2020年05月01日

711 亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける

711 亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける

20181224

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 実に長ったらしいタイトルで申し訳ないのですが、結局はこのように書くしかありませんでした。

 偉そうな事を申し上げるつもりはないのですが、それなりの数の神社を見てきた者として、これほど驚き、また、感動した神社はありません。

まず、この感動を伝えるだけでも価値があると思うものです。

以前から人吉〜西米良〜東米良(銀鏡神社)に向かう時などに、横目で狭上稲荷神社の看板が掲げられている事は承知していました。

ただ、仮にそうであったとしても、このような山村にもそれなりの稲荷神社が存在しているな…程度の理解しかなく、いずれ足を向ける事もあるだろうと言った思いしか持っていませんでした。

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入口から7キロは走り、標高700メートルを超える峠を越え、再び3キロほど下るとようやくこの神社に辿り着きます。離合もままならない林道が続きますが、離合を心配する事もないほど往路も復路も対向車は一台も遭遇しませんでした。

 一応は舗装もされてはいますが、かなりくたびれており、この季節には落葉が積み重なっており水気を含んで腐っているところではスリップには注意しなければなりません。

ハードな道がお好きな方でも、この10キロの山道を踏破するのは相当にくたびれると思います。

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よおやっとで到着すると、当然にも普通に参拝客が訪れる神社ではなく、ある種の氏族によって守られてきた同族集団により維持された神社であることが分かります。

 参拝を終え、冬至の前日でもあり直ぐに日が陰りますので手短に参拝し戻ろうと思っていましたが、社司(宮司)がお茶を用意されており茶代を置き、有難く頂き暫くお話をお聴きいたしました。

お話では、開口一番、“稲荷にも吉田神道と白川神道があり…”と話し始められました。

即座に“当然にも、こちらは白川伯王系のお稲荷さんですね”と申し上げ、しばし、概略をお聴きしたのですが、この神社の言われや由緒についてお尋ねするに従い、だんだんとその重要性が見えてきました。

南北朝争乱期以降、菊池の一族がこの地に入り込み、敗残しつつも抵抗を続けることができる拠点を造っていたようで、西都市の寒川〜東米良〜西米良…と多くのパルチザン風のゲリラ根拠地を用意していたようで、その一つがこの狭上でもあったのです。

そこで、この地で奉斎されていた神を見れば、菊池氏が元々祀っていた神々が何であるかが分かりますし、菊池氏が何者であるか(如何なる民族なのか)もある程度推定する事が可能にもなってきたのです。

以前から、敗残した菊池氏が幕末まで生延びた東米良の銀鏡(シロミ)神社の祭神が、何故、磐長姫(イワナガヒメ)でなければならないのかを不思議に考えていました。

また、南北朝期に阿蘇氏と菊池氏(この他にも八女の黒木氏、矢部の五条家、八代の赤松一族…)は宮方として闘い続けたのですが、明らかに阿蘇氏と菊池氏は民族も奉斎する神も異なっているようだし、単なる異なった氏族集団というだけではないはずだと考えて来ました。

このように700年間凍結された形で継承されている神社には本当の社伝、由緒、祭祀が残されているはずで、柳田も宮本も入ったとの話は聴いていないのですが、狭上は(柳田の「後狩詞記」の原本が狭上稲荷神社の「西山小猟師文書」だったのです)それだけでも貴重この上ない歴史的価値を予感させるのです。


米良山系の神楽には「シシトギリ」が分布している。もっとも有名なのが銀鏡神楽のシシトギリである。狩人に扮した爺と婆が、古式の猪狩りを演じるのである。銀鏡神楽では、翌日の早朝、銀鏡川の川原の猪が線刻された画像石の前で狩法神事「シシバマツリ」が行なわれる。神事の後、川原で焚き火をして、神前に供えられた猪の頭の耳の後ろの肉を七切れ串に刺して焼き、参加者で食べる。神人共食のもっとも原初的な姿である。

 西米良村村所神楽にもシシトギリが伝わっているが、これは同村狭上稲荷神社に伝わる「西山小猟師文書」を元に復元された演目である。同文書は柳田国男が椎葉村を訪れて目にし、「後狩詞記(のちのかりことばのき)」を書き上げた原本である。西山小猟師文書は狭上稲荷神社が発行し、修験者と狩人を通じて米良・椎葉の山系に分布したのである。…


