2019年12月27日

660 “ピラミッドの法則”により肥後の11の神社が配置されている! D 阿蘇神社 祭神編

660 “ピラミッドの法則”により肥後の11の神社が配置されている! D 阿蘇神社 祭神編

20181002


太宰府地名研究会 古川 清久


 田尻(宮司)想定“阿蘇の「炎のピラミッド」”を形成する11の神社群への再リポートを始めましたが、ようやく峠が見える所までやってきました。既に田尻想定に接触して五〜六年は経過しています。

思えば、祇園神社の境内を踏んだ折、たまたま宮司とお会いする機会を得て、ご著書を手にしたのですが、最近になってようやく“阿蘇の「炎のピラミッド」”とは、阿蘇山を中心とした神社群の意味であって、大方の皆さんご理解であろう阿蘇系神社群の話との理解は、やはり、正しくはないとの思いを深めています。

 冒頭から阿蘇の神社群の基層に侵入する話になりましたが、おいおいお話していく事にしましょう。

 まず、阿蘇神社の神々の探索から始めることにしましょう。

自前でも良いのですが誤りが無いように敬愛する「玄松子」氏のサイトに従います。


式内社 肥後國阿蘇郡健磐龍命神社名神大  肥後國阿蘇郡阿蘇比盗_社肥後國一宮旧官幣大社
御祭神 以下の十二宮を祀る


一の神殿左手男神四柱

一宮 健磐龍命 

三宮 國龍明神 

五宮 彦御子明神 

七宮 新彦明神 

九宮 若彦明神


二の神殿右手、妃神四柱

二宮 比当セ神 

四宮 比東芬q明神 

六宮 若比当セ神 

八宮 新比当セ神 

十宮 彌比当セ神






これが良く知られた「阿蘇十二神」と言われるものです。

右が古川作成の阿蘇12神ですが、続柄がなければ誰の事なのか全く分からないと思います。

一応、私が理解できる範囲でどなたなのかを書いておきますが、無論、同社や関係神社から異論が提出される可能性は十分に考えられます。

しかし、誤りを恐れていれば全く解明が進みませんので、ご批判は覚悟のうえで少し掘り下げて見ようと思います。

百嶋神代系譜でこれを解明するには56枚の神代系譜を読み解かなければなりません。

何分困難な課題であってここでは作業仮説としてご理解いただきたいと思います。


一の宮健磐龍命 

二の宮健磐龍のお妃(実体は阿蘇氏の高木大神一族への入婿)=天豊ツ姫(別名阿蘇ツ姫)であり 草部吉見神(父神)と高木大神の次女栲幡千々姫(タクハタチヂヒメ)(母神)の間に産れたプリンセス

三の宮 草部吉見神(健磐龍命の腹違いの実兄)=別名:国龍命 藤原が格上げし第6代贈る孝昭天皇(天足彦国押人命)としているが 勿論、第4代威徳天皇の実子などではない

四の宮 三の宮=草部吉見神のお妃(実体は阿蘇氏の高木大神一族への入婿)であり 高木大神の次女栲幡千々姫(タクハタチヂヒメ)

五の宮これがかなり際どいのですが阿蘇家が惟人を初代としている事から 当然にも健磐龍系と草部吉見系との両方の流れを汲む(当然にも高木大神系でもある)雨宮姫と天忍日(アメノオシヒ)の子惟人

六の宮 五の宮=阿蘇惟人のお妃(自信はないのですが産山村の乙宮の主祭神かその娘ではないでしょうか)これについては ひぼろぎ逍遥(跡宮)をお読み下さい

363

「ひぼろぎ逍遥」 阿蘇の乙姫とは何か? “産山村乙宮神社のお姫さま”再考


七の宮新(乳)彦=草部吉見と栲幡千々姫の間に産れた天忍日=興ツ彦であり阿蘇ツ姫の弟

八の宮 新(乳)姫=健磐龍(一の宮)と天豊ツ姫(二の宮)の間に産れた雨宮姫であり阿蘇家初代惟人の母神

九の宮これが最も分かり難いのですが、一応、日中咋としておきます 草部吉見神社の検討と併せ再考したいと思います

十の宮 三の宮=草部吉見と市杵島姫の間に産れた興ツ姫で七の宮=新(乳)彦のお妃彌姫

無題.png

百嶋由一郎神代系譜 005アイラツ姫系譜(部分)


