2020年04月01日

701 福津市の須多田天降神社古墳の主を教えて欲しいと問合わせされた寺島さんのルーツについて

701 福津市の須多田天降神社古墳の主を教えて欲しいと問合わせされた寺島さんのルーツについて

20181202

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


本編は、前ブログ700 福津市の天降神社の祭神と須多田天降神社古墳の主を教えて欲しいとの乱暴なお問合わせに… の続編になります。以下、一部を再掲載します。


 宮地嶽神社が鎮座する福岡県の福津市に天降神社がありその後背地には須多田天降神社古墳があります。

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天降神社 カーナビ検索 福岡県福津市須多田511


…お尋ねがあった神社は須多田天降神社古墳の正面のこの神社です。

同神社については確かに「福岡県神社誌」上巻157pに記載があるのですが、これを見ても直接的に参考にならない事は明らかです。

と、いうのは、この天降神社は全国に分布しているからです。中心は九州島なのですが、糸島市から福岡市に掛けて20社程度がある上に祭神にかなりのバラつきがあるため容易には判別できないからです。

例えば、鹿児島には天降川が流れ、人吉盆地にもあさぎり町だったか錦町だったかに天降神社がありますし、遠くは山形県酒田市から千葉県にも、気になる筑豊では川崎町にも、変わったところでは平戸市の的山大島などにもあります。

 福津市の同社には、一応、祭神が少彦名神(通説で大国主命の協力者となり国造りの手伝いを行なった神とされる方です)と書かれている事しか分かりません。

多少参考になるのは境内神社が須賀神社であり、この神社に祀られていた神or神々が本来の祭神だった可能性が考えられる程度です。…

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以下記事本文略載(再読の必要が有る方は前ブログを…)


「福津市の天降神社の祭神と須多田天降神社古墳の主を教えて欲しいとの乱暴なお問合わせに」などと、当方も乱暴なタイトルにしてしまいましたが、今回お話したい事はこの難題を持ち込まれた方が「寺島」という良くありそうでそれほどではない(大族ではないという意味ではなくむしろ特定の氏族しか許されない姓である可能性もあるのです)、しかも分布に特徴のある方であった事から一文を残すべきと考えたのでした。従って、今回はこの寺島姓についてのお話になります。

差し障りがあると申し訳ありませんので、個人が特定できない程度に留め詳しくは申し上げませんが、寺島さんは現在は熊本市にお住まいの方で元は福津市にお住まいだったようです。

ただ、この須多田天降神社古墳の主と自らの一族に関係があるのではないか?もしかしたら自らはその後裔の一族ではないかとお考えになり、熊本県の霊能者でもあるF女史にお尋ねになり、直接、神社に絡む話であった事からお鉢が当方に廻って来た事は前ブログで書いた通りです。

このような直観とか仮説の手前のような話も決して馬鹿にするべきではなく、アカデミズムが気にも留めないようなそれなり裏付けられた家伝とか神社伝承とか地域伝承といったものが、往々に背後に潜んでおり、それが発現している場合があるからです。勿論、全てが奏功する訳ではないのですが、他人の話とかお偉いさんが言われたことを鵜呑みにするだけの良く言えば古代史愛好家(こんな連中は研究者でも何でもない)でしかなく、蠢く古代史の消費者程度でしかないのです。重要なのは自らの頭で考え調べる事なのです。結論を急げば、今回は薄いながらも比較的成功した方の幸運の例だったように思っています。

まず、寺島の表記が照島であれ手羅島であれ(事実、宇久島の寺島はかつてそう書かれていたのです)、倭人とか海人族の黒潮の分流の中に生きた人々だったとしか思えないのです。

私事になりますが、私は今は止めていますが、20代から30年間魚釣りを続けました。思えば多くの時間を無駄にしたのですが、その興奮と言うか麻薬のような魅力に抗しがたく多くの島嶼を渡り歩いていた事から、寺島と聴いて直ぐに上五島の宇久島(宇久島、小値賀島は五島ではないというのが古代史の定説なのですが)と西海市の崎戸大島への架橋の橋脚が置かれた寺島が頭に浮かんでいました。