無題.png…土地神とは、「山の神」「水神」「稲荷神」「荒神」「宿神」「翁・媼」「道化」「女神」等々である。これらの土地神こそ、太古の記憶と地域の歴史を語り継ぎ、脈々と生き続けてきた精霊神である。




九州山地中央部の山間地、一ツ瀬川と板谷川の合流点に位置する。地内には二基の古墳があり、小川の古墳一基とともに西米良古墳として県史跡に指定されている。一基は菊池記念館の裏の山中にあり、一基は当社の南側に位置している。
旧称狭上稲荷大明神と称し、創立年月日は不詳であるが、社蔵の由緒記によれば次のごとくである。
皇御孫尊阿田之長屋にご臨座し、大山祇命の娘、姉の磐長比唐畏れ給い、妹の木花咲哉比東ワ十鈴川上川に去ってしまった。大山祇命は跡を慕いて狭上の深川に跡を垂れ給う。爰に御陵あり、しかし空国にして祭る者がなかった。
世降りて当社御陵を知る人も稀になっていた。時に天正年中、山中堂栄、煮田之尾勝房・山佐礼左近・西世法師の四人兄弟狭上の東西南北に柴の庵を結んで露命を繋いでいた。西世法師の夢に白髪の老翁が現れ、我は是れ大山祇命なり、我陵を以て稲荷を祭り尊敬せば汝が子孫長久なる事疑う事なし、と言われた。西世法師山谷の狐魅我を犯すとしてそのままにしていた。また夢見があったので此の神を祭り尊敬すると日数を経ずして白狐稗粟大小豆を携えて来て西世法師に与えた。その後米良佐太夫の時に新たに社を建立した。その子孫の米良半右衛門と言う者が球磨表に越したので、その後中武氏神司となりここに居住した。
この由緒によれば、創建は古く菊池氏の入所後、氏の弟米良佐太夫の再興に係り、その子孫によって代々護持されてきたものである。                        (
児湯郡/西米良村)

祭神

大山祇命(おおやまつみのみこと)

倉稲魂命(うかのみたまのみこと)

大宮姫命(おおみやひめのみこと)

大己貴命(おおなむちのみこと)

菊池武光公(きくちたけみつこう)及びその祖先


宮巡 〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜による


紙数の問題もあり、まずは、この祭祀に登場する神々を百嶋由一郎氏が残された最終神代系譜(H12年作成)から考えて見ましょう。


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言うまでもなく、百嶋先生は、かつての戦乱期には菊池氏の全国的な秘密結社であったはずの菊池至誠会の福岡支部長であり、往時には青井阿蘇神社の宮司でもあり、熊本県神社長でもあり、菊池至誠会の会長でもあった上米良純臣氏の手下のような役割を果たしておられた方であって、事実、上米良純臣の上米良という姓も、この西米良村村所の少し北にある西米良村上米良に因む姓なのです。

私達、百嶋神社考古学の面受の者は、60年余に亘って列島はおろか中近東から中国や半島まで調べ続けられてきた神社研究を少しでも後世に引き継ぎたいと考えている者であり、図らずもこの心臓部に迫り始めたのです。

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少し神代系譜を拡大しましたが、ご覧の通り、黒枠のアカル姫こそが菊池氏の逃げ城の一つの東米良の銀鏡神社の主神として祀られる磐長姫(神話では器量が悪かったためにニニギから戻されたコノハナノサクヤの姉とされますが、無論、スサノウが追ってきたほどの女性であってこの話は近畿大和朝廷=藤原氏が熊襲系を貶めるために捏造した話でしかない)なのです。

系譜全体を詳しく見て頂ければ分かるように、互いの姉妹を相互にお妃とする関係にあった大山祗と大幡主は義兄弟の関係にありました(実はこれが鹿児島のタノカンサーであり先行するブログをお読み頂きたいと思います)。

このため、互いに大山祗と大幡主の娘同志であれば、コノハナノサクヤとアカルヒメとは義理の姉妹と見る事までは一応可能にはなるのです。

さて、狭上稲荷の主神と考えられる辛国息長大姫大目姫こそが稲荷であり、実は伊勢の外宮の豊受大神その人なのです。

この「大目」の意味ですが、九州西岸ではオオゴトシタをウウゴトシタとO音がU音に変わります。

と言うよりも、古代に於いてはこちらが標準語だったのです。

この大目はウヅメと読まなければならず、要はアメノウヅメの事で、当然にも猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒが後の旦那様で、元の旦那様が阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミであることから、菊池氏と阿蘇氏との南朝連合とはこの連携が関係しているのではないかとまで考えています。

