2020年01月17日

ビアヘロ 116「宮原誠一の神社見聞牒」からD “熊鹿文・熊津彦は大幡主・金印王ではないか?”

ビアヘロ 116「宮原誠一の神社見聞牒」からD 熊鹿文・熊津彦は大幡主・金印王ではないか?”

                                                                      20191128

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 メンバーの宮原誠一氏による「宮原誠一の神社見聞牒」にかなり重要な論文が連続して掲載されています。ご好意により全文を転載させて頂く事になりました。

 我々は九州王朝論者のほんの一角に存在しているだけの存在ですが、唯一、一般の九州王朝論者と異なる事があります。

戦前の国家神道化による反省からか戦後の古代史研究の主軸とされた海外史書+穴掘り考古学でした。

しかし、その手法に対する深い疑問から九州王朝の現場である九州島に残された多くの痕跡を辿る事から再度光を当て神社探訪を行ってきました。荒唐無稽な話として無視され続けてきた神社研究ですが、それが大きな展開を見せ始めました。そのきっかけとなったのが当時福岡市中央区唐人町にお住まいだった80代の故)百嶋由一郎氏でした。先生の話は始めはそれこそチンプンカンプンでしたが、その細い糸を繋ぎ繋ぎ、勿論、ブロガーばかりではないのですが、現在、数十枚の神代系譜と講演録をベースに全国で30名近い研究者が日夜ブログを書き、全体では控えめに見ても年間200300万件のアクセスを得ているものと思われます。当方だけでも、3ブログ[ひぼろぎ逍遥+ひぼろぎ逍遥(跡宮)+新ひぼろぎ逍遥]で年間60万件を超えています。

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これはひぼろぎ逍遥(跡宮)の11月実績ですが、日量平均アクセスは1000件を超えこれだけで年間40万件、他の二ブログと併せ日量1,500件程度(年間60万件)のアクセスとなっています。いつかは百万件超えを目指していますが、百嶋神社考古学の影響を受けたブログは、

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となっています。2020年度も宜しくお願いしたいと思っております。          (古川)

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No.127 熊鹿文・熊津彦は大幡主・金印王ではないか?             2019-11-11 11:00:00

宮原誠一の神社見聞牒(127)
令和元年(2019)1103
令和元年(2019)1111

No.127 熊鹿文・熊津彦は大幡主・金印王ではないか?


「松野連<倭王>系図」の系図の流れ(親子兄弟関係)、注記はあてになりませんが、記載される名前は信頼できるようです。この系図は、呉の太伯王家姫氏白川伯王家(大幡主)
阿蘇家多氏が"ごっちゃ"になって記載されているのではないかと思うのです。


<倭王>系図
この系図には、歴代系統の名前ばかりで、細かい事蹟は記されていないが、鈴木真年の考証注記かと思われるものが付記されている。左側の()内は、鈴本真年による注記と思われる。()
系図原本は『日本書記』作成に使用された後、大和朝廷に都合の悪い系図は召し上げられたまま、返還されなかったのではあるまいか。従って提出当時に写本を作る余裕もなかった倭王遺族としては、不確かな記憶を頼りに、『松野連〈倭王〉系図』を再調製したものと思われる。これが、点在する名前洩れや時代錯誤した事蹟傍注の原因になっているのではあるまいか。


平野雅廣氏著『倭国史談』


あまり当てにならない系図と思いきや、熊鹿文(くまかや 熊津彦)について以外な記載がなされています。
「松野連<倭王>系図」で熊鹿文(熊津彦)の注記では「後漢光武中元二年正月私通漢土受印綬
僭称委奴國王」と、鈴木真年の記載があります。
宇閇王(うえおう)の注記では「後漢光武帝中元二年正月貢献使人自称大夫賜以印綬」とあります。


後漢書』倭伝(范曄<はんよう 398-445>編集) では、
 「建武中元二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」
 ()建武中元二年(57)、倭奴国が奉貢朝賀す。使人は自ら大夫を称す。
 倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。
とあり、武中元二年(57)、倭奴国が奉貢朝賀し、「漢委奴國王」の金印を光武帝から印綬されたことになっています。
その倭国王が宇閇王(うえおう)であると、前回で私は見たのでした。