両方とも九州でクロと呼ぶメジナ釣りとキスの夜釣りで何度か入った場所だったのです。

まずは、九州西岸に浮かぶ二つの寺島の位置をご確認下さい。

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長崎県佐世保市に編入された旧宇久町寺島

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長崎県西海市に編入された(旧大島町)寺島


寺島さんが安曇族の志賀島に対して東側の最大拠点と考えられる津屋崎(福津市)に近い須多田にお住まいだった事を考えれば、対馬海流の上流にあたる二つの寺島と無関係とは凡そ考えられないでしょう。

最低でも、太閤殿下による文禄、慶長の役の出船基地となった名護屋城と呼子港に対応する呼子の瀬戸や呼子から数キロの景勝地の七ツ釜に対応する地名がこの地にもある事を確認して頂ければ、この一帯の海人族が北にそして東に進出した事は容易に想像できると思います。

なお、七ツ釜については兵庫県但馬にも七釜温泉がありますので余裕のある方はご確認下さい。

ここで、寺島姓の全国分布をご覧頂きたいと思います。いつも利用させて頂く「姓名分布&ランキング」です。

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ご覧の通り、寺島さんは甲信越から関東地方に展開されていますね。

簡単に言えば長野県にピークがあり東日本に展開されていますが、ルーツは少数であっても長崎県から福岡県(感じが出ないので肥前〜筑前と言い換えたいのですが)の領域だったのではないかと思うのです。

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何よりも重要なのは長野県の長野市と安曇野市であって、山に登ったとされる安曇族が定着した一帯にこの寺島一族も最大集積地を求めたようなのです。

恐らく日本海沿岸を北上した海人族に連動し、この寺島さんの遠いご先祖に繋がる親戚筋の方々が、対馬海流に乗って上越(直江津)辺りから松本諏訪方面に、また新潟辺りから善光寺で有名な長野市から安曇野へと展開していったと考えられそうなのです。また、滋賀県から愛知県経由で木曾川沿いにも山上楽園に入ってもいるようです。もう一つ面白い現象に気付きます。それは、福岡県に於ける寺島姓の分布です。ご覧の通り久留米市に強い分布が認められ、次のピークは宮地嶽神社が鎮座する福津市に、そして筑豊の直方市にと限定的と言っても非常に興味深い分布を示していたのです。

まだ詳しくお聴きしていないことから誤りがあれば直ぐに修正致しますが、寺島さんにお尋ねすると家紋は桔梗で源氏を思わせますが(恐らく男紋)、同時に三五の桐紋も使うそうですので(恐らく女紋)、この寺島一族は、三五の桐紋を使う事だけでも単なる武家の一派と言ったものではなさそうなのです。

三五の桐紋は、例えば一族の優秀な娘を参内させ懐妊後にその子を落胤として一族の跡継ぎとする天姻系(天皇の血をひく一族)の可能性もありうるのです。

まだ情報が少ない為に単純には言えないのですが、海人族としても如何なる系統の人々だったのかを考えなければならないとすれば、一つは安曇野市の神社の中に答えを求めるべきなのかも知れません。

 以下は安曇野市の主要な神社です。有名な戸隠神社から大王神社は火之迦具土神、軻遇突智とされる金山彦ですし、有名な穂高神社は海神族の祖などとされる穂高見命としても、博多の櫛田神社の大幡主の事を言っているのか、豊玉彦=ヤタガラスを言っているのかも不明です。

それ以上にその後裔の神の事なのかも知れません。

最も多いのは当然ながら御柱祭に象徴される諏訪神社の分社です(本村神社も建御名方を祀る)。

大国主命が出雲の神様で、国譲りに直ちに応じたのが長男の事代主命(恵比須)、国譲り徹底して反対したのが建御名方という振れ込みではあるのですが、実は出雲の国譲りの現場は甘木〜朝倉〜杷木の一帯であって、国譲りの結果の転勤先が現出雲国だったのです。

