2019年11月01日

641 火の君とは歴代の橘一族だった @ 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝の白族”

641 火の君とは歴代の橘一族だった @ 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝の白族”

20171224

太宰府地名研究会 古川 清久


 九州の古代史には火の君が横たわっています。

九州王朝を探索する者にとって、この火の国、火の君をどのように理解するかは極めて重要で、この解明無くしては全く前に進めないと言っても過言ではないものとさえされてきました。

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ひのくに【肥の国(火の国)】古代の九州の地域名の一つ。のちの肥前国,肥後国,現在の熊本,佐賀,長崎の各県に当たる地域を指す。《古事記》国生みの段に筑紫島が身一つにして面(おも)四つありとするが,その一つに肥国が見える。《日本書紀》には,景行天皇の船が,夜暗くして着岸が困難であったとき,遥かに火の光を見て無事陸に着くことができたので,その地八代県(あがた)豊村を火の国と名づけたという地名由来伝承をのせる。また《肥前国風土記》には,肥君らの祖,健緒組が土蜘蛛(つちぐも)を討ったとき,不知火(しらぬい)が天から降ったため,火の国としたという伝承をのせている。

世界大百科事典 第2版の解説


 さて、太宰府地名研究会には色々な分野のエキスパートがおられますが、特に神社研究では熱心なメンバー集まっておられます。

 敗戦の結果からか、戦後は皇国神話でも荒唐無稽な(「記」「紀」の一部が偏重され「国史」でも何でもないのですが)を全否定する傾向が顕著となり、奇妙にも科学的と思い込まれた考古学的発掘調査と文献史学、特に海外史書への傾斜が高まり、神社研究(特に九州本土に於ける)が全くないがしろにされてきました。

 この全く見向きもされない神社研究(比較的まともな感性を残しておられる九州在住の「九州王朝論」者の間でさえも、熊本、佐賀、大分などの神社研究など全く見向きもされていないのです)を愚直に継続してきた事から、ようやくこの「火の君」の正体が幾分かは理解できるようになってきました。

 これは多くのメンバーの研究が集められた結果分かってきた事でした。

 まず、@橘一族の後裔にあたる宮原氏(blog「橘氏の末裔」)による自らのルーツ研究がまさにこの一帯(熊本県氷川町)にあった事、A考古学や文献史学に精通した知識を持つ伊藤女史(blog「地図で知る」)によるこの氷川流域の古墳(野津古墳群外)形式の北上仮説による推定、Bもう一人の宮原氏(blog「宮原誠一の神社見聞諜」)との氷川流域に於ける神社トレッキング共同作業、C当然にも65年に及ぶ故百嶋由一郎氏による神社考古学、D熊本県の女性メンバーM女史による氷川流域の重要性へのアドバイス、E古川による有明海を挟む対岸の佐賀県杵島山周辺の橘氏関連調査と火の君伝承、河童伝承への基礎的記憶…これらが総合的に結びつきようやく「火の君」の正体が見えて来たのでした。

 そして、今は、確信を持って言えます。博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の子であるヤタガラスの後裔こそ橘一族であり「火の君」の後裔だったのです。

 まず、この問題で最も遠い位置にあることから結果的に重要に見える佐賀県側の資料をご覧ください。

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佐賀県白石町稲佐神社県道傍の境内地に置かれた解説文


稲佐山累縁記により、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命により、火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる


 お読みにもなれると思いますが、稲佐神社(佐賀県杵島郡白石町辺田2925)は直接的に百済の王族を祀る神社です。

 この神社の伝承として百済の聖明王の子である阿佐太子は“火ノ君を頼って”八隻の船で亡命しているのです。

 時代は有名な斯摩王こと武寧王(聖明王は武寧王の子)から聖明王の時代ですから6世紀に当たる訳で、まさに九州王朝の最盛期の時代に火ノ君は後の肥前、肥後を支配領域としていた事が分かるのでした。

 ところが、この孤立無縁と思われた伝承が、有明海を挟んで対岸の氷川流域〜八代市に掛けて存在していたのでした。

蛇足ながら斯摩王が列島と半島の中間の加唐島で産まれたとの話がありますが、それは両国の学者の説を折半(予算消化に折り合い)しただけのものであり、当然、糸島半島の志摩に決まっているのです。

学者、教委、学芸員は使命感も研究心もない馬鹿か嘘つきか!?

