2020年03月01日

691川 辺(カワぺ) @

691川 辺(カワぺ) @

20181015

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 本稿は十年前に書いたものですが、当時は有明海フォーラムを通じて接触を持った八代市の河童共和国の田辺大統領などと一緒に活動していました。

 古代史と言うよりも環境問題や民俗学の延長で河童共和国とも接触を持っていました。

 共和国では大統領制はないだろうなどと細かい事はどうでも良いとして、冗談ですが、大統領特別補佐官などと洒落ていたのでした。

 この川辺は田辺大統領に提出し、鹿児島県の薩摩川内市で行われた河童サミットで表彰を受けたと思いますが、河童を金属採集集団、製鉄、冶金集団と描いたものですが、今読むと修整を加えたいところもありますが、地図や写真などを加える程度に留めそのまま出す事にしたものです。


『川辺』(カワぺ) “二〇〇八年 相良村河童サミット記念論考”


八代河童共和国大統領特別補佐官(当時) 古川 清久


河 伯


川辺川・・・、秘境五家荘から南に流れ下り人吉盆地で球磨川に出会う、この日本随一の清流は“カワベガワ”と呼ばれています。ただ、ここでは濁音“ベ”を半濁音に読み替え“ぺ”とし“カワペガワ”と読ませて頂きたいと思います。

つまり“カワペ”の川です。奇妙なタイトルに思われるでしょうが、その意味はだんだんと分かってくるでしょう。

河伯は中国の江南地方というよりも、福建省の閩江(ミンコウ、ビンコウ)にいたとされる川の精のことですが、国際河童サミット in 台北 における台北かっぱ村の資料などを見ると、台湾では“カワぺ”と呼んでいるようです。


台湾では水鬼(すいき)と呼ぶ化け物がございます。水鬼は元々中国の妖怪であり、・・・中略・・・つまり水死者の幽霊を水鬼と呼んでおりました。・・・中略・・・私たち台湾人の祖先は昔中国の河南省一帯に住み、当時付近の河川に「河伯」と呼ぶ水妖がありました。後に戦乱のため私たち祖先は福建省へ移住し、約四百年前に渡航してきました。・・・中略・・・原語「河伯」の台湾語の発音は、「かわぺ」であり、それが黒潮に乗って日本九州に上陸した漂海民によって、「ガラッパ、または、かっぱ=河童」(擬音語)という名が付けられたと思います。


「臺灣媽祖と日本河童」台北かっぱ村 村長 林 錦松(国際河童サミットIN台北)


「河伯」の台湾語の発音は、「かわぺ」とありますが、河を大和言葉の「かわ」と読むのは何とも奇妙です。このため、二〇〇七年五月に台北かっぱ村の村長 林 錦松氏が熊本市においでになりましたので、八代河童共和国大統領の田辺氏にこの点を再度確認して頂きました。文字どおり呉音、漢音さらに古音の問題がかかわってくるわけです。すると、現在の北京語ならばホーペですが、広東語、福建語、台湾語(先住語)共に、やはり河伯は“カワペエ”と読むそうです。ちなみに川辺は“ツアンピー”だそうです。してみると、日本語の川、河は福建、広東語が起源かとも思えてきます。川辺川を河伯(カワペエ)が置き換えられた地名とする事はあながちおかしな話ではなさそうです。

こういうわけで、川辺川を河伯(河童)の棲んだ川としたいという話をさせて頂きます。

まず、川辺川という川の名前自体が重畳しており、大川川といったものと同様に日本語としては多少奇異なものになるのです(だからこそインパクトもあるのですが)。ただ、私のような河童ならぬ天邪鬼とっては、こと、名称については“川辺川を守るな!”と言いたくなってしまいます。

さて、相良村の伝承などを詳しく調べたわけではありませんが、恐らく昔はこの川を“カワベガワ”とは呼んでいなかったのではないでしょうか?

戦後の河川の命名権については現在の国土交通省の所管となっているはずですが、今のところ川辺川の呼称がどこまで遡れるのかは分かりません。多分、明治期あたりに現地の主要な字名や集落名などから機械的に付せられたのではないでしょうか(海の場合は海上保安庁水路部の前身である旧海軍水路部ですが、川は陸の扱いですから国土地理院の前身である陸軍測量部あたりでしょう)。

このため、“この相良村を流れる川の名も、相良村役場の上流にある川辺という現地地名を河川の名称とした”のではないかと思われます。ただ、このような重畳地名は、旧東陽村の河俣川にも認められますから、このような疑念は気にするようなものではないでしょう。もしも、昔の呼称をご存知の方があればお教え願いたいと思います。

一般的に、川辺川は普通の用法に従うならば、川の辺の川となってしまいます。皆さん良くご存知の『万葉集』に山辺の道(やまのべの道)がありますが、これは山と道だから成立するフレーズであり、川辺の地(かわのべの地)ならばともかくも、やはり海苔とお

茶の“山本山”のような川辺の川は違和感が付きまとうのです。

しかし、もしも河伯の川とすれば、このような違和感はたちどころに消え失せてしまいます。まあ、このような文字通りの辺(屁)理屈はここまでといたしましょう。

さて、そろそろ本題に入りましょう。河童サミットのことですから多少のことはお許し頂けると思いますが、以後、相当に乱暴な仮説を提出させて頂きます。

球磨川河口である八代地方に多くの渡来人や渡海民がもたらした文化があることは、八代の一の宮、八代神社(妙見さん)をはじめとして様々なことから容易に想像ができます。

古代において、中国の江南地方(江蘇省、安徽省南部、浙江省北部など)や福建省の閩江(ミンコウ、ビンコウ)などから渡海した亡命者の一群が八代にたどり着き定着したと考えることに無理はありません。

八代の“九千坊”の渡来伝説はつとに著名ですが、この中に紛れ込んだ河伯がいつしか球磨川を遡り、ついには、この美しい風景に惹かれて人吉盆地の相良村周辺に棲み付いたとしたいのです。

そうです、川辺川とは渡来系河童=河伯(カワペ)が棲み付いた川なのです。

では、球磨川はどうなのでしょうか、まさか、熊が棲み付いたのではないでしょうが、高麗人(コマ、クマ)が住み付いたのか?それとも隈(球磨川には流れ込む多くの河川の合流地に形成される小平地があります)の川なのかも考えてみたいと思います。

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相良村上川辺の観音橋より上流を望む


亡命地としての人吉球磨盆地


相良氏が鎌倉期に成立した(関東御家人である遠江の相良氏が頼朝の命により地頭として下向)としても、司馬遼太郎氏は「相良の人吉盆地は肥後ではなく、言わば隠れ里のような所であり・・・」(熊本市における講演での発言ですから多少不正確かもしれません)としています。

また、多少は時流に乗り、多少は歴史や伝統を無視し、多少は現地の風土を写し、多少はロマンチックなイメージを与える「あさぎり」という町が誕生したのは数年前でしたが、相良村に隣接して“あさぎり町”“錦町”があります(須恵、深田、免田、上)。それに多良木町・・・があります。

驚きになるかもしれませんが、私にはこれらの地が渡来系氏族を含む多くの古代の亡命者、敗残者が住み着き、ある意味で住み分けた土地であったように思えるのです。もちろん、いまさら柳田国男の山人論などを持ち出すつもりはありませんが、後に河童とされた人々は、異属でもある渡来人の中の特殊な人々であったと考えることは許されるのではないでしょうか。

ここからの話は一挙に古くなり、紀元前三〜四世紀から紀元後七〜八世紀あたりまで遡ることになります。

まず、古代史の世界ではかなり知られたことですが、「倭は呉の太伯の後」(倭国の民は自ら呉国の太伯の後裔であると名乗った・・・)という話があります(熊本の「松野連系図」も含め)。

出典は次のとおりです。中国の史書、『魏略』逸文(太宰府に残されているという『翰苑』にも“自ら太伯の後と謂う”とあります)、『晋書』『梁書』といったものには“倭は呉の太伯の末裔である”と書かれています。


   『晋書』 「男子無大小悉黥面文身自謂太伯之後」

『梁書』 「倭者自云太伯之後俗皆文身」


もちろん、この呉は三国志に登場する魏、呉、蜀の呉ではなく(当然ながらこの孫権の呉からも多くのボート・ピープルは渡って来たことは間違いないでしょうが)、春秋戦国期の呉越同舟の呉です。漢族の南下によって、これらの一部は江南の山岳少数民族として逃れ、また、他の一部は海に追い落とされ、文字通り呉越同舟によって揚子江の河口辺りから東を目指したと考えられます。その行き着く先は、当然にも九州では肥後八代辺りから肥前唐津、筑前博多辺りになったことでしょう。それが、呉の民であり、後に倭と呼ばれたのかも知れません。さらに思考の冒険を重ねれば、広島の呉(クレ)に定着した人々も関係があるのかも知れません。

