2020年02月01日

681 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… G “そもそも三女神とは何なのか”

681 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… G “そもそも三女神とは何なのか”

                                     20181027


太宰府地名研究会 古川 清久


現在の公式の見方に沿い宗像大社を考えるならば、第二宮(テイニグウ)に沖津宮の田心姫神、第三宮(テイサングウ)に中津宮の湍津姫神がお祀りされているという「日本書紀」に沿った形で三女神は表現されています。

そのことから辺津宮には市杵島姫を祀っているという事になるはずなのですが、辺津宮の公式は市杵島姫を祀るようにも見えつつも?三社全体で三女神を祀っているというのです。

一見するとそれでバランスがとられウィングを精一杯拡げて勢力を誇示しているようでもあるのです。


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ただ、良く知られている事ですが、「古事記」では 沖ノ島の沖津宮 多紀理毘売命=奥津島比売命、大島の中津宮 市寸島比売命=狭依毘売、田島の辺津宮 多岐都比売命 …と「日本書紀」とは記述が異なります。

これらは、三女神を祀るとしつつも、古来その各々の勢力の確執が反映されており、それを閉じ込める意味で全てを祀ることにしているうちに、実際にはどなたがどこに祀られるとする関係も含め混乱(もう滅茶苦茶ですね…)が生じたのではないかと考えています。

従って、実際に神殿にはどのような祭神配置がされているのかを確認しなければ何とも言えないのですが、我々が考えている大国主命祭祀も含め…実際にはかなり興味深い問題が残されています。

これらの混乱は、まず、本当に血を分けた三姉妹なら良かったのですが、そのようなお花畑の中のような話はないのであって、同じく天御中主命の系統とは言うものの、全くの姉妹とは言えない間柄であった事から、各々の氏族の系統に対する認識の混乱が生じただろう事は、まず間違いないのではないでしょうか。

つまり、豊玉彦=ヤタガラスを軸に関係のある阿蘇氏、高木大神、阿蘇氏、金山彦系が娘を送り込み、各々の氏族、各々の民族が交差する十字路となっているのだと思うのです。

一方、全体としての三女神に象徴される天御中主系、白族系の人々も政治情勢の変化によって、姫大神とか三女神とか玉依姫とか、また、沖津宮、中津宮、辺津宮の祭神も入れ替えられた可能性が結果したのかも知れません。

辺津宮は「日本書記」に沿って市杵島姫と言われつつも、同社HPは全体として三柱を祀るとしているのは単に混乱を収めたいだけなのかも知れません。

ここで、百嶋神社考古学の立場から再度検討して見たいと思います。

まず、百嶋氏が最後に書き残した最終神代系譜にも三女神が書き留められています。

直ぐ分かるのは、タゴリヒメと書かれている豊玉姫(父=豊玉彦と母=高木大神の長女豊秋ツ姫)であり、豊玉彦の姉のアカルヒメとスサノウとの子である市杵島姫もお分かり頂けるでしょう。

このお二人の女神は他の百嶋神代系譜と併せ考えても三女神のお二人であるうえに大国主命のお妃である事は分かります(ウムギヒメ、キサガイヒメ)。

ただ、百嶋系図でも殆ど伏せられていたのがタギツヒメで、豊玉彦と櫛稲田姫(スサノウのお妃)の間に産れた我々が鴨玉依姫と呼ぶ下賀茂神社の主神こそがタギツ姫になるはずなのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)

百嶋由一郎最終神代系譜、音声CD、手書きデータ・スキャニング等を必要とする方は09062983254まで


無題.png そもそもこの三女神とは全て神産巣日神 神皇産霊尊 神魂命と書かれるカミムスビの子の豊玉彦=ヤタガラスに絡む三人の女神のことなのです。

それは、元々スサノウが天照との誓約とか子産み競争の子などではないのですが、腹違いの姉妹や姉の娘も含めた同族と言うか対立含みの腹違い姉妹なのです。

問題はそこにお妃として送り込んだ民族集団であって、これらの意向が各々色濃く反映されているのではないかと考えています。


市杵島姫 外戚 スサノウ、金山彦系


豊玉姫  外戚 高木大神 彦山系


鴨玉依姫 外戚 阿蘇高森草部吉見系

(草部吉見はお妃も高木大神の次女のタクハタチヂヒメであったように、伽耶部の名の通り、高木大神の本拠地である新羅の伽耶系であり実質高木大神系とも言える)。

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2020年02月03日

682 有明海、不知火海周辺の十五社神社は阿蘇神社ではなかった“宇城市の十五柱神社から”

682 有明海、不知火海周辺の十五社神社は阿蘇神社ではなかった“宇城市の十五柱神社から”

                                     20181105


太宰府地名研究会 古川 清久


 熊本県の宇戸半島の付け根に旧不知火町(現宇城市)高良に十五柱神社があります。

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「熊本県神社誌」86p 

5 村 浜田拾五柱神社 不知火町高良426 神直日外14 806坪(境内)108(祭日)13坪(社殿)

和銅6年(713) (創立年) 150戸(氏子戸数)中林常堅(祀職)

