2020年01月24日

679 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… E “宗像大社の祭神は元から三女神だったのか”

679 何度も足を運んでいる宗像大社ですが… E “宗像大社の祭神は元から三女神だったのか”

20181027


太宰府地名研究会 古川 清久


話は宇佐から始まりますが、宇佐八幡宮の二之殿(と言っても勅使門正面ですので主神としか思えません)が姫大神とされ同社の見解としても宗像三女神が祀られています。

一方、足一騰宮(記)とも一柱騰宮(紀)ともされ、宇佐神宮の元宮との呼び声も高い宇佐市安心院の妻垣神社は、現在(元は必ずしもそうではなかったのですが)は玉依姫を主神としています。

このことが、宗像三女神が祀られる宇佐神宮がそもそも一殿三女神であったのかを考えさせるのです。

 突然、話が宇佐や安心院に飛び混乱されているのかも知れませんが、これは宗像大社にも直結する事なのです。それは、宗像三女神は 筑豊の鞍手郡鞍手町室木に鎮座する六嶽神社に降臨したとされ(鞍手郡に伝わる六ヶ岳神話では宗像三女神が最初に天降ったのは六ヶ岳で地元では「三柱様」と呼んでいるのです)、私達が宮島の厳島神社や宗像大社よりも権威ある神社と考えている飯塚市鹿毛馬の厳島神社にも、三女神は宗像大社に鎮座する前に、また、鞍手の六ケ岳に降臨する前に日王山に立ち寄り、天照大御神を祭ったとの話があり、現在の宗像の地に三女神が鎮座する前に多くの前史が認められるのです。

 これらの問題がずっと頭に残っており、宗像大社問題にメスを入れる事ができずにいたのでした。

 思えば、三女神が仲良し姉妹などお考えになっているお花畑の中の方々は幸せであると思うばかりです。後は決められた話をそのまま頭に摺り込めば良いだけなのですから。

 この「姫大神」「三女神」「玉依姫」…の問題が解読できなければ一切前に進めないとの思いを募らしていました。加えて、東九州に顕著な市杵島姫、西九州に数多く認められる豊玉姫、そしてタギツ姫の影の薄さや白川伯王の本家と考えられる福岡県飯塚市鹿毛馬の厳島神社の存在。

 さらに言えば、宇佐神宮の元宮と言われる安心院の三女神社の鳥居の神額の問題、仮に道路脇の鳥居を一の鳥居とすれば、一の鳥居が三女神社ではなく二女神社とされ、二の鳥居が二女神社と書かれていたものを改竄し三女神社と戻されているとしか見えないという問題…それにこの三女神社を置いたのが筑紫君とされている事…と、解決に近づけば近づくほど答えは遠のいて行くばかりなのです。

 外にも ひぼろぎ逍遥 スポット版、ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ版でもかなり書いていますが、とりあえず、以下辺りから再読して頂かなければなりません。

ひぼろぎ逍遥

230

白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

125

宇佐神宮とは何か? S “宇佐神宮の勅使井と百体神社”

124

宇佐神宮とは何か? R “宇佐神宮の隣の国東に鎮座する八幡神社の境内社について”

123

宇佐神宮とは何か? Q “宇佐神宮の(仮称)中宮に鎮座する若宮神社とは何か?”

122

宇佐神宮とは何か? P “宇佐神宮の上宮に鎮座する三摂社を実見した?”

120

宇佐神宮とは何か? O “勅使来訪により呉橋が一般公開された”

106

白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

105

宇佐神宮とは何か? N “そろそろ本殿の探査に踏み込みましょう”

104

宇佐神宮とは何か? M “到津屋敷をご存じですか?”

103

宇佐神宮とは何か? L “御許山の別名=馬城峰(マキボン)とは「三国史記」の目支国のマキ”

102

宇佐神宮とは何か? K “境外摂社鷹居社とは何か?”

101

宇佐神宮とは何か? J “安心院の妻垣神社は自称神武こと崇神天皇を供応したか?”

100

宇佐神宮とは何か? I “安心院の三女神社は筑紫の君が祀った?”

99

宇佐神宮とは何か? H “安心院の三女神社は二女神社だったのか?

98

宇佐神宮とは何か? G “神宮の故地か?今も上宮内二摂社が院内町に鎮座する”

97

宇佐神宮とは何か? F “宇佐神宮の向こう側”

96

宇佐神宮とは何か? E “御許山の大元神社とは何か?”

95

宇佐神宮とは何か? D “宇佐神宮の境内摂社「大尾神社」をご存じですか?”