 一つは、氷川町の北、旧小川町(現宇城市)の南海東の正しく泉地区にある霊符神社であり、もう一つが、有名な八代市の妙見宮に隣接する同じく霊符神社でした。


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杵 島 A 2/2

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杵 島 @ 1/2

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熊本県の興味深いエリア宇城市海東地区の霊符神社初見

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八代市の妙見宮は列島に亡命した雲南省昆明の白族の中心的な神社だった


詳しくは、稲佐神社を ひぼろぎ逍遥の「杵島」を、二つの霊符神社については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の505508をお読み頂くとして(公開のタイムラグがあり、本稿オンエア時には、まだ、公開されていませんので必要な方は09062983254までご連絡下さい)、実に二つの霊符神社の由緒には、稲佐神社と非常に良く対応する内容が書かれていたのでした。


阿佐太子(あさたいし、アジャテジャ、6世紀末 - 7世紀前半頃)は、百済の王族出身画家で、威徳王の息子。日本に来て聖徳太子の肖像画を描いたと伝えられる。生涯[編集]

『日本書紀』によれば、推古天皇5年(597年)4月に日本に渡って聖徳太子の肖像を描いたと言われる。奈良の法隆寺に伝来し、明治以降は御物となっている『聖徳太子二王子像』と呼ばれる絵は、日本で一番古い肖像画とされている。その形式は中央に太子が立ち、その左右に2人の王子(伝えられるところによれば、右側が山背大兄王、左側が殖栗王)を小さく配置した構成である。この配置は、仏教の三尊仏形式の影響を受けたとも考えられ、あるいは閻立本の作とされる初唐の『歴代帝王図巻』に見られる人物配置に似ることから、その頃の構図法に起因したものと解釈されることがある。

日本学界でも論議が多いこの像は、製作時期においても太子の冠の様式や太子及び王子の服飾から見て、8世紀(奈良時代)の作品だと見る説と、平安時代以降の模本と見る説が概して多い。

このように現在伝えられる聖徳太子像の作者および制作時期は、様式上の問題点と同時に、阿佐太子に対する記録が韓国側資料にはないという事実によって、未解決の課題である。

ウィキペディア(20171225 0114による

聖明王 朝鮮、百済(くだら)の第26代の王(在位523554)。『三国史記』『三国遺事』には聖王とある。武寧王の子である。中国の梁(りょう)によく通交して文物を得、「持節都督百済諸軍事綏東将軍(じせつととくくだらしょぐんじすいとうしょうぐん)百済王」に封ぜられた(524)。また欽明(きんめい)天皇の日本にも通交して仏教などを伝え、任那(みまな)の復興を図った。王は都を熊津(ゆうしん)(いまの公州)から泗(しひ)(扶余(ふよ))に移し、国号を南扶余とした(538)が、新羅(しらぎ)と争って戦死した。[浜田耕策]武寧王(462 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502 - 523年)

日本大百科全書(ニッポニカ)による

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霊符神社は八代の妙見宮に隣接する高い場所に置かれています。この只ならぬ関係は霊符神社と妙見宮と一体と言っても良いような同族性を感じさせますし、高い場所に祀られていること自体でも霊符神社の方の格式が上なのではないかとさえ思わせます。

 その霊符神社に火の君の記述(火の君こそがその時代その地域の支配者であったことを思わせる)があることから恐らく火の君と妙見宮それに九州王朝との濃厚な関係が存在したと考えられる百済系氏族(だからこそ九州王朝は白村江の闘いに突き進んだ)を受入れたのだろうと思われるのです。

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兼川 晋       小松洋二

いずれも不知火書房092-781-6963の名著


そこで、故)百嶋由一郎氏の最終神代系譜をご覧頂きたいと思います。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


そこで、良く知られた八代の妙見宮ですが、最近になって列島にとっても九州王朝にとっても最も重要な神社であった事がようやく分かってきました。

ここでは、通常話されるありきたりの内容から離れ最も重要な側面についてだけお話しさせて頂きます。

言うまでもなく、祭神である天御中主神と國常立神とは、白山姫と博多の櫛田神社で祀られている大幡主の二神です(「熊本県神社誌」省略)。

 この間、八代の妙見宮の重要性に関しては十分に理解していたつもりではあったのですが、大幡主〜豊玉彦=ヤタガラスの一族(白族)は、直接、熊本に入っていると思っていた事から、八代の妙見は河童渡来(揚子江流域からの越族の移動)による後付だろうといった程度で考えていました。

