2020年01月14日

ビアヘロ 114「宮原誠一の神社見聞牒」からC 上 “金印の委奴國王と面土國王帥升と球磨郡あさぎり町”

ビアヘロ 114「宮原誠一の神社見聞牒」からC 上 金印の委奴國王と面土國王帥升と球磨郡あさぎり町”

                                                                      20191127

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 メンバーの宮原誠一氏による「宮原誠一の神社見聞牒」にかなり重要な論文が連続して掲載されています。ご好意により全文を転載させて頂く事になりました。

 宮原誠一氏は筑後地方を中心(久留米市の高良大社を軸)に40年間以上に亘って神社研究を続けて来られました。現在、「邪馬台国」研究者などと嘯く人々の大半が戦後の風潮によってか神社研究を荒唐無稽なものとして事実上無視しています。海外の史書+穴掘り考古学こそ戦後の科学的古代史の手法とでも錯覚されたのでしょうが、これとても京都学派と解放同盟の利権構造によって発掘予算を関西で独り占めにしたいとの思惑から邪馬台国九州説、ましてや九州王朝説などといったものが考古学協会から排斥されているのです。従って、畿内説と九州説の対立の背後に予算配分の問題が存在しているのであって、二度と再び吉野ケ里遺跡の様なものが出て来てもらっては困るのです。

 さて、最も熱心で活発な活動を続けてこられた元朝日新聞記者でミネルヴァ書房などから4著を公刊された内倉武久氏も当方のグループとのブログのリンクを張っておられますが、今回はこの「松野連系図」がテーマになっています。これを初期段階から研究し世に出された同氏も福岡市を中心とする似非九州王朝論者の○○古代史の会を見限り離脱されたやに聞き及んでいます。

 自らは現場に足を運ぶこともなく、ただただ他人の研究を拝聴して分かったような気になっているだけの団体は何の成果もなくいずれ歴史の屑籠に放り込まれるだけなのです。

他人の研究を中途半端に聴いて脳みそを介せず右から左に通過させるだけの人々は何の痕跡もなく消え失せるのであってこういった輩を相手にしていても何の意味もないのです。(古川)

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宮原誠一の神社見聞牒(126)
令和元年(2019)1028

No.126 金印の委奴國王と面土國王帥升と球磨郡あさぎり町


前記事「No.124 金印「漢委奴國王」は志賀島から出土したのですか?」にて、金印の委奴國王と面土國王帥升がおられた地域を熊本県球磨郡あさぎり町と想定しました。

『後漢書』倭伝に「建武中元二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」(建武中元二年(57)、倭奴国が奉貢朝賀す。使人は自ら大夫を称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。) とあります。
金印を光武帝から57年賜綬された時の状況で、ここに「倭国之極南界也」とあります。金印を賜綬された「委奴国王」は倭国の南端にあったことになります。
倭国の南端は南九州です。

さらに、50年後、「永初元年(107)、倭国王帥升等は生口百六十人を献じて、請見を願う。」、続けて、北宋版『通典』では「安帝永初元年 倭面土國王師升等獻生口」(安帝永初元年(107) 倭面土國王師升等が生口を献じた。) とあります。
「倭面土國王帥升」の國王師升は呉の太伯王家姫氏(九州王朝国王)であり、「倭面土國」は熊本県球磨郡免田村(現あさぎり町免田)に比定されます。
倭国王・帥升は南九州におられたのです。

金印の委奴國王と面土國王帥升がおられたと見られる熊本県球磨郡あさぎり町の神社と遺跡を検討します。

   松野連<倭王>系図(平野雅廣氏著『倭国史談』200088日 熊本日日新聞)

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1.松野連<倭王>系図からみる「委奴国王」


「委奴国 いとこく」は熊本県球磨郡免田村(現あさぎり町免田)を中心とした球磨郡一帯であり、二代目の順王は球磨郡一帯を委奴国と定めたと推考しています。
「委奴国」の九州北部への移動が「魏志倭人伝」にいう伊都國となります。