百嶋神代系譜によればですが、神話の世界では大国主命の次男とされる弟の方は、阿蘇の草部吉見とナガスネヒコの妹であるオキツヨソ足姫の間に産れた建見名方命ですから、半分は金山彦系の印象が付き纏うのです。

八坂神社は言うまでもなくスサノウを祀るものであり博多の櫛田神社の大幡主と共に祀られる神様です

春日神社です。一応は阿蘇高森の草部吉見神としておきますが、実際はお妃ともなった伊勢の外宮の豊受大神若しくはその母神である罔象女神(ミツハノメ)が本来の祭神なのです。

賀茂神社は大幡主の子である豊玉彦=ヤタガラスと金山彦のプリンセスである櫛稲田姫との間に産れた

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鴨玉依姫を祀る下賀茂系なのか、阿蘇の草部吉見と宗像の市杵島姫の間に産れた大山咋神と鴨玉依姫との間に産れた神武僭称贈)崇神天皇=ツヌガノアラシト(敦賀にやって来た安羅伽耶の人)…となるでしょう。良く分からないのが廣田神社ですが、祭神は御饌津命という全く予備知識に無い神様でお手上げです。

 手掛かりは末社に龍神宮があること程度ですが、系統が異なる先住神であれば的外れになりそうです。

  ただ、龍神は豊玉彦のことですから海人族と言うべきか、大幡主系と無関係ではないでしょう。

  現場も踏まずにネット情報と社名だけで不届きにも概括しましたが、安曇野市には、阿蘇系、大幡主系(白族)の海人族、海神族、それに金山彦系と建御名方系の神社が揃い踏みし並んでいるようです。

 安曇野市の神社を見た限りは今のところここまでしか推定できません。

  この中に寺島さんの一族と関わりのある神社があるはずですが、今のところは失敗してしまいました。

  ただ、一つだけ“やはり”と思ったことがありました。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 前ブログひぼろぎ逍遥(跡宮)700 福津市の天降神社の祭神と須多田天降神社古墳の主を教えて欲しいとの乱暴なお問合わせに… で以下のように書きました。


 ここで考えるべき事は、宗像大社の領域と宮地嶽神社の領域との境界を神湊とした場合、その南側の海岸部(事実上の耕作不適地)に置かれた新原奴山古墳群の全体的傾向を考慮に入れ、大雑把に言えば、前方後円墳から円墳への移行が認められ、どうも円墳を多用する南(熊本の氷川流域)の古墳の様式の北上現象を主張されている当会の伊藤まさ子女史 からアドバイスもあり、どうもそれ以前の勢力(九州王朝内部で何度か起こった大きな政治的変動による)の神社であるような気がするのです。

 恐らく、九州王朝内部で起こった政変(磐井VS継体)=継体の乱(トルコ系匈奴)が反映されているようなのです。

 この須多田という地名と須多田天降神社が磐井の何世かの孫にあたる(七世以外の説も…)須多田麻呂そして、この磐井の後裔との大石麻呂、須多田麻呂、津丸磐麻呂らが拠点としていた集落が、大石、須多田、津丸(全て福津市)としてあるのです。なお、津丸は内陸部の福間と東福間の市街地一帯にあります。


 もう一度、福岡県の寺島姓の分布を見て下さい。久留米が一番多い事に何らかの対応を感じられるのは私だけではないでしょう。磐井の本拠地は久留米市から広川町、そして、南の八女市一帯だったのですからそれだけでも奇妙な対応が認められるのです。

 例えば、寺島さんの御親戚に石井さんという方がおられるとか言った話でもあれば面白いのですが、そう上手くは行かないでしょう(「日本書紀」では磐井は石井としか書かれていないのです)。

 一応ここまでとしますが、重要なテーマですので今後も全国の天降神社を調べていく事にしましょう。

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実際にはこれ以外にもあるのですが、玄海灘沿岸の天降神社の分布です。