一方、北を目指し丹後半島から北の越の国、越前〜越後の方面に移動し定着したのが越の民ではないかと思われるのです。恐らく丹後半島までは出雲の領域であったため、衝突を避けさらに遠方を目指したのでしょう。

ここで、球磨川の中下流域に目を転じて見ましょう。

旧坂本村に百済木川が流れ左岸から球磨川に注いでいます。この川の中ほどに久多良木という集落がありますが、ここには良く知られる白村江の戦の敗北に先行すること八十年ほど前の敏達紀に、朝鮮半島と日本(倭国と考えますが)とを又に掛けて活躍した国造阿利斯登(クニノミヤツコアリシト)の子、日羅の墓であるとされる小堂があります。

また、同じく左岸から球磨川に天月川が注ぎますが、この芦北町の後背地とも言うべきところ白木という集落があります。このように百済と新羅がそろっているのです。

さらに言えば、人吉盆地に入ると錦町があり、あさぎり町があり、多良木町があります。

まず、錦町は近年のものですが、百済の王都は錦江(朝鮮半島の南西部の現忠清南道)の辺(ホトリ)にあったのです。このことが錦町に影響しているとするのは無理があるでしょうが、あさぎり町には白髪野という地名があり、白髪山、小白髪山あります。この白髪という名称は渡来系氏族と濃厚な関係があるようです(恐らく新羅系でしょう)。もちろん、多良木町は前述した坂本村の久多良木が写(移)された地名に思えます(もしかしたら久=旧を落とし新多良木という意味かも知れません)。

一方、目を相良村に転じれば、現在こそ集落は確認できませんが、上川辺集落の奥に白木谷があります。また、相良村の上流に位置する五木村にも白髪山があります。

このように、球磨川中下流域から人吉盆地にかけては渡来系氏族が亡命、移住したものと思える多くの痕跡地(名)が拾えます。

中世においては、南北朝期に名和氏が最後の南朝方として球磨川以南に避退しましたが、もしも、古代(六〜八世紀)において半島から唐、新羅の圧迫を受け九州北部に逃げてきた北方系の渡来人がさらに逃げるとしたら、薩摩に落ちるか球磨川を遡るしかなかったはずです(七世紀、唐と同盟し百済に敵対した新羅も、百済滅亡後は、唐と敵対関係に入ります。北の高句麗と唐との激突から、チベット系吐蕃(トバン)の唐への叛乱も含めて半島情勢は複雑怪奇だったはずです)。

亡命によって球磨川を遡った人々が一部は人吉盆地に残り、さらに逃げる必要に迫られた人々が、一部は東に向かい水上村から椎葉村の栂尾を経由して、これまた濃厚な百済王族亡命の伝承が残る南郷村に入ったとすることは許されるのではないでしょうか。

そもそも、五木村の奥には泉村があり濃厚な平家の落人伝承がありますし、人吉盆地自体も当然ながら百済、新羅系といった良く知られた渡来系氏族の亡命地を感じさせます。

また、詳しくはふれませんが、『地名の古代史』(九州編)谷川健一、金達寿において、金氏の話として「・・・朝鮮語コムの熊とは、もと朝鮮の壇君神話に出てくる熊のそれからきたものだった・・・」「・・・古代日本では、高句麗をさしてコマ(高麗)といったのもそれからきたものであり、さらにまた、肥国をコマといい、肥人をコマビト(『万葉集』旧訓)といったものもそれからきたものであった。」とあります。これが球磨川のクマに通じるかは分かりませんが多少は気になることではあります。

最後に学会の通説から全く外れることになりますが、その点はひらにお許しを頂くとして、大和朝廷に先行する古代王権に関する痕跡の話をさせていただきます。

旧免田町の久鹿(クシカ)地区には天子神社があります。また球磨川を渡ると、同じくあさぎり町の深田の西に天子神社があり、天子の水という湧水地があります。もちろん、これ以外にも人吉盆地には多くの天子地名があります(『上村史』によると人吉球磨盆地に二十三ケ所)。

幕末期に倒幕側から天子様という表現が使われますが、大和朝廷は中国を配慮してか、伝統的に天子という呼称を使用していないようです。唯一の例外は有名な「日出る処の天子・・・」(一般的には聖徳太子とされますが、もちろん私はそのようには考えていません)ですが、この天子神社を取上げられた方がおられます。『九州古代王朝の謎』を世に問われた元九州古代史の会の荒金卓也氏です。氏は同書において、天子宮は大和朝廷に先行する古代王朝の痕跡であり、祀られているのは多利思北孤と考えられておられます。それを暗示するかのように錦町には大王三条が、相良村には大王神社(一応縁起は見ていますが詳しいことは分からないようです)が、多良木町には大王橋、大宮神社といったものが容易に拾えます(もちろん縁起は承知していますが)。

まだまだありそうですが、亡命者達にとって人吉球磨盆地が“天上の安住地”であったのではないかとまでは言うことができそうです。


古代の金属精錬の痕跡


では、本当にその河伯が住み付いた痕跡があるのでしょうか?

私は、河童を金属精錬を含む、建築、醸造・・・などのハイテク技術者集団と考えていますので、今回はこれを精銅冶金、鉄冶金の側面から考えます。

人吉から球磨川を下ると球磨村に至りますが、役場も置かれている一勝地という町があります。そもそも「勝地」とは景色の良い地という意味であり、一の景勝地がこの地の意味でしょう。と、書いたところ、古くは一勝地を“一升打”と表記していたと住吉献太郎氏にお聞きしました。調べると球磨村の橋詰観音堂の鰐口に“一升打庚申衆”の金石文があるようです。氏によると、対岸の球磨川右岸に対し、苗床を一升も撒くほどに水田があると誇った地名との指摘を受けました。一升は少ないようにも思うのですが、山間の農耕地の少ないところだけに、反ってリアルとも言えそうです。対馬の千俵蒔山は麦でしょうがこちらは明らかに誇張です。九州の山間地にも蒔山という地名がありますが、私はあくまで、ただの表音表記であり、外に意味があるかも知れない。と拘りたいのですが、傾聴すべき指摘かと考えています。

ここには左岸から芋川が流れ込んでいます。この河川邂逅部から二キロも溯上すると中尾川が合流する場所に吐合という地名があります。もちろん、二つの川が吐合っているから付いた地名ですが、さらに芋川を遡ると、「鉱山前」や「釜場」といったバス停が残されています。

この芋川という地名と製鉄を結び付けて考察されたのは多良木町にお住まいの郷土誌家住吉献太郎氏(熊本地名研究会幹事)です。


球磨村には、製鉄遺蹟があり(県教委)砂鉄を産し、世界大戦中には戸屋の山から鉄鉱石を堀り、中渡に出し、駅まで運んだという。道沿いの川を「芋川」というが「鋳物川」ではなかったのか。また、近くに火の神と伝える矢房の神がある。火は製鉄の神でもある。


「球磨盆地の地理と地名」“地名研究会設立推進シンポジウム”(平成181014日)


球磨村の一勝地が、ある時代、鉱山の城下町であったことを考えると、あの耕地の狭さに対して異常なまでに大き過ぎる町の存在がすんなりと理解できるのです。一時的ながら一勝地にはゴールド(アイアン)ラッシュがあったのです。

いずれにせよ、この地には古くから精銅、製鉄の文化が存在し、諏訪氏が指摘された芋川(イモゴウ)地名を結晶させたのではないかと思うものです。

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この外にも球磨村に隣接する芦北町の吉尾川沿いに銅山(カナヤマ)という地名があります。ここは幕藩時代から掘り始められたようですが、一旦廃鉱になります。その後、阿蘇商社という企業により復活した後、久原鉱業所で操業が続けられ、大分県佐賀関の精錬所に送られていたと伝えられています。

さて、相良村に目を転じましょう。この冶金を思わせる痕跡地名を相良村周辺にも拾うことができます。

川辺に面した相良村と球磨川に面する旧深田村とは背中合わせですが、この現あさぎり町の深田地区に銅山川(ドウザンガワ)というそのままの名の川が流れ球磨川に注いでいます。県の土木部では橋の名を銅川(ドウガワ)としているようですが、ここには三十年余前まで銅鉱山がありました(岩屋山地区)。『球磨郡誌』によれば、深田鉱山は相良藩により新望銅山として宝永、享保年間に操業を始めますが、数十年余で閉山します。その後、明治初頭に復活し、経営が変わりながらも高田鉱業によって操業が続けられ、ここでも佐賀関に送られていたといわれています。戦後も三井鉱業鰍ノより操業されますが、これは短期で終わり、最終的に一九六九年に三井金属串木野鉱山株式会社によって坑口が閉鎖されています。

