2020年01月28日

ビアヘロ118「宮原誠一の神社見聞牒」からF “崇神東征と卑弥呼・大幡主の神霊東遷と近畿王朝の確立”

ビアヘロ118「宮原誠一の神社見聞牒」からF

崇神東征と卑弥呼・大幡主の神霊東遷と近畿王朝の確立

                                                                      20191130

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 メンバーの宮原誠一氏による「宮原誠一の神社見聞牒」にかなり重要な論文が連続して掲載されています。ご好意により全文を転載させて頂く事になりました。

 今回は神武巡行、崇神東征に関する宮原見解と九州王朝系天皇の話です。今後どのような展開を見せるか興味津々です。一般の方にとっては驚愕の内容ですが、百嶋神社考古学とはそれほど破壊的なのです。

まず、通説の理解では神武巡行と崇神東征とが実際にはごちゃごちゃにされているのです。

 神武天皇は列島各地を巡行しており、その痕跡も多くの神社の伝承に残っているのですが、記紀に偏重する行政や通説派はこれらの荒唐無稽なものとして神武巡幸伝承の調査を怠り放置しています。

 これについては、九州島から筑豊から広島、岡山から徳島、山梨…など各地にあります。

 代表的なものから一部ですが甲府の天津司神社をご紹介しておきます。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

565

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 D “天津司舞の天津司神社にやって来た”

564

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 C “天津神社にも奴奈川神社が置かれていた”(下)

563

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 B “天津神社にも奴奈川神社が置かれていた”(上)

562

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 A “糸魚川市の奴奈川神社は市杵島姫を祀る”

561

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 @ “甲府ィお参り願ほどき”

560

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 で考えさせられた甲信越の山上楽園の人々

 ひぼろぎ逍遥

787

懸案だった二つの天都賀佐比古(彦)神社を参拝 “徳島県美馬市”


宮原氏も「椎根津彦を中心とした九州王朝神霊東遷の話」と書かれていますが、椎根津彦を百嶋神代系譜から探ってみましょう。ご覧の通り百嶋見解では椎根津彦は崇神の弟なのです。