百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニングDVDを必要な方は09062983254まで


 ブログを書き始めた当初、ひぼろぎ逍遥に以下を書いていました。まだ、ひぼろぎ逍遥(跡宮)版も含めれば、外にもまだまだ書いてはいますが、それについては読者にお任せするとして、これだけ書いてきても不明瞭この上ないという思いが拡大し続けています。

 これらは草部吉見系を中心に書いてきたもので、阿蘇神社については僅かに178 金凝彦=贈)綏靖天皇を確認 “遅れ馳せながらも阿蘇神社に金凝彦を認識した”ぐらいのもので、事実上本気で取り上げたのはこれが初めてかも知れません。


ひぼろぎ逍遥版のみ

570

熊本県西原村鳥子の鳥子阿蘇三之宮神社再訪 

444

人吉盆地の最奥部で異彩を放つ白水阿蘇神社をご存じでしょうか?

375

阿蘇高森の草部吉見神社の摂社三郎神社とは何か? 

311

人吉盆地の雨宮神社(熊本県相良村)再訪 “悲劇の雨宮姫”

270

草部吉見神社近郊の神社 高畑年禰神社(幸福社)の衝撃 A

269

草部吉見神社近郊の神社 高畑年禰神社(幸福社)の衝撃 @

268

草部吉見神社からもほど“近い?”早楢宮のイチョウの絨毯

217

阿蘇高森の草部吉見神(春日大神=建御雷之男神、武甕槌神)の御先祖の写真を

お見せします

189

阿蘇の大蛇伝説と祖母山 “大分県竹田市の穴森神社”

183

神武天皇の正妃アイラツヒメ(蒲池姫)を祀る神社 “郡浦神社(熊本県宇城市

三角町)”

178

金凝彦=贈)綏靖天皇を確認 “遅れ馳せながらも阿蘇神社に金凝彦を認識した”

163

畿内に神沼河耳(第2代綏靖天皇)を単独で祀る神社などありえない!

162

神沼河耳(綏靖天皇)から阿蘇氏を考える“草部吉見が神武の皇子と称する訳”

161

金凝神社 “日田市天ケ瀬町五馬市の古社”

158

阿蘇国造神社と甲佐神社の祭神 B

157

阿蘇国造神社と甲佐神社の祭神 A

156

阿蘇国造神社と甲佐神社の祭神 @

122

草部吉見神社の深夜の遷座祭

119

阿蘇草部吉見神社の日子八井命御陵

97

草部(草壁)吉見神社とは何か? K “草壁と草部と日下部”

96

草部(草壁)吉見神社とは何か? J “草壁吉見縁起”

42

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  I “肥後人は支那人だった!?”

41

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  H “阿蘇から筑後に移動した阿蘇氏”

40

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  G “阿蘇ご一家神代系図”

39

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? F  “八井さんを探して下さい”

38

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? E  国造神社と風宮神社

37

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  D  “草壁吉見神社の参拝客急増”

36

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  C  “龍田の神を立野に祀る!”

