2020年01月01日

671 有明海最奥部に静かに鎮座する海童神社

671 有明海最奥部に静かに鎮座する海童神社

                                     20181017


太宰府地名研究会 古川 清久


福岡県〜佐賀県の有明海沿岸には龍王神社とか海童神社といったものが数多く確認されます。

 有明海は筑後川から送り込まれる大量の火山灰起源の土砂によってほったらかしておいても陸化が進む性格を持っており(年に100メートルとも)、古代の海岸線は現在の堤防ラインから言えば最大数十キロも入っていたと考えられています。

 従って、古代の湾奥ラインに鎮座する神社群ほど、より古い形を残しているのではないかと言う推測がある程度は付くのです。


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古代には現在JR佐世保線が東西に走る辺りまで海は迫っていたはずで、この地に限れば、満潮時に潮が入る湾奥とは現在の焼米溜め池のさらに奥まで延びていたのです。

仮に溜め池を造るとしたとき、周囲を円形に造るのは築堤延長が多い割に貯水量はそれほどではなく、周囲を山や岬で囲まれた袋地を直線やアーチで締め切る方が圧倒的に有利であることは言わずもがなです。

つまり、この焼米溜め池とは、言わば古代の有明海の湾奥締切型の溜め池の一つだったのです。

そして、この脇の岬状地に置かれたのが海童神社だったのです。

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御祭神:豊玉彦神、豊玉姫神、合祀祭神:天照大神、大地主神、保食神、市杵島姫神、管原道真公

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この湾奥にはかつて高良神社が置かれていたともいわれており、一時期、探した事もありました。

古くはこの奥(溜池の底ですが)に宿場が置かれていたという話も聞き及んでいます。

祭神については、「佐賀県神社誌要」にも記述が無く、額面を真ずる以外には当面手だてがありません。

ここでは、祭神が豊玉彦と豊玉姫の親子(娘)としておきましょう。

ただ、祭神は入れ替えられている可能性もあり、豊玉彦は動かないとしてもまだ確信は持てないでいます。

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この神社では歳の瀬に夕方から翌朝まで夜通し火を焚き、月を送る風習があると聴きましたが、まだ確認できずにいます。また、この神社の神紋は菊の御紋の様に見えますが、12日足紋で菊池氏などの古紋です。まさか、1213弁菊花紋ではないでしょうが、それならば九州王朝の神紋の可能性もあるのです。

また、参拝殿入口の唐破風屋根も船の返し龍骨を見せたもので外洋航海を行なっていた豊玉彦=ヤタガラスを彷彿とさせるものでもあります。


百嶋由一郎最終神代系譜、音声CD、手書きデータ・スキャニング等を必要とする方は09062983254まで
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2020年01月03日

ビアヘロ119 2020年1月26日(日) 「宮原誠一の神社見聞牒」から天照大御の根拠地を探るTR

ビアヘロ119 2020126日(日) 「宮原誠一の神社見聞牒」から天照大御の根拠地を探るTR

20200126

太宰府地名研究会 古川 清久

オープン参加(一般の方も気楽にご参加ください)資料代500円のみ 車での移動が必要になります


2020126日(日) 午前1100に糸島市役所に集合を…(列車利用の方はJR前原駅で拾います)

集合場所 糸島市役所 P西 カーナビ検索福岡県糸島市前原西1丁目1-11(乗合は調整します)

雨天の場合は3月に延期の予定…

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2020年三社詣り“糸島半島に天照大御神の痕跡を求めて”(10人程度の乗合は可能です事前連絡を!)