無題.png

無題.png2019-11-28 16:30:00

宮原誠一の神社見聞牒(129)
令和元年(2019)1128


No.129 崇神東征と卑弥呼・大幡主の神霊東遷と近畿王朝の確立


前回の記事「No.128 糸島市桜井の岩戸宮の安曇磯良と金印」にて「大幡主と金印」を一旦中断して、日本の古代史で大きく誤解されている「神武東征」に進みます。
本当は「神武東征」ならぬ「崇神東征」です。神武東征は『記紀』の創作神話です。
『記紀』でいう神武東征とは 神武天皇と大幡主を中心とした日本列島巡行視察
 神武天皇に対する長髄彦の乱(倭国大乱) 椎根津彦を中心とした九州王朝神霊東遷の話が混合された物語となっています。
椎根津彦による九州王朝神霊東遷の前に崇神東征があります。崇神帝は豊後の軍をまとめ、宇佐で軍を再編成(宇佐津彦の饗応を受ける)、関門を抜け日本海に出、若狭で安羅軍と合流若狭入りとなります。崇神東征は「神功皇后と応神天皇と武内宿禰」の若狭入りとタブって語られています。
神武天皇は福岡市南区柏原(奈良の橿原ではありません)、檜原(ひばる)の北にヒミコと隣あわせで居られ、後、糸島曽根に移られました。長住には神武天皇を祀る御子神社があります。皇后吾平津姫の扱いで倭国大乱のきっかけを作られた神武天皇は子息・懿徳天皇と共に姉ヒミコ女王に仕え、魏志倭人伝に云う「卑弥呼のもとに男性が二人使える」の二人になります。
「崇神東征」と「卑弥呼・大幡主の神霊東遷」は近畿王朝が確立し、日本列島の政治体制と神祇体制が新しく出発した出来事であるのです。
崇神天皇は神武天皇を僭称された「はつくにしらすすめらみこと」で近畿王朝の初代天皇です。日本書紀では、神武天皇(磐余彦)は事代主神の娘の蹈鞴(たたら)五十鈴媛を皇后とし橿原宮に即位したことになっていますが、蹈鞴五十鈴媛を皇后としたのは崇神天皇です。神武天皇は奈良の橿原宮で即位はされていません。これも、崇神天皇の神武天皇僭称の一つです。崇神天皇の神武天皇僭称の記述は至る所で見かけます。
あえて「近畿王朝」の言葉を使用しましたが、近畿王朝も九州王朝の一部です。
九州王朝は太伯王姫氏天皇家を指し、近畿王朝は白川伯王家の大幡主の系と阿蘇家多氏が婚姻結合された系です。その両家の集約されたものが崇神天皇なのです。
両朝の系図は「No.96 崇神天皇を祀る那珂川の現人神社と住吉三神」の「二つの王朝(九州王朝・近畿王朝)の系図」の系図を見ていただければよろしいです。
崇神天皇にとって、大幡主(白川家)、神沼河耳命(阿蘇家)、神八井耳命(阿蘇家)は太祖となります。
白川伯王家は太伯王姫氏天皇家の配下にあり、天皇家を支えられます。
しかし、後に、九州王朝は消滅し、崇神天皇の近畿王朝が奈良で勢力を拡大し、大和王権が成立します。仁徳天皇時代は両王権の並存時代と、私は位置付けています。
「卑弥呼(天照大神)の神霊東遷」については、「No.123 大日孁貴(天照大神)伝承の地・福岡市南部の檜原」の奈良県桜井市三輪の檜原神社にて触りを述べていますが、卑弥呼と大幡主の神霊東遷はセットです。これにより、後の大和神社伊勢神宮(内宮)が成立します。
近畿王朝は大幡主の存在を隠していますが、天照大神と伊勢神宮の神聖性から、後の藤原政権が大幡主の存在を消しているだけです。大和神社(おおやまと神社・奈良県天理市新泉町星山)の主祭神・日本()大國魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は大幡主です。
これらの東遷前の名残が、今の九州では地名として残っています。
伊勢神宮の前身の檜原神社は福岡市南区の檜原(ひばる)、その後は糸島市の曽根(ソネ)平原(ひらばる)です。「檜原」も「平原」も同義語で「高貴な丘」という意味です。
大和神社は佐賀県佐賀市大和(東隣が久保泉町和泉イズミ)として、東遷前の地名として残っています。「イズミ」は大幡主ご一統の地名です。泉の他に白川、白水(しらみず、しろうず)があり、白+水 → 泉 となります。
「大国魂神」とは、国家に寄与した古代の神に付けられる名前です。
今までに3例見かけています。
 倭大国魂神:孝霊天皇
 倭(やまと日本)大国魂神:大幡主
 武蔵(むさし)大国魂神:大国主
大国主の「大国魂神」の記録は九州にもあります。
『筑後国高良神名帳』の山門郡二十六前の神々に、「堤大国玉神」が記載され、福岡県旧山門郡瀬高町大字山門の堤集落の古天神社に祭神・大国主神が堤大国玉神として祀られています。堤大国玉神は大国主命です。
堤大国玉神・大国主命は孝霊天皇にヒミコ宗女イヨ様を皇后として世話され、婚姻仲人の第一号となり、世間は縁結びの神として崇敬されています。大国主命は出雲大社の縁結びの神として有名ですが、その起因を神前結婚式の第一号によるとされますが、私は孝霊天皇と皇后イヨ様の婚姻仲人の第一号に、その起因を求めます。
イヨ様が孝霊天皇の皇后になることにより、天皇家、物部氏(ウマシマジ、彦穂々出見命)が結束し倭国大乱は終息に向かいます。結果、孝霊天皇は「招福の神、楽楽福の神」として荒神=幸神とされますが、大国主命、彦穂々出見命(猿田彦大神)も幸神(さいのかみ、こうじん)と称されます。

堤の天満神社 福岡県みやま市瀬高町山門()1195

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御子神社 福岡市城南区樋井川3丁目43-16
表向き安徳天皇を祀るが、本当の祭神は神武天皇