 ところが、妙見宮に隣接する霊符神社の記述と、氷川の北宇城市小川町の霊符神社の記述が対応し、さらに佐賀県(肥前)の白石町(旧有明町)の稲佐神社(百済の王族を祀る神社)の境内地に百済の王族を火の君の世話で受入れたとの記述が相互に対応する事が判明し、肥前〜肥後に掛けての領域を支配領域としていたのが火の君であり、妙見宮=天御中主命=白山姫を奉斎する白族(雲南省昆明からの列島への亡命民族)であった事が分かって来たのでした。

 実は、最終神代系譜(上)の鴨玉依姫こそが、表向き玉依姫を祭神としている京都の下賀茂大社に繋がっているのであり、豊玉彦(ヤタガラス)とは賀茂建角身命も鴨玉依姫の父神になるのです。

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下鴨神社公式HPによる


もう十分にお分かり頂いたと思います。妙見宮こそ下上鴨神社のルーツであり、九州の古代史に於いて重要な位置を占める火の君とはこの下鴨神社に繋がる一族だったのです。

そこで、氷川の北に「豊」地名がかなり拾えることをお考えいただきたいと思います。

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熊本県宇城市豊野町(旧豊野町)地理院地図


氷川町から宇城市に掛けては「豊」地名が拾えます。代表的なのが旧豊野町であり、旧松橋町にも豊福(現宇城市豊福)、豊川、豊崎…が拾えるのです。

一般的には秦の一族と豊国(大分県)ばかりが取り上げられますが、それ以前からこの一帯には豊玉彦の一族の居留地を思わせる初期の豊の国が存在した事を思わせるのです。

ついでに言えば、宇城市には「東海東」「西海東」という奇妙な地名があるのです。

これも主として百済系の人々が住み着いた半島系の人々の亡命地だったのではないかと考えています。

「海東諸国紀」は、李氏朝鮮の日本国と琉球国について記述された歴史書ですね。

とにかく不知火海北部の東岸は白族(妙見宮に象徴されるヤタガラスの一族)の国だったのです。


百嶋由一郎が残した神代系譜スキャニングDVD、講演音声CD、手書きスキャニングDDVを必要な方は09062983254

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2019年11月03日

642 火の君とは歴代の橘一族だった A 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “白族は雲南から”

642 火の君とは歴代の橘一族だった A 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “白族は雲南から”

20171224

太宰府地名研究会 古川 清久


 この話に入ると正統派(全く現場に入ろうともしないただの文献史学派=邪馬台国本読みという程度の意味ですが)の九州王朝論者の方々から顰蹙を買う事は覚悟の上で申し上げます。

この天御中主命=白山姫の一族は雲南省昆明から入って来た白族であると故)百嶋由一郎は語っておりました。

blogはその話を次世代に引き継ぐ事を目的としていますので、可能な限り民俗学の手法=帰納演繹法によって証明して行こうと考えています。

文献史学派の方は眉を顰められるかも知れませんが、通説派であれ異端派の九州王朝論者であれ、九州王朝の現場にも入らずに「古事記」「日本書紀」…を喫架玉条の如く盲目的に論証されているだけであって、それが藤原によって作為が入っている事は不問にしているだけの事なのです(つまり、それを信じ込んで依拠しているだけの事なのです)。

 さてこのテーマに関しては、極力先行blogをお読み頂きたいのですが、この阿蘇の草部吉見の一族(黎族)と共に入って来た天御中主=白山姫を奉斎する一族とは雲南省の昆明から海南島を経由して入って来た白族だったのです

 この阿蘇氏(黎族の一派)と大幡主の一族(白族)もかつては中原にまで展開していたはずの主要民族(九黎族ほか)だったのですが、漢族、鮮卑族、清族、モンゴルなどに追われ、追われ、最終的には辺境山岳の少数民族地帯に逃れ、遂にはそこさえも失って、列島に新天地を求めて移動した人々だったのです。

 阿蘇氏は雲南省麗江からメコン川(瀾滄江)を降り、旧サイゴンから北上し海南島(南西部保亭リー族ミャオ族自治県・瓊中リー族ミャオ族自治県・白沙リー族自治県・陵水リー族自治県・昌江リー族自治県・楽東リー族自治県・東方リー族自治県…)へ、大幡主の一族は昆明からファン川(紅河)を降りベトナムのハノイ沖ハロン湾沖の海南島へ移動し、時期を見て列島へと進出した人々であったと考えられるのです。


ひぼろぎ逍遥 194 櫛田神社(博多)の大幡主のルーツは滇王国だったのか?