一方、目を北に転じると、相良村と五木村の村境に近い五木村板木地区には五木銅山があったようです。この少し下流になりますが、瀬目公園直下には金川(カナゴウ、カナンゴウ、カナゴ)という地名があります。川辺川に沿って右岸には上流から銅山、清楽、金川、古金川という字名が並んでいます。川をコウ、ゴウと呼ぶのは球磨地方に限らず、九州西岸に広く認められる傾向ですが、下流の金川という地名は浮遊選鉱が行われた痕跡地名と考えて、まず、間違いがないでしょう。こちらについては、玉名市在住の熊日新聞の総局長もされた玉名市在住の郷土誌家である上村重次氏の字図で見る『球磨の地名』が参考になります。

清楽という字も気になりますが、「木浦」が置き換えられたと考えましたが「新羅」かもしれません。


五木銅山の採掘開始は宝永七年(1710)という(『日本地名大辞典43熊本県』)。文化十二年(1815)ごろの村絵図には“金川村”はあるが地名の銅山はなく、字銅山は明治十年の地籍帳簿からであり(『五木村学術調査』人文編)、字金川は五木銅山以前からのムラ名だった。


ただし、上村重次氏は金川を金属精錬と関連付けて考えてはおられないようです。

同じく、相良村四浦の金板(カネイタ)、人吉市大塚町の金山(カネヤマ)も同書で取上げておられますが、製鉄、精銅地名とは明言されていません。

いくつか精銅、製鉄に関する痕跡地名の例をあげましたが、この外にもまだまだあると思います。そして、それは近世のものばかりではなく、かなり古い時代にまで遡れるものがあるのではないでしょうか。

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あさぎり町深田の銅山川(銅川橋から上流を望む)五木村金川(瀬目公園から金川を望む 右手が上流)

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2020年03月03日

692川 辺(カワぺ)A

692川 辺(カワぺ)A


20181015


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


精銅、製鉄ハイテク集団としての河童


一般的に製鉄技術は朝鮮半島を経由して伽耶(金官伽耶)辺りから入ってきたと考えられていますが、私は照葉樹林文化論の延長に半島を経由しない製鉄技術の伝播を考えてきました。

その話の前に『鉄から読む日本の歴史』(講談社学術文庫)を紹介させていただきます。

製鉄史研究家の窪田蔵郎氏は同書においてこのように書かれています(簡略化のために細切れの引用になりますがご了解下さい)。


漢代に書かれた『越絶書』に、太古の・・・(中略)・・・禹の時代には銅が主で、漢代にいたって鉄剣の時代になったと書かれている。考古学的な研究の結果、鉄はすでに春秋時代ごろには使用されはじめており、・・・(中略)・・・したがって、鉄器は漢代までなかったのではなく、銅器製造技術と併存した鉄器が、漢代にいたって、それまでの銅・鉄の生産比率を破って量産されるようになり、広く各方面に普及したものと思われる。


朝鮮半島を経由する稲作の伝播に先行する縄文稲作が存在したことがようやく一般的に理解される時代になりましたが(当然ながら故佐原○氏の説は否定されてしかるべきでしょう)、同様に製鉄の伝播も縄文期に遡る必要があるのではないかと考えてきました。

ニ年前にさつま川内市で行われた河童サミットに向けて「兵主」(ヒョウス)という拙文を書きました(八代史談会会誌『夜豆志呂』二〇〇七年六月号などに掲載)が、この論証を相良の河童を考える上でも重要な鍵としたいので、再度、その一部要約し掲載させて頂きます。


西からの隘路を持つ天上盆地


 不知火海は外洋への出口(玄関)を西に向けています。この先には下五島の福江島があり、さらに沖縄、台湾、そして中国の江南地方さらに福建省があります。

九州、それも有明海・不知火海沿岸には、まず、南から南方系の海洋民族、マライ・ポリネシア系の人々が渡ってきたことでしょう。もちろん、朝鮮半島からは北方系の民族が何波にも分けて渡ってきています。 

しかし、それらとは別に、佐々木高明、中尾佐助、上山春平といった照葉樹林文化論者が主張した朝鮮半島を経由しない江南(少なくとも淮河以南)などからの直行ルートがあり、北方ルートに先行する渡海があったと考えられています。

私達の領域はその波を何度となく受け続けたはずであり、それは、今なお、言葉、食物、葬送儀礼、音楽、各種の技術、伝承、宗教、生活様式一般に至るまで、多くの影響を与えているのです。

さて、河童といえば、西遊記の“沙悟浄”もそうだとされています。ただ、これには日本での訳し方や解釈の問題があり、中国に本当に日本と同様の河童という概念があるのかについては良くは分かりません。しかし、台湾や福建省の福州にさえも河伯(カワペ)という水の精の伝承があるということから、“やはり河童は太古、中国大陸の揚子江周辺から直接に、また、さらに南の福建省などから台湾、沖縄を経由して移住してきた異族だったのではなかったのか”と、考えてしまうのです。

 八代市の「河童共和国」はつとに著名ですが、この九千坊(キュウセンボウ)には、黄河から海を渡り、球磨川河口に移り住んだという伝承があります。また、三国志の時代、呉から移り住んだという説もあるようです。ただ、私には三世紀の呉ではなく、それに先行すること前四世紀から数百年の間に春秋戦国期の呉越の民が渡ってきたように思えるのです。既に殷の時代(前十一世紀に周に滅ぼされる殷も北岸とは言え揚子江に近いところです)には精巧な青銅器を創っていますし、青銅冶金が江南地方で行なわれていたことは最近の発掘を待つまでもなく明白ですから、これが八代に入ってきていないはずはないのです。


中国大陸における民族大移動と河童の渡来


 中国という巨大国家を考える時に重要なことは、チベットはもとより、満州が漢民族の土地ではなかったように、揚子江以南も漢民族の土地ではなかったということです。現在、辺境の四川、雲南、貴州などに住む、ビルマ、タイ、チベット系の多くの少数民族は、かつては中原(山東、山西、河南)にまで広く分布していたと考えられています。実はそのことが渡来の時期と絡み、“黄河から海を渡り、球磨川河口に移り住んだ“と、言われることと関係があるようにも思えます。

 近年、揚子江流域の河姆渡(カモト)遺蹟、城頭山遺蹟、三星堆遺蹟などの調査が進み、北の黄河文明に対して、稲作技術、青銅器を持つ長江文明の存在が明らかになりつつあります(『古代日本のルーツ長江文明の謎』安田喜憲・・・ほか)。安田喜憲氏は同著において先行して青銅器を獲得した畑作牧畜民の南下によって、青銅器獲得に遅れた稲作漁労民が圧迫を受け、その一部が渡海し日本に移動して来たとされています。

 春秋戦国時代の呉越同舟の呉、越(呉王夫差、越王勾践)は、いずれも非漢民族の国家であったと言われていますが、呉は越に滅ぼされ、その越は、楚(長江中流域)に滅ぼされます。一方、紀元前二世紀前後、漢民族は始皇帝の秦によって中国最初の中央集権国家を成立させ、楚(これも非漢族の国家といわれます)を滅ぼします。その後の漢帝国によっても漢民族は南下を続けますが、この結果、現在少数民族とされている諸民族は圧迫を受け、貴州省、雲南省などの山岳地帯に追い上げられることになります。当然ながらその一部は海に追い落とされ、船に乗り新天地を求めて日本列島、九州を目指したと考えられるのです。この動きはその後も絶えることなく続き、三世紀、三国志時代の孫権の呉からもその滅亡などを契機に何波ものボート・ピープルが送り出されてきたと考えられます。およそこの頃までの江南地方には多くの非漢民族が混住していたと考えるべきで、一般的に渡来人と言えば、直ぐに朝鮮半島の百済や新羅を思い浮べてしまいますが、それに先行すること数世紀、これらの非漢族による移住があったはずなのです。

 照葉樹林文化論についてはいまさら説明する必要はないでしょうが、一般的には文化の伝播だけが強調されているようです。対して、この河童の渡来伝承については、それに止まらず、直接的な異民族の移住を感じるのです。


