2020年01月09日

ビアヘロ 113「宮原誠一の神社見聞牒」からB “細石神社と八雲神社の金印「漢委奴國王」の保存説”

ビアヘロ 113「宮原誠一の神社見聞牒」からB 細石神社と八雲神社の金印「漢委奴國王」の保存説”

                                                                      20191127


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 メンバーの宮原誠一氏による「宮原誠一の神社見聞牒」にかなり重要な論文が連続して掲載されています。ご好意により全文を転載させて頂く事になりました。

 利権だけで「邪馬台国畿内説」などと言った大嘘を吹聴している考古学協会とか京都学派エピゴーネンどもは別にしても、九州王朝の現場に住みながら本州在住の「九州王朝論者」が書いた所謂「邪馬台国本」と半ば教条的な九州王朝論系の論説だけで古代史の最先端にでもいるかのように錯覚しごたいそうな話をしている堕落した古代史研究者の方にこそお読み頂きたいと思います。

(古川)


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宮原誠一の神社見聞牒(125)
令和元年(2019)1022

No.125 細石神社と八雲神社の金印「漢委奴國王」の保存説


前回の記事にて、金印が糸島の細石(さざれいし)神社に収蔵されていた、という伝承を紹介しました。《 古田武彦氏の『失われた九州王朝』(ミネルヴァ書房)「志賀島の金印」は,本当に志賀島で発見されたのか? 》


その金印が侍によって持ち去られ、博多の米屋才蔵がこれを買い取り、交流のあった津田源次郎に見せた。二人の相談を受けた亀井南冥(かめいなんめい)は、津田源次郎の私領地の志賀島の叶の崎(金の崎 かなのさき)から金印が出土し、現地の百姓がこれを源次郎に「さし出した」形とし、源次郎から黒田藩に「納入」したこととしました。亀井南冥は直ちに『金印弁』を発表し名声を博した。


この金印が細石神社の神宝として神殿(本殿)に保管されていたのか、あるいは宮司宅に保管されていたのか分かりませんが、いつの頃から細石神社に保管されていたのでしょうか? 宮司の名は?持ち去った侍の名は? と疑問が湧きます。

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金印公園内の金印レリーフ


現在の細石神社の境内は古昔より狭くなっていますが、その広さを考えますと、境内に王墓の三雲南小路遺跡があったことになります。王墓遺跡のすぐ近くに細石神社があり、現実身はあります。細石神社の祭神は磐長姫命・木花開耶姫命です。
現在、糸島には王墓級の墳墓遺跡が三ヶ所発見されています。
平原遺跡は卑弥呼《=大日孁貴(おおひるめむち)=天照大神(あまてらすおおみかみ) 》の墳墓と、私は想定しています。

◎三雲南小路遺跡(弥生時代中期後半)
 甕棺墓。鏡(34)、細形銅剣、有柄中細銅剣、中細銅文、中細銅矛、ガラス製壁、
 ガラス製勾玉、管玉、金銅製四葉座飾金具等
◎井原鑓溝遺跡(弥生時代後期初頭)
 甕棺墓。鏡(21)、武器類、巴形銅器、鎧の板の如きもの
◎平原遺跡(弥生時代終末―古墳時代前期)
 方形周溝墓(割竹形木棺墓)。鏡(39)、ガラス製の勾玉・管玉・小玉、
 メノウ製の管玉・小玉、コハク製丸玉・管玉、刀子、鉄素環頭大刀。

