2020年01月07日

ビアヘロ 112「宮原誠一の神社見聞牒」からA “金印「漢委奴國王」は志賀島から出土したのですか?”

ビアヘロ 112「宮原誠一の神社見聞牒」からA 金印「漢委奴國王」は志賀島から出土したのですか?

                                                                      20191127


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 メンバーの宮原誠一氏による「宮原誠一の神社見聞牒」にかなり重要な論文が連続して掲載されています。ご好意により全文を転載させて頂く事になりました。

 本州在住の「九州王朝論者」の方はともかくも、九州島に住みながら他人が書いた所謂「邪馬台国本」だけを読んで現場も見ようともしない自称「九州王朝論者」の方こそお読み頂きたいと思います。

(古川)

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No.124 金印「漢委奴國王」は志賀島から出土したのですか?2019-10-16 17:30:00

宮原誠一の神社見聞牒(124)令和元年(2019)1009日 令和元年(2019)1016(訂正)

No.124 金印「漢委奴國王」は志賀島から出土したのですか?


前回のブログで、大日孁貴(おおひるめむち 天照大神)と那()国王・大幡主について触れましたが、那()国王と大日孁貴に触れて『魏志』倭人伝の「ヒミコ」と志賀島の金印「漢委奴國王」を避けることはできません。
金印「漢委奴國王」は日本古代史の馴染みのテーマとなりましたが、その真意はナゾであり結論には至っていません。不明な点が多すぎるのです。

ブログ「常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった」【日本史学界の欺瞞】志賀島の金印は日本製 2019-02-23 では、志賀島の金印は、亀井南冥が古印の模作をしていた高芙蓉とともに偽造した疑いが濃厚と断じておられる。
 https://ameblo.jp/kappa1959/entry-12442328956.html

学校の日本史では、志賀島の金印は漢の皇帝・光武帝が日本の「委奴国王」に与えた金印であり、この金印は志賀島で発見されたと学びました。その金印の印字「漢委奴國王」も中国から与えられた刻字と思っていました。
しかし、百嶋神社考古学を学び、神社の訪問を重ねるにつれて、「金印は志賀島で発見された」ことは仮説であり、歴史的事実ではありません。金印の刻字「漢委奴國王」も資料にはありません。金印は漢の光武帝から与えられたことは事実だとしても、福岡市博物館に現存する金印が漢の皇帝から与えられた実物であるか疑問であり、日本での偽作説も根強くあるのです。

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金印を模したキーホルダー(20年前、福岡市博物館で購入)
      買った当初、違和感があり、使用することなく机の中に蔵ったままでした。

1.金印の発見と事の次第
福岡市博物館「金印」を中心に参考要約します。
http://museum.city.fukuoka.jp/gold/

金印の発見
金印が発見されたのは天明4年(1784)2月23日、今日の暦では4月12日にあたります。発見者は一般には口上書を提出した甚兵衛(じんべえ)となっています。
後の仙崖和尚の『志賀島小幅』(1830年代)には秀治と喜平が追加されています。
甚兵衛が志賀島の海岸の水田を耕作中に、畦傍の巨石を動かし巨石の下に三方石囲いした中にあったという。金印は土に埋もれたものではなかったのです。
甚兵衛が偶然発見したとされるが、発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそのことを那珂郡奉行に提出した人物という説があります。
金印は郡奉行を介して福岡本藩へ持ち込まれ、亀井南冥は金印を鑑定し、『後漢書』に記述のある金印とし『金印弁』の鑑定書を上げている。

金印の発見場所
叶崎(かなのさき)の金印公園の前に「漢委奴国王金印発光之処」の石碑が大正12(1923)に建立されています。この場所は九州帝国大学の九州考古学者の中山平次郎氏が推定されたものです。
金印の発見場所は推定されたもので、特定されたものではありません。歴史の仮説です。
また、志賀島には金印以外の当時代を比定できる出土品が一切なく、考古学研究上、その位置づけが難しく、扱いが苦慮されているのが現実です。