@  荻浦神社(おぎのうらじんじゃ) カーナビ検索福岡県糸島市荻浦144

A  ジョイフル 前原加布里店   カーナビ検索福岡県糸島市高田5丁目120(仮案)

B  油比神社(ゆびじんじゃ)   カーナビ検索  福岡県福岡県糸島市油比187

C  井田原神社(いだはらじんじゃ) カーナビ検索福岡県糸島市志摩井田原1

D  桜井神社            カーナビ検索  福岡県糸島市志摩桜井4227


「宮原誠一の神社見聞牒」の9月稿を基礎に重要な神社を検証します。


No.123 大日孁貴(天照大神)伝承の地・福岡市南部の檜原2019-09-29 18:00:00

宮原誠一の神社見聞牒(123)

令和元年(2019)0929

以下宮原論文の一部を掲載します…


3.高天原(たかまがはら)

『記紀』の神話からして、天照大神(大日孁貴)が青年期を過ごした地が高天原となります。
高天原は時代と共に移動しているのです。
 福岡県那珂川市山田 → 福岡県朝倉市山田 → 奈良県高天町 → (大加耶)高霊
那珂川市伏見宮の近くの氏子さんにお聞きしたのですが、ここ那珂川市の山田が「山田」地名発祥の地だそうです。福岡県朝倉市の山田の地名は、ここ那珂川の山田が移動していった、と言われました。
 やまいこく(邪馬壹国)=やまとこく(邪馬台国)=やまだこく → 山田
「やまい」「やまと」「やまだ」は全て同義語です。ヘブライ語で「神の島」「神の民」という意味になります。


百嶋講演「春日神社について」 20114

倭人伝にでてくる伊都国の長官は爾支「ニキ」、「キ」がついているので新羅系であることがわかる、将来、饒速日となる山幸彦(猿田彦)です。投馬国の長官は弥々「ミミ」、彦山の天忍穂耳である海幸彦です。倭人伝は、何十年かのことをごっちゃ混ぜにして圧縮して書いているので、そのまま信じると間違えてしまう。伊都の国は伊都、投馬国は宇佐です。そして、すこし時代がおくれて宇佐津彦が出てくる。宇佐津彦は生目(贈・垂仁天皇)です。足一騰がりの宮、これを生目が、神武天皇(本当は贈・祟神天皇)に献上したことになっている。()祟神天皇を神武天皇とわざと混同したい連中がいる。高木大神系統です。
ところで高木大神の故郷に日本の高天原がそっくりそのまま移転したことをご存知ですか?近鉄奈良駅の地名、高天です(あの付近の地名は高天町です)。ほら吹き集団はどこに一番多く住んでいたか。一番多いのは福岡県です。もちろん奈良県も多いです。熊本の第五高等学校付近の龍田から、奈良の立田(風神、雷神の立田神社)まで、阿蘇火山帯(中央構造線)でつながっている。阿武隈(=おおくま)、大隈、七隈、嘉麻市の中心部の大隈、これは大集落という意味です。博多の櫛田神社系統の大集落という意味です。
そして、奈良では葛木連山の葛木古道の中に高天神社があったが、次第にお賽銭が上がらなくなった。そして最終的には、この人たちは朝鮮半島の八万大蔵教のある高麗に移った。
朝鮮半島の高天原をご存知ですか?特に、福岡の筑後地区には朝鮮系の日本人が多いですね、その方たちは、未だ、日本人になりきれていない日本人、要するに、何でも朝鮮の味方をするのです。そのような人たちが、朝鮮半島の高霊(コリョン)というところに、現在の韓国の中心部近くに、日本の高天原の本物は高霊にありと堂々たる高天原を作っています。ところが作ったのは1999年です。それまで彼らはどこで活動したかというと、奈良の高天原、場所は葛木連山、御所市、あの地区に、勝手に九州の高天原を持って行って、向こうで、高天原活動の宣伝の基地にしていたというような高天原です。ところが盛んに2000年間ほら吹いて、がんばって金儲けいたしましたけれども、この頃はお金にならないようになってきた。人が信用しなくなってきた。お賽銭が上がらなくなってきたということで、打ち切りとなりましたね。とにかく、葛木高天原は1999年に朝鮮半島の高霊(コリョン)に移りました。
一番最初は九州の何処にあると言って盛んにほらを吹いていました。
高木一族、ニニギノミコトの一族。そのあとですね、勝手に高天原を奈良のほうに持っていきました。奈良葛城連山の奈良側のほうに持っていきました。その場所の名前は「高天原」、または原をとって「高天」ともいいます。
ところが、肝心かなめ、お賽銭をあげてくれていた日本人及び朝鮮人がさっぱり、特に、日本人がお賽銭をあげなくなった。信用されなくなった。彼らが言う高天原は信用されなくなった。
それまでの高天原は何処から持って行ったかというと朝倉から持って行っています。朝倉、朝倉、それが全然信用されなくなったから、とうとう根を上げて1999年に奈良の葛城を逃げ出して、朝鮮半島の高霊(コリョン)の方に逃げ出して、高天原を作ったんです。