細石神社 福岡県糸島市三雲432
祭神:磐長姫命・木花開耶姫命

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細石神社は宝満山と飯盛山の真東に鎮座。
弥生時代に神祭りを始めた頃は、東から上る太陽は大切だったことでしょう。
奥に見える森が細石神社です。田圃の中の道は参道ですが、何故ここに長い参道が造られたのでしょう。別に集落を結ぶ道ではありません。途中に川があって真っ直ぐ東には進めません。しかし、まっすぐの道があります。これは古代からの神祭りの道でしょうか。
ここは、古代の東西ラインの中で、最高のパワースポットです
志賀島出土の国宝の金印は、この神社の御神体(宮司の口伝による)だったとか、そんな話もあるのです。
細石神社は伊都国の王都に残る神社である。
三雲地区には、上覚・ヤリミゾ・南小路・宮ノ下・屋敷・中川屋敷・楠木屋敷・塚回り・下西・八反田・サキソノ・番上・鬼木・郡の後・・などなど小字があります。
ほとんど遺跡の上にあるということですね。
細石神社の辺りが三雲南少路遺跡、端山古墳のある辺りが三雲番上遺跡、その南に三雲加賀石支石墓があります。加也山が見える広々とした番上遺跡が、弥生の対外交流の拠点でした。ここから楽浪系の土器がたくさん出ているそうです。

                     ブログ「地図を楽しむ・古代史の謎」伊藤管理人
                          卑弥呼宗女壱与(2) 2018-03-12 から


「ここは、古代の東西ラインの中で、最高のパワースポットです。」
細石神社と三雲南小路遺跡と井原鑓溝遺跡の地域は特別の場所のようです。
字名の「鬼木 おにき=きき」は「姫城 ひめぎ=きき」であり、姫氏天皇家の住まいです。
三雲南小路遺跡は神武天皇の遺跡でしょうか?
細石神社と金印の繋がりは強くあります。捨てがたい説です。
ところが、神社に絡む金印保存説が他にもあります。
高祖山の北麓の福岡市西区今宿青木上ノ原の八雲神社です。


古田史学の会「古賀達也の洛中洛外日記」によると、福岡市西区姪浜の川岡保さんから古賀達也氏に「志賀島から出土したとされている国宝の「金印」は福岡市西区今宿青木の八雲神社の御神宝(御神体)であり、亀井南冥が持ち主から借りたとする「借用書」が存在していたという」話がもたらされています。

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古賀達也の洛中洛外日記 第1781話 2018/11/04 「亀井南冥の金印借用説の出所」


川岡保さん(福岡市西区)から教えていただいた、亀井南冥が八雲神社から金印を借用したとする説の出所は博多湾に浮かぶ能古島の能古博物館から発行されている『能古博物館だより』でした。
川岡さんからいただいた資料は『能古博物館だより』29号と30号のコピーで、次の記事が掲載されていました。
 能古博物館だより29(平成87) 「亀井南冥と金印の謎を追って」 大谷英彦
 能古博物館だより30(平成810) 「国宝『金印』について」 庄野寿人
大谷稿(29)では、庄野寿人さん(同館初代館長)から聞かれた戦後間もない頃の思い出として次の話が紹介されています。
 以前、あの金印は今宿にある神社の御神体だったものを南冥が持ち出したという話を聞いたことがある。
 戦後、福岡市役所の市史編纂室の所長をしていた小野有耶介さんが・・・・ある日、朱印を押した半紙を机上に広げて腕組みをされていた。小野さんは
これは亀井南冥が八雲神社から御神体の金印を借りだす時に神社に借用を示すためにした金印の印影だよと私に説明された。(中略)小野さんが見せてくれた半紙はその後どうなったか分からない。
 この話から私も、同神社と金印印影を実見するため現地を訪ねて事実を確認しています。以来、三十年になりますね。

亀井南冥が金印を借り受けたとする「借用書」が存在したという話の流れは、次のようになります。

川岡保さん(福岡市西区)から、亀井南冥が八雲神社から金印を借用したとする説が記載された能古島の能古博物館が発行する『能古博物館だより』を紹介された。
◎能古博物館だより29号の記事によると、大谷英彦さんの思い出として、能古博物館初代館長の庄野寿人さんから聞かれた戦後間もない頃の話が紹介されます。
◎福岡市市史編纂室所長の小野有耶介さんが・・・・ある日、朱印を押した半紙を机上に広げて腕組みをされていた。小野さんは
これは亀井南冥が八雲神社から御神体の金印を借りだす時に神社に借用を示すためにした金印の印影だよと私に説明された。
◎次号の30号で庄野寿人さんの証言が紹介されている。
「私も紙面をのぞいたが、一見して国宝金印が中央に鮮やかに押されている。朱色もよく古色を帯び、紙も近代のものでないとわかった。」
「後に、亀井学と南冥父子に意識し始めると、南冥と志賀島金印出土は、当然に小野さんの金印押捺紙、また今宿青木の神社(八雲)の話には強い不審を持った。」