2.その他の金印の発見場所
古賀達也の洛中洛外日記806 2014/10/19「細石神社にあった金印」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nikki10/nikki806.html
次のような記述があります。

江戸時代に志賀島から出土したとされている金印が、実は糸島の細石神社に蔵されていたという同神社宮司の「口伝」が記されているのです。「古田史学の会・四国」の会員、大政就平さんからの情報が古田先生に伝えられたことが当研究の発端となったようです。さらに同地域の住民への聞き取り調査により、「細石神社にあった金印を武士がもっていった」という伝承も採録されたとのこと。

肥さんの夢ブログ「志賀島の金印」は,本当に志賀島で発見されたのか?
http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2010/05/post-8460.html
古田武彦氏の『失われた九州王朝』(ミネルヴァ書房)
「志賀島の金印」は,本当に志賀島で発見されたのか? を参考

・金印そのものは,後漢の光武帝から送られた当の「本物」です。
・前原市の細石(さざれいし)神社にこの金印が収蔵されていた、という伝承があり信憑性が高いものです。
・その金印が「侍(さむらい)」によって持ち去られた,と言われています。
・博多の米屋才蔵がこれを買い取り、交流のあった津田源次郎に見せました。
 相談を受けた二人の知人の亀井南冥は津田源次郎の私領地の志賀島の叶の崎 (「金の崎」)から出土し,現地の百姓がこれを源次郎に「さし出した」形とし、 源次郎から黒田藩に「納入」したこととしました。
・亀井南冥は直ちに『金印弁』を発表し名声を博しました。
福岡県教育委員会の塩谷勝利さんは、その生涯をかけて、この「金印」の出土地を捜し求められましたが、結局どこにもありませんでした。甚兵衛の口上書に言う「ニ人持程之石」や関連の弥

生期の遺物等、一切何もなかったのです。


詳しくは「肥さんの夢ブログ」を読まれてください。これらの話を基にしますと、「志賀島の金印」は,本当に志賀島で発見されたのでしょうか。前原市の細石神社に、あるいは宮司宅に保管されていたとしても、戦乱の多い九州北部に千年以上あるいは長期間保管され続けるのは困難と考えます。いつの頃から細石神社に保管されていたのでしょうか。どのような保管の仕方だったのでしょうか? 江戸時代に細石神社に持ち込まれたのでしょうか? 宮司の名は?持ち去った侍の名は? その年代は?
実は、「志賀島の金印」時代の「倭奴國」は福岡県の糸島地方にはありませんでした。福岡県の西北を伊都国、奴国と呼んだ時代は「ヒミコ」の時代なのです。「志賀島の金印」時代から約100-200年経っています。「倭奴國」は南九州の或る所にありました。

3.金印の刻字
金印「漢委奴國王」は一辺約2.35cmの印面に篆書体(てんしょたい)で、『漢/委奴/國王』の5文字を3行に彫り込んだ白文印で、鈕は蛇形をしています。『後漢書』倭伝の記事「建武中元二年(57)倭奴國奉貢朝賀 使人自称大夫 倭園極南界也 光武賜以印綬」と対応すると判断され、1世紀代の倭国と漢帝国との通交を伝える第1級の歴史資料とされます。
後漢代の匈奴の官印とよく似た特徴が見られ、字体からみて、「漢委奴國王」金印を後漢代とみることに矛盾はないといわれる。

4.金印の読み方
「漢委奴國王」を「漢ノ委ノ奴ノ國王(かんのわのなのこくおう)」とする読みかたが今日の代表的な解釈です。「委奴國」を「わのなのこく」と読むのが代表的であるされる。倭国の中の奴國という考えです。
しかし、「委奴國」を「いとこく」とも読めます。また「倭奴國」も「いとこく」と読めるのです。「倭國」は「いこく」であり、「伊国 いこく」なのです。
すると、「委奴國王」は「いとこくおう」でもあり、「なこくおう」ともなり得るのです。
福岡県の糸島地方の古代国名からすると、「伊都國王」でもあり「奴國王」でもあるのです。
私は、「伊都國」は国名でなく、「伊()国 いこく」の都する所と考えています。
金印時代の1世紀代、南九州には「伊都國」と「奴國」を一地方の一国とした「倭奴國」がありました。