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写真は福岡神社参拝帳HPから


崇神東征、神霊東遷の二つの大きな出来事により、近畿王朝は大和王権として確立していくのです。
九州王朝と近畿王朝は対立ではありません。延長です。
最近、非常に惹かれたブログの一節です。(無断転載で申し訳ありません)


歴史を何故?古事記や日本書紀のように、あんなややこしく日本の歴史を改竄する必要があったのか?と、強く敵対意識を持っていたとする。
それを指揮した主要人物が、実はルーツに繋がりがあるとすると!凄く複雑な気持ちになる。先祖を調べるとブチ当たる現実と言うものですかね。
で、私が「こんなやつ」って思えば、きっと向こうも「こんなアホ子孫」って、火花バチバチバチ・・・!って、なってんでしょうね。
だから勉強ばかりさせられるのかも。
普通が一番ですよ、何事も。
そして歴史の中で、一つの教訓と言うか何と言うか。
私の前世のような記憶のように。
最近は前世の記憶じゃなくて、私たちの先祖の記憶なんじゃないか!?って思ってますが。


仇討ちを繰り返せば永遠の悲劇です。悲劇はどこかで終わらせないと!
「過去の敵は現在の友」「過去の恨みは水に流し、日本の友よ!手を繋ごう」
日本の古代は、対立と融和を繰り返し、現在に繋げました。これにより、古代日本の多民族国家はひとつの日本民族国家となりました。世界に例を見ない良き国家です。
しかも、日本には、【祝詞】大祓詞(おおはらえのことば) という大祓(おおはらえ)の神事があります。恨み・ツラミ・禍事・罪・穢を川から海へ流し、それらを根の国・底の国に吹放ち、さらにさすらって消滅さす、という。すばらしい!です。
過去の敵は現在の友、「こんなやつ」「こんなアホ子孫」は止めて仲良くしましょう!
現代人が和解しなければ、過去のご先祖さん達の霊は対立したままです。
対立はどこかで終わらせないと!
それを終わらせるのが、「あなたと私」の仲良しです。過去の恨みは水に流しましょう。
「かぐや姫」は、どうして、こんなに役に立つのでしょう。

二つの王朝(九州王朝・近畿王朝)の系図


日本書記では十代歴代天皇を次のように記す。


.神武天皇(神倭磐余彦天皇 カムヤマトイハレビコ)

.綏靖天皇(神沼川耳天皇 カミヌマカワミミ)= 金凝彦・高龗神(たかおかみ)

.安寧天皇(磯城津彦玉手看天皇 シキツヒコタマテミ)= 大幡主・大若子・塩土老翁・大地主神

.懿徳天皇(大倭彦耜友天皇 オオヤマトヒコスキトモ)

.孝昭天皇(観松彦香殖稲天皇 ミマツヒコカエシネ)= 天忍穂耳命・大年神

.孝安天皇(倭足彦国押人天皇 ヤマトタラシヒコクニオシト)= 御年神・波比岐神

.孝霊天皇(大倭根子彦太瓊天皇 オオヤマトネコヒコフトニ)

.孝元天皇(大倭根子彦国牽天皇 オオヤマトネコヒコクニクル)

.開化天皇(稚倭根子彦大毘毘天皇 ワカヤマトネコヒコオオビビ)

10 崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖天皇 ミマキイリヒコイニエ)=都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)


百嶋神社考古学神代系図では、天皇は姫氏・呉太伯王の流れとする。それ以外の天皇は日本書記によって与えられた天皇で、即位していない天皇=()天皇として扱います。

よって、本来の天皇は次のようになります。


.神武天皇(神倭磐余彦天皇 カムヤマトイハレビコ)

.懿徳天皇(大倭彦耜友天皇 オオヤマトヒコスキトモ)

.孝霊天皇(大倭根子彦太瓊天皇 オオヤマトネコヒコフトニ)

.孝元天皇(大倭根子彦国牽天皇 オオヤマトネコヒコクニクル)