「これは亀井南冥が天明四年、糸島の神社から持ち出した時に此の紙面を預けて形代にしたものだ。以来、金印は戻っていないことは知っての通り…だ」

◎八雲神社の側の(あおき)正南の古老を訪ね、同所の小野さん国宝印の話をすると「そのお宮は、自分の家の隣である」と言われた。「金印を神宝にしていたというが、今はない。亀井南冥が持ち出したという話もある・・・」と、小野さんの話通りであったが、紙に捺印された形代の話は出なかった。
◎後に、故人の檍(あおき)宅の檍令夫人を再訪して話を伺っている。
「戦後は専従の神主さんもなく、金印と南冥にかかわるお話は、聞き伝えていないとのことであった。」


要約しますと、福岡市市史編纂室所長の小野有耶介氏が、国宝金印が半紙の中央に押された朱印影を見ておられ、「これは亀井南冥が八雲神社から御神体の金印を借りだす時に神社に借用を示すためにした金印の印影だよ」と庄野寿人氏(能古博物館初代館長)に言われたのが始まりです。
金印は八雲神社の御神体としてあったものを、亀井南冥が借り受け、神社に借用書を預けたということです。
話の流れは次のように引き継がれています。小野有耶介氏 → 庄野寿人氏 → 大谷英彦氏 → 川岡保氏 → 古賀達也氏 しかし、よく考えてみましょう。
半紙の中央に国宝金印の朱の印影が押された半紙が借用書になるでしょうか。
借用書は、借用品名、持ち主名、借用日付、借用者の署名がないと形になりません。
もし、亀井南冥が金印を持ち出し、借用書を預けたとなれば、亀井南冥の筆字があり、筆跡を鑑定すれば、事は明確です。
後の檍(あおき)夫人の話では、「金印を神宝にしていたというが、今はない。亀井南冥が持ち出したという話もある・・・小野さんの話通りであったが、紙に捺印された形代の話は出なかった」とされ、金印が八雲神社の神宝とされていた可能性をほのめかされているのみです。
むしろ、半紙の中央に国宝金印の朱の印影が押された半紙は複製品の試し押印か、または、
戦前の黒田家による本物の金印の試し押印ではないか、と思うところです。
歴史の伝承は、当人から直接聞いて状況を納得することが大事かもしれません。


金印「漢委奴国王」の来歴(Wikipedia
1931(昭和6年)に、同金印は当時の国宝保存法に基づく国宝に指定された。金印の出土地および発見の状態は詳細不明。福岡藩主黒田家に伝えられたものとして、明治維新後に黒田家が東京へ移った際に東京国立博物館に寄託された。
1973
(昭和48年)に黒田家・東京国立博物館・文化庁の許可を得て、福岡市立歴史資料館が複製品を作成。翌年1974(昭和49年)より福岡市立歴史資料館にて展示。
その後、福岡市美術館の開設に際して1978(昭和53年)に黒田茂子(黒田長礼元侯爵夫人)から福岡市に寄贈。1979(昭和54年)から福岡市美術館、1990(平成2年)から福岡市博物館で保管・展示されている。


八雲神社 福岡市西区今宿上ノ原(青木)416
祭神:素盞嗚命、櫛稲田姫命、大己貴命

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福岡県神社誌によれば、本殿の左の「少名彦社」に少名彦一柱が祀られています。
本殿には素盞嗚命、櫛稲田姫命、大己貴命(大国主命)の三柱が祀られていますが、この配祀は日本書記の神話に基づくものでしょう。大国主命は素盞嗚命・櫛稲田姫命夫妻の子ではありません。
少名彦社には少名彦一柱のみでなく大国主命の二柱が祀られていました。
右の「一の宮神社」は福岡県神社誌に記載がありせんが、祭神は那()国王の埴安命(大幡主)です。
この八雲神社の祭神は本殿に素盞嗚命・櫛稲田姫命夫妻、少名彦社の祭神は大国主命・少名彦、一の宮神社の祭神は埴安命(大幡主)であり、出雲の神々で配祀が整います。
この配祀の状況では金印との関係は薄いようです。