松野連<倭王>系図
この系図には、歴代系統の名前ばかりで、細かい事蹟は記されていないが、鈴木真年の考証注記かと思われるものが付記されている。左側の()内は、鈴本真年による注記と思われる。()
系図原本は『日本書記』作成に使用された後、大和朝廷に都合の悪い系図は召し上げられたまま、返還されなかったのではあるまいか。従って提出当時に写本を作る余裕もなかった倭王遺族としては、不確かな記憶を頼りに、『松野連〈倭王〉系図』を再調製したものと思われる。これが、点在する名前洩れや時代錯誤した事蹟傍注の原因になっているのではあるまいか。   平野雅廣氏著『倭国史談』


松野連<倭王>系図は、系図の作成経緯からして「曖昧」が存在することを前提として進め、第一系図は難升米まで、第二系図は宇也鹿文までを対象とします。
松野氏の居所分布についてみると、二代目の「順」は委奴(いと)に居す、とあり、肥後から筑紫へ移った分家とされる。国会図書館所蔵系図には、「呉王夫差の支庶忌(字は慶父)、来朝して火国菊池郡山門に住す」とある、となっていて、呉王は菊池から出発したことになりますが、熊本県球磨に住したことがすっぽり抜けています。

注記をお書きになられた方(鈴木真年)は・・人吉・球磨の事を全く御存じ無かった・・と言うより念頭にも無かったのであろう・・と私は考えます。
ブログ「松野連系図と千早振る神々の時代の球磨と帆船」2019-03-17「ひろっぷ」


呉の太伯王家姫氏は忌王を初代に熊本県八代に上陸し熊本県球磨郡に移って来られます。
松野連系図では、いきなり、熊本県菊池から始まっていますが、松野氏の居所を考慮しますと、先祖は菊池から始まったと推定されたのでしょう。
中国史書に関係する倭王を松野連系図から拾うと、
光武帝建武中元二年(57)に関係する倭王は宇閇王(第一系)熊鹿文(第二系)
安帝永初元年(107) に関係する倭王は玖志加也(第一系)宇也鹿文(第二系)
熊本県球磨郡の地名と重なる倭王は、
宇閇王(うえおう)  → あさぎり町上  → 委奴國王(いとこくおう)
玖志加也(くしかや) → あさぎり町久鹿 → 倭国王帥升(めんどこくおう)

上村(うえむら)
かつて熊本県球磨郡にあった村。
2003
41日、同郡内の免田町、岡原村、須恵村、深田村と新設合併(平成の合併)し、あさぎり町となった。現在では、旧村域はあさぎり町上地区となっている。
あさぎり町沿革
1889
41日、町村制施行により、現在の町域にあたる以下の村が発足。
        球磨郡上村・皆越村・免田村・岡原村・須恵村・深田村
1895
127日、上村が皆越村を編入。
1937
41日、 免田村が町制施行、免田町となる。
2003
41日、 球磨郡上村、免田町、岡原村、須恵村、深田村の5町村が対等合併し、あさぎり町が発足。町名の由来は秋から春にかけて球磨盆地にしばしば発生する朝霧から名づけられた。

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合併前の町村名・字名
上東(上村上甲)、上北(上村上乙)、上南(上村上丙)、上西(上村上丁)、皆越(上村皆越)、岡原北(岡原村宮原)、岡原南(岡原村岡本)、須恵(須恵村)、深田北(深田村北)、深田西(深田村西)、深田東(深田村東)、深田南(深田村南)、免田東(免田町甲)、免田西(免田町乙)


松野連系図からみる中国史書に関係する倭王は
光武帝建武中元二年(57)の金印の委奴國王は宇閇王(うえおう)
安帝永初元年(107)の倭面土國王師升は玖志加也(くしかや)=玖志王

と、私は結論づけました。


2.あさぎり町免田を中心とする神社群


あさぎり町免田を中心とする一帯には、古代の重要な神社、地名があります。
人吉球磨には天子神社が12社、大王神社が5社あります。この多さは異常と言えます。
特に、あさぎり町旧上村には三社の天子神社です。あさぎり町全町では五社の天子神社です。この地域には神殿原(こうどんばる)があります。
また、錦町には天子神社が二社、大王神社が三社あり、この地域には高原(たかんばる)があります。
あさぎり町、錦町には古代の重要な何かがある? と思うのです。
 