江南系渡来人の足跡


 この江南系の渡来人の存在を考える理由の一つに歌垣の存在がありますが、ここではふれません。ただ、それとは別に、夜這いや歌垣といった南方系の習俗が西日本に色濃く存在していることを見ると、この江南系の渡来人の存在を考えざるを得ないように思うのです。また、高層木造建築技術の存在があります。貴州省を中心に湖南省、広西省壮(チュワン)族自治区などにトン族といわれる二五〇万人程度の少数民族が生活しています。彼等は“風雨橋(巨大な楼閣が乗る橋)”をつくります。また、多くの村々に、“鼓楼”と呼ばれる高層建築があります。これらは、本来、外敵(漢族)に備え、村人を緊急に集めるための“鼓(太鼓、銅鼓)”を置く(吊るす)ためのものだったと言われていますが、六〇年程度で定期的に建直しが行われます。この造営に際しては、村人全員が総出で参加して、木材を切出し、山から下ろし、また、棟上げでは、累代技術を継承してきた棟梁の指示に従って働くのです。最も驚くのはその建築様式であり、棟上の方法もさることながら、今でも釘を一切使わずに建てられるのです。何やら法隆寺の五重の塔を思い出すではありませんか。

 また、歌垣で有名な苗(ミャオ)族もこのトン族と混り合いながら、七五〇万人が湖南省、湖北省、広西省壮(チュワン)族自治区などに住んでいます(チベット語族と言われますが良く分かっていないようです)。壮族もそうですが(一千五百万人)、そもそも、一千万人に近いものを少数民族と言うかどうかをいつも考えしまいますが、それはともかくとして、彼等の歌垣は特に有名です。その他にも高床式住居をはじめとして、鳥居、穀物霊への信仰、刺青、千木、発酵食品などの稲作農耕文化にも古代の西日本と多くの共通性を持っているものがあると言われているのです。

 ここから先は全くの想像でしかありませんが、漢族の圧迫を受けたトン族や苗族が呉越の海洋民族とともに、有明海から不知火海(球磨川河口)方面を目指したのではないかと考えるのです。一度成功した渡海の情報は、直ちにこの海洋民族によって伝えられていたはずですから、日本列島の存在ははるか以前から知られていたでしょう。このため、必要さえあれば何派にもわたって亡命、逃散、移民(植民)が行われ続けたと思われるのです。

前述した春秋戦国期の呉越の混乱、秦をはじめ漢民族の南下、楚の滅亡、三国志時代の呉の滅亡、幾多の契機があったことでしょう。  

そして、このことによって、朝鮮半島を経由する近代的な稲作文化の伝播に先行すること数百年、主として江南地方から有明海、不知火海沿岸に、初期の稲作農耕文化、照葉樹林文化、高層建築技術、青銅冶金、鉄冶金、歌垣などの文化がもたらされたのではないかと考えるのです。


兵主部(ヒョウスベ)


そもそも、河童という言葉は東日本の言葉のようであり、明治期までは河童は一般的ではなく、土地土地で土着の名で呼ばれていたと考えられ、私もそれにならい、前稿を“兵主”としました。

さて、民俗学者柳田国男の「河童考」は有名ですが、折口信夫にも「河童の話」中央公論社(全集第三巻)があります。折口は、兵主部と河童とを関連付け、六 河童の正體 でこのように書いています。


ひょうすべは、九州南部にまだ行はれてゐる。此も形は、甚、漠としてゐる。河童の様でもあり、鳥の様でもある。此も水主神と同じく、其信仰を、宣傅々播した時代があったのである。私の觀察するところでは、奈良の都よりも古く、穴師神人が、幾群ともなく流離宣教した。大和穴師兵主神の末である。播州・江州に大きな足だまりを持って居た。北は奥州から、西九州の果てまで、殆、日本全國に亙ったらしい布教の痕は、後世ひどく退轉して、わけもわからぬ物になって了うたのである。

  

兵主部は、その字面からして軍隊の連隊長や兵站部門の長のような印象を受けますが、中国の神話には兵主という神が出てきます。金属の兵器を製造した戦争の神と言われていますが、蚩尤(シユウ)と呼ばれ、今でも、この兵主の神が関西の金属関係のメーカーなどからの信仰を集めていると聞きます。壱岐を除いて九州(本土)にはこの神社はないようですが、西日本の各地にはかなりの数の兵主神社があるようです。

 青銅冶金、鉄冶金(野ダタラ)の技術を持った苗族や高層木造建築の技術を持ったトン族などが、渡海技術を持った江南の呉越の民とともに、また、浙江省からさらに南の福建省の閩の民の渡海能力を借りて移住してきたことが考えられるのです。

 今をさること、二千数百年前、長江や抗州湾に注ぐ銭塘江(セントウコウ)周辺の上海、会稽(カイケイ)、寧波(ネイハ)、紹興(ショウコウ)辺りから、銭塘江沖に浮ぶ多島海、舟山群島を右に見ながら、数隻、数十隻単位の小船で球磨川河口を目指した一群の人々がいたのではないかと想像するのです。その向かう先には、既に斥候部隊とも言うべき先発部隊が受け入れる準備をしていたはずです。


なぜ、河童は妖怪とされたのか


仮に、当時のハイテク集団である兵主部の一部にかなりの冶金集団がいたと考えましょう。恐らく彼等は数百人単位で移住してきたのでしょうが、国家が成立していない時代であり、先住民からの組織だった抵抗はほとんどなかったことでしょう。また、当然にも槍や青銅という強力な武器で武装していたはずであり、抵抗は排除できたはずです。同時に斧や鎌など直ぐにでも役に立つ金属の道具を持っていたでしょうから、先住民との物々交換によっても食料調達や居留地の確保はある程度可能だったはずです。

そのうちに、手っ取り早い焼畑などによってソバ、ヒエ、アワ、キビは直ぐにでも生産できたはずです。そして、一定の準備期間を経て彼等は青銅器、鉄器生産に乗り出したはずなのです。

そこで生産された金属器は直ちに交換可能で強力な商品になったのです。当然にも照葉樹林に覆われた西日本は燃料に不足することは全くなく、生産は衰えることなく拡大を続け、彼等は西日本の各地に進出していったと思われるのです。

 一方、先住民である縄文的な農耕民(縄文稲作も含めて)や狩猟採集民にとって、彼等は非常に奇妙な異族に見えたことでしょう。浮遊選鉱や砂金、砂鉄の採取のために、河原や川で作業するこの種の人々は非常に不気味な存在であり、“尻子玉を抜かれる”とか“川に引き込まれる”(河童の駒引き)といった話が作られ、子供達を遠ざけるのに時間はかからなかったことでしょう。

 しかし、その地域から原料となる金属や燃料となる森が失われると、いつしか彼等は姿を消してしまいます。当然にも新たな生産拠点を求めて数百人といった集団が忽然と姿を消すのですから、土地に定着する農耕民にとってこの現象は非常に奇妙であり、後の“呪文によって一夜にして多くの河童を集めて神社を造営し、そして消えた“と、いった話に繋がってくるようにも思います。

当然ながら、戦乱の時代になると彼等は鍛冶屋の集団として、また、土木、建築の工兵部隊として軍団に随行し、例えば大和朝廷の支配に抵抗する蝦夷を討伐するために派遣された坂上田村麻呂にも従軍(随行)したことでしょう。


落語の「代書屋」(桂 春団治)に登場するガタロの話


前述の折口信夫の「河童の話」(一 河童の女)には、壱岐の“があたろ”という河童の話しがあります。そして、これとは全く別の話になりますが、私の好きな噺に「代書屋」(桂春団治ほか)という落語があります。これは、河合浅治郎(カワイアサジロウ)という生業がはっきりしない無筆(ムヒツ)の男が、代書人に就職のための履歴書(噺の中では、“リレキショ”ではなく“ディデキショ”ですが)を書いてもらいにやってくるという話ですが、定職に付かず転々とした職歴の一つに、“川に埋まった金物を拾って稼ぐ“という仕事が出てきます。

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わての本職はガタロでんねん/ガタロ?/何でんねん、そのガタロて?/なるほど、こらあんた分かりまへんわ。これな、胸のとこまでのゴムの靴履きまんねん。ほんで、川の中へ入っていきまっしゃろ、金網でな川底をゴソッとすくってきてな、中から鉄骨の折れたやっちゃら釘の曲がったやつやら靴のかたっぽ選(よ)ってるやつおまっしゃろ。/はぁはぁ、あれガタロ言まんのんあれ……。えらいことやってなはったなぁあんた「ガタ」……こんなもんいよいよ書きよぉがないわ……。


 川に入って作業する青銅冶金、鉄冶金の集団であった渡来人から河童の伝承が生まれ、河童の呼び名の一つである“があたろ”が“がたろ”、そして“ガタロ”に転化したのではないかと思うのですが、とりあえず、兵庫県では河童を“がたろ”と呼ぶようです。ただ、噺の中に出てくる“ガタロ”が河童の“がたろ”と理解されているのか?ということについてまでは分かりません。少なくとも、農耕の民にとって川を浚うという奇妙なことをする人々(製鉄、製銅冶金集団)が河童とされた、少なくとも、河童と呼ばれる人々の中に川を浚う者もいたのではないか。と、言うことまではできるのではないでしょうか。