百嶋由一郎が残された、講演音声CD、手書きデータ・スキャニングDVD、神代系譜を必要とされる方は0906298325までご連絡ください

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2020年04月02日

ビアヘロ135(前) 大山祇神社史料が伝える孝霊天皇(安城市 山田 裕)の掲載について

ビアヘロ135(前) 大山祇神社史料が伝える孝霊天皇(安城市 山田 裕)の掲載について

20170209

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


当研究会には、北部九州だけにとどまらず百嶋神社考古学に関心を寄せる多くの方が接触を求めてこられています。

 勿論、関連する15(現在は13)のblogを読めば用は足りるのですが、直接、泊まり込みでトレッキングに参加され、電話やメールやお手紙などで直接、照会され、また、質問されるばかりではなく、資料をお送り頂く方も増えています。

 今回は、トレッキングに参加された山田 裕さんがお書きになった内容が非常に立派で感銘を受けたことから、当方から特にお願いして公開することにしたものです。

 このような外部論文を受入れる投稿サイトを別blogとしてスタートさせる事を考えているところですが、文献史学としても水準の高い内容であることから先行して当blogで先行掲載する事としたものです。

当方のフィールド・ワーク優先の駄文など及びもつきません。

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大山祇神社史料が伝える孝霊天皇

安城市 山田 裕


はじめに

大山積神を祀る大山祇神社は、愛媛県今治市に属する芸予諸島の「大三島(別名、神の島)」に立地し、日本各地に一万社を超える山祇(やまづみ)神社、三島神社の総本社として知られている。

同社に関する史料は、『大山祇神社史料・縁起・由緒―國學院大學日本文化研究所編集、大山祇神社社務所平成123月発行』が詳しい。同書には『三島宮御鎮座本縁並寶基傳後世記録(以下、『御鎮座本縁』と略す)、『三島宮社記(以下、『社記』と略す)、『三島宮年譜考』(以下、『年譜考』と略す)が収められている。この三史料以外では『続群書類従第三輯下神祇部』所収の『伊予三嶋縁起』(以下、『縁起』と略す)がある。

同社の創祀について、『伊予三島縁起』は「第八代孝元天皇の御代」、他の三史料は「第七代孝霊天皇御代」としている。

本稿は、「大山祇神社が伝える孝霊天皇」について、故百嶋由一郎氏が示された「神々の系図−平成12年考」を参考に、新たな視点から探求する。


大山祇神社の由緒

大山祇神社の由緒を四史料から辿ると

1.『御鎮座本縁』(60p)

  「七代の天皇日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)、日本国黒田盧戸宮にて天照大神相與に大山積皇大神と祀り給ふ。是れ三島神徳の始めなりと云々。伝に曰く、此の御代、天下穏やかならず、順はざる民多く叛く。茲に因りて、天皇、大巳貴神に盟い、天下平らかに国民(まつろ)はしめんことを祈り給ふ。大巳貴神夢に告げて曰く、君、天下平らかに国民順はんことを(こいねが)ひ給はば、先ず(おも)(たる)(かしこ)()此の二柱の神を祭るべし。是則ち大山積皇大神なり、と申し教へ給ふ。これに依りて天照大神と相与に祭り給ふと云々。」

  要旨は、以下の二点である。

・国内が乱れ、その対応に苦慮した孝霊天皇が大巳貴神に天下泰平を祈ったところ、面足・偟根尊の二柱と天照大神を祀るべしとの夢告を得た。

・面足尊・偟根尊の二柱とは大山積皇大神。 

疑問は、面足尊・偟根尊、大山積皇大神と大巳貴神の関係である。それぞれの神について『日本書紀−以下『紀』と略す』と『古事記−以下『記』と略す』から検証する。

(1)面足尊・偟根尊

  『紀−神代上第一段一書第六』、

  天神第六代

『紀−神代上第三段一書第一』

  天神第三代

『記』

  天神第六代

(2) 大山積皇大神(=大山津見神・大山祇神)  