94

宇佐神宮とは何か? C “宇佐神宮宝物館の神輿は誰のものだったのか?”

93

宇佐神宮とは何か? B “宇佐神宮の神宮寺としての大善寺”

92

宇佐神宮とは何か? A “和気清麻呂は勅使道ではなく舟で上陸した”

91

宇佐神宮とは何か? @ “呉橋から北へと延びる勅使道”


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そうしたなか、前述の地元宗像であり当サイトの読者でもある方からの有難いご指摘を頂きました。

ネットで2.2 玉依姫=三女神の検証」を検索されればたちどころに到達できますが、以前から存じ上げていた、先行HP「玉依姫と神武親子の倭国乱」でした。この記事が非常に興味深いので、無断ながら(コメント欄が無く連絡ができない)是非読んで頂こうと考え全文を掲載させて頂くことにしました。

 特に、県道から二番目の鳥居は、二女神を三女神に改竄したとしか見えないもので(神額などの画像はアカルさとコントラストなどを変えて多少は見やすくしています)、普通は大国主のお妃となった二女神だけを祀っていたのではないか…?などと皆で考えていたものです。以下は安心院の妻垣神社の画像です。

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第1章 書紀と伝承から解き明かす玉依姫の出自

    1.1 海幸山幸神話の構造(鍵を握る二人のヒコホホデミ)

    1.2 先代ヒコホホデミの正体

    1.3 九州本土における豊玉姫の伝承

    1.4 対馬における豊玉姫の伝承

    1.5 豊玉姫の正体

    1.6 豊玉彦の正体、並びに豊玉姫との関係    


第2章 ヒミコと玉依姫の密接な関係

    2.1 「幻の皇祖神系譜」の補正

    2.2 玉依姫=三女神の検証

    2.3 大山祗(おおやまつみ)の正体

    2.4 玉依姫とヒミコとの接点

    2.5 玉依姫の出自の推察

    2.6 豊前国に残る玉依姫の足跡  


第3章 九州を横断した玉依姫と神武天皇親子の倭国乱

    3.1 九州島における神武東征伝承の概略

    3.2 玉依姫と神武天皇親子の倭国乱

    3.3 玉依姫の生涯(まとめ)


第4章 「幻の皇祖神系譜」の実年代の推定

    4.1 「幻の皇祖神系譜」の中核をなす人物の確認

    4.2 弥生の王墓から探る実年代の推定−その1−

    4.3 弥生の王墓から探る実年代の推定−その2−

    4.4 神武東征の痕跡から探る実年代の推定

    4.5 「幻の皇祖神系譜」の実年代の推定


★本HPは拙著『書紀にほのめくヒミコの系譜』(けやき出版2012年)の第一章二節の一部と第三章の要約版というべきものである。拙著全体から見た本HPの位置づけは下記の赤字の部分に該当する。


 以下全文掲載。

2.2 玉依姫=三女神の検証


 三女神といえば今では宗像(むなかた)神社の祭神として有名であるが、そもそもの発祥は、『書紀』にも記されているように豊前国一の宮宇佐神宮である。というのも、宇佐神宮から宗像神社へと三女神を遷幸させたとする伝承が両社を結ぶ曲線上の三社に残っているからだ。それはすぐ後述するとして、不思議なことは遷幸先の宗像神社の方は三女神で祭られている一方で、元宮の宇佐神宮には現在、三女神の名は見えず比売(ひめ)大神で祭られていることである。その概要はすでに【書紀にほのめくヒミコの系譜】等でも論じたが、ここではさらに詳述したい。

 比売大神について宇佐神宮由緒記によれば「社伝では、天照大御神とスサノオのウケイによってあらわれ、スサノオの剣を物実(ものざね)とした、三柱(みはしら)の比売大神で、筑紫の宇佐島に天降った神とされている」とあって、三女神は「三柱の比売大神」と絶妙な表現がなされている。それはともかくも、三柱を一座で表現された比売大神とは一体いかなる神か。

 それは、全国津々浦々に勧請されている宇佐神宮の祭神が勧請先ではなんという神で祭られているかを調査すれば判明するはずで、その結果は前にも述べたが、下表のように、『古事記』撰上の712年以前には玉依姫七社三女神一社比売大神一社であった。それ以降から宝亀元年(770)までを見ると、三女神九社、玉依姫三社、比売大神一社、木花開耶姫(このはなのさくやびめ)一社とトップが入れかわる。すなわち、三柱の比売大神とは、かつては玉依姫一柱であったのだ。