大阪には住吉大社がありますが、壱岐にも対馬にも住吉社があります。そして、海の安全を見守るかのように瀬戸内海沿岸の各地にも、古来、多くの住吉の神が祭られてきました。また、壱岐にも関西にも兵主神社があるのです。これからも分かるように、壱岐、対馬は海路で難波津まで通じていたのです。未確認ではありますが、播磨の“ガタロ”と壱岐の“があたろ”との間には何らかの繋がりがあるのではないでしょうか。


重層する古代の冶金集団

(東に向かった製鉄集団と東国から新たにもたらされた製鉄文化)


最後に難しい問題が残されています。谷川健一氏の『青銅の神の足跡』『白鳥伝説』に関係してきそうですが、不正確になるといけませんので、ここではこの話には立ち入ることをさけ、私の考える古代製鉄集団の移動と人吉盆地の関係を展開してみようと思います。

重要な条件は、先行する江南系冶金集団の東への移動と、それに後世覆い被さってくる捕虜の西方への移配、つまり大和朝廷の蝦夷侵略がもたらした俘囚による鉱物の採掘の可能性です。


河童はどこに向かったか


相良村の河童がどこからやってきたかを考える時、八代の九千坊との間に坂本村鎌瀬の河童伝承があることに気づきます。もしもサガラッパと呼ばれた河童が中国から八代への亡命者の中にいた冶金集団であったとすると、彼等は金属を求めながら東に向けて球磨川を遡り、或いは川辺川を北に向かったのではないかと思われます。

当然ながらそのベクトルは北東に向かい宮崎県から大分県に入ります。高千穂町から岩戸川を北に遡り尾平越を抜けると豊後大野市に尾平鉱山があり、日之影町から日之影川を遡ると見立鉱山があります。さらに杉ケ越を下ると大分県佐伯市(旧宇目町)に木浦地区があり、古代からの鉱山があるのです。

特にこの木浦鉱山は多くの鉱物を産出する六〇余の鉱山群の総称ですが、その歴史は古く奈良時代まで遡ると言われています。そもそも木浦はモッポと読め(気象通報でも著名な朝鮮半島の最南西端の地名)渡来系の採鉱者の存在を感じさせます。恐らくこの多くの鉱山の中に私が想定する冶金集団としての兵主=河童が関与したものがあったことでしょう。

私も何度か通過しましたが、この鉱山の存在を考えると、あの谷間の狭隘な道に延びる異風な町の存在が腑に落ちるように思えてきます。

また、木浦には囲(カコイ)という地名までがあり、古代の俘囚による採掘を感じさせます。さらに進めば必然的に大分県の佐賀関に行き着くことになります。ここから四国の佐田岬(愛媛県伊方町)は目と鼻の先であり、古代の金属精錬集団はさらに構造線に沿って金属を求めながら畿東の畿内を目指したことが容易に見えてくるのです。

佐賀関周辺の兵主の痕跡地名

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佐賀関は現在でも日鉱金属佐賀関精錬所が操業していますが、そのことに符合するかのように古代の冶金集団の存在を示す地名などがいくつかあります。

まず、志生木(シユウキ)という痕跡地名の存在です。これは、どう考えても日本語(少なくとも大和言葉)ではありません。木(キ)は、鹿児島県の市来(イチキ)、熊本県の津奈木(ツナギ)、百済木(クダラギ)、奈良木(ナラキ)、白木(シラギ)・・・といった無数の“キ”地名があるように、小集落といったものを表す一つの単位(城柵の意味かも知れません)と考えておかしくないようです。事実、この志生木の南にも白木(シラキ)があります。この志生木と白木(新羅か)とは尾根を境に棲み分けたような印象さえ与えます。なお、佐賀関の白木の南には佐志生(サシユウ)という地名もあります。

 では、“しゆう”とは何でしょうか?私には一つの候補があります。それは、兵主(ヒョウス)で取上げた苗(ミャオ)族が崇拝する青銅冶金の神“しゆう”です。


(再掲)

兵主部は、その字面からして軍隊の連隊長や兵站部門の長のような印象を受けますが、中国の神話には兵主という神が出てきます。金属の兵器を製造した戦争の神と言われていますが、蚩尤(シユウ)と呼ばれ・・・


ここでも、青銅冶金、鉄冶金(野ダタラ)の技術を持った苗族や高層木造建築の技術を持ったトン族などが、渡海技術を持った江南の呉越の民とともに、また、浙江省からさらに南の福建省の門虫*(ビン)(門の中に虫)の民の渡海能力を借りて移住してきたと考えるのです。

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蚩尤(シユウ)神 『白鳥伝説』谷川健一より


佐賀関は四国の構造腺に連続する線上にある土地です。その一角にある志生木とは兵主(ヒョウス)神=“蚩尤(シユウ)”を祭る氏族が定着した土地であることは間違いがないでしょう。

さらに傍証があります。佐賀関には幸ノ浦という漁港があります。興味を引くのはこの幸ノ浦という地名ですが、平戸島の幸ノ浦、江田島の幸ノ浦が西日本の海を漂泊し続けた海上生活者=家船(フィリッピンのパジャウが有名)の重要な寄港地であったことです。 

私はこれを古代閩越の民と考えるのですが、兵主(冶金集団)が彼等の船で構造線が延びる四国に渡ったように思えるのです。


※ 家船については『瀬戸内の民俗誌』沖浦和光(岩波新書)ほかいくつかの家船研究がありますのでぜひお読み下さい。


蚩尤 しゆう(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

中国の古代神話に登場する神。『山海経(せんがいきょう)』によると、蚩尤は風の神や雨の神を従えて冀州(きしゅう)の野で黄帝(こうてい)と戦ったが、黄帝が下した日照りの神によって撃ち破られたという。一方『史記』では、徳の高い黄帝に刃向かって敗れた暴虐な諸侯の一人とされている。このように戦争と深いかかわりをもつ蚩尤は、初めて武器を製造した功績者ともされ、斉(せい)の国(山東半島)では古くから軍神として祭祀(さいし)の対象とされていた。毎年10月に人々が蚩尤の墓とよばれるものを祀(まつ)ると、赤い雲気(うんき)が現れて空にたなびいたという。人々はそれを「蚩尤旗」とよんだが、これは古代中国におけるオーロラの記録としても貴重な意味をもつ。なお軍神としての蚩尤の信仰は、兵主神として古代の日本にも伝えられ、崇拝された。


最後にもう一つの傍証をご紹介しましょう。

宇土半島の永尾(エイノオ)神社があります。この不知火町(現宇城市)の神社は、今なお不知火の見えるところとして有名ですが、このエイノオとは、エイ(スチィングレイ)の尾のことではないのかとする説があります。当然ながら日本地名研究所所長である民俗学者の谷川健一氏のものですが、詳しくは氏の「続日本の地名」(岩波新書)第二章[エイ](永尾)その他の著作をお読み下さい。

この神社は別名“剣神社”とも呼ばれていますが、これも尖った地形からきているものでしょう。この神社は西に伸びる宇土半島から不知火海に突き出す岬に位置づいています。現在は干拓や埋立や道路工事が進み分かりにくくなっていますが、かつては山から降り下った尾根が海に突き刺さり、なおも尖った先端がはえ根として海中に伸びる文字通りエイの尾の付け根の上に社殿が乗っているような地形だったはずなのです。そしてその岬は背後の山に尾根として延び、古くは、両脇に本浦川、西浦川が注ぐ入江が湾入し、尾ばかりではなくその地形はまさしくエイのヒレの形を成していたものと考えられるのです。


丘には永尾神社が祀られている。祭神は(えい)である(本章扉参照)。永尾というのはエイの尾を意味し、尾の部分の鋭いトゲになぞらえて、別名を剣神社とも称する。これには一匹のエイが八代海から山を越して有明海に出ようとして果たさず、ここに留まった、という物語が絡まっている。永尾(エイの尾)に対して、内陸部にある鎌田山はエイの頭部に見立てられている。