  『紀−神代上第五段一書第七』

   イザナギ、剣でカグツチを三段に斬ったころ大山祇神が生まれる

  『紀−神代上第五段一書第八』

   イザナギ、剣でカグツチを五段に斬ったころ大山祇神が生まれる

  『記』

   イザナギとイザナミの子大山津見の神、妻は鹿屋野比売神、亦の名を野椎の神

(3)大巳貴神

  『紀−神代上第八段本文』

   スサノオと妃奇稲田姫との間に大己貴神が生まれる

  『紀−神代上第八段一書第一』

   スサノオ五世の孫大国主神

  『紀−神代上第八段一書第二』

   スサノオ六世の孫大己貴神

  『紀−神代上第八段一書第六

   大己貴神、亦の名に大國主神・大物主神・國作大巳貴神・葦原醜男・八千戈神・大國玉神・顕國玉神

 『記』、

   スサノオ六世の孫、大国主神、亦の名を大穴牟遅神、葦原色許男命・八千矛神・宇都志国玉神

 以上から、面足尊・偟根尊・大山積皇大神・大巳貴神のそれぞれの関係が不明である。

ところで、大山津見の神と大山祇神であるが、大山津見の神は「海の神」、大山祇神は「山の神」とするのが一般的だが、ご神格は相違するものの大山祇神社は「山の神と海の神」が習合する神社であり、本稿では大山津見の神と大山祇神は同一神であるとの前提に立脚し、論を進める。

大己貴神の時制について、『記紀』は錯綜しているが、時制の鍵となるのが「国譲り」の場面である。『記紀』ともに、天照大神が大己貴神に「国譲り」を迫り、加えてスサノオは天照大神の弟とする系譜から、天照大神・スサノオ・大己貴神三神がほぼ同時代の神であることが確かめられる。

また、スサノオの娘スセリ姫が大己貴神の妃であることより、大己貴神が天照大神やスサノオよりも年少の神であることが確かめられる。

『御鎮座本縁』は面足尊・偟根尊を大山積皇大神としているが、その名からもわかるように面足尊・偟根尊は一対の神でないことは明らかで、それぞれ独立神と考えられる。

 『記紀』ともに、孝霊天皇の御代に国家が動揺する反乱事件記事は見当たらない。

第二代綏靖天皇から第八代孝元天皇までに起こった主要事件は「神武天皇の後継争いを巡り、長子タギシミミ命が弟のカヌマミミ命(後の綏靖天皇)に弑逆された。」と『記紀』は記述している。

だが、事件の本質は「目下のものが目上のものを殺す意を表す弑逆」であり、国家が動揺する事件ではない。

では、『記紀』が記さない国家が動揺する反乱事件とはどのようなものであったのであろうか。

同史料は、宝暦四年(1754)太祝越智安屋が執筆。原典は臼杵三島神社に伝わる『臼杵三島神社記録』とされるが、真偽は不明である。臼杵三島神社は天応元年(781)に大三島より勧請されたとする由緒を持つ。越智安屋は、編集姿勢について自らの考えに基づいたことを記している。

2.『社記』(132p)  

  「孝霊天皇御宇、天地不和、寒暑失時、五穀不熟、万民愁苦。是以天皇斎戒沐浴、敬祭天神地祇、祈五穀豊穣焉。或夜天皇夢有一神人。訓之曰、天皇若憂國之不治者、宜祭面足尊・偟根尊・大山祇神。必當五穀成就。天下自平矣。天皇問曰、如此教誰也。答曰、我是地神大己貴神也。於天皇随夢訓、祭−面足・偟根尊・大山祇神於大殿之内。是以風雨順、百穀成、天下平矣。是即當社神徳之初現也。」