 そして、スサノウと大山祗の長女にあたる神大市姫との間に産れたのが稲荷様となる訳で、狭上稲荷神社に大山祗が絡んでくるのはそのような意味があるのです。

 さらに、その接着剤となっているのが博多の櫛田神社の大幡主であって、我々がトルコ系匈奴と考える大山祗の父神がウマシアシカビヒコチ(金官伽耶)であり、大幡主の伯母にあたる白山姫=天御中主命との間に大山祗が産まれているのです。

 ここでも天御中主命〜大幡主系と大山祗系との連携も成立しているのです。

 これらのことから、菊池氏とはやはりその奉斎する祭祀形態から考えて、どう考えても大山祗系のトルコ系匈奴である可能性を考えざるを得ないのです。それは、この最低でも改変される事無く千数百年は残された狭上稲荷祭祀を考える時、そうとしか思えないのです。以前は銀鏡神社のイワナガヒメに違和感を持っており、逃げ込んだ菊池氏が先在神として受け入れていたのだろうと考えていましたが、今は、はっきりと菊池氏とは古代に於いて最も北に進出していたトルコ系匈奴だったのではないかと考えています。

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百嶋由一郎神代系譜 005アイラツ姫


百嶋由一郎氏が残された音声CD、神代系譜、手書きデータを必要な方は09062983254まで…

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2020年05月03日

712 亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(下)

712 亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(下)

20181224

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


前ブログからの続きですが、もう少し詳しく見て行く事にしましょう。

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 前ブログで紹介した車による進入路は遠回りであって、一ツ瀬川から亀谷を抜け狭上谷に登って行くルートが本来の道だったようです。

実際、この直行ルートの方が遥かに短く、暫く前まではこの道を使って同族人々が参拝に来られていたそうです。

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この一ツ瀬川を降れば、一ツ瀬ダムを経由し西都市に流れ下りそこにあるのは西都原古墳群なのです。

 その第二古墳群には伝大山祗古墳と言われるもの(柄鏡型前方後円墳)があり、この直下には主神として大山祗とその娘コノハナノサクヤ姫を祀る石貫神社までがあるのです。

 このウマシアシカビヒコヂ〜大山祗〜大国主命〜の流れこそが、熊襲=トルコ系匈奴の後裔なのです。

 これについても以前のブログ何度も取り上げていますので検索して頂ければと思います。

 それにしても右端の石櫃(イシヒツ)という地名は気になりますね、福岡県筑前町にも同種の地名がありますが、「櫃」とは基本的に棺桶とか骨臓器を意味しており、この狭上稲荷にも古墳があるとの事から関連が気になります。もしかしたら、阿蘇 溶結凝灰岩の露頭でもあるのではないかと思ってしまいます。

 それでは、この狭上神社の社司から頂戴した由緒をご紹介しましょう。

文字が小さいですが、「表示」から倍率を上げて頂ければお読み頂けるでしょう。

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その前に、何度か足を運んだ西米良村の西隣、熊本県の水上村の白水阿蘇神社の摂社に白水狭上稲荷が祀られている事に気付きましたのでお知らせしておきます。

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以前は稲荷があるな…程度の理解でしかなかったのですが、これが菊池一族に関わるものである可能性に気付き、同時に菊池氏が熊襲=トルコ系匈奴である事を示唆しているものである事が分かってきたのです。これについては、ひぼろぎ逍遥720 で、以下をお読み頂ければと思っております。


人吉盆地最奥部 市房山湯山温泉での冬至祭(忘年会)と神社トレッキング(歳末三社詣り)


これで、阿蘇の旧白水村(南阿蘇村)白水遊水池に鎮座する白水吉見神社の祭神が弥都波能売、罔象女(ミヅハノメ)であることとも通底している事が確認できたのです。トルコ系匈奴については、外にもありますが、とりあえず ビアヘロ069 続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Luなどを。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 07:53| Comment(0) | 日記