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理由は不明ですが櫛田神社は熊野から移ってきているはずです


無題.pngどうやら、百嶋先生は、博多に雪崩れ込んだ、白族(ペイツー)のルーツは雲南省昆明に近い、謎の青銅器文明(漁労+水田稲作農耕)として知られる「滇国」を想定しておられたようです。

考えて見れば、昆明には白族がいましたし、「滇国」の本拠地である滇池もそこにあったのですから、「滇王」の印を貰った「滇国」の一部が博多の櫛田神社の主祭神の大幡主に繋がる事は理があることなのです。

ただ、それを結びつけられるところが、百嶋先生の凄いところだと改めて思うものです。


(てん、簡体字: , 拼音: Diān)は、前漢時代の紀元前3世紀頃から、雲南省東部の滇池周辺にあった滇人による西南夷の国。歴史[編集]の将軍荘蹻が遠征した時に、によって帰郷できなくなり、やむなく建国したとされる。紀元前109前漢武帝の攻撃で属国になり、益州郡の統治下に入った。滇王之印滇王之印晋寧県の石寨(せきさい)山の遺跡(石寨山滇国王族墓)からはこの時代のものと思われる青銅器や「滇王之印中国語版)」と書かれた印鑑などが発掘されている。西嶋定生はこの滇王之印と日本の福岡県で出土した漢委奴国王印とが形式的に同一であることを指摘している。古滇国の歴代君主[編集]以下は黄懿陸の著『滇国史』から整理した。文字史料が不足しているため、大部分の滇王墓の主はその本名と年代を確認することができない。         ウィキペディア(20150331 12:00による)


白族は黎族(阿蘇氏)と併せ、日本人のかなり重要な部分を構成しているはずで、白族の起源の一部がが「滇国」にあったと考える事が可能であれば、多くの照葉樹林文化論者達(彼らは文化の伝播だけで逃げているのですが…)が主張している話とも符合する訳で、単に白族の一派が南ルートで渡来していると抽象的に考えるよりは、より具体性を帯びており、視界が広がった思いがしています。


雲南の二大王国


 現在の中華人民共和国最西南部、ベトナム、ラオス、ミャンマーと国境を接する地域で、北隣に四川省(しせん)、北東隣に貴州省(きしゅう)、北西隣にチベット自治区と接する雲南省(うんなん)。省都は昆明市(こんめい)であり、雲南という名は四川省と接する雲嶺山地(うんれい)の南にあることに由来する。現在は約39万平方キロメートルで、中国の行政区分別では8番目の広さである。漢民族以外にはイー族、ペー族、ミャオ族、チワン族など少数民族も多く存在する。中国古代王朝では、雲南・貴州のこうした漢民族以外の少数民族を西南夷(せいなんい)と呼んだ。

 歴史の上での雲南地方では、中国史における戦国時代B.C.403-B.C.221)にその黎明期があったとされている。戦国・(そ。?-B.C.223)の頃襄王(けいじょうおう。B.C.298-B.C.263)の時代(あるいは威王の時代か。いおう。B.C.339-B.C.329)にいた武将で、春秋五覇1人と数えられる楚の名君・荘王(そうおう。B.C.614-B.C.591)の子孫と伝えられた荘蹻(そうきょう。荘豪とも。そうごう。生没年不明)が、現在の昆明市西南に、同省最大の湖である"滇池(てんち)"付近に遠征を行い、同地を楚の支配下に入れたが、その遠征路を占領した王朝(しん。?-B.C.206)によって帰路を断たれた。そこで荘蹻は滇池を拠点に初代王(在位不明)となって王国"滇(てん)"を建国したとされるが、伝説的要素が濃く、建国年はB.C.5世紀からB.C.3世紀頃と確定には至らず、滅亡年も紀元前2世紀から紀元後2世紀の間で諸説ある。この滇国が雲南を拠点にした初の王国であるとされる。これに関し、その後の歴史を語る上で、雲南の異称として""が用いられることも多い。