   ここで思い出すのは沖縄ではエイ(アカエイ)をカマンタと呼んでいることである。(英語でエイをマンタというが、もちろんそれとは関係がない。)カマンタの意味をたずねて、カマノフタである、と聞いたことがある。『日本魚名集覧』を見ると、ウチワザメのことを国府津(こうづ)ではカマノフタと呼んでいる。またサカタザメを静岡県ではカマンド、愛媛県ではナベブタウオと呼んでいる。サカタザメは鰓穴(えらあな)が腹面にあるのでエイの仲間に分類されているが、その呼称もエイとかエエとか呼んでいる地方が多い。要するにサメもエイも同類と見られていた。そこで永尾にある鎌田山の名称もエイを指す方言に由来するのではないかと考えてみたことがある。・・・


「続日本の地名」(岩波新書)


このエイノオ地名と思える地名がこの佐賀関のしかも志生木の一角にあるのです。

大志生木の内陸にある江ノ脇(エイノワキ)です。

もしも、この江ノ脇がエイの脇であれば、これほど典型的なエイの地形を持った土地はないでしょう。地図を見られればお分かりのように、弁天鼻というエイの尾の両脇には、湾曲した大志生木、小志生木の砂浜がエイのヒレのように広がっています。さらに、エイの背骨が尾根として山に延びています。江ノ脇はこの本体の脇にある事になり、地形と地名とがピッタリと符合するのです(大志生木、小志生木の二つの浜は堆積が進み陸化していますが、地名が成立した時代にはエイの脇の辺りが汀線であったことが容易に想像されます)。もちろん、入江の脇と解釈する事も可能でしょうが、私は山に這い上がったエイの姿にしか見えません。

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大分市志生木の江ノ脇(昭文社マップル道路地図


もう、お分かりでしょう、八代に漂着した閩越の海洋民と関係がありそうな永尾(エイノオ)地名と呉に繋がる苗族の冶金の神“シユウ”にちなむ地名、志生木がそろっているのです。まさに佐賀関は渡来系河童の九州から四国、そして、畿内への注射針だったことが分かるのです。


蝦夷地から移配された北方系河童


これまで、紀元前後における江南起源の“シユウ”の神を祀る冶金集団の東への移動(八代〜人吉盆地〜佐賀関〜四国〜奈良)を想定しましたが、これからは、その後どうなったかを考えます。

ただ、これからは全くの想像になってしまいます。実は「兵主」を書いた一昨年、奈良県の穴師坐兵主(アナジニイマスヒョウスベ)神社を訪れました。この神社が畿内に入った冶金集団である兵主部の中心地であることが分かりました。その後も東に向かったようですが、どうも彼等はここを安住の地としたように見えます。

これには、金属が政治権力の中心において最も必要とされることは自然な理解ですから、この地域が古代の日本においても政治権力の集中する場所であったことが関係していると思われるのです。

時代を経て、八世紀には大和朝廷の東国侵略が始まります。この河童=冶金集団が坂上田村麿以来、幾度にもわたった侵略の兵站部門、つまり鉄器を製造する軍属として従軍したことは容易に想像ができます。

もちろん、蝦夷征伐は源頼朝によるものを最後として「文治三(一一八七)年十月二十九日。秀衡は平泉で死んだ。・・・」(『部落の源流』千二百年の悲愁−高木力/彩流社)で終了しますが、これ以降、組織的な俘囚の移配はなくなります。

ただ、東国の多くの河童伝承に例が拾えるように河童は侵略者の側に立ったことが想像されます。一方、大和朝廷に抵抗した蝦夷の勢力にも韃靼(ダッタン)海峡経由と言われる北方系の製鉄技術があったとされますが、最終的に敗北した蝦夷が大和朝廷によって俘囚として全国に移動させられるのです。

俘囚(稲)料などから推計されていますが、当時、肥後は最大だったようです(この肥後の俘囚稲については、第十二回熊本地名シンポジウムの史料集『民族と地名 俘囚と九州』などをご参照下さい)。移配された蝦夷系河童も俘囚に含まれていたと考えることは十分に可能です。もちろん彼等には水田を与えず、土木工事や鉱山の労働者(奴隷)とされたことでしょう。

八世紀半ばから十二世紀(実際には鎌倉期にはそれほど大量の移動はなかったでしょう)にかけて俘囚が移配されてきたのことになるのですが、この北方系の俘囚製鉄、金属精錬が肥後にも持ち込まれているとするのが一九九七年に開催された熊本地名研究会のテーマでした。

詳しくはふれませんが、人吉盆地に関係するものとして奥州鍛冶の痕跡を伝えるものがあります。日本刀の原形と言われる蕨手刀(ワラビデトウ)です。石井昌国氏の『蕨手刀』によればこの刀が九州では、福岡県甘木市、熊本県人吉市、鹿児島県鹿屋市で発見されているのです。

もうひとつ気になることがあります。“沢”地名です。 

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穴師坐兵主神社アナジニイマスヒョウス(奈良県桜井市)「古田史学の会」提供


地名研究の世界では西日本では“谷”が多く、東日本では“沢”が多いというのが常識ですが、球磨川流域、人吉球磨盆地には北部九州では例外的な沢地名が異常なまでに多いのです。

球磨川、川辺川の邂逅部に井沢古墳群がありますが、この相良村の井沢(まさか岩手県三沢市の胆沢城と関係があるとまでは言うべきではないでしょうが)という地名をはじめとして多くの沢地名が拾えます。私にはこれらの地名が俘囚として移配され、後に解放された人々に起因していると考えているのですが、的をえているかどうかは今後の調査に待たざるをえません。


相良村のサガラッパは実在した


中国の江南地方(閩)などから、現在、少数民族(苗族、トン族・・・)と言われる人々と同一の民族が建築、冶金(青銅冶金、鉄冶金)の技術を携えて渡ってきたのではないか・・・としましたが、この呉、越(福建省の閩江を中心とするいわゆる閩越)の民こそ八代の河童渡来伝承に通底していることは間違いがないでしょう。

その後、朝鮮半島から対馬、壱岐を経由して扶余(百済)、新羅、伽耶、高句麗といった北方系の人々が入り、倭国に覆い被さってきますが、川辺川を含む球磨川流域には濃厚な古代の精銅、製鉄の痕跡があることが見えてきました。私はこの浮遊選鉱(フローテーション)を伴う製銅、製鉄冶金集団こそ河童と呼ばれた人々であったと考えます。

さらに、この渡来系河童が移動した大まかな経路を描き出し、金属精錬集団の移動に結び付けました。

また、相良村に隣接する金川地名と銅山川という地名の存在は古代の製銅、製鉄を垣間見せるものでした。これがいつの時代まで遡れるかはこれからの課題です。ただ、相良村の川辺辺りは川幅が広がり流が緩やかになり大量の水を利用しやすい場所であるだけに、この河原で作業する多くの異形の人々が河童と呼ばれたことは間違いがないでしょう。

ここまで考えてくると、人吉球磨盆地には、第一波として閩越の海洋民の力を借りて渡海した呉の青銅冶金集団(野タタラによる製鉄を含む)が、第二波として朝鮮半島を経由した百済、新羅系の製鉄集団が、第三波として俘囚の配流による北方系、蝦夷系の金属精錬集団がやってきたのではないでしょうか。

このことが恐らく河童研究で問題とされている河童渡来説と河童国産説の対抗、併存の原因ではないかと考えるものです。

一方、当然ながら石川純一郎教授などが展開されている化生説については、農業にたずさわることなく地域に定着しない職能集団を農耕民が見たときに、渡来河童、国産河童に関らず、一夜にして数百の河童が集まったなどと表現されているのではないかと考えています。ともあれ、川辺川にも渡来河童、国産河童が棲み分けていた可能性があります。

そうです、まさに、川辺川は東に向かったカワペと西に移配された蝦夷系河童の闊歩する川だったのです。

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八代〜人吉(相良)〜佐賀関(マピオン)

20070513

(追補)


今回は河童を焦点にして、金属精錬の側面から考えましたが、八代〜佐賀関へのルートを炙り出しました。

当然ながら、筑後川河口の久留米、浮羽方面から鯛尾金山を経由して佐賀関に向かうルートがあっただろうことも、まず、間違いないでしょう。

また、土木、建築、醸造、機織、製紙・・・といった他の側面からも分析する必要があると思います。建築については北部九州の廃寺の問題があります。筑前、特に豊前の廃寺は古代建築の常として釘を使わず容易に解体移送することが可能だっただけに、瀬戸内海を筏に組んで畿内に運んだものさえもあったと考えられています(白村江の戦いを中心とする半島情勢と関係しているでしょう)。これについては、建築家であり古代史研究者(九州王朝説)である米田良三氏が書かれた『法隆寺は移築された』(古川注:太宰府の観世音寺が移設されたと考えられています)が非常に興味深い問題として残されています。私はこのことに建築技術を持つ渡来系河童が関与していると思っていますが、橘氏の眷属としての河童(兵主)、渋江河童の話を含め、橘氏と関連する佐賀県武雄市橘町の河童伝承(杵島河童)、浮羽、田主丸の河童など北部九州の河童が筑後川を遡り遠賀川河口や宇佐などから東に向かった建築、機織技術を持ったもうひとつのルートも想定されます。もちろん、醸造、製紙などの側面からも多くの興味深い問題が想定されるのですが、これは次の河童サミットで報告できるかも知れません。