4.大幡主と大日孁貴を共に祀る神社

福岡県に大幡主と大日孁貴を共に祀る神社が四社存在します。特に三社が糸島地方に鎮座です。大幡主の神は「国常立尊」あるいは「埴安命」の名で祀られています。
勿論のこと、櫛田神社は大幡主(櫛田大神)と天照大神(大日孁貴)を主祭神とします。

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櫛田神社三社を合わせると、大幡主(国常立尊)と天照大神(大日孁貴)を共に祀る神社が六社存在します。古代の日本史の舞台は北部九州沿岸部、南九州の球磨地方、八代地方といった所でしょうか。
佐賀県神埼の櫛田神社も当初は大幡主(大若子命)と天照大神を祀ります。後に、祭神の大幡主と天照大神が消えて、素戔嗚尊、櫛名田比売命、足名椎手名椎尊を祀る稲田神社(仮称)に変遷しています。
もしかしたら、一座に大幡主と天照大神を祀り、二座に素戔嗚尊、櫛名田比売命、足名椎手名椎尊が祀られていたのかもしれません。想像です。ここが神埼の櫛田神社のナゾですが、神埼に櫛田神社があるのもナゾです。
これらの神社は大幡主(国常立尊、大若子命、櫛田大神)と天照大神の二柱を祀る神社ですが、大幡主と天照大神を夫婦神として祀る神社ということです。
博多の櫛田神社の祭神・天照大神については、あまりに古くて記録にないと由緒にありますが、夫婦神として共に祀られる存在で、「夫婦神」とは記載できない事柄です。由緒をぼかしてあります。

井田原神社(いだはらじんじゃ)
所在地 糸島市志摩井田原1(糸島郡可也村大字井田原字天崎)
祭 神 国常立尊、天照皇大神
末 社 貴船神社(闇龗神)、福里屋神社(天神)

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油比神社(ゆびじんじゃ)
所在地 糸島市油比187(糸島郡前原町大字油比字本村)
祭 神 国常立尊、天照皇大神
菅原神は同町字油比に無格社天神社として祭祀ありしを合祀す
由 緒 埴安命、伊弉冊尊、天穂日命。もと十六天神と称す。

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荻浦神社(おぎのうらじんじゃ)
所在地 糸島市荻浦144(糸島郡前原町大字萩浦字前田)
祭 神 天照皇大神、国常立尊、菅原大神
由 緒 昔は老松天神と言った。一説には十六天神
末 社 保食神社(豊受大神)、厳島神社(市杵島姫命)

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No.128 糸島市桜井の岩戸宮の安曇磯良と金印


日本の歴史はほとんどが仮説の上に成り立っていると思っています。
金印の続きの話ですが、内容は事実を証明するものはなく、仮説の話です。
前回ブログの金印の要約です。

()国の王様・大幡主は子息・豊玉彦を使者に密かに朝貢しているのです。
そして、使者の豊玉彦は「中郎将」の称号を受け、日本では「中将」様と呼ばれているのです。使者の豊玉彦は明確な国王の名称を誤魔化すために、どのような解釈でもとれる国王名を使用したと推測します。つまり、「委奴國王」は「わのな国王」とも「いと国王」ともとれるのです。
現存する金印「漢委奴國王」は豊玉彦を使者に「委奴國王」を僭称して、大幡主が印綬された金印となります。