庄野寿人氏は「能古博物館だより30号」の(編集後記)で次のように述べられている。

「糸島の神社について、私が小野さんに聞き、檍正南さんにも聞いた神社名は、青木の神社、青木のお宮と覚えているが、いづれも二十年を経過しており、もしや社名に聞き違えがあるやも、と少々自信を無くしている。ただ、檍老人が、家の近くだと云ったことは確かで、それが八雲神社を確定したことになる。
檍老人は物故されているが、同姓のお家が近くにあり、これをお訪ねしたことも書いた通りである。
この檍家の御婦人は、・・・・・昔にお聴きになっていることがあれば、確実にお教えいただけると思うが、金印に関することは何もお聞きできないとなって、ハタと詰まっているところである。」


二十年を経過し、氏は記憶も曖昧になられているようであるが、「青木の神社」「檍老人宅の近く」は確かとされているが、檍老人宅の近くの檍家の御婦人は「金印に関することは何もお聞きできない」となって、ハタと詰まっておられる。
「青木の神社」「檍老人宅の近く」がポイントですが、「八雲神社」は「八雲の神社」の聞き間違いではないか、さらに、「八雲の神社」は「三雲の神社」の思い違いではないか、と思うのです。「出雲」と「八雲」の潜在意識が強すぎたのではないか。
糸島の「三雲の神社」となれば、その神社は「細石神社」となります。
すると、庄野氏の話は、細石神社の金印収蔵伝承と重なってくるのです。
庄野氏には失礼ながら、綴ってみました。

参 考 資 料 能古博物館だより

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能古博物館だより』29(平成87)
亀井南冥と金印の謎を追って 大谷英彦(亀陽文庫客員理事)

この話は、能古博物館で秋田書店の「歴史読本」を示されたのが始まりです。その雑誌には「志賀島の金印が発見された場所を福岡県土木課が県道設計のため基盤調査を実施したところ金印発見の地点は海であること。また九大による同場所のボーリング調査でも海面で、金印が地上に出る状況はなかったという調査結果が出た」ということでした。
このことについて、博物館の庄野先生は「亀井南冥の金印鑑定に、その出処と誤りがあると再三教えてくれる人もあって私も以前から関心を持っていたが、福岡市が同場所に金印公園を造成されるに至って、あまりとやかく言わないことにしなければならないと考えている」と感想をのべられました。
金印自体は、まぎれもない本物ですから、問題は金印が本来どこにあったのかにしぼられます。
「以前、あの金印は今宿にある神社の御神体だったのを南冥が持ち出したという話を聞いたことがある」と庄野先生は戦後まもない頃の思い出を次のように語られました。

「敗戦で陸軍省を退職し、福岡市役所の市史編纂室の所長をしていた小野有耶介さんという方は、なかなかの変わり者で九大で国史学を専攻し『陸軍省戦史編纂室勤務』から戦後、福岡市史編纂を担当された。
私はよく話を聞きに行ったがある時、私に『君は鼠は嫌いか』と、ご自分は弁当のおかずに鼠料理を召し上がっていたのには驚いた。
本に埋まるような部屋で、よく見ると鼠取りが隅に仕掛けてある。ある日、その小野さんが朱印を押した半紙を机上に広げて腕組をされていた。小野さんは、『
これは亀井南冥が八雲神社から御神体の金印を借りだす時に神社に借用を示すためにした金印の印影だよ』と私に説明された。
私は、糸島郡青木の八雲神社の側に住んで昔から同宮をお守りしていた『檍あおき正南』さんをよく知っていた。この檍さんは福岡に出る時は、必ず唐人町の私の家でお茶を飲みながら昔話などされたが、小野さんが見せてくれた半紙はその後どうなったか分からない。
この話から私も、同神社と金印印影を実見するため現地を訪ねて事実を確認しています。
以来、三十年になりますね」