  要旨は、『御鎮座本縁』とほぼ同内容だが、相違するところは以下の二点である。

  ・「天照大神」に代え「大山祇神」を祀る

・「面足尊・偟根尊の二柱とは大山積皇大神ではない。」と否定。

同史料は論理的で、『御鎮座本縁』より、一歩進んだ史料と評価できる。

同史料は、天明二年(1782)太祝越智宿祢玉振の執筆による。

3.『年譜考』(156p

  「人皇第七代 孝霊天皇御宇天地和、寒暑失、時、五穀不万民愁苦む。是以て 天皇斎戒沐浴、敬祭天神地祇玉ふ。或夜 天皇夢に一神人有之、教て曰、天皇若患國之不治者、宜和足彦神・身嶋姫神・大山積神等、必五穀成熟して天下自平らならむ。天皇問曰、如何教は何神や。答曰、我是地神大己貴神也。於是 天皇和足大神・身嶋姫神・大山積神等を大和國黒田盧戸宮ニて祭り玉ふ。自是風雨順時 百穀生熟して天下平安なり。如是即当社神徳の現れましし初なり。」

同書は上記二史料を底本としているものの、大きな相違は、「面足尊・偟根尊」に代え、「和足彦神・身嶋姫神」とする点にある。

この聞きなれない「和足彦神・身嶋姫神」に関する史料が以下の二書である。

・『釈日本紀』所引の「伊豫国風土記逸文」「宇知郡(越智郡の誤記)御嶋、座す神の御名は大山積の神、一名は“和太志の大神也。この神は難波の高津の宮の御宇しめしし天皇(仁徳天皇)の御代に顕れましき。此神百済の国より渡り来して、津の国の御嶋(現大阪府高槻市)に座しき。云々。御嶋と謂ふは津の国の御嶋の名也。」

・『伊豫旧記編 神祇部』に収められた「大日本南南海道伊豫国古神社祭録−以下、“伊豫国古神社祭録”と略す藤原隆量編纂(明応三年、1494)」

 「陽神和太志尊・陰神鹿屋野比賣(かやのひめ)」とある。

この両史料から得られる帰結は、以下のとおりである。

(1) 面足尊・偟根尊とは、陽神和太志尊、陰神鹿屋野比賣(かやのひめ)尊である。

(2) 和太志尊の「和太志」とは「渡し」の意で、すなわち百済(正確には金海伽耶)からの渡来神である。同様に、和足彦神の「和足(わたり)」とは「渡り」の意である。したがって、和足彦神と和太志尊は同一神である。

(3) 身嶋姫神は陰神鹿屋野比売神と同一神である。

なお、同史料の執筆者は不明で、明治4年ごろの成立と考えられる。

4.『伊予三島縁起』595 p596p

   「三國佛神無非彼孫」 

   天神第六代面足尊・偟根尊末孫代々異國敵誅伐目録 

  端政二歴庚戌 自天雨降(あまくだり)給。八代孝元天皇位。此御代東海道初立。從異國責日本。代々面足尊依末孫御合力給也。伊勢天照大神宮御祖父也。人王九代開化天王位。山陽道初立。同四十八年。從異國朝渡。同朝敵亡。十代崇神天皇位。國々社初。此代熊野宮天降給云。面足尊御子也。熊野兩所權現云。春日月號两所權現。西御前伊弉諾。中御前伊弉冉尊也。是两所天照大御神御父母也。(後略)」

同史料は日本語漢文であるものの、内容の難解さ故か、一般的には知名度の低い史料である。

そのため、難解部分に絞って逐条的に意訳を試みる。

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ビアヘロ135(中) 大山祇神社史料が伝える孝霊天皇(安城市 山田 裕)の掲載について

ビアヘロ135(中) 大山祇神社史料が伝える孝霊天皇(安城市 山田 裕)の掲載について

20170209

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


1)「端政二歴庚戌 自天雨降(あまくだり)給 八代孝元天皇位」

「端政」年号は、二中歴・海東諸国記・襲国祇先行等に記録されている「古代逸年号」、あるいは故古田武彦氏が『失われた九州王朝−ミネルヴァ書房』で主張された「九州年号」の一つで、「端政二歴庚戌」は「崇峻天皇三年、西暦590年」に相当する。