鈴木真年は記録には現れない「那()国王・大幡主は子息・豊玉彦を使者に『委奴國王』を僭称して密かに朝貢した」ことを知っていたことになります。


現存する金印「漢委奴國王」は、子息・豊玉彦を使者に那()国王・大幡主は「委奴國王」を僭称され、金印を印綬されたことになります。
それで、金印の印面を「漢の倭の奴国王」と、私は読みました。
今回は、2019年6月16日実施された神社トレッキング資料を参考にします。
No.111 糸島市天降神社中心のトレッキング資料」
https://ameblo.jp/kenbuncho2017/entry-12476314610.html

会の主目的は糸島の天降神社訪問でしたが、私にとっては金印調査が目的でした。
櫻井神社(與止姫神社)、浦姫神社がその対象神社となります。次に引津神社、若宮神社の古計牟須姫(こけむすひめ)の調査でした。ところが、当日出かけようとしても体が動かず、杖代(つえしろ)にもかかわらず出席できず、案内を主管の古川様に代わりをお願いした次第です。
糸島の桜井の與止姫神社は表記と異なり、安曇磯良と豊姫(ゆたひめ)を夫婦神として祀ります。その與止姫神社創設のきっかけを作ったのは、浦姫神社の祭神、浦新左衛門毎治(つねはる)の妻女・浦姫です。
慶長15(1610年)、寛永元年(1624)と短い期間に、糸島の浦村では神がかりの強力な霊能者が二人出現しているのです。慶長15年は糸島の浦の浦毎治の妻女で桜井神社の大宮司家です。寛永元年は糸島の志摩船越の若宮神社の創立者・仲西市平の妻で、仲西家は今でも引津神社、若宮神社の社人となられています。

1.安曇磯良と豊姫

大幡主(大海神おおわたつみのかみ)、豊玉彦(海神わたつみのかみ)、豊玉姫、彦火々出見命、鵜草葺不合命、安曇磯良(あずみいそら)、豊姫(ゆたひめ)の流れは、糸島・志摩半島の神社を巡りますと、その関連が見えてまいります。

安曇磯良・豊姫系図

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安曇磯良は大幡主の直系の子孫であり、金印を引き継ぐ資格と地位は十分です。
安曇磯良は開化天皇と義兄弟であり、新羅征討等共に行動された人物であり、皇宮に住み、神功皇后をして「日神 表筒男尊の大臣公は天照大神の「ひまご」にておわします間柄、玄孫大臣・物部大連(もののべおおつら)と申し奉るべしとおおせけり。玄孫大臣と書いては、ひまご大臣と読めり。」とあり、安曇磯良は天照大神の曾孫であり、玄孫大臣・物部大連と呼ばれています。また、住吉三神の一柱でもあるのです。

住吉三神を整理すれば
 表筒男尊 日神垂迹 玄孫大臣物部大連・安曇磯良 防府住吉神社の主祭神
 中筒男尊 ()崇神天皇 博多住吉神社の主祭神
 底筒男尊 月神垂迹 大政大臣物部保連・玉垂命・開化天皇 摂津住吉大社の主祭神

安曇磯良と豊姫の子・日往子(ひゆきこ)は、神功皇后が亡くなると、開化天皇に甥として連れられて高良山に上がり、高良大社の大宮司家・鏡山家の祖となるのです。
その開化天皇の九体皇子の一人・ナオミ姫と関係する播磨の姫路の黒田家は、江戸幕府より関が原の功績により筑前福岡藩に移封となります。第二代藩主黒田忠之公の時、浦姫の関連で桜井の與止姫神社を創建されます。
その黒田家に渡った金印は後に亀井南冥の係わることとなり、『金印弁』の鑑定口上書に記載されるごとく金印の志賀島出土説(志賀島は安曇磯良を祭神とする志賀海神社が鎮座する)となって日の目をみるのです。大幡主、豊玉彦、・・・安曇磯良の流れは、糸島桜井の安曇磯良から志賀島の安曇磯良へと安曇磯良に戻ってくるのです。