2020年05月06日

713 美作国 津山の南に白雲皇帝を探して

713 美作国 津山の南に白雲皇帝を探して

20190109

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


以前、ひぼろぎ逍遥(跡宮)に「白雲皇帝を探して」として下調べ用の草稿を書きました。

640 白雲皇帝を探して “岡山県美咲町大垪和(ハガ)西の謎の古社一の宮神社”以下一部を再掲載。


 百嶋由一郎氏が残された話の中で、何とも気になって仕方がないものに「白雲皇帝」があります。

 漢の光武帝から金印を貰った人物(紀元57年)ではないかとも書かれていますので、2000年前の列島開拓史の中心人物と推定されるのですが、何分資料がない為、この間、全く調査が進まず困っていました。

 いつもの最終神代系譜には白川伯王⇔天御中主(白山姫)までしか記述がありませんが、そこから遡ること二代の(推定)刺国大神が白雲皇帝であり、その年齢からも57年光武帝金印(下左)を実際に貰った人物に相当するのではないかとまで推定されていたのです。

 凡そこのような議論は邪馬台国論争を行っておられる古代史ファンも全く知らない内容になるでしょう。

 志賀島から発見されたとされている下左の金印は、元々は細石神社に伝えられていた門外不出の秘宝であり、それが志賀島から出土したとされているのは、幕藩体制下に於いてあれほどのものが神社にあったものとなれば当然にも寺社奉行の管理下に入るため、黒田藩(儒学者:亀井南冥)が工作し寺社奉行の影響のないただの海岸から出土したものとされた可能性があるのです。事実、糸島市の細石神社の先々代宮司でしたか、あの金印は当社に在ったものと伝えているという話があるのです。真実はいつも霧の中です。

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これは卑弥呼が貰ったとされる「親魏倭王」の印(右)であり、通常志賀島から甚兵衛なる人物が(あくまでも)発見したとされ俗に漢の倭の奴国王「漢委奴国王」(上右)と呼ばれるものとは異なります。

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手書きデータ 百嶋神社考古学04 015佐田大神 白雲皇帝0001


 百嶋先生のメモにはこのシートがあるだけで、垪和山(王山)が何故「ハガ」と呼ばれているかも不明でした。ハガとは崖地、崩壊地地名である事は以下で分かりましたが、王山とは如何にも中国風です。


垪和"ハガ"は崖・急傾斜地・峻険な所、崩壊地を示す言葉で、古来からそう呼ばれてきた所に"垪和"の漢字が当てられたと見られる。""の字は非常に稀なもので塀を崩した国字とも言われるが、『龍龕手鑑』など字書に記載されており漢字である

垪和は古代は羽具部といって矢柄をつくり、鷹などを捕らえて矢羽根をつけたりする仕事を行う集団の住み処で、隣接する弓削庄は(元々は靭負部(ユゲノベ)という兵器を作る集団を意味していたとも言う)弓削氏との関わりを示す地であった。また所属郡の久米は軍事を事とする古代氏族久米氏の名称であるなど、古代から軍事に縁の深い地である。

…中略…

5世紀初めごろ、応神天皇の子の大葉枝皇子が吉備に来て、久米郡賀茂郷を拓き羽具部と和して垪和彦命と号した。この命を祀って垪和社とし、社の周辺を垪和と呼んで、地方一帯を賀茂郷と称した(垪和神社記)。この頃、垪和郷には羽具部といって矢柄をつくり、鷹などを捕らえて矢羽根をつけたりする仕事を行う人々が住んでおり、この地は羽具部の里と呼ばれていた。10世紀末、賀茂郷は垪和郷と稲岡庄に分割。

ウィキペディア(20180922 0854による

以上再掲載

 2019年正月三日の昼から津山に向かって車を進めました。往復1300キロのフィールドワークの始まりですが、車はそれほど多くはなく、関門橋のみ高速利用で、6時前後には島根県益田市内に到着しました。

いよいよ白雲皇帝の痕跡を求めて津山の南に踏み入るつもりですが、手掛かりは百嶋メモ以外にはありません。以前、白川伯王の祖神を探り高知県の佐川町に調査に訪れましたが、それは白川伯王の父神でしかありませんでした。今回の白雲皇帝は祖父神にあたり、天御中主命より二代遡る正しく列島開闢の最も古い層の神になるのです。

 既に女性メンバーのフィールド・ワーカーが白雲皇帝を求めて調査に入っておられますが、一の宮神社を訪ねました。正月でもあり木の葉一つ落ちていないように境内が清掃されていました。

地域の共同体が今も機能している証です。この神社を含め夕方までに10社近い神社や寺を巡りましたが、白川伯王系の神々は見るも決め手になるようなものは何一つ得られませんでした。