志賀島の金印公園 福岡県福岡市東区大字志賀島1865

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5.倭国に関する中国の記録
倭国について、中国で記録された主な史料の一部分です。

@『後漢書』倭伝 范曄(はんよう 398-445)編集
 建武中元二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬
 ()建武中元二年(57)、倭奴国が奉貢朝賀す。使人は自ら大夫を称す。
 倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。

 安帝永初元年 倭国王帥升等献生口百六十人 願請見
 ()安帝の永初元年(107)、倭国王帥升等は生口百六十人を献じて、請見を願う。

A『翰苑』倭国の条 『後漢書』からの引用 唐の張楚金 660年編纂
 後漢書曰 安帝永初元年 有倭面上國王帥升至
 ()後漢書に言うには、安帝の永初元年(107)、倭面上國王帥升が来た。
 「面上國」は「面土國」の間違いと思われます。

B 北宋版『通典』 唐の杜佑(とゆう) 801年成立
 安帝永初元年 倭面土國王師升等獻生口
 ()安帝永初元年(107) 倭面土國王師升等が生口を献じた。

C『三国志』の「魏書」魏志倭人伝 陳寿(233297年)
 南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支
 次曰奴佳鞮。可七萬餘戸

 ()南の邪馬壹国に至る。女王が都する所である。水行10日、陸行1月。
 官は伊支馬(いきめ)が有る。次に弥馬升(みましょう)という。次に弥馬獲支という。
 次に奴佳鞮という。推計7万余戸である。
 其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王
 ()その南に狗奴国があり男子を王と為し、その官に狗古智卑狗(くこちひく)が有る。
 女王に属せず。
 景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京都
 景初2年(238)6月 倭の女王は大夫の難升米等を(帯方)郡に詣いるよう遣わし、
 天子に朝獻を求める。太守の劉夏は吏將をつけて京都(魏の都)に送った。

D 魏略 魚豢(ぎょかん)著 三国志より古い
 自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後 昔夏后小康之子
 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也

 (部訳)自ら太伯(たいはく)の後と称していたとある
『後漢書』倭伝に「建武中元二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」(建武中元二年(57)、倭奴国が奉貢朝賀す。使人は自ら大夫を称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。) とあります。
金印を光武帝から57年賜綬された時の状況です。ここに「倭国之極南界也」とあります。
金印を賜綬された「委奴国王」は倭国の南端にあったことになります。
倭国の南端は南九州です。
さらに、50年後、「永初元年(107)、倭国王帥升等は生口百六十人を献じて、請見を願う。」、続けて、北宋版『通典』では「安帝永初元年 倭面土國王師升等獻生口」(安帝永初元年(107) 倭面土國王師升等が生口を献じた。) とあります。
「倭面土國王師升」の國王師升は呉の太伯王家姫氏(九州王朝国王)であり、「倭面土國」は熊本県球磨郡免田村(現あさぎり町免田)に比定されます。
倭国王・帥升は南九州におられたのです。
百嶋神代系図では、帥升と神玉依姫の間の皇子を神武天皇(狭野命)、帥升と大伽耶姫の間の皇女をヒミコとします。神武天皇とヒミコは異母姉弟となります。
熊本県球磨郡免田村は慶長年間まで『面田村』でした。
面田村には才園古墳(永才)、本目遺跡(下乙)等があり、この「面田村」を「倭面土國」と気づかれた方がおられます。ブロク「古代・中世・近世の繋がり 先祖について」の管理人・「ひろっぷ」さんです。詳しいことは「ひろっぷ」さんのブログを参照されてください。
 「平安時代までの球磨と面土國」2018-01-10
  https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12343058000.html
 「速報 大発見『免田村』は慶長年間まで『面田村』だった」2019-01-15
  https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12432667068.html
 「後漢書を読んで。奴国と狗奴国」2019-02-28
  https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12442972003.html