35

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  B   神代系譜

34

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? A  立田阿蘇三宮神社

33

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  支 那


思えば、草部吉見神社ばかり取り上げており、阿蘇神社についてはほとんど触れてきませんでした。

それは、“観光客が押し掛ける様な神社は趣味ではない”という天邪鬼精神が染み込んでいるからでしょうが、今回のような大型プロジェクトについては問題が大きく、改めて調べ始めても付け焼刃の感は拭えません。

そこで、これまで掴んできた僅かな知識を総動員して、この阿蘇神社の本質について思うところをいくらか展開して見ようと思うものです。

それには阿蘇氏とは何かという問題に踏み入らざるを得ません。

勿論、阿蘇氏についてはこれまで幾らも書いてきた通り、雲南省麗江から海南島を経由して九州西岸に進出してきた黎族=多氏=宇治族=耳族=阿蘇氏を阿蘇氏と見立てた上の概念でしかありません。

阿蘇とは阿蘇山を中心とした地名であって、そこに先住者がいなかったなどとは考えられず、故)百嶋由一郎の言に従えば、“島原半島〜諫早〜大村湾(旧高来郡)から高千穂の三田井辺りまで高木大神の一族の支配領域だった”のであり、そこに恐らく若い男の集団として侵入してきた異属を懐柔し受入れたのが本来の意味での先住者である阿蘇氏であり、大陸から入って来た黎族の多氏こそ草部吉見系の人々だったことになるのです。

このため、腹違いながらも実の兄弟である草部吉見(兄)はさらに列島の中心部に進出し、健磐龍(弟)は阿蘇に残留し、事実上高木一族の入婿として阿蘇を継承する大族となったと考えられるのです。

このため、普通の意味での阿蘇氏とは、健磐龍を表看板に女系として高木大神=高皇産霊尊、高御産巣日神系の血統を保持する一族であり、阿蘇高森の草部吉見系の諸社(年禰神社…外)はヒコヤイミミがさらに東に進出する形で黎族が中央に進出している残留拠点と考えたいのです。

ただ、何故、草部と称しているかと言えば、草部とは伽耶(カヤ)部の意味であり、高木大神の本拠地である半島のコリョン〜広義の伽耶の概念が置き換えられたものであり、草部吉見さんも高木大神の配下=入婿であるとの意味を残しているのです。

この辺りに、後に「草部」を消し「日下部」と書いて「草部」と読ませた舞台裏があり、あたかも元々日下=日本の部だったとし、半島勢力の影響を消そうとしたことが透けて見えるのです。


参考資料 草部吉見神社の祭神(敬愛する「玄松子」による)阿蘇神社とは異なる

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さて、話を進めますが、昨年二月、ひぼろぎ逍遥(跡宮)に 360 阿蘇氏が天皇家の一族であると言う理由について を書いています。以下…


この間、阿蘇高森の草部吉見神社について多くを書いてきました。

 今回は、単に草部吉見神社に拘らず阿蘇氏について考える事にしたいと思います。

 HP「武家家伝」氏も「阿蘇氏は、…『阿蘇宮由来記』によれば、その先祖は神武天皇の皇子神八井耳(かむやいみみ)命とされ、第二代天皇の綏靖天皇の同母兄にあたるという。」と書かれている様に、阿蘇氏は自らが天皇家にも深く繋がる名族であるとしています。

これは阿蘇神社の阿蘇氏に限らず、高森の草部吉見神社に於いても同様です。

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社名の草部は「クサカベ」と読む。祭神・日子八井命は、神武東征の時、日向高千穂より草部に入られ、しばらく川走の窟に住まわれた。後、今の草部吉見神社の所にあった池を干し宮居を定められた。土賊を平らげ、筑後国を鎮護し、皇業を翼賛した。また、神八井命の御子・健磐龍命(阿蘇大神)が下向の時之を迎えて、力を合わせて国土を開拓したという。当地に住まわれた時、襲ってきた大蛇を斬られ、焼かれた大蛇が血を流しながら逃げて行った所が血引原(地引原)。焼かれた所を灰原と言う。

主祭神は、神武天皇の御子・日子八井命。ただし「日本の神々」では、主祭神は神八井耳命となっている。

『古事記』では、神武天皇の御子を、日子八井命・神八井耳命・神沼河耳命の三柱としているが、『日本書紀』では、日子八井命の名は無く、『旧事本紀』では、日子八井命は神八井耳命の御子となっている。