2.浦姫と桜井の與止姫神社

與止姫神社(よどひめ)が鎮座する桜井の北に「浦」の村があり、そこに浦姫伝説の浦姫神社があります。


浦姫伝説
慶長15(西暦1610年)のことです。糸島一帯が大暴風雨に襲われたとき桜井の三郎畑という小高い丘に大きな岩屋ができました。これを見ようと村人が大勢集まりました、その中の山伏が「神様の岩屋だから、人は出入りしてはならない」と厳かにいうと、人々は跪き拝むのでした。その人達の中に浦新左衛門毎治の妻女がいました。その夜妻女が眠りについていると、夢の中にその岩屋が現れ、その中に運ばれていきました。奥深いところで神々のお姿にふれ伏し拝みますとキラキラと輝く小石が飛んできて、顔に当たりました。夢から覚めた妻女は神のお告げのもと、五年の辛い修業を行い、正確な予言をするようになりました。その後、浦姫様と呼ばれ、評判は福岡の黒田忠之公にまで届きました。忠之公は、審議を確かめるため使者を遣わしましたが、「私には人の心など物事すべてがわかるのです」といって、使者の浦姫への疑念や城を出るときの様子などを、見透かしたように言い当てたのです。(中略)
忠之公は、その信じられないような能力に驚かれ、後に浦姫の話が事実と少しも違わないことを知るとその信頼は益々深まり、難しい事が起こる度に相談されたということです。


慶長15(161061日より2日、早暁に桜井を中心に雷鳴轟く大豪雨が降り、岩戸神窟が初めて開き、霊験あらたかな神様が出現された。その事は筑前国2代藩主黒田忠之公にも聞え、厚く崇敬され、寛永2年(1625)桜井大神宮を、寛永9(1632)桜井神社を創建されている。当初、桜井神社は、与止姫大明神(よどひめだいみょうじん)と呼ばれ、明治になって桜井神社と改称されている。


      浦姫神社 福岡県糸島市志摩桜井3315  浦毎治(つねはる)の妻女・乗蔵を祀る

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櫻井神社 福岡県糸島市志摩桜井4227

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3.本殿後の岩戸宮

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本殿後の岩戸宮は円墳の入り口に社殿を構えたものです。
慶長15(161061日より2日、早暁に桜井を中心に雷鳴轟く大豪雨が降り、相薗の古墳の岩戸が開きます。
その夜、浦毎治の妻女・乗蔵が眠りつくと、夢の中にその岩屋が現れ、その中に運ばれていきました。奥深いところで神々のお姿にふれ伏し拝みますとキラキラと輝く小石が飛んできて、顔に当たります。夢から覚めた妻女は神のお告げのもと、五年の辛い修業を行い、正確な予言をする霊能者・浦姫に新生されています。
 相薗の円墳の石室規模は全長約10m、玄室の高さ約5mと一般古墳を凌ぎます。
現在古墳の中には、当時の副葬品等の遺物はありません。まして、当時の記録も見当たりません。どんな副葬品があったのでしょうか。
糸島郡誌「筑前国志摩郡櫻井村與止姫神祠縁記」には当時岩窟には何もなかったと記す。
しかし、神窟の神は大綿積神と福岡県神社誌にも記載され、海神とはっきりしているのです。それは浦姫によって知ることができたものと推察します。
大海祗神(おおわたつみのかみ)は熊野神社の祭神・大幡主か、志賀海神社の祭神・安曇磯良となります。与止姫神社の性格から大海祗神は安曇磯良となります。いづれにしても、大幡主と安曇磯良が関係しています。
筑前二見ヶ浦には桜井神社の宇良宮(うらみや)として、夫婦岩に伊弉諾命と伊弉冉命を表向き祭祀しますが、本当は、安曇磯良と豊姫を夫婦神として祀るものです。
櫻井神社の祭神は警固三神ですが、櫻井神社は江戸時代までは與止姫神社でした。明治になって櫻井神社と改称しています。
櫻井神社は與止姫神社なのです。與止姫神社は安曇磯良と豊姫(ゆたひめ)を祀る神社なのです。
にもかかわらず、祭神の安曇磯良と豊姫は頑固に隠されているのです。
不思議です。櫻井神社は何かを隠されている、としか思えません。
安曇磯良と豊姫の名が表に出ては困ることがあるのでしょう。