 一方で夜郎(やろう。B.C.523?-B.C.27)という国家があった。 夜郎は滇より建国が古いとされるが、拠点は現在の貴州省で、雲南寄りにある畢節(ひっせつ)市の赫章(かくしょう)県にあったとされ、また一時的に楚の荘蹻に占領されたとも言われている。司馬遷(しばせん。B.C.145?/135?-B.C.86?)著の紀伝体正史『史記(しき)』の『西南夷伝』によると、夜郎は西南夷国家の中で最も強勢であったとされた。さらに、前漢(ぜんかん。B.C.202-A.D.8)の武帝(ぶてい。位B.C.141-B.C.87)時代、前漢からの遣使が滇王・嘗羌(しょうきょう。位B.C.123?-B.C.85)の会見機会があり、嘗羌が「自国と漢はどちらが強勢か」という、漢王朝からしてみれば愚問に値する内容を遣使に尋ねた。そして隣国の夜郎も王は同様の愚問に値する内容を尋ねた。こうした故事から、"夜郎自らを大なりとす"、すなわち"夜郎自大(やろうじだい。自身の力量や世間を知らず、自信過剰に威張ること)"の言葉が生まれたとされる。

HP「世界史の目」より


白族(櫛田神社大幡主の一族)は雲南省昆明から紅(ファン)河を下りハロン湾から海南島を経由し肥後にやって来た


無題.png雲南省昆明(or一部が雲南省麗江の北の大里)

海南省(海南島)白砂黎族自治県(加茂村?)

隈本(熊本城のある千葉城町)

多くの隈地名の地(佐賀東部、博多、小郡、朝倉、日田)に北上し展開する。


 期を一にして入って来た阿蘇氏は天草下島の苓北町(この「苓」も黎族の「黎」と考えられます)を経由し阿蘇に進出します。

 こうして、恐らく紀元前後に中国の辺境から亡命してきた黎族(後の宇治族=多氏=阿蘇氏)と白族(後の櫛田神社の大幡主、熊野三山、下賀茂、上賀茂)という列島の最重要氏族の二つが形成され列島人の主要な勢力となって行ったと考えられるのです。

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海南島南西部の黎族自治県には加茂という地区まであり、天御中主の後裔である下賀茂神社を思わせます

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2019年11月06日

643 火の君とは歴代の橘一族だった B 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “橘一族とは白族!”

643 火の君とは歴代の橘一族だった B 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “橘一族とは白族!”

20171225

太宰府地名研究会 古川 清久


 さて、前blogAは受け入れられない方は多いでしょうが、ここからお話しする内容は九州で起こった話であって多少は信じて頂けるかも知れません。

 そもそも橘一族とは県犬養三千代(=アガタのイヌカイのミチヨ) 天智天皇4年(665年)の女官三千代以降のものとされていますが、ここで取り扱う意味としては、県犬養三千代以前、天御中主以降の大幡主系とも熊野系とも忌部とも呼ばれる人々の総称として使う場合もありますので、その点、多少は逸脱して使うことをお許し願いたいと思います。

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いずれにせよ石清水八幡とか賀茂神社の氏子の方々とか、橘姓、立花姓、白土姓、加計姓、宮原姓、別役姓…を始め、橘の家紋を使う家系の方々にも興味深い話にはなるでしょう。

 勿論、現在でも橘性の方はおられますが、藤原氏と何度も激突した橘一族の本流は徐々に名を変え、何とか生き延びようとした様に感じていました。

ただ、身贔屓と思われそうで気が引けるのですが、特に重要な橘一族の正統の直系とは「奈良麻呂の変」に於いて藤原氏と激突した橘氏の本流(全体の半分程度の印象ですが)であり、叛乱、クーデター(あくまで藤原による論理)で放逐された橘一族こそ本流に思えるのです。

その本流中の本流の一派が鎌倉期に佐賀県の武雄市橘町(明治の橘村の後継)に居を移した(実は故地に戻ってきた)の橘 公業(タチバナノキンナリ)の流れであり、それ故に今も杵島山の西側(九州王朝論者の間では良く知られた有名なおつぼやま神籠石の正面に奈良麻呂の変の立太子道祖王の墓が置かれているのです)。