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それが記紀以降は、その影響で三女神に置き換わっていったということである。ここで注目すべきは『古事記』撰上以前においても玉依姫が三女神や比売大神として勧請されている例があることで、これは記紀以前にすでに玉依姫にこのような異名が存在していたことを意味しているとみてよかろう。

 それでは一体、いつ頃、またどういう理由で玉依姫(比売大神)は三女神に別けられたのだろうか。

 まず、別けられた時期であるが、宇佐神宮から宗像神社への遷幸途中に残された三社の伝承が語ってくれる。まず、飯塚市鹿毛馬(かけのうま)の厳島神社(下図の@)の由緒には「豊前国宇佐島より筑前国宗像郡沖津島に鎮座のとき、当村日尾山(ひのおさん)(現日王山[ひのおうさん])を越え給う古実をもって、景行天皇の御宇三女神を祭り今に社殿神石柱石等残れり」とあって、景行朝に遷幸されたとある。

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続いて、鞍手郡鞍手町室木(くらてまちむろき)の六嶽(むつがたけ)神社(A)の由緒には「この地は宗像三女神が降臨したゆかりの地で、孝霊(こうれい)天皇の御宇に宗像三所に遷幸ましまし宗像大神あらわれ給う」とあって、ここでは遷幸の時期が孝霊朝とされている。孝霊朝といえば、『書紀』の表向きの系譜では崇神の三世代前になるが私の推測ではそれはせいぜい崇神の一世代ほど前、すなわち4世紀の初め頃である(詳細は拙著『ヤマトタケるに秘められた古代史』の189頁に提示の「ヤマト王朝復元系譜最終案」)。

 次に見えるのは宗像直前の福津市上西郷(ふくつしかみさいごう)の神輿(みこし)神社(B八幡宮とも)で、「三女神遷幸の地」と伝承されている(『福岡県神社誌』「福岡県神社誌概論」11)。ここでは遷幸の時期はわからないが、最終地の宗像神社には「神功(じんぐう)皇后は征韓の際に(三女神の)神威を発揚され云々」とあることから、神功皇后が朝鮮半島に渡った4世紀後半(序章)にはすでに祭祀されていたことがうかがえる。

 このように玉依姫(比売大神)が三女神に別けられたのは記紀が編纂された8世紀初頭よりずっと以前のことで、4世紀の前後という線が浮かんでくる。注意すべきは、その頃別けられたにせよ、またこのとき、「三柱の比売大神」というような別称が生じたにせよ、宇佐神宮の方ではおそらく記紀以前にあっては、いまだ玉依姫で祭られていたと思われることである。それは前表にあったように記紀以前は玉依姫として勧請されていることが断然多いからだ。

 さて、次に別けられた理由を考察すると、宗像大社の由緒からある程度推定できる。それによれば「当社は沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮(なかつみや)、田島の辺津宮( へつみや)の三宮を総称して宗像大社と称す」とまずあって、次に「沖ノ島の沖津宮には田心(たこり)[多紀理(たきり)]、大島の中津宮には市杵島(いちきしま)姫、田島の辺津宮には瑞津(たぎつ)姫が、北九州と朝鮮半島とを結ぶ海上要路の『海北道中』宗像の地に鎮祭された」とされている。それゆえ、三女神は「別の名を道主貴(みちぬしのむち)と称し篤い尊崇を受けていた」のであって、「三柱合わせて一体の道主貴(みちぬしのむち)とも申し上げる」とある。

 これを勘案するに、朝鮮半島への渡海ルート上の重要三拠点に海上守護神として絶大な信頼があった玉依姫(比売大神)を宇佐神宮から勧請するとき、三拠点に分祀する都合上、三女神に別けられたというのが真相のようである。その際、宇佐神宮の方で玉依姫一体をまさか「三柱の玉依姫」とするわけにはいかないので、玉依姫という固有名詞を普通名詞に置き換えて「三柱の比売大神」とする異称が生まれたものと思われる。

 その推察を補強するかのように、宇佐神宮の比売大神は玉依姫と同体であるとする神社伝承が以下の二社に存在している。

 一社は玉依姫、神功皇后、八幡大神を祭祀している太宰府市の宝満山(ほうまんざん)にある竃門(かまど)神社だ。由緒によると「按(あん)ずるに玉依姫を中央主祭の神とし、神功皇后、八幡大神を左右に配祀せしは、宇佐神宮三座の神と御同神にして玉依姫は同神宮の比売大神と御同体にますなり」とある。その由緒中に、もう一社、近江国蒲生郡(がもうぐん)武佐八幡宮(現近江八幡市武佐町の牟佐[むさ)]神社)の社伝にも、「田心姫、瀛津<姫、市杵島姫この三神は玉依姫となづく」と記載されていることが示されている。