    安曇磯良と豊姫を祀る夫婦岩 福岡県糸島市の志摩半島の二見ヶ浦

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4.金印「漢委奴國王」(漢の倭の奴国王)

金印「漢委奴國王」の問題は 金印がどこで発見され(本来どこにあったか) どのようにして黒田家に渡ったのか そして、亀井南冥の知るところとなり、志賀島出土説の発表となったのかの三点に尽きると思います。亀井南冥が『金印弁』の鑑定口上書に志賀島(しかのしま)金印出土を書き上げ、それが創作であったとしても、全く縁も所縁もない所に金印出土(発見)を求めるでしょうか。何等かの関連があるから、それなりの理由が見当たるから、志賀島と金印に関連性を見出せるから、志賀島に金印出土説が設定できたのではないでしょうか。
「志賀島」で古代と金印を連想させるものは、「志賀海神社」と「安曇磯良」です。

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志賀海神社(しかうみじんじゃ)
所在地 福岡市東区志賀島877
祭神  底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神

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志賀海神社の祭神は底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神であり、綿津見神(わたつみのかみ)という海神ですが、その神様の称号は至って抽象的で実態がイメージできません。
志賀大明神は安曇磯良であり、安曇磯良・豊姫・大海姫は鵜草葺不合命の子です。この三神を総じて、海祗(わたつみ)三神と称します。鵜草葺不合命は大海祗(おおわたつみ)です。
志賀海神社から安曇磯良と志賀島は連想できます。
また、志賀海神社は山誉め祭の神楽歌「君が代」の原型歌が奉納される珍しい神社です。
その中に「君が代」の歌詞の一部「さざれ石」「こけむす」がありますが、それに関係する神社が糸島市三雲の細石(さざれいし)神社、糸島市志摩船越の古計牟須姫(こけむすひめ)を祀る若宮神社です。伊都国(怡土国)、志麻国(志摩国)、志賀島は結びつくのです。


紙面が余りましたので ひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下もご紹介します。併せお読み頂きたいと思います。


719

福岡県糸島市の桜井神社再考(下)

718

福岡県糸島市の桜井神社再考(中)

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福岡県糸島市の桜井神社再考(上)


別の角度からの視点を求め広く多くの皆さんの参加を募ります。090-6298-3254 or 090-5289-2994まで!
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 19:41| Comment(0) | ビアヘロ

2020年01月04日

672 橘 諸兄を主神とする潮見神社 “佐賀県武雄市の故地に息づく橘一族の一社”

672 橘 諸兄を主神とする潮見神社 “佐賀県武雄市の故地に息づく橘一族の一社”

                                     20181018

太宰府地名研究会 古川 清久


橘の諸兄と言えば、源平藤橘ともいわれる藤原氏と並ぶ大族だったことは良くご存じかと思います。

この橘一族を祀る象徴的な神社が佐賀県武雄市(明治の旧橘村)潮見地区にあります。

勿論、橘一族は「奈良麻呂の変」以降、零落への道を辿り、良くて中級貴族から地方豪族として命脈を保ってきたのですが、平安の世もそう永くは続かず、鎌倉以降の武士の時代が続くと、どれだけの実力を保ち続け多くの家臣団と支配領地を持つかに問題の中心が移っていったためそれほどの意味はないのかも知れません。

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潮見神社 カーナビ検索 佐賀県武雄市橘町永島17343


ただ、橘 諸兄という実在の人物をそのまま神と崇める神社とは、実質的に自らを橘一族と認識する人々による同族意識を持った人々にとっては重要この上ないものであって、この白川伯王―天御中主〜大幡主〜ヤタガラス…橘 諸兄とその後裔の人々には祀るべき祖霊であり、祖神にはなるのです。

ただ、橘一族とは白川伯王―天御中主〜大幡主〜ヤタガラスの後裔の一流であって、それ以外の私達が大幡主系とか白族系の全ての流れを体現している神社という訳ではないとは言えるでしょう。