敬愛するHP「玄松子の記憶」より


勿論、百嶋神社考古学の立場から見た場合、草部吉見神社の神代系譜を正しいとは考えていません。

ただ、この阿蘇氏の言い分には僅かながら理があることだけは言えることからその部分を説明して見たいと思います。

神武天皇のお妃については「橿原宮で即位されたあと、媛蹈鞴五十鈴媛命(富登多多良伊須須岐比売命)を皇后とし、 日子八井命(『日本書紀』には登場しない)、神八井耳命、神沼河耳命(のちの第二代天皇・綏靖天皇)を生んだ」といった妙な話があるのですが、まずこれは、贈)崇神による偽装であり、贈)崇神が阿蘇氏の後裔で、藤原が仕組んだものと考えて良いでしょう。

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731日の大祭で公開される草部吉見神社の神代系譜


初代神武天皇が橿原宮で即位した事はないのです。それは、贈)崇神の業績の誇張なのですが、当面、この話には踏み込まないでおきましょう。

故)百嶋 由一郎氏が残された系譜を御覧頂ければお分かりの通り、初代神武天皇の本当のお妃であるアイラツヒメ(吾平津姫)は、金山彦と越智ノ姫との間に産れていますが、懿徳天皇を御生みになった後に別れられ、阿蘇氏の神八井命の弟である神沼河耳との間に阿蘇の建磐龍を御生みになっています。

このため、懿徳天皇と建磐龍命にとっては共に母親が同じであり、義理の兄弟にはなるのです。

恐らく、この事が、阿蘇氏も天皇家の一族であると言いたがる(一応は言える)根拠となっているのです。

一般的には、離婚後の再婚先が阿蘇氏の神沼河耳(耳が付いていることから黎族と分かりますね)であっただけで、呉の太伯の後裔としての天皇家の血筋などとは言えないのですが、雲南省から入ってきた黎族としては、建磐龍にせよ、草部吉見にせよ、有力者である先住者民族への入り婿の要素が強く母系こそが重要であった古代に於いては、アイラツヒメを神武に送り込んだ民族(氏族)こそが重要であるとも言える訳で、二重の意味で阿蘇氏が天皇家の一族と主張する背景があるようなのです。

ただ、草部吉見の一族は黎族の本流として中央に進出しますが、建磐龍は阿蘇に留まり、その母系の一族の頭目として蟠踞することになったことが見えてくるのです。

今回は中途半端な話でしたが、このような部分を少しずつ解明していかなければ隠された真実には到達できないのです。


 途中経過ではありますがとりあえず申し上げておきたいことがあります。

阿蘇神社と草部吉見神社とは共に阿蘇系神社と考えられてはいるものの、草部吉見系は、兄として更に東を目指して新天地の開拓に進出した本来の多氏(黎族)耳族であり(雲南省麗江から列島へ)、阿蘇神社系は婿養子として受け入れた健磐龍を表看板に先住氏族としての高木大神系を守った神社群であるとまでは言えそうです。そして、同時に古代の末子相続の匂いも感じるのです。このため、さらに進出した阿蘇氏に対して、有力な新興集団としての多氏(黎族)を入婿として受け入れた高木大神系の勢力が現阿蘇神社の一族であり先住氏族としての阿蘇氏(高木一族)だったと考えられるのです。

 藤原氏は平安期に最盛期を迎えますが、そのルーツが草部吉見にあると言えば驚かれるかも知れません。

草部吉見系(後の藤原氏)と天御中主命系(橘一族=白族)とが古代の列島を支えた最重要氏族として成長することになったと考えています。

彼らは大陸において漢族、鮮卑族、蒙古族…と死闘を繰り広げ最後まで誇りを失わなかった人々であり、遂に支えきれずに白族(天御中主系)と共に新天地としての列島に移動したのです。

その意味で日本人の魂を引き継いでいるのが彼らだった事に感動をさえ覚えるのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記