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一の宮神社 カーナビ検索 岡山県久米郡美咲町大垪和西238 0868-68-0320


 始めはどのような山奥かと覚悟して入ったのですが、それほどのものではなく里山程度の良い農村風景が広がっていました。


百嶋メモでは王山で痕跡が消えています

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明治の地名辞典は“白雲皇帝塚は大字南和田にある一古塚なり”と出ています。

現在、南和田という地区が岡山市北区建部にあり、この一帯にこの古塚があったと思われますが、そちらは調査を行っていません。

ただ、圃場整備事業や都市計画によって破壊されているはずで、始めから目を向けていませんでしたが、今後は岡山市北区和田南支所を通じて調査を行って見たいと考えています。

それにしても、この一帯には「亀甲」「神尾」「龍王山」「王山」「大王丸」…と言った見過ごせない気になる地名が多々拾えます。

今後も作業は続きますが、何分限られたピースでの調査ですから容易には結論には至らないと思います。

物部の拠点ともされる津山の地に、ヤタガラス〜大幡主=神産巣日神 神皇産霊尊(カミムスビ)〜白川伯王、白山姫=天御中主命をさらに二代遡るものと思われる白雲皇帝という列島開闢に関わる神の最期の足跡があったとの記録を留めておきたいと思います。

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 以前、以下で細石神社についてはふれていますが、磐長姫を主神とする神社であろうことは疑いが無く、妹とされるコノハナノサクヤは美しかったので受入れられたが、醜かった姉の磐長姫は返されたと言うとんでもない話に仕立てられているのです。

 ところが、この女神様は、実は大幡主の子であり、ヤタガラスの姉にあたり、スサノウから逃れて姫島に戻ってきたアカルヒメの別名でもあるのです。このため細石神社とは明らかに白川伯王系大幡主系の神社であって、金印が伝承されていたとしたならば、間違いなくその可能性が最も高い重要な神社なのです。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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細石神社とは何か?


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さて、志賀島金印が奴国の王に下賜されたものとして(九州王朝論者はこれを教条的に排斥しますが)、これが滇王国の金印と酷似している事はこれまでにも指摘されていました。実はこの後継国家こそ白川伯王の祖父神である白雲皇帝の国であった可能性があるのです。これについても以下で触れています。


 ひぼろぎ逍遥

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櫛田神社(博多)の大幡主のルーツは滇王国だったのか?


結論から言えば、周辺の神社を廻っても痕跡は全く得られませんでした。

ただ、最期に訪問した王山の東に鎮座する天台宗の古刹(霊亀元年=715年…)白雲山普光寺にだけ一抹の光を見出したのです。

 それは、「白雲山」という山号で、古来、宗旨替えや寺号の変更が行われたとしても、一部に昔の痕跡を留める例が多く、「白雲皇帝」に因む寺号である可能性を感じたのでした。

 成果は僅かでしたが、帰りしなに先代住職の名が気になりお聴きすると…やはりと思いました。

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白雲山普光寺 カーナビ検索岡山県久米郡美咲町打穴西1604


 ご覧の通り、前住職は白川様だったのです。

 しかも、現住職の青野様(実は美咲町の現役の町長とのことでした)にお尋ねすると、香川県から来られていたとのことで、正しく忌部の国讃岐の白川姓となると白川神道と何らかの繋がりのある方としか思えないのです。

 勿論、ワン・ポイント・リリーフだったのかも知れませんが、天台宗の本山に問い合わせを行なうなり、前住職のご家族の方にお尋ねするなり、何らかの方途はあるように思います。

 今回は非常に薄い内容の話になりましたが、この美咲町の存在と前日に巡った十社ほどの神社にはそのたたずまいと言い風格品格と言い感銘を受けることしきり…であり正月早々良い神社を見せて頂いたと思っています。

 思えば、元日の神社巡りは人混みを嫌い避けていました。これが2019年の初詣ででした。

 実に良い三社詣でならぬ九社詣で(一つは寺院=両山寺)でした。

 こうして、片道650キロ弱三泊四日の車中泊による1,280キロの調査旅行の帰路に就くことになりました。帰路は、広島県庄原市から出雲市に抜ける除雪済みの峠越え雪国踏破(3040センチ)となりました。

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百嶋由一郎氏が作成された神代系譜や音声CDなどを必要とする方は09062983254までご連絡ください

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(2) | 日記