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杵島山西麓に置かれた伝道祖王墓


詳しくは「ひぼろぎ逍遥」掲載の「杵島」以下のバック・ナンバーをお読み下さい。

和泉式部が何故辺鄙な肥前の国の杵島山の東西の麓から中央の橘 道貞(最初の夫)に嫁げたか、橘の諸兄を祀る潮見神社が存在するのか、何故、杵島山東麓に百済の王族が亡命してきたとの伝承が残り、和泉式部の生誕地伝承があるのかもお分かりになると思います。

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恐らく堤雄神は底筒男命(底筒男命=開化天皇=高良玉垂命)、丹生神は豊玉姫(ヤタガラスの娘=大幡主の孫)、稲佐神が不明ですが本来は大幡主ではないかと考えます。それは出雲の因佐神社が地元では、速玉(はやたま)さんと呼ばれている事でも分かります。ただし国譲りの結果、鹿島大神=武甕槌が覆い被さっているのかも知れません。「稲」は「因」の置換えで忌部、市杵島姫の本来「瀛」(イン)なのです。速玉さんは熊野速玉大社の大幡主(博多の櫛田神社の主神)ですね。


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杵 島 A 2/2

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杵 島 @ 1/2

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佐賀県に橘 諸兄を祀る神社がある 潮見神社

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平安の歌人 和泉式部は肥前國の杵島山で産まれ育った! A

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平安の歌人 和泉式部は肥前國の杵島山で産まれ育った! @

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天地元水(テンチモトミズ) “橘 諸兄の本流が菊池に避退した”


橘奈良麻呂の乱

事件前史[編集]橘奈良麻呂の父の左大臣橘諸兄は、聖武天皇の治世に政権を担当していた。

743(天平15年)、難波行幸中の聖武天皇が病に倒れた時、奈良麻呂は佐伯全成に対し小野東人らと謀り、次期天皇に黄文王を擁立する旨の計画を漏らす。既に738(天平10年)の段階で、皇女の阿倍内親王が皇太子に立てられていたが、奈良麻呂が「皇嗣立てることなし」と皇太子が存在しないと述べている。当時の女帝は全て独身(未婚か未亡人)であり、1代限りで終わる阿倍内親王ではなく、男性の皇位継承者を求める動きが背景にあったと考えられている。

749(天平21/天平感宝元年/天平勝宝元年)、聖武天皇が譲位して阿倍内親王(孝謙天皇)が即位すると、天皇の母の光明皇太后に信任されていた藤原仲麻呂が皇太后のために新設された紫微中台の長官(紫微令)に任命される。仲麻呂は孝謙天皇からも寵愛深く、急速に台頭してゆく。一方、阿倍内親王の皇位継承に批判的と見られていた橘諸兄親子の勢力は次第に衰退することとなった。藤原氏の台頭に危機感を抱いた奈良麻呂は、11月の孝謙天皇即位大嘗祭の時、佐伯全成に再び謀反の計画を謀った。しかし全成が謀反への参加を拒絶したため謀反を実行することが出来なかった。

755(天平勝宝7年)、諸兄の従者佐味宮守から、諸兄が酒宴の席で朝廷を誹謗したとの密告があった。聖武太上天皇はこれを問題としなかったが、翌756(天平勝宝8年)2月、これを恥じた諸兄は辞職した(2年後諸兄は失意のうちに75歳で死去)。

同年4月、聖武上皇不豫の際黄金を携えて陸奥より上京した佐伯全成に対して三度謀反の計画を謀った。このとき奈良麻呂は大伴古麻呂を誘い、大伴佐伯両氏族をもって黄文王擁立を告げるが佐伯大伴両氏はともにこれを拒絶した。同年52日、聖武太上天皇が崩御する。太上天皇の遺言により道祖王が立太子された757(天平宝字元年)4月、道祖王が孝謙天皇の不興を受けて廃され、代わって仲麻呂が推す大炊王(淳仁天皇)が立太子される。

陰謀の計画と発覚[編集]仲麻呂の専横に不満を持った奈良麻呂は、不満を持つ者たちを集めて仲麻呂を除こうと画策する。同年6月287月22)、山背王が孝謙天皇に「奈良麻呂が兵をもって仲麻呂の邸を包囲しようと計画している」と密告した。7月27月26)、孝謙天皇と光明皇太后が、諸臣に対して「謀反の噂があるが、皆が逆心を抱くのをやめ、朝廷に従うように」との詔勅を発した。