戦後間もない頃の若き庄野寿人と″変わり者〃史家との交流。それを聞く私の胸にも感慨がよぎりました。
専門家によれば、アオキという朝鮮語は「高貴なもの、偉大なものを見る時に発する嘆声」だそうです。
となると、どうやら金印の謎を解く鍵は八雲神社にありと感じ、三十年前の庄野先生の古い記憶を手掛かりに今宿に向かいました。
今宿を出て右へ行き、踏切を渡り三菱電機の工場沿いに南へ歩くと目下工事中のバイパスの向こうは福岡市西区今宿青木。字こそアオキが登場して来て、近くに県の保存木に指定された「もちの木」の巨木もありました。八雲神社の入口の石柱には天保の刻字があり、神社の由来を記した絵馬によっても古い歴史を持つ郷社であることがうかがえました。
珍しいと思ったのは境内の「日露戦役従軍碑」と「シベリャ出兵記念碑」でした。戦没者の碑は各地でよく見ますが、ここの石碑は出兵従軍し帰艦した人達の勲位、氏名が年齢順に刻まれていて、最後部に亡くなった数人の名がありました。
「俺たちは戦地に行って戦ってきたぞ」と胸を張っているような記念碑でした。
庄野先生の記憶どおり神社の左隣に「檍俊策」という表札の家もありました。
庭に御霊屋の社殿まであり由緒をしのばせました。呼び鈴を押すと上品な奥様が出て来られ、やはりそうか! と感じ入る話がいくつか聞けました。
「檍(あおき)という姓は宮崎県の南郷村に何軒もあります」南郷村といえば、百済滅亡で多くの貴族が亡命して来て、現在もその祭りや風習を残していることで有名な村です。
「福岡市役所にいた小野は、私共の一族で、親類の間でも有名な変わり者でした」
「私の祖父小野鴻之助は玄洋社の頭山満さんのもとで働いていました」
「家が頭山さんの家の隣で、曾祖母は頭山さんが小さい時、膝に抱いてエッキー飴を食べさせたとか話していました」
ここまで聞いて私は思わず唸りました。

亀井南冥以下の亀門の人達が真藤慎太郎を通じて亀陽文庫・能古博物館←庄野寿人につながると同じように、金印←亀井南冥、八雲神社、檍 正南、頭山 満、小野鴻之助、真藤慎太郎、玄洋社…という連環が見えるのではありませんか。
庄野先生にお聞きしますと、小野さんの祖父で頭山満さんのもとで働いておられたという小野鴻之助さんは、玄洋社が陸軍に要請された満州義軍の編成に幹事を努められた方で、これに真藤慎太郎も参加しました。
小野さんは義軍の現地活動中に露軍の銃弾を左膝関部に受け、左大腿部を切断される。なお晩年まで玄洋社幹部として永く勤められた方です。
いずれにせよ、あの金印が、黒田の殿様に献上され、亀井南冥が「後漢書」に照らして金印の由来を解明、これが「筑前に亀井南冥あり」と全国に名をとどろかすことになったのは、歴史上の事実です。
その影に「儒侠」と呼ばれ「狂死」したとさえ言われる亀井南冥の人間くささが、私にはたまらないのです。
その魅力をさらに追い求めて、もう一度庄野先生と一緒に奥さんをお訪ねすることを約してお宅を辞した次第です。その顛末はまた次号に載せていただきます。

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『能古博物館だより』30(平成810)
国宝『金印』出土について 庄野寿人

