から九州北部であるようにその活動領域は九州だったのであり、当然にも孝元天皇も九州に居たのであって、この神社の由緒に云う 「当社の主神である大彦命は、350年頃第8代孝元天皇の長子として大和の国に生まれ、大和朝廷創建期の武人と云われています」 というこの一点については受け入れ難いのですが、まだ見ぬ神社でもありこれ以上は憚られる事となるでしょう。

 この大彦は神武僭称贈る崇神天皇の時代に開化天皇の指揮下で送られた四道将軍の一人であり東北の安倍氏のルーツともされる人物なのです。

 これを自らの業績として大々的に宣伝したのが後の藤原氏である阿蘇系の崇神=ミマキイリヒコ(「日本書紀」に都怒我阿羅斯等=ツヌガノアラシトとして登場する人物)であり、実力や業績があったとしてもこの人物は天皇でも何でもなく、開化天皇と神功皇后に仕えていた将軍だったのです。

 実は日向からとされる神武東征も崇神がやった事であり、本物の神武天皇は神武巡行と云われる調査旅行を行っているのです。

 これを後の藤原氏が自らの格上げのために崇神は偉大な天皇だったとしたのが「古事記」「日本書紀」だったのです。

 最後に金山彦についても触れておきたいと思います。

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祭神でもある金山彦は瀛氏としています。この意味は秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ一族を表しています。始皇帝は、姓は嬴(エイ)氏は趙(チョウ)、諱は政(セイ)であり、姻戚となった金山彦は先行し渡海したため瀛氏と自ら呼んだのです。製鉄神でもあった彼らは金属を得やすい火山列島に移動したのでもあるのです。列島に進出した彼らは、我々がトルコ系匈奴と考える熊襲の大山祗の姉のオチ姫を妃とするとともに、博多の櫛田神社の大幡主の妹の埴安姫を受入れ、相互に、瀛氏、白族、越智族のスクラムが組まれた時代があり、列島の開闢から初期の九州王朝成立前夜に繋がるのですが、この時期、金山彦も九州島(熊本県山鹿市と考えていますが)にいたのです。この辺りについてはひぼろぎ逍遥(跡宮)から 281 大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か?以下@〜Sや 106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”外5本程度書いていますので必要な方はお読み頂きたいと思います。いずれにせよ、現地を踏むことなくこのような文章を書くのは下調べとしても違法ですのでここまでとします。


百嶋由一郎が残した神代系譜や手書きスキャニング・データ、講演音声CDを必要な方は09062983254まで

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