 以上より、玉依姫から三女神への変遷については、その歴史的背景も含めてほぼ判明した。残る課題は、それでは一体いつ頃、宇佐神宮が玉依姫を祭祀し始めたのかということである。当然、それは玉依姫の没後ということになろうが、その考察には玉依姫の足跡伝承を追う必要があるのであとで考証することにして、その前に今一度、自説「ヒミコ=玉依姫他五神仮説」(他五神はアマテラスとその三分身、及び木花開耶姫)が現時点でどのあたりまで検証されたかを図にまとめたので、折にふれ確認していただきたい。

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注:上記各等号におけるキーワードの内容は下記箇所を参考にされたし。
 @書紀のメッセージ(ウケイ):【日本書紀に……1.2 第二のメッセージ
 A宇佐神宮勧請先の祭神変化の分析(玉依姫三女神):本頁
 B出雲大社の境内摂社筑紫社の伝承:
   【日本書紀に……2.2 三女神と木花開耶姫の不思議な接点
 Cキ万神社、都農神社の記録:
   【大己貴(大国主)の国造り】2.4 降臨伝承経路中に……の最後のほう
 D書紀神代紀下の核: 【日本書紀に……4.2 神代紀下の核と謎
 E伝承:【大己貴(大国主)の国造り】2.3 降臨伝承経路中に…−その1−
   及び
2.4 降臨伝承経路中に…−その2−
 F『播磨国風土記』:
   【大己貴(大国主)の国造り】3.1 播磨国における大己貴伝承なかほど
 G書紀のメッセージ(天疎向津姫):【日本書紀に……1.3 第三のメッセージ
 H書紀のメッセージ(大日孁貴):【日本書紀に……1.1 第一のメッセージ 
 I父の伝承:下記および次頁  


 図からわかるように、「ヒミコ=玉依姫他五神仮説」において、玉依姫はアマテ ラスや三女神あるいは木花開耶姫とは『書紀』のみでなく各地の伝承によってクモの糸のように網目状にしっかり結ばれている一方、ヒミコとはわずかに『書紀』のメッセージによって、アマテラスを介して結ばれているにすぎず、いかにも頼りなげである。そこで、項を改め、ヒミコとその実体と思われる玉依姫との結びつきについて検証していきたい。

 その前に、蛇足ながら、玉依姫と木花開耶姫を結ぶ糸が両者の父を考察する中で浮かび上がってくることを述べておきたい。すなわち、玉依姫の父はヒコホホデミことスサノオであったが、木花開耶姫の父とされる大山祗(おおやまつみ)もスサノオであることが神社伝承学の継承者小椋一葉氏によって検証されている。これについては少々長くなるので頁を改めたい。以上全文掲載。


 非常に参考になるお話ですが、一点気になる事があります。ここで言うところの玉依姫の問題です。

神話では鸕鷀草葺不合尊の妃となり神日本磐余彦尊(神武天皇)ら四子を産んだ玉依姫とは崇神を産んだ鴨玉依姫ではないのですが、後の藤原が、それを、初代神武を産んだ神玉依姫に偽装することによって、第10代など格上げした神武僭称崇神(実際は開化天皇と神功皇后の臣下でしかなくてんのうなどではさらさらなかったハツクニシラススメラミコト)をあたかも初代神武と見せるために鴨玉依姫(京都の下上賀茂神社)を神話の玉依姫としたものではなかったか、宇佐、妻垣を巻き込んだ偽装の痕跡ではないかと考えるのです。ここでその鴨玉依姫を玉依姫とする崇神系(後の藤原氏)の意図を読み取って頂く必要があります。手口は極めて単純です、百嶋由一郎氏が後世に託した最終神代系譜をご覧頂きましょう。

従って、現在の混乱は、崇神の格上げのために偽装された玉依姫を元に戻すために、また、各々の系統を阿蘇系である藤原氏が大幡主系の重要氏族を取り込むために三女神に変更したのではないか?と考えるのです。

 まだ、検討の余地があるどころか探索の端緒に着いただけなのですが、何故、姫大神、玉依姫、三女神の混乱が生じているかの解明は古代の真実に直結しています。今言えるのは、妻垣神社で宇佐彦、宇佐姫から供応を受けた神武とは本物の神武ではなく崇神であり、東征を行なったのも開化の臣下としての業績でしかなかったのです。だからこそ妻垣神社には宇佐神宮の姫大神とは異なり玉依姫が祀られるのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)上下とも

百嶋由一郎氏が残した神代系譜、音声CD、手書きスキャニング・データが必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記