古川清久(武雄市在住)


八代誌談会会員、熊本地名研究会会員(当時)、古田史学の会会員、九州古代史の会会員(当時)

有明海・不知火フォーラム委員会メンバー(当時)
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2020年03月06日

693 塘(トモ) “菊池川中流の小平野”

693 塘(トモ) “菊池川中流の小平野”

20181015

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


熊本県の玉名温泉と山鹿温泉の中ほどに置かれた菊水インターから県道16号線で東の山鹿に向かうと、左手に大きな河川堤防が現れ、右手に小平野が見えてきます。一帯は既に山鹿市の領域なのですが(大字坂田)、ここに「塘」と書かれ「トモ」と呼ばれる奇妙な地名があります。

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昭文社県別マップル道路地図熊本県


「塘」は“ツツミ”“トウ”とは読みますが、“トモ”とはあまり読まないはずです。

また、現地は玉名市と菊池市との境界地帯でもあることから、比較的険しい地形が続き、菊池川が最大級の蛇行を見せ屈曲が連続する場所です。両岸は垂直に切り込まれた二〜三十メートル級の小丘が連続しています。万年単位の時間で考えれば、絶えざる阿蘇火砕流によって形成された溶岩台地が川によって削り込まれたものなのでしょう。

このような条件から、垂直の崖の崩壊や屈曲部の土砂の堆積などによって自然のダムが形成され、たん水やその決壊といった洪水の影響を受け続けたと考えられます。

その後、人工の堤防が造られる近世になりますが、自然に形成された堤防の内側には水平堆積によって成立した平地が出現し、進出した人々によって造られた農地にも新たに決壊や洪水による逸流(オーバー・フロー)が襲って来たことが想像されます。塘(トモ)とはそのような氾濫原野起源の土地であり、自然堤防の時代にはなかなか定着できなかった土地だったと思われるのです。


【氾濫原】はんらん・げん

河川が運搬した砕葛物が堆積して河川沿いにできた平野で、洪水時に水をかぶる。

(『広辞苑』)


この熊本県北部有数の大河にも、現在は河川改修事業によって壁のような大堤防が建設され、ほ場整備事業も併せて行なわれたものか、堤防の内側には美田が広がっています。

この地には過去何度となく入植が試みられ、度重なる洪水に耐えて定着した人々によって集落ができたのでしょう。

氾濫により形成された自然堤防の内側には菊池川の氾濫によって土砂の堆積が進んだはずです。

内部に流れ込んだ泥土から石や瓦礫を拾い揚げ、徐々に川傍の低地は標高を上げ堤防も嵩上げがされていったものと思われます。

繰り返しますが、このような平地が生まれるには、水による運搬、攪拌、そして長期にわたるたん(湛)水が必要であり、その水の中で繰返された水平堆積によって、この地も形成されたものとする外ありません。

この地に「塘」という地名が在るとすれば、これが堤防に起因するものであることに異論を持たれる方はまずないでしょう。それを物語るかのように、“蹴破り伝説”を持つ当地の阿蘇神社前の古い農協倉庫には、現在も、なお、洪水時に備えて舟が吊るされているのです(この一帯の多くの農家の納屋には今も舟が吊るされているそうですが)。

問題はその「塘」の成立時期と地名の成立時期であり、それが自然のものであったのか人工のそれであったのかということになります。

前述のごとく、「塘」に堤防という意味があり、音で「トウ」「ドウ」、訓で、「つつみ」と呼ばれることまでは分かりやすいのですが、これが「とも」と呼ばれていることが重要なのです。

私が知る範囲でも八代の数人から「そう言えば熊本ではなぜか堤防の事を“とも”というね…」「干拓地の旧堤防を、例えば“東んとも”“西んども”などと呼んでいる…」「八代の南の高田には“とも”と呼ばれるところがあった…」といった話を聞きます。まさか、土盛り(ドモリ)からきたものではないでしょうが、多分、肥後領全域で普通に見られる地方語(古語)なのでしょう。

ちなみに佐賀では、同種の旧堤防を「でい」(この起源は不明で、単に堤防の堤=漢音テイ、呉音ダイをデイと呼んだからかも知れません)と呼び、“とも”や“ども”などと呼ぶことはありません。

例外的に、福岡県では中間市大字岩瀬に塘の内(呼称は未確認)が、鹿児島県では南さつま市に塘(とも)が、熊本県では、八代市に大牟田塘(オオムタトモ)、宇城市と氷川町に沖塘(オキドモ)、熊本市の白川、緑川の河口付近に城山町大塘(おおども)、熊本市銭塘(ぜにども)町があります。詳しく調べると、熊本は「塘」だらけであることが分かってきます。

さて、この「とも」「ども」ですが、多少思い当たる事があります。拙著『有明海異変』に挿入したコラムには中国のダムや堤防について『ダムのはなし』竹林征三を引用しています。この本の引用しなかった部分にこの「塘」に関係する話が出てくるのです。


…ダムやダム擬に関しては、最も多様な用語が使われ、分けられている国は中国ではないだろうか。


○ ハ (ハは 土口/ハ)漢字の表記が困難です。「ハ」は土偏の右に口その下にハ=上土偏に覇):古川注

−川の水をせき止めるつつみのことで、現在Damの用語にあたる概念である。

○  堰

−晏は太陽が上から下に落ちて暮れる様を意味し、匽は晏の略字に匚を加えて、上から抑え固めてつくり、水流を押え止める堰である。歴史的に有名な都江堰などがある。

(『ダムのはなし』竹林征三)


以下、堤、塢、塘、擣、圩、坡、扌/更、埧、埭、蓄水池、水庫、潭といった文字の意味を書かれていますが、この中に「塘」も登場します。

   

○ 塘

−水を止めるために築いた土手であり、土手を築いて水を溜めた池も意味する。日本語の溜池に近いものであろう。塘工とはそのための護岸工事を意味する。


では、この読み方です。竹林征三氏もこの「塘」が実際にどのように呼ばれていたか(読まれていたか)?までは書いておられません。さらに先に進みましょう。


閑話休題 「ダムのはなし」


九六年に出版された『ダムのはなし』という本があります。建設省土木研究所環境部長(当時)をされていた竹林征三氏によるものですが、ダムの構造や歴史などが非常にわかりやすく書かれていて筆者のような素人には大変参考になります。また、この本には、古代アッシリアのダムや大モンゴル帝国が建設を試みて不成功に終ったダムのこと、江戸初期に活躍した「ダム造りの名人」西嶋八兵衛などのおもしろい話も収められています。

 西嶋八兵衛の名は比較的有名で、一般にも「多くの治水利水事業をなしとげた」などと評価されています。しかし、この場合の治水とは付随する河川改修の意味で理解するべきなのか、溜池を造成した結果として治水(洪水調節)効果が付随して得られたものと理解すべきなのか、筆者にはいまだに判別がつきません。 

筆者は、利水のための溜池造成や取水堰の建設というものは古来あったであろうと思いますが、堰堤や溜池を造ることで洪水調節を図ろうとしたことはなかったのではない か、すなわち「積極的に治水を目的としてため池を造ろうとしたことはなかったのではないか(少なくとも江戸期までは)」という考えを持っていました。つまり、古来より人は基本的には氾濫の恐れのある広義の川の領域には住み着かなかったのであり、飛び畑や島田のような形で中洲を耕作地として利用することはあっても、木曽川などの輪中集落は別として氾濫原そのものに住み着くまでには至らなかった(そこまでが川の領域であった)と理解していました。