6.奴国と狗奴国
『三国志』の「魏書」魏志倭人伝から
 南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬
 (南の邪馬壹国に至る。女王が都する所である。水行10日、陸行1月。
 官は伊支馬(いきめ)が有る。)
魏志倭人伝によるヒミコの「邪馬壹国」の位置は諸説繚乱ですが、文面に間違いがなく、その文字通りに辿ると鹿児島県に行き着くそうです。
官の伊支馬(いきめ)は大国主で、他に生馬(いきめ・いくめ)、往馬(いこま)の名前があります。
倭国大乱の折、姫氏天皇家(神武天皇、懿徳天皇、ヒミコ)は難を逃れ、一時、北部九州糸島地方から南九州に退避されます。その地域が「姫城 ひめぎ」の地名で残っています。


久留米地名研究会にて百嶋講演 201125


魏志倭人伝読んでいらして、全く気付いておられないこと、トウマの国とは阿蘇家の頭領、春日様(天忍穂耳命)が長髄彦の家来だった頃、与えられていた統治地が当麻の国です。場所は奈良県葛城です。あっちの当麻とこっちの投馬をごっちゃにしていますが、倭人伝の投馬は大分県宇佐です。邪馬台国の中心地は今盛んに噴火を繰り返している所、宮崎県の高原町(たかはるちょう)あたりです。もとは姫原(ひめはる)でしたところが、高木大神の一派が、名前を勝手に姫原から高原(たかはる)に変えています。本当の神武天皇のゆかりの地です。姫城(ひめぎ 宮崎県都城市姫城町)は都城市市役所付近の地名です。もとの鹿児島県の国分市及び隼人町(はやと)あの付近一帯を姫城という。それから熊本県の八代のちょっと上に九州王朝のどえらい集落があります(宮原三神宮がある氷川町宮原、以前は「宮原町」その前は「火の村」といった。北東の山手に姫城あり)そこにも姫の城が残っている。


姫城(ひめぎ)は姫氏天皇家がお住まいになる地の名称で、南九州に滞在の折、名がつけられた。今もその地名が残っている場所がある。
 熊本県八代郡氷川町(旧宮原町・竜北町) 八代市泉町の一帯
 宮崎県西諸県郡高原町
 宮崎県都城市姫城町(市役所付近)
 鹿児島県霧島市隼人町姫城 国分姫城
姫氏天皇家は熊本県球磨郡を中心に転々と移動されています。
前期倭国大乱(長髄彦の乱)終結後、また姫氏天皇家は北部九州糸島地方に戻られます。
後漢書の建武中元二年(57) 倭奴国、北宋版「通典」安帝永初元年(107) 倭面土國王師升の記録から「倭奴国」は熊本県球磨郡あさぎり町中心と考えられます。
金印時代の1世紀代、南九州には「伊都國」と「奴國」を一地方の一国とした「倭奴國」があったのです。そして、その南に狗奴国(ヒミコ時代の狗奴国ではありません)があったのです。
其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王
 (その南に狗奴国があり男子を王と為し、その官に狗古智卑狗(くこちひく)が有る。 女王に属せず。)
この狗奴国は球磨群の南、宮崎県小林市、生駒地帯を指します。大山祗の領域です。
後に、大山祗ご一統は北上され、熊本県菊池地方に移られます。
そこで、金山彦との衝突が起こり、ヤマタノオロチ神話の形で語られます。
姫氏天皇家、大幡主ご一統も北上され、ヒミコ時代の伊都国、奴国に戻られます。
伊都国に居られた王とは、神武天皇、その子の懿徳天皇、姉のヒミコとなります。
奴国王は大幡主の一代のみです。
よって、魏志倭人伝にいう「世々王有り」の「代々の王」は球磨郡の倭国王帥升以前の歴代の王を指します。歴代の王の墓は熊本県球磨郡一帯に眠っているのです。