しかし、「松野連<倭王>系図」で熊鹿文(熊津彦)の注記では、熊津彦が「委奴國王」を僭称して、光武帝に私通漢土して印綬した、とあるのです。
つまり、熊津彦は委奴國王と成り済まし皇帝に朝貢して金印を受けているのです。
「委奴國王」は「いと国王」とも「わのな国王」とも読めます。
実は、記録には現れませんが、那()国の王様・大幡主は子息・豊玉彦を使者に密かに朝貢しているのです。それが私通漢土という表現なのでしょうか。
そして、使者の豊玉彦は「中郎将」の称号を受け、日本では「中将」様と呼ばれているのです。使者の豊玉彦は明確な国王の名称を誤魔化すために、どのような解釈でもとれる国王名を使用したと推測します。つまり、「委奴國王」は「わのな国王」とも「いと国王」ともとれるのです。このことが、「倭奴國王」「倭國王」の表記の混乱の原因かもしれません。

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金印「漢委奴國王」
          大幡主が受けたとみられる金印
「漢の倭の奴国王」

松野連<倭王>系図の流れ、代々の親子関係等あまり信頼できませんが、大幡主の年代は倭面土國王師升の時代と重なり、光武帝の時代ではありません。
熊津彦こと大幡主は倭の奴国王として、金印の「漢委奴國王」を僭称して、印綬したのではないでしょうか。その金印が、現存する大幡主が受けた金印「漢委奴國王」となるのです。公的に倭国王は存在しても、奴国王は存在しないのです。
大幡主の時代は、倭面土國王帥升が朝貢した安帝の時代となりますが、帥升は金印を印綬されていません。
現存する金印「漢委奴國王」は豊玉彦を使者に「委奴國王」を僭称して、大幡主が印綬された金印となります。
後漢書が正しいのか、大幡主が倭国王帥升を僭称されて金印を印綬されたのか、真実はわかりません。
そして、鈴木真年は記録には現れない「那()国王・大幡主は子息・豊玉彦を使者に『委奴國王』を僭称して密かに朝貢した」ことを知っていたことになります。

すると、光武帝から印綬された球磨の宇閇王への金印は「漢倭國王」ということになります。この金印は、ヒミコの金印「親魏倭王」と同様に、未だ見つかっていないことになります。宇閇王の金印「漢倭國王」は球磨の神殿原に収蔵されていたのかもしれません。倭国に金印が三個印綬されたのか?金印の偽造説も含めて謎だらけです。


それで、松野連<倭王>系図の熊鹿文=熊津彦は大幡主ではないかと思えるのです。現在使用される熊本県の「熊」は、本来は「隈」でした。大幡主ご一統が造られた村は「○隈」と称することが多く、代表に、福岡市の「七隈」、嘉麻市の「大隈」等があります。
大幡主は「隈王」、さらには「球磨王」と呼ばれたのではないかと推察するのです。
(
「熊」の字は「隈」「球磨」を貶めた字とみます)
また、松野連<倭王>系図に熊津彦と難升米の親子の記載があります。

ヒミコの朝貢の折、難升米(ょう)は「中郎将」の称号を受けており、この関係は大幡主(熊津彦)・豊玉彦(中将)親子関係に相当します。帥升、ヒミコ、大幡主、豊玉彦は同時代の人であり、この関係から難升米は豊玉彦に相当することになります? 松野連<倭王>系図が正しいとした話です。

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松野連<倭王>系図(平野雅廣氏著『倭国史談』)


熊本県球磨地方では、太伯王家姫氏と白川伯王家の大幡主は共存された時期があったと推察するのです。それが、「松野連<倭王>系図」では"ごっちゃ"になって記載される原因となったのではないでしょうか。

  (球磨)鹿文=熊(球磨)津彦=大幡主=隈王=球磨王

熊野神社祭神の「大幡主」は尊称であり、本当の名前(諱 いみな)、その他の尊称がひとつも見あたりません。もしかしたら、大幡主の名前は「隈津彦」「球磨津彦」かもしれません。
「熊野神社」の名称も「熊の神社」「隈の神社」「隈王神社」が基底にあったのでしょう。

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須玖岡本遺跡の王墓の上石を一旦移したすぐ近くの熊野神社の境内

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奴国の丘歴史資料館敷地に移された須玖岡本遺跡の王墓の上石1999(平成11)

春日市奴国の丘歴史資料館パンフ資料1999(平成11) 福岡県春日市岡本3丁目57

メンバーの宮原誠一氏による「宮原誠一の神社見聞牒」を継続してお読みください。


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須玖・岡本遺跡/須玖岡本遺跡 弥生/奈良 福岡県春日市岡本町5丁目・2-929596.


百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。

百嶋由一郎氏による講演録音声CD、神代系譜スキャニングDVD、手書き資料スキャニングDVDほか
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