「雨降」は「あまくだり」の読みが付されている。神社の縁起類にしばしばみられる用例である。

訳は「端政二年庚戌の記録に、孝元天皇の御代に面足尊・偟根尊が天下られた。」

2)「此御代東海道初立」

孝元天皇の在位絶対年代は不明だが、紀元前後から3世紀ごろと仮定すると、その相当する時期の中国史書は『前漢書』(撰者後漢の班固3292年)第二十八下・地理志・燕地条・『魏志』倭人伝(晋の陳寿233297年)・『後漢書』東夷伝・倭伝(398445年)が挙げられる。

日本列島を代表する最初の倭人の国家は『魏志』倭人伝にみえる女王卑彌呼が支配する「邪馬壱国」とするのが通説である。  

また、行路記事より、「邪馬壱国」は九州である蓋然性が高く、狭義には現在の福岡県内とするのが多数説である。なお「大和説」もあるが、本稿は「九州説」に依拠して論を進める。

『梁書』東夷伝によれば「正始中(240249年)卑彌呼の死去後は、交替して男王を立てたものの、国中が服さず、互いに誅殺し合ったので、女王に戻し、卑彌呼の宗女臺(壹の誤り)與を立てた。その後はまた男の王が立ち、いずれも中国の爵命を受けた。」とあり、卑彌呼は249年以前に死去したようである。

『晋書』起居註に「泰始二年(266)倭の女王の使者の朝貢」記事があり、この倭の女王とは壹與とするのが定説である。

したがって、孝元天皇は卑彌呼の宗女「壹與」以後の時代に活躍した天皇で、具体的には266年以降から3世紀末頃と考えられる。

「初めて東海道を定める。」の「東海道」は「邪馬壱国或いはその後継国家」を起点とする道路と考えざるを得ない。

3)「從異國責日本。代々面足尊依末孫御合力給也。伊勢天照大神宮御祖父也。」

   『記紀』に、面足尊が伊勢天照大神宮御祖父とする記述はなく、また伊勢天照大神宮御祖父の記述も見えない。

4)「十代崇神天皇位。國々社初。此代熊野宮天降給云。面足尊御子也。熊野兩所權現云。春日月號两所權現。西御前伊弉諾。中御前伊弉冉尊也。是两所天照大御神御父母也。(後略)」

 @「熊野宮」とは

    一般的には「熊野本宮大社」と考えられる。

  A「面足尊御子也。」

面足尊の御子神がどの神を指すのか不明である。

  B「熊野兩所権現云。春日月两所號権現西御前伊弉諾。中御前伊弉冉也。是两所天照大大神御父母也。」

熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社を総称して熊野三山と呼び、「熊野兩所権現は、熊野那智大社・熊野速玉大社」とするのが一般的である。

「春日月」に関する文献は管見に見えないが、『熊野権現垂迹縁起』に、「(前略)初めは結玉家都美御子と申した。二宇の社であった。それから13年後壬午の年に、本宮大湯原(大斎原)の一位の三本の梢に三枚月形にて天降り給われた。」とあり、「三枚月形」とは、「三日月」を表わし、三日月の孤の両端にあるのが「熊野兩所権現」を指すと考えられる。

訳は「十代崇神天皇の御代に、国々に初めて社が立てられた。また、熊野宮に面足尊の御子が天下られた。熊野兩所権現が語るには、春日月を两所権現(熊野那智大社・熊野速玉大社)と名付く。西御前に伊弉諾、中御前には伊弉冉尊が祀られ、この兩所は天照大神の御父母であらせられる。」の意である。

  熊野三山のそれぞれの主祭神は、熊野本宮大社が「()()()御子(みこ)大神」、熊野那智大社は「熊野夫(くまのふ)須美(すび)神」、熊野速玉大社は「熊野速玉大神」である。