7.金印は熊本県球磨からどのように動いた
もし、倭奴国王の金印が熊本県球磨から出土しているとすれば、その金印は人吉相良藩に保管されたと思います。その金印が福岡に動く可能性が相良藩内に見出されるのです。
天明4年(1784)金印が志賀島から出土し、亀井南冥は金印を鑑定し『金印弁』の鑑定書を提出した時代の相良藩の事情です。

肥後人吉藩の第11代藩主は「相良長寛」、この方の母君は筑前福岡藩の第6代藩主「黒田継高」長女「藤子」様です。黒田継高(1719-1769)は黒田家血筋の最後の殿様です。その後、養子を迎えます。
『相良長寛』
生誕宝暦元年126(1752121日、亡1813526)
父:池田宗政(備前岡山藩主 1727-1764)
母:黒田藤子(福岡藩主黒田継高長女)

金印の志賀島出土時、人吉藩11代藩主は相良長寛で、その母は福岡藩主黒田継高の長女黒田藤子です。正室藤子は人吉相良藩内の金印の事情を知っておられたのでしょう。
また、相良藩は慶長年間(1596-1615)「面田(めんだ)」だった村を「免田」に変えておられる。つまり、「倭国王帥升」隠し、引いては「金印」隠しが行われたと見ることもできます。
金印は正室藤子によって持ち出され、福岡藩に持ち込まれた、と私は見るのです。
または、細石神社に一旦保管されたのかもしれません。
そして、亀井南冥に渡り、金印鑑定『金印弁』の鑑定書の創作となります。
熊本県球磨郡錦町の高原(たかんばる)台地があり、そこに「高原」があります。
また、球磨郡あさぎり町に神殿原(こうどんばる)の木原(姫原)があります。
宮崎県高原町の「高原 たかはる」が「姫原 ひめはる」から変更されたように、球磨の高原(たかんばる)は「姫原」の可能性が高い。「姫原」は「姫氏天皇家(王家)の丘」という意味で、王家の住まいです。
球磨郡あさぎり町免田の東の久鹿(くしか)には天子神社、免田の北には荒田大王神社、草津山天子神社があり、この一帯に委奴國王、面土國王師升が居られた可能性が高いのです。
次に考えられるケースです。倭国大乱時、神武天皇、姉のヒミコの移動と共に、球磨から福岡県の糸島に動いたとみることができます。そして、その金印は細石神社に保管され、江戸時代に日の目をみた。
そして、亀井南冥の元に届けられて、金印の志賀島出土説が創作された。
いずれにしても、金印の志賀島出土説は亀井南冥の創作とみました。
金印の出土、あるいは、金印の保管は熊本県球磨が絡み、相良藩で行われたということになります。相良藩は古代の倭国についてかなりの事を知っておられ、いろんな事を隠し続けておられるのではないでしょうか。相良氏の先祖は天皇家姫氏に繋がるのです。しかも、南九州での在地期間は長く、藤原南家の流れをくむ工藤氏の庶流とされるが、これは建前です。
相良藩は熊本県の古代の要地を飛び地として多数藩領されておられるのです。

日本の古代史は、熊本県球磨の古代史がスッポリ抜け落ちています。球磨の古代史が明らかにならなければ、日本の古代史は正確ではありません。

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高原台地(たかんばる)一帯


 福岡県田主丸町柳瀬村の地名の原点「柳瀬 やなせ」が平原の下に見えます。
 また、「平原」も田主丸町に存在します。「姫治 ひめはる」は浮羽町にあります。

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百嶋由一郎(極秘)神代系譜(上) 百嶋由一郎008イヨ系譜(下)

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百嶋由一郎氏が残された神代系譜、講演録音声CD、手書きスキャニング・データDVDを必要とされる方は09062983254までご連絡ください。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