ですから、「溜池を造ることによって洪水を調節しようとする意識があった」のかどうなのか、八兵衛に聞けたら聞いてみたいものだと思うのです。

それはさておき、この本にはダムの語源について面白い話が載せられていますので、ほんのさわりだけをご紹介させて頂きます。

「古代インドアーリアンで、“置く”という概念と“基礎”という概念の言葉として、*dhoとか*dhe*dhe‘があり、ダムのことを*dheとか*dhoと称したことにはじまるという。その後、基礎に置く構造物の概念が明確化され、*dhobmosと称するようになった。花形役者Damの生誕地は古代インドアーリアンの地ということである。現在の中近東からインドにかけての地方である。なお、英語の動詞doの語源も、この*dhe*dhoにさかのぼるという。(中略)古代インドアーリアンで生まれたダムの概念*dheや*dhoは古代ギリシャに行き、そこで基礎の概念に、さらに下部の概念も加わり、ダムの概念がさらに固まってきて、ギリシャ語Δα〜Mα‘Ω(ダマーオ)となった。(中略)一方原始独語に*dhobmosから転じてdammazの用語が使われるようになった。この言葉が一四世紀になり、中世オランダ語と中世低地ドイツ語でようやくdamという形で使われるようになった。この当時はいまだ水を止めるための柵、壁とそれによって止められた水の体そのものも合わせた概念のようである。(中略)オランダには“神が人をつくり、人が国土をつくった”という諺があるように、国土の約四分の一は海面下のいわゆるデルタ地帯で、延々と続くダムによって海水をせき止めている。

 オランダの首都はアムステルダム、第二の都市はロッテルダムであり、その名にダムが名付けられている。一三世紀、アムステル川の河口にあった漁村にギスブレスト二世が築城し、堤防を築いて都市を建設した。都市名を“アムステル川の堤防”という意で『アムステルダム』と命名した。一方、小さなロッテ川がマース川に合流する地点に発達した港町は、“ロッテ川の堤防”という意で『ロッテルダム』と名付けられていた。この港町は外洋航路よりマース川、ライン川の内陸水運に荷を積み替える港として、今やヨーロッパ最大の港の一つにまでなった。ダムが都市の守護神そのものなのである。ダム名が名付けられた町が、今や世界的な大都市にまで発達していった」


「塘」は「とも」「ども」と呼ばれていた?


「塘」の意味はお分かりかと思いますが、肥後の「とも」、「ども」の濃厚さはただ事ではありません。一部には(『漢字源』)これを訓読み扱いにするものもあるようですが、基本的には古語よりも(もちろん古語なのですが)方言の扱いでしょう。しかし、単に方言とか(古語)では済ませないものを感じるのです。

なぜならば、最低でも、熊本市銭塘(ぜにども)町の銭塘とは元代の臨安府が置かれた杭州のことであり、宗、元、明期の中国と交易を今に伝える痕跡地名だからです。

マルコ・ポーロが杭州に来ていた事はどなたもご存知ですが、ヨーロッパと繋がっていたことがこの一事をもってしても理解できるはずです。

してみると、まず、銭はともかく、「塘」はドモという中国本土の音を写したとしか思えないのです。

少なくとも当時の肥後が大陸文化に直接洗われる土地であったとまでは言えるようです。


【臨安】りんあん

南宋の首都。今の浙江省杭州市。1129年臨安府と改称。臨時の都という意味で「行在」と称。

(『広辞苑』)


揚子江下流の銭塘江を“せんとうこう”と呼び(読み)ますが、これはいわゆる日本流の漢音でしかなく、現地のしかも当時はどのように発音され、日本人がどのように理解したかは全く別の問題なのです。


発音はいかに?


辞典に「漢音でトウ(タゥ)、呉音でドウ(ダゥ)」と書かれていたとしても、これは中国で学んだ遣唐使などが持ち込んだ中国音を八世紀頃の日本人の口で置き換えたものであって、当時の中国の原音そのものでないことは言うまでもありません。

当然ながら、中国の各地方で各々読み方が全く異なる事も頭に置いていなければなりません。まず、現在の現地音を考えてみましょう。上海近郊の水郷の町に西塘(シータン)があります。

これをアルファベットで表記すれば XiTang となるでしょう。

さらに、いくつか例を上げると、東チベットに理塘(リタン)、巴塘(バタン)があり、香港に觀塘(クントン)ショッピング・センターがあります。海に目を転じれば、海南島に月塘(ユエタン)村…があります。

ただ、専門外の分野であるため、友人の歯科医師の松中祐二氏(北九州市)に尋ねたところ、「塘」は、呉音 ドゥ(Dau)、漢音 トゥ(Tau)、韓音 ダン(Dang)、越音ドン(Dang)、門/(門構えの中に虫)南音 トング(⊃ng)、広東音 トン(Tong)となるとのことで、さらに古代まで踏み入れば、上古音で、ダン(Dang)中古音でも、ダン(Dang)、元中元音で タン(Tang)とのことでした。

まあ、ばらつきはありますが、タン、トン、ダン、ドンといったものの中のどれかというところで良いのではないでしょうか。特に、中国語は濁音と清音の差はほとんど意味のない言語であり、それは中国人が「ケームセンタートコあるか?」などと尋ねてくることからも経験的に明らかでしょう。

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肥後は日本の玄関口だった


さて、南北朝期、菊池水軍は有明海(松尾)、名和水軍は不知火海(徳淵)を拠点にして明などとの交易を行なっていたのですし、その通行の歴史は「呉は大伯の後」と呼ばれる呉越同舟の呉の時代以来とさえ考えられるのです。

特に面白いのはこの地名「塘」の分布領域が事実上肥後一国に限定されていることです。

もしも南北朝騒乱期にこの地名が持ち込まれたとすると、宮方を支えた菊池氏、阿蘇氏、五条氏の中枢であった菊池武時、武光といった発展期ではなく、完全に肥後一国に押し込まれた衰退期に成立した地名とも考えられるのですが、単純に十四世紀末の外来語と言えるかは、なお、疑問が残ります。

しかも、八代から玉名、山鹿となれば、歴史的な関係から考えて、まず、呉音に注目しますが、もしかしたら、「トモ」、「ドモ」はさらにもっと古い時代の音を残しているようにも思えてなりません。

その一つは、上記の一帯には横穴墓が大規模に分布していることがあります。

この墓制は揚子江の中〜上流の少数民族の一帯(彼らは漢族に追われて山に上がったのです)に色濃く分布するもので、どのように考えてもこの古い墓制を持った人々が揚子江河口の会稽辺りから出発し舟山列島で舟を東に向けたはずなのです。

一般的に横穴式石棺墓は古墳時代も後期の墓制などと言われますが、それは、使用されなくなった横穴墓に後に石棺が埋納されたことなどからであって、本来の墓制ではないのです。そう考えれば、中間市大字岩瀬に塘の内の例を上げましたが、この一帯にも横穴墓があったようです。

この菊池川一帯に分布したはずの数千余の横穴墓は、古墳時代後期のものなどではなく、もっと古いものであるはずなのです(昔の考古学会では縄文時代のものとしていた)。そのことを物語るかのように、直接、川や湖に面した垂直の崖の中ほどを抉って造られた横穴墓群のさらに上の丘陵平坦部天端部にあたかも征服者のように一般的な古墳が置かれていることでも分かるのではないでしょうか?

そのほかにもいくつかの傍証がありますが、ここではそこまで踏み入らず、再度、話を先に進めます。

結論から言えば、とも、どもは中近東に派生したダムの原音とでもいうべき音を写したものではないかと思うのです。

当然ながら、中国の「塘」がドモ、ドン、ダンなどと呼ばれていた可能性もあり、逆にその音が西に伝播した可能性も否定できません。

前述した竹林征三氏の『ダムのはなし』には、大モンゴル帝国が建設した二つのダムの話が書かれています。一つはテヘラン南西のガブマハ川に造られ結局水が溜まらず失敗したサベーダムやテヘランの南西一七〇キロのケーバル川に高度な技術で建設されたケバールダムの話が出てきます。

これが、実際にダムと呼ばれていたかどうかも不明ですが、シルクロードを経由して、このダムもしくはドモという音が揚子江下流辺りまで伝わったとすることは十分に可能であり、それが届いたのが八代の徳淵や熊本の高橋辺りだったのではないかと思えるのです。

荒唐無稽と考えられても構いませんが、熊本県の緑川の支流浜戸川に加藤清正によって造られたとされる轡塘(クツワドモ)と呼ぶ河川構造物(決堤、破提を緩和する装置)があります。これと同じ構造を持ったものが、中国とイタリアにも見られるという話を河川工学の専門家から聴いた事があります。実用的な技術は呼称や音よりも早く確実に伝播するものなのです。

このように考えると、当時のウォーター・フロントであったはずの熊本市城山町大塘(おおども)、熊本市銭塘(ぜにども)町の「ドモ」という音が理解できるのです。

ここまで踏み至ると、ヨーロッパの西の果てのロッテルダム、アムステルダムから、中国、そして、日本、少なくとも熊本まで、このダムという言葉の帯が拡がっているという世界性に戦慄を覚えるのです。

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蹴破り伝説をもつ阿蘇神社前の古い農協倉庫(洪水時の舟が今も吊るされている)山鹿市 坂田 塘

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昭文社県別マップル道路地図熊本県

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記