.開化天皇(稚倭根子彦大毘毘天皇 ワカヤマトネコヒコオオビビ)

無題.png

百嶋先生からは開化(高良玉垂命)と神功皇后の長子仁徳(シレカシノミコト)が九州王朝系の最期の天皇だと聴いておりました。ひぼろぎ逍遥(跡宮)350に以下を書いております。

 僭越ながら、紙面調整の必要性もあり再掲載いたします。

350

和風諡号から考えてみた


350 和風諡号から考えてみた  20170117 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久 


@  神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)       九州王朝正統皇統

A  綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト)            阿蘇系(黎族)

B  安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)         大幡主(白族)

C  懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)      九州王朝正統皇統

D  孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)          阿蘇系(黎族)

E  孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシシヒコクニオシヒトノスメラミコト)玉名半阿蘇系(黎族)

F  孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)   九州王朝正統皇統

G  孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)  九州王朝正統皇統

H  開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

I  崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)       黎族+白族

J  垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト)         宮崎生目神社主神

K  景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)    玉名半阿蘇系(黎族)

L  成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)               素性系統不明

M  仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)            九州、山口に痕跡

N  応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)               宇佐素性系統不明

O  仁徳 大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト)               九州王朝正統皇統


一応、16代までの天皇の和風諡号を「日本書紀」に沿って並べて見ました。

 百嶋神社考古学では@、C、F、G、H、M の6代だけは呉の太伯の流れを汲む正統皇統の天皇と考えます。では、それ以外の10人の人物はとお考えになると思いますが、

2代贈)綏靖天皇とは、現在、阿蘇神社の神殿最奥部に祀られている金凝彦(神沼河耳命)であり、第3代贈)安寧天皇が誰かは謎だったのですが、現在のところ博多の櫛田神社の大幡主(天理教の主神でもある)ではないかと考えています(研究会内部には他の人物への比定もあり、なお、検討中です)。

 第5代贈)孝昭天皇は、阿蘇高森の草部吉見神社の主神(ヒコヤイミミ)とされています。

 第6代贈)孝安天皇は、熊本県玉名市の疋野神社の「波比岐神」=大族日置氏の祖とされています。

 第10代贈)崇神天皇は、福岡県那珂川町の現人神社、博多の住吉神社の主神とされている年若の開化天皇の臣下とされていました。第11代贈)垂仁天皇は、宮崎市の生目神社の主神。

 第12代贈)景行天皇は、第6代贈)孝安天皇(玉名市の疋野神社)の子であり山鹿市の大宮神社の主神とされていますが、これについては疑いを持っています(景行伝承は存在していたと考えますが明治期に主神にされた可能性が高い)。


 俗に欠史8代とか9代とか通説では文字どおりの架空の神話扱いにされている部分を議論しているのであり、学会通説に阿ねて尾を振る教育委員会や学芸員といった利権まみれの方々からは、当然ながら狂人扱いにされる事は覚悟の上の話になります。

 奈良から日本が始まったとか邪馬台国は奈良にあったとしか考えられない考古学協会が作成した嘘話に取り込まれた方々はどうでもよいとして、少しでもまともな思考ができる最低でも邪馬台国九州説、九州王朝論の立場に立たれる方々でも、二倍年暦(倭人は一年を二年とする「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」)といった考え方で納得されている方が多いと思います。

 ところが、実際には血統も民族さえも繋がらないただの臣下でしかない人物が後に贈る天皇扱いとされ、

全く整合性のない皇統譜が造られている事が見えて来ました。

勿論、藤原氏が自らの側に取り込みたい有力氏族の祖を天皇に仕立てただけなのですが、これが、タラシ系とかイリ系などと言われる事と関係しているのです。これは、宮内庁、神社庁は十分理解されているはずなのです。

元々、「古事記」の95%が嘘、「日本書紀」は部分的に正しい事を書いていると言われた百嶋先生でしたが、「阿蘇ご一家神代系譜」などに、前述した初期の天皇、贈天皇、別王が実際には誰であったのかについてのメモ(ヒント)を残しておられました。まずは、その事についてご紹介しておきます。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記