と、言うのは、ヤタガラスこと豊玉彦は有力者であった事から、多くの有力氏族の女を受入れ、多くのヤタガラス系氏族が産まれました。

金山彦系、高木大神系、阿蘇系、大山祗系…の多くのお妃との間に形成された姻族の全てが後の橘一族となったとも思えませんが、縣犬飼橘美千代から諸兄の時代の繁栄期はともかく、諸兄失脚以降には橘一族と言える人々が実際にはどの系統なのかは不明であって、今のところ今後の課題とせざるを得ないのです。一応、百嶋由一郎が残した神代系譜には橘一族の祖とは、前玉姫(ニニギと別れた後のコノハナノサクヤ姫の別名)とヤタガラス=豊玉彦との間に産れた後裔氏族とはされているのですが…。

始めからややこしい話をしましたが、同社については、以前にもひぼろぎ逍遥で杵島として書いていますので違う話とさせて頂きました。

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潮見という地名のとおり、古代にはこの一帯は有明海の干満が普通に認められる場所でした。

 春の大潮などの最高潮位期にはまだまだ奥まで潮が入っていたと考えられます。

 このため、おつぼ山の神籠石は干潟と澪筋を正面の堀と見なした低湿地の逃げ城だった事が分かります。

 実は、この潮見神社正面の小丘に奈良麻呂の変の道祖王の墓地(現地では「どうざのぼち」=どうそおうさまのぼち)と言われるものがあるのです。

 橘諸兄の失脚後、橘一族は奈良麻呂の時代に反撃しようとしますが、この政変劇は橘氏の敗北に終わります。

道祖王はこの奈良麻呂の変の時の立太子(廃太子)であり、それが人知れず祀られてきたのです。

 それは、この地が橘一族の単なる逃亡地といったものではなく、元々、橘一族の出身地、故地の一つだったからではないかと考えています。

都から遠く離れた僻陬の地から…そんなことが言えるかとお思いになるのは当然でしょう。

少し考えて見ましょう。

この伝道祖王墓地は杵島山の西麓にあるのですが、この杵島山を東側に越える白石町(旧錦江村〜旧有明村)には福泉禅寺(勿論式部の時代は禅宗寺院ではありませんが)があり、和泉式部の生誕伝承を伝えています。

一方、幼少期を過ごした後、式部は杵島山の西に位置する塩田町(現嬉野市)五町田の大黒丸夫婦に引き取られ育てられたと言われています。

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福泉禅寺と和泉式部伝説この寺には、2つの興味深い物語が残っています。

 その1つが「和泉式部生誕伝説」で、遙か平安時代藤原氏全盛期のお話です。ある朝、赤ちゃんの鳴き声で目を覚ました福泉禅寺のお坊さんたちが周囲を探したところ、お堂の裏で白い鹿が人間の女の赤ちゃんにお乳をあげていました。そこに隣の塩田の里(現在の嬉野市塩田町)から長者大黒丸夫婦がやってきて、「私たち夫婦には子供がいないので、常々このお寺の薬師如来さまにどうぞ女の子をお授けくださいと祈願しておりました。すると夕べ、薬師如来様が夢枕に立たれ『おまえたちの永年の信心をあわれと思い、福泉禅寺の裏に一人の女の子をさずけておいた。明日の朝早速に寺に行き、その子をつれて帰るがよい』とお告げがありましたので早速こちらへ参った次第です」と申しました。

 大黒丸夫婦にもらわれていった女の子はとてもかしこく美しく成長し、縁あって宮廷に上がることになりました。これが和歌の名手和泉式部だったのです。和泉式部が遠いこの故里を思って詠んだ「ふるさとに 帰る衣の 色朽ちて 錦の浦や 杵島なるらむ」という歌が今に伝わっています。