この私記録は、大変な問題を提起することになると思われるが、敢えて発表しておく。
私は、以前から郷土史を熱心にしていた。勤務の余暇に、市史編纂室を再三訪問した。昭和三十五年頃、小野有郁介さんという方が一人で頑張っておられた。
小野さんは、九大国史専攻で卒業されると、陸軍省戦史編纂室勤務と順調なコースに進んでおられたが、敗戦で急転。失意の帰郷であった。幸い、奥村市長から市史編纂室はどうか、と。以来、助手もなく、本が天丼まで積上げられたような中にご自分の机一つである。
初対面のときお互いに自己紹介の後で、あまり人も尋ねて来ないよ。いつでも来なさい、これで何度か足を運ぶうちに、小野さんも私を心待ちされるようになった。
人は、小野さんを奇人と評したが私は格別に気兼もしなかった。
こうした或る日、私が顔を出すと小野さんは腕組みをして、一紙を前にご思案のようである。
私も紙面をのぞいたが、一見して国宝金印が中央に鮮やかに押されている。朱色もよく古色を帯び、紙も近代のものでないとわかった。
国宝金印は、黒田家所蔵。しかも日本銀行金庫に保管され、一般に気軽く扱われることはないと聞いており、すぐに不審を思った。
やがて、小野さんが「
これは亀井南冥が天明四年、糸島の神社から持ち出した時に此の紙面を預けて形代にしたものだ。以来、金印は戻っていないことは知っての通り…だ
この紙は、今朝お宮さんから市史編纂のため借出して来たばかり、と説明を加えられた。
糸島の神社というのは、今宿青木の八雲神社であると教えられた。
同所には「檍(あおき)正南」という古老で、この人も奇人にされる存在がある。ただ私とは至って懇意、古い修猷館卒で、話もわかる。早朝、福岡に出られると、すぐ私宅に来られ私の出勤まで必ず在宅される習慣がある。
この檍(あおき)老人に市役所の小野さんとの国宝印の話をすると「そのお宮は、自分の家の隣である」と、いとも明快な答えが出た。「昔、金印を神宝にしていたというが、今はない。亀井南冥が持ち出したという話もある・・・」と、小野さんの話通りであったが、紙に捺印された形代の話は出なかった。
小野さんが借出された国宝捺印の紙が、元のお宮に返されたか、どうかは聞かずに、そのまま月日が過ぎた。当時、私は未だ亀井南冥、昭陽に関心がなく昭和四十年代になって不図した動機から亀井研究を始め、その後「亀陽文庫」に至る以前のことであった。
後に、亀井学と南冥父子に意識し始めると、南冥と志賀島金印出土は、当然に小野さんの金印押捺紙、また今宿青木の神社の話には強い不審を持った。
私のこの気持ちのほかに金印出処の志賀島と南冥話は異論が多いこともよく聞かされていた。それはそれとして、亀陽文庫は南冥『金印弁』を、とくに強調することなく今日に至っている。
本年になって月刊誌『歴史読本四月号』による福岡市土木課と九大考古学研究室による従来の金印出土地の調査とトレンチ実施の記事は、金印の志賀島出上を否定、大いに不審を持たれるもので、益々金印出処の真相を不明にすることになっている、と伝える。
さて、私が以前から市史編纂室での小野さんから示された今宿の神社にあったという金印が捺印された古紙と亀井南冥の話、志賀島の金印出土と、これに付帯した亀井南冥の金印鑑定は金印出処に大きな謎を呈し、その根本に亀井南冥があることに困惑が生じると考えていた。
以前の檍(あおき)正南老は既に故人となり、ただ話によると、もう一つ「檍家」が近くにあると聞いていた。そこで最近、同家を憶面もなくお訪ねしたのである。
問題は、小野さんが生前に思案されていた「金印を伝世されていた神社に金印借用の際に南冥が印面を押したという一紙」を、小野さんが同宮に返却されているかどうか、金印が返納されていない事実からすると同紙は神社に当然おさまっていると思われる。
これを聞く小野さんもすでに亡くなられ、ほかに確認の仕様もない。
金印の現在は福岡市博物館にあるが、その伝来と出所について史的正確を追求する意義は大きい。
まず「檍(あおき)家」に、失礼と御迷惑を事前に謝して訪間を御承諾願っていた。それですぐに御面談できた。わざわざ私らのために、田舎でなにもありませんので、と御婦人自らお手製の洋菓子などお心づかいされており真に恐縮した。用件は、委細を述べた。
これにまず、檍令夫人から市史編纂室勤務の小野さんは、同家の先代からの御親戚で、有郁介さんは私の従弟です、と言われたのには驚き、感銘した。
八雲神社は、旧郷社。古いお宮であるが、戦後は専従の神主さんもなく旧郡内の二、三のお宮を兼帯なされ、年祭にはお出でいただきます、
というお話で、金印と南冥にかかわるお話は、聞き伝えていないとのことであった。
これで、年祭り時に兼帯神主さんの御出張を期す以外にないと思った。
次に、本年になって月刊誌『歴史読本四月号』に金印の志賀島出土に関する記事が出されたので、その主要部分を掲記させていただく。
なお、同記事は、本市の教育委員会史跡整備課長・塩屋勝利氏の寄稿である。(志賀島地図等一部省略)