しかし、その日の夜、中衛府の舎人上道斐太都から、前備前小野東人に謀反への参加を呼びかけられたと仲麻呂へ密告があった。仲麻呂はただちに孝謙天皇に報告して、中衛府の兵を動かして前皇太子道祖王の邸を包囲し、小野東人らを捕らえて左衛士府の獄に下した。翌7月37月27)、右大臣藤原豊成中納言藤原永手らが小野東人を訊問。東人は無実を主張した。その報告を受けて、孝謙天皇は仲麻呂を傍らに置いて、塩焼王安宿王黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を前に「謀反の企てがあるとの報告があるが自分は信じない」との宣命を読み上げた。

ところが同日事態は急変する。右大臣豊成が訊問から外され、再度、永手らを左衛士府に派遣し小野東人、答本忠節(たほのちゅうせつ)らを拷問にかけた。東人らは一転して謀反を自白した。その内容は、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、安宿王、黄文王らが一味して兵を発して、仲麻呂の邸を襲って殺して皇太子を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽を奪い、右大臣豊成を奉じて天下に号令し、その後天皇を廃し、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴するというものであった。

ウィキペディア(20171225 0846による

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佐賀県の通称杵島山


 村興し町興し宜しく、和泉(好字令以前の人ですから本来は泉姓なのですが…)式部と言い道祖王と言い全国に幾つかの伝承地がある事は十分に承知しています。このためその話に刃向うつもりはありません。

 と言うよりも、それらの伝承地は当方のフィールド・ワークでも確認してはいるのです。

しかし、この肥前の火ノ君の領域の橘氏に関わる伝承には、八代の妙見宮と一衣帯水の文化圏と人の繋がりを感じるとともに、この杵島山周辺から有明海最奥部一帯に広がる濃厚な妙見(北辰)信仰、大幡主の子である龍王(=豊玉彦=ヤタガラス)龍神信仰を見る時、不知火海〜有明海を大幡主系の支配領域と認識する事は十分に可能なのではないかと思うのです。

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杵島山は古代には島だったでしょう。その南の端、八代の妙見に向かった岬状地は今でも龍王崎と呼ばれており、その先端には海童神社が鎮座しています(龍宮海童ですね)。

そして、この境内には対馬の墓制を思わせる「龍王崎古墳群」(群集墓)が存在しているのです。

横穴式石室と思われるものもありますが、小さな石を使った小さな石室だけの物もあり、積み石型の墳墓はやはり大陸から朝鮮半島を経由して国内に広がっていますが、後には広く全国に広がり東西日本でも多くの石積みの古墳が見られます。この群集墓は古墳に発展する古墳時代の方墳や円墳、前方後円墳などの原型のように見えます。

この手の土の代わりに石を多用し岬に葬る古墳は対馬でも幾つか見たことがあります。

この点、大幡主=塩土老翁の子であるヤタガラスこそ対馬の海神神社or和多都美神社の主神=龍王と考える者としては、長崎県でも橘姓が集中する対馬には興味がひかれるのです。

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このヤタガラス=龍王(神仏混交風には八大龍王)説については、イヅノメ神=豊玉姫(通説とは異なる鴨玉依姫のこと)の解析が役に立つと思います。ひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下を参考にして下さい。


438

伊豆能売の神とは何か? E “伊豆能賣の中間調査を終えて思う事” 

437

伊豆能売の神とは何か? D “伊豆能賣は 何故「イヅノメ」と呼ばれたのか?”

436

伊豆能売の神とは何か? C “遠賀川左岸に伊豆能賣を発見した ”遠賀町の伊豆神社“ 

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伊豆能売の神とは何か? B “遠賀川右岸の二つ目の伊豆神社の元宮か?”久我神社 

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伊豆能売の神とは何か? A “二つ目の伊豆神社” イヅノメの神が

少し分かってきました

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伊豆能売の神とは何か? @ “遠賀川河口の両岸に伊豆神社が並ぶ”


最後に、佐賀県南部の海岸線(干拓があまりにも延びていますが、古代の海岸線周辺も含めて)には多くの海神神社、海童神社、龍王神社があります。

普通の道路マップでも確認できますので、改めて「龍王」とか「八大龍王」とか「八龍神社」が何であるかをお考え頂きたいと思います。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記