 2つめは「幽霊の掛軸」の由来です。江戸時代、福泉禅寺の住職東州和尚が修行の旅に出ていた時のことです。ある夜、泊めてもらった駿河国(現在の静岡県)のお金持ちの家に幽霊の掛軸が飾ってありました。和尚が幽霊の掛軸を飾っている理由を主人に尋ねたところ、「この掛け軸は、継母に反発して悪行を重ねる子供のもとに、亡くなった生みの母が幽霊になって『育ての母上に逆らってはいけない』と諭すために現れた姿を描いたものです」という答えが返ってきました。その話に感動した東州和尚が「是非地元の同じ境遇の家庭にもその話を伝えたい」と申し、譲り受けてきたという掛軸が今も福泉禅寺に保存されています。

白石町HPによる


問題はここからです。面白い事に、知ってか知らずか、白石町HP氏も踏み込んでおられません。

和泉式部は多くの貴族の妃になっていますが、最初の夫になった人は和泉守 橘 道貞なのです。

では、何故、このような都から見れば片田舎の肥前国から、衰えたりとは言えども、橘氏一族の中級公家の妃となり、その才能から参内できるようにもなったのでしょうか?

それは、奈良麻呂の変後も、また、古来、中央の残存橘一族との連絡を保ち続ける橘氏の一族が杵島山の一帯に住み続けていたからであったとしか考えようがないのです。

 鎌倉政権成立後、橘 公業(キンナリ)の一族は、伊予からこの地に進出(復帰)します。

 このことから公式には肥前の橘氏の歴史が始まったと考えられますが、和泉式部の話を持ち出すまでもなく、また、火の国の論証からこの地が二千年以上前から橘一族成立以前の天御中主、白川伯王〜豊玉彦=ヤタガラスに繋がる白族の故地であったから(恐らく白石町の「白石」も無関係ではないでしょう)ではないかとまで思考は拡散します。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

643

火の君とは歴代の橘一族だった B 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 

“橘一族とは白族!”

642

火の君とは歴代の橘一族だった A 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 

“白族は雲南から”

641

火の君とは歴代の橘一族だった @ 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 

“九州王朝の白族”


 杵島山とは幾つかの小山による連峰の総称でしかなく、杵島山というものがある訳ではありません。

しかし、この山の周りの人々は千年の永きを越え、今なお親愛への思いを込めて杵島山と呼び続けています。

この背景には、橘一族が紀氏であったから杵島山と呼ばれたのではないかと考えるのですが、これ以上は根拠のある話ではありません。

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百嶋由一郎024〆鳥子系図004ヤタガラス系譜原本鳥(部分)


 鎌倉期にこの地に入った橘一族は最終的にこの地を守り切れずに熊本県菊池市、長崎県川棚町…などに四散しますが、橘 公業の時代に渋江、牛島、中村の三家に別れます。

 橘 諸兄の時期に橘氏は最後の最盛期を見ますが、奈良麻呂の変後は中級以下、地方の公家として命脈を保ちますが、鳴かず飛ばずのまま武士の時代を迎えます。

 とはいえ奈良平安の数世紀を経て勢力を保った大族であることには間違いが無く、橘氏の後裔の人々は数多くおられるはずです。

 橘 公業以降の本流の渋江一族は菊池氏の庇護に入ります。これについては、


ひぼろぎ逍遥 

438

天地元水(テンチモトミズ) “橘 諸兄の本流が菊池に避退した・”


をお読み頂くとして、私達が確認できた橘氏の一族には、渋江、牛島、中村の外にも、多くの分流があり、宮原氏やかく言う古川家も含めればまだまだ思い当たる方々は多いと思います。

 少なくとも、橘一族という同族集団の先祖神を祀る神社として参拝して頂きたいと思って止みません。

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そもそも、私が杵島山の橘氏に関心を持ったのは、私の妹が同校に務めていた事もあり橘小学校の吉野千代次校長を存じ上げていたからでした。これらの事からかれこれ15年も前の話になりますが、何度かご自宅を訪問し橘氏を中心にこの杵島山周辺の歴史など多くのお話をお聴きしたのが始まりでした。

既に御高齢でしたが、最期の力を振り絞り多くの事を伝えて頂いたのですが、その業績は、下を見て頂ければ、今尚、纏まった形でアクセスが可能で、かなり長編のDVDを見る事ができます(現在中断)。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:00| Comment(0) | 日記