熊野速玉大神は『紀−神代上第五段一書第十』に「伊弉冉が吐いた唾の神を速玉男命」とあるが、「家都美御子大神・熊野夫須美神」は『記紀』に記述されていない神である。

熊野夫須美神は伊弉冉、家都美御子大神をスサノオとするのが通説だが、故百嶋氏が作成された「鳥子(とりのこ)系図」によると「熊野夫須美神は伊弉冉」「熊野久須毗神は金山彦」、「熊野速玉男命は大幡主」、「家都美御子大神はイワナガ姫」としている。

以上から、大山祇神社に関わる上記四史料の疑問点は以下のとおりである。

  ・面足尊・偟根尊とは

  ・面足尊と大己貴神との関係

  ・草野姫(鹿屋野比売)と大山祇神の関係

  ・大山祇神と大己貴神との関係

  ・陽神和太志尊・陰神鹿屋野比賣尊とは

5.故百嶋由一郎氏が作成された「神々の系図−平成12年考」

 上記の疑問を解明する手掛かりとして、同系図を検証すると

1)面足尊

   面足尊は初期九州王朝親衛隊長で鉱山の神

鑚大神こと瀛氏注1の総大将金山彦。最初の

妻は大山祇神の姉大市(おち)の姫、御子に神武天皇の

后アイラツ姫(『記』の阿比良比売、『紀』では

吾平津媛)、二番目の妻は草野(かやの)姫(亦の名を埴

安姫)、御子に櫛稲田姫がある。

2)偟根尊

偟根尊は草野姫(亦の名を埴安姫)白族注2

の王白川伯王の娘、姉玉依姫は神武天皇の御母、兄大幡主、妹は草野姫(亦の名を埴安姫)。最初の夫、金山彦と別れた後、大山祇と再婚し、御子に神大市姫、大己貴神、木花サクヤ姫がある。

3)大山祇神

亦の名を月読命。越智族注3の総大将金越 

智の後継者。父は金海伽耶の王金越智、日本名ウマシアシカビヒコチ(『記』は天神四代宇摩志阿斯訶備比古遅の神、『紀−神代上第一段一書第一』では、天神初代可美葦牙彦舅尊)、母は天御中主(亦の名を白山姫)。姉に大市(おち)の姫。御子に神大市姫亦の名をミズハノメ(『記』は大山祇の御子とあり、櫛稲田姫の次にスサノオの妻となり、御子に大年神と宇迦之御魂神)、大己貴神(大出世した時の名は大国主)、木花サクヤ姫(『記』は木花佐久夜毘売、『紀』では木花開耶姫と表記。ニニギノミコトの妃。)

4)大己貴神(=大国主神)

 初代九州王朝親衛隊長金山彦の後継者で、

中期九州王朝親衛隊長。最初の妻はスサノオの娘スセリ姫、亦の名を瀛津島姫、市杵島姫。

(『記』は、須勢理毘売命、須世理毘売命と表記)、御子に下照姫。二番目の妻は豊玉彦の娘

豊玉姫。大出世を遂げた後の称え名が大国主。

  以上のデータから、以下の帰結が得られる。  

  ・面足尊は初期九州王朝親衛隊長の金山彦

  ・偟根尊は大己貴神の母、草野(かやの)(ひめ)

初期九州王朝親衛隊長金山彦の後継者が中期九州王朝親衛隊長大己貴神。

・陽神和太志尊の「和太志」とは「渡し」の意で、大己貴神の祖父である金越智並びに父大山祇神が、金海伽耶から渡来した由来に基づく名である。

・陰神鹿屋野比賣は大山祇の妻草野姫である。また大己貴神の母でもある。

  なお、『伊予三島縁起』が記す「十代崇神天皇の御代に、熊野宮に天下りされたのが面足尊の御

子であられた。」の“面足尊の御子”とは、おそらく“面足尊の後継大己貴神也”と考えられる。

 以上の検証から、「神々の系図」は大山祇神社に関わる四史料の数々の疑問に答える(みち)(しるべ)にな

りうると考えられる。


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