◎金即出土推定地の発掘調査昭和四十八年に、福岡市経済局が中山推定地後背地の畑地(面積六・一キロメートル) に金印公園建設の計画を立て、このための発掘調査が九州大学考古学研究室によって行われた調査の結果、金印およびその時代に関する遺構や遺物は発見されず、
(中略)
続く昭和六十四年、福岡市土木局がその金印公園前道路の拡幅工事を計画したので、この地点が金印出土山中推定地にあたることから、十二月六日に試掘調査を行った。この地点はまさに中山推定地の至近の位置にあり、しかも『口上書』に記す「田境之中溝」と考えられることから、調査者一同胸を躍らせたが調査の結果、当該地は少なくとも十四世紀以前にはラグーン状を呈した湿地もしくは潟であることが確認された。したがって金印がもたらされた一世紀、もしくは埋められた時代には、この場所には土地がなかったのである。つまり発掘調査のデータでは、この地点と付近は、金印が埋められる地形的環境にはなかったということが知られたのである。
平成六年五月から十月まで、志賀島全島の遺跡分布調査および一部の試掘調査を行った。もちろん、先述したもう一つの金印出土推定地である叶の浜の発掘調査も、島の人々や地権者のご協力を得て実施することができた。トレンチは先学が想定された「田境之中溝」付近に設定し、注意深く掘り進めたが、やはりこの地点においても弥生時代もしくは古墳時代の遺構や遺物は検出されなかった。そうして、この叶の浜なる当該地も、少なくとも十四世紀以前には、人々が何らかの土地利用を行えるような自然環境にはなかったことが証明されたのである。

(編集後記)
国宝金印は、近代になって国宝指定を受け、黒田家に納まったが、福岡市博物館が出来て、いわゆる里帰りしたことになる。以来、市教委の文化財担当者は懸命になって、その出現由来を探求している。直接に関係しない一般市民にしても興味を持ち、ある者は文献資料を探っていると思われ、筆者もその一人になる。そこで、今回の館誌に、いままでの話から最近の文献まで揃えて見たところである。志賀島出土と発見に際して、かなりの人名が出るが、それらは省いている。
糸島の神社について、私が小野さんに聞き、檍(あおき)正南さんにも聞いた神社名は、青木の神社、青木のお宮と覚えているが、いづれも二十年を経過しており、もしや社名に聞き違えがあるやも、と少々自信を無くしている。ただ、檍老人が、家の近くだと云ったことは確かで、それが八雲神社を確定したことになる。
檍老人は物故されているが、同姓のお家が近くにあり、これをお訪ねしたことも書いた通りである。

この檍家の御婦人は、失礼ながら初老にお見受けするが気品のある方で、お話もすこやか、昔にお聴きになっていることがあれば、確実にお教えいただけると思うが、金印に関することは何もお聞きできないとなって、ハタと詰まっているところである。
いま課題にしているお宮の兼任宮司さんを近くお訪ねしたいとしている。
もし、皆さんで別にお教えいただくことがあれば、何卒お願いします。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 20:27| Comment(0) | ビアヘロ