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この神社の話に入る前に、十五社問題に触れておかなければなりません。

神社誌にも書かれている通り、天草周辺には異常なほどの十五社神社と言われるものがあります。

以前から、これは阿蘇氏が影響力を拡大した時期に阿蘇「12神」が覆い被さったもので、元は龍王を祀るものだったのではないかと考えていました。

 大体、古代において阿蘇の騎馬軍団が船に乗って天草を支配していたなどとは到底考えられず、南北朝争乱期以来の阿蘇氏の跋扈によって祭神が塗り替えられたのではないかと思っています。

 要は、有明海などに数多く拾える龍王社、龍神社、海童神社…と同種の大幡主、直接にはその子である豊玉彦=ヤタガラスを奉斎する神社と考えられるのです。

 昔から尻取り遊びで、ラッパ、ライオンぐらいしか単語が乏しく、それも外来語であることから、元々、日本語にいわゆるR音(これについてはR音,L音に分離されていないとか、日本語のR音はL音だとか混乱していますが)は存在していなかったという話もあり、「龍王」も「ライオン」→「ダイオン」、「ラジオ」→「ダジオ」と幼児語発音の様に、「十王」「十五」と発音されていた物を阿蘇の12神+3神で十五社神社と仕立て直したのであり、本来、大量の十五神社群は、元々龍王=豊玉彦=ヤタガラスを祀っていたのではないかと考えるのです。

 前にも書きましたが、龍王(リュウオウ)を正しく発音できなかった事については、柳田國男も東北の「十王堂」を元々は「龍王堂」だったと考えていた事で発送しただけの事でしかありません。

 このように、天草周辺ではごっそり龍王社が十五社に祭神入替が行われた可能性を考えるのです。

 これは、地名にも反映されており、佐賀県佐賀市の南の干拓地に「十五」と呼ばれる地区(佐賀市嘉瀬町大字十五)があります。

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十五柱神社由緒

「和銅六年癸丑年 元明天皇の勅願に依り、現宇土市西岡神宮御神体着船の所なし。故を以って海童神を崇の社壇を作らせ、十五柱神社と称する。現在の塚原区の人達がその事を記念し諸神をまつり 永く代々崇敬した。

西岡神宮古書によれば、十七日社前の海(現十五社付近)に於て附近の神職達あまた禊払をなし、十八日此所 十五柱神社大祭を執行し、御供膳百貮拾膳を捧持し本社西岡神宮に到り、翌十九日西岡神宮大祭を執行したとある。例祭日十八日には、馬追、神楽などの神賑行事が行われている。

又、境外社前には御舟石といって、昔日西岡神宮到着の時の舟をつないだといわれる石が残っている。」


十五柱神社の仁王像による


このように考えていたところ、この多くの十五神社が阿蘇系神社などではなく元は全く違う神社だったのではないかと思わせる旧不知火町の十五柱神社を見出したのでした。

以下の由緒をご覧ください。

拾五柱神社と表記を変えている事も、古来そうであったと言おうとしているようにも、他の十五社神社との軋轢を避ける意味にも思えますが、祭神を見る限り阿蘇の血筋を引くのは大直日神=阿蘇北宮の国造神=速瓶玉神(父神=草部吉見、母神=市杵島姫)程度であり、「熊本県神社誌」が6タイプに分けてまで分析しようが、それは各々の地域の祭神に併せ、アレンジしたものと考えれば納得できるのではないでしょうか?

神社誌にも記述がない為、宮司からの聴き取りもない中では軽々には言えませんが、底土神は、以前から申し上げている高良玉垂命=底筒男命であり、大綾津日神はそのお妃神功皇后(仲哀死後)、赤土神は金山彦、彦龍神は豊玉彦、姫龍神はその娘豊玉姫、八十柱津日神は不明、神直日神は鴨玉依姫、大直日神は前述の大山咋=阿蘇国造…以下省略となりそうです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)



百嶋由一郎最終神代系譜、音声CD、手書きデータ・スキャニング等を必要とする方は09062983254まで


と、ここまで確認し駐車場に戻ると、正面に奇妙な柴刺風のものを見つけました。

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同社の隣には十五区公民館が置かれ、駐車場にはゴミの収集施設が置かれていました。

そこにこのクナトの神、ナガスネヒコが書かれていたのです。

多分、この公民館側からフェンスを越えるな!という警告文の意味なのです。

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ヤチマタヒコ、クナトノカミ、シナトベノカミ…が並んでいます 神殿は鞘殿です神紋も

九曜星で天御中主(妙見神)大幡主系ですね 神額も製鉄神を意味する炎の神額なのです


 アメノヤチマタは猿田彦に準える方が多いのですが、それはそれとして、ヤチマタヒコ、ヤチマタヒメは、本来は、金山彦の孫にあたるナガスネヒコとオキツヨソタラシヒメと考えるべきなのです。

 ただ、心配なのか、クナトに立ちふさがるナガスネヒコの意味で進入禁止のお札を立てられているようです。宮司はかなりの知識をお持ちのようです。

 そう思って、熊本地震で建て替えられた鳥居の神額を見ると金山彦の炎のそれでした。やはり金山彦の後裔の神々が祀られる神社であり、間違っても阿蘇十二神+αの神社などでは無いのです。