天子神社群
 1 多良木町牛島の天子神社
 2 あさぎり町上南・麓の天子神社
 3 あさぎり町上東・石坂の天子神社
 4 あさぎり町上西・塚脇の天子神社
 5 あさぎり町久鹿の天子神社
 6 あさぎり町深田・草津山の天子神社
 7 錦町一武・本別府の天子神社
 8 錦町木上南・平良の天子神社
 9 相良村柳瀬・三石の天子神社
 10 山江村山田合戦峰の天子神社
 11 山江村城内の天子神社
 12 人吉市中神町古屋敷の天子神社
 13 錦町京峰の天下(あもい)神社

大王神社群
 1 錦町木上東・荒田大王神社
 2 錦町木上東・平河大王神社
 3 錦町・西村大王神社
 4 山江村・山田大王神社
 5 あさぎり町・深田大王神社
 6 多良木町黒肥地・王宮神社

3.あさぎり町久鹿の天子神社


あさぎり駅の北、球磨川の近くに久鹿(くしか)の天子神社が鎮座です。
「天子」と名が付くことから、皇帝、天皇を祀る神社と想定されますが、当時の球磨には皇帝、天皇はおられません。神武天皇は初代天皇ですが、天皇とは称していませんでした。「大王」が最高称号です。

久鹿の天子神社 熊本県球磨郡あさぎり町免田東838

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天子神社の由来
祭神 景行天皇(大足彦忍代別尊おおたらしひこしろわけのみこと)
例祭日 旧12月3日
鎮座地 面田町(字久鹿)838番地
沿革
創建は不詳であるが、伝説によれば第12代景行天皇が熊襲ご親征の折、輦駕(れんが)を止めた所といわれ、天皇(天子様)の御人徳をしのび、この地に神社が創建されたという。
神社西下の湧水池は「御手洗湧川ゆごう」と呼ばれ、天皇が湧き出る清水を御手水(ちょうず)として使われたといわれ、その名が残っている。


現地の神社案内板では、祭神は景行天皇となっています。
景行天皇こと大足彦は天皇ではありません。天皇に即位されていません。日本書紀によって与えられた()天皇です。まして、景行天皇による熊襲親征などありません。
由緒は日本書紀に沿って作られたものでしょう。
社号は「天子神社」です。祭神は皇帝、大王以上の位の方となります。
球磨には大王神社がありますので、祭神はそれ以上の方となります。

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祭神のヒントが球磨川対岸の深田の草津山(しょうずやま)の天子神社にありました。

深田草津山の天子神社 熊本県球磨郡あさぎり町免田西1685

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ひろっぷ「古代・中世・近世の繋がり 先祖について」
       天子神社にお伺いしました 2017-06-13
       https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12283326015.html
       天子神社の御神紋について 2017-10-28
       https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12323615604.html
       を参照ください。


 鳥居にはフリーメイソンのデバイダーと曲尺(かねじゃく)の略称紋が描かれていました。
「フリーメイソン」から連想するものは石工です。球磨には石を材料とした石倉があます。この技術も古代人からの引継ぎでしょう。古代人の石工物といえば、エジプトのピラミッドです。そこに携わったものはイスラエル・ユダヤ民族。その流れは、流れ流れて日本列島に渡来しているのです。その民族をエジプトから脱出率いた主導者は「モーセ」です。
 球磨の古代人は、遠い先祖の偉大な出来事を数千年経った後でも、石工の技術を引き継ぎ、このような神社の形でモニュメントとして残したのでしょうか。
大山祗系(トルコ系匈奴)のご一統が、この石工の技術を持っておられます。石組、石垣の技術は現代でも生かされています。古墳時代の石室は、この方達によってもたらされたと、考えています。その集団が熊本県北部、北筑後、瀬戸内海の小豆島の人達です。

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フリーメイソンのシンボルマークの一つ  深田草津山の天子神社の紋

フリーメイソン通説(Wikipedia)から要約
石工組合としての実務的メイソンリーが前身として中世に存在した、とする一説。
石工団体を元にした名残りとして、石工の道具であった直角定規とコンパスがシンボルマークとして描かれ、内部の階位制度には「徒弟、職人、親方」の呼称が残っており、集会においては、元は石工の作業着であるエプロンを着用する。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