 この地は、そもそも不知火町高良と呼ばれており高良八幡神社もあるのですが、そこは応神に塗り替えられておりその基層は一向に探れません。

 由緒書きにも登場した西岡神社も二度ほど参拝していますが、一向に如何なる神社なのか見当がつきません。

 この宇土半島、古くは宇土島であり、松葉の瀬戸(鹿児島本線はそこを通してあります)が洗っていたとの話(「宇土市市史」)もあるのです。と、すれば、この地は有明海と不知火海を連絡する要衝であって、古代に於ける重要性は想像を超えるものなのです。

 残されているはずの古い神額を是非とも見たいものです。

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2020年02月06日

683 宇土半島の付け根にも熊野神社があった… “旧松橋町の松橋神社”

683 宇土半島の付け根にも熊野神社があった… “旧松橋町の松橋神社”

                                     20181105

太宰府地名研究会 古川 清久


 タイトルが惚けていますが、地名をそのまま神社名とした神社は、神社誌などで事前調査でもしない限り参拝するまでは分からないとなるのですが、何度も通過した道路であり神社でありながらこれまで気にも留めていないのは社名からもたらもたらされるものでしょう。

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阿蘇でも南阿蘇の高森町に鎮座する色見熊野坐神社、上色見熊野坐神社があります。

近年パワー・スポット・ブーム(アニメ映画「蛍火の杜へ」)で上色見熊野坐神社が脚光を浴びています。

さらに氷川町立神の熊野坐神社、あまり知られていませんが熊本市内にも十社を超える熊野坐神社が存在しているのです。

勿論、筑後にも熊野神社はいくつかありますが、これほどの集積は見えないことから、熊本市がこの熊野系神社の震源地であることは考えられない話ではないのです。

 何故ならば、この熊野系神社の熊本市に遡るルーツは八代〜氷川に掛けての不知火海沿岸の妙見神社、霊符神社などであり、その後、大幡主系神社の紀州(和歌山県)が熊野への移動している事を知るからです。と、すると宇戸半島に一社ぐらいあっても…と考えていましたが、松橋神社という名称ではグーグルが拾えないのでしょう。

 まあ、これとて完全なものではなく、阿蘇高森の色見熊野坐神社、球磨村神瀬の熊野坐神社、氷川町の熊野坐神社…が漏れているのですから目安でしかないでしょう。

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ここで、「熊本県神社誌」に書かれている熊野三神を再確認しておきましょう。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋由一郎最終神代系譜、音声CD、手書きデータ・スキャニング等を必要とする方は09062983254まで


県神社誌には同社の祭神は「熊野三座」と書かれています。

 この三座とはどなたなのかを再確認しておきましょう。


熊野本宮大社 アカルヒメ スサノウのお妃となりますが、国東半島の姫島に帰って来たとされています。

 市杵島姫を連れていたと考えられますが…それが宗像三女神の重要な一神となります。

熊野那智大社 イザナミ 百嶋神社考古学ではイザナギと別れ、大幡主のお妃となっておられます。

 ある程度神社に精通された方ならば、イザナミを祀るもイザナギが祀られていない祭祀が数多く存在する事は見当が着かれると思います。実は政略結婚もあり別れておられるのです。その後の名前がクマノフスミノミコトなのです。

熊野速玉大社 大幡主は良くご存じの博多の櫛田神社の主神であり、豊玉彦=ヤタガラスの父神ですが亀甲紋用をシンボルにされています。


境内には、神木がありました。綺麗な六角形の柵が造られていますが、大山祗系では八角形(隅切角)になります。

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これも熊野坐神社の特徴ですので、こういったことから神社の性格を把握していく事になるのです。
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境内向かって右に置かれた摂社 水波能売神


水波能売神は水の神様でもありますが大山祗の妹にあたります。

恐らく宇戸周辺にも大山祗系の勢力が展開して名残でしょう。事実宇土市にも大山神社がありましたね。

 最期に、前ブログで、“この宇土半島、古くは宇土島であり、松葉の瀬戸(鹿児島本線はそこを通してあります)が洗っていたとの話(「宇土市市史」)もあるのです。と、すれば、この地は有明海と不知火海を連絡する要衝であって、古代に於ける重要性は想像を超えるものなのです。”と書きました。

 宇戸半島の宇戸の意味ですが、以前からこれは「大門」(オオト)の意味ではないかと考えていました。

 九州(瀬戸内海に面した豊前を除きますが)では「大事しでかした」ことを「ウゴートシデカシタ」と表現します。

 O音がU音に変わるのです。してみれば、有明海から安全に不知火海に移動できる水道が存在していたとすると、ここには大きな門が存在したのであり、それが「ウト」と呼ばれ宇戸と表記された可能性があるのです。

 同様に、鵜戸神宮も、大きな海食洞である事から鵜戸と呼ばれているのです。

 この松橋の熊野坐神社の認識はかなり重要で、今後、新たな展開を見せる切っ掛けになりそうな気がしてきました。尚も探索は続きます。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記