2019年10月01日

631 熊本地震で被害を受けた境内に雨宮姫を祀る神社 “熊本県西原村宮山の宮山神社”

631 熊本地震で被害を受けた境内に雨宮姫を祀る神社 “熊本県西原村宮山の宮山神社”

20180905

太宰府地名研究会 古川 清久


自然の地震であれ人工地震であれ、熊本地震で益城町と並んで深刻な被害を受けた西原村ですが、その復興のためにとして「万葉集を読む会」や伊藤三姉妹を中心に歴史カフェが行われています。

初回、20名弱でスタートし、二週間おきの4回シリーズの研究会が行われているのですが、平日開催ながら今後とも熱心な方々が参集されています。

私も側面支援ということで、熊本県内で私が平日に参加できる方を67人はお呼びしています。

その中に雨宮さんという方もおられることから、今般、歴史カフェ会場からも近い宮山神社に足を運ぶ事にしたものです。

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過去、この悲劇の雨宮姫については、幾つかブログも書き既に公開もしていますが、神奈川県出身の雨宮さんも間違いなくこの草部吉見神の娘である阿蘇ツ姫(その後幾つも名を変え最後に名乗ったのが「杉山姫」=川崎〜相模原一帯に数十社の杉山神社が存在する)と阿蘇の健磐龍との間に産まれたのが「雨宮姫」なのです。

何故か、この宮山神社の境内社として存在しているのです(「熊本県神社誌」194p)。

これまでブログも数本オンエアしていますが、とりあえず以下をお読み下さい。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

233

人吉盆地の雨宮神社(熊本県相良村)再訪 “悲劇の雨宮姫”


熊本市内に12社、人吉盆地の旧相良村に1社が在る事は把握していましたが、境内摂社などまではなかなか目が届かず…などと言っても、実際はこの宮山神社自体が初見の神社なのであって、そのような偉そうな話など言えるはずもないのです。

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宮山神社 カーナビ検索 西原村宮山439


地震の影響を最も受けやすいのが鳥居ですが、無残にも完全に倒壊しています。

それにしても立派な長い参道ですね。宮山神社の氏子の皆さんの尊崇の念が偲ばれます。

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参拝殿は完全倒壊 神殿も改築が必要な状態になっています


そもそも昔の神社は元より、一般の農家住宅というものは、束石(ツカイシ)の上に壁を打ち付けたジャングル・ジム状の梁組を載せているだけだったのです。

結果、建物とか家屋といったものは、その瓦の重だけで固定していたようなものであって、地震が起きても、基礎と分離されている事から、事実上の免震装置のような機能が持たせられていたのでした。

つまり、地面と基礎は動くものの、上に載せられた建物はポンポン跳ね上げられるだけで本体はほとんど壊れないのです。

それを、明治以来の建築は愚かな西洋(地震などほぼ皆無の地帯なのです)の猿まねを行ない、基礎と梁組を固定させ、直接、地震の震動が建物に伝わり被害をもたらすようにしてしまったのでした。

実に愚かとしか言いようがないのですが、日本の風土を無視した砂上の建築工学だった(今尚)事が良く分かるのです。

おまけに、近年では台風を奇禍とし、その風による飛散を防ぐとして瓦を固定する傾向が強まり、瓦が落ちない事によって、重量物の屋根を載せたまま建物を揺らすという馬鹿げた話になっているのです。

地震の多い日本列島では、揺れによってある程度瓦を落し、いち早く頭を軽くし、重要な梁組を守る構造になっているにも拘わらず、和風建築の減少による収入減を補填しようとした和瓦メーカーが勧めた瓦の固定によって、熊本地震の際に益城の立派な和風建築がバタバタと倒れるに至ったのでした。

それを良い事の様に思って採用した家屋の所有者と併せ、まさに馬鹿の弐乗、三乗としか言いようのない被害が出現したのでした。

熊本地震では熊本城の被害がシンボル化されましたが、これも瓦が落ちたからこそ本体が守れたのであって(どうせ瓦は60年もすれば葺き直しをせざるを得ない消耗品と理解すべきなのです)、昔の作事方、普請方とは、そして、その技術を磨いてきた日本の建築技術とは実に素晴らしかったと今さらながら思うものです。今の国土交通省の方が愚かなのです。

列島の風土を無視した明治以来の西洋礼賛の弊害は河川工学など多くの齟齬をもたらしていますが、気分が悪くなりますのでこれ以上考えるのは止めにしておきましょう。話が脱線してしまいました。

さて、この西原村には主要な神社が五つあります。

白山姫神社、鳥子三宮神社、阿蘇四宮神社、小森神社、宮山神社の五社です。

一応、全て見せて頂きましたが、このうち、完全な阿蘇系の神社と言えるものはほとんどないと言うのが私の認識です。その意味で、西原村とはやはり阿蘇ではないと言うのが私の理解です。

こう言えば、鳥子三宮神社、阿蘇四宮神社は阿蘇系そのものだと反論を受けそうですが、その基層にある神々が見えなければ、西原村の人々が如何なるものだったかは一向に見えては来ないのです。

それは、後に阿蘇系が勢力を強め覆い被さっているからであって、その伏流には別の神々を垣間見る事ができるのであって、阿蘇とは異なる民族、氏族が展開していた土地であったとの思いを消せません。

一応、「熊本県神社誌」を基礎に、簡単にその概略を説明しておきたいと思います。


@  白山姫神社は、当然、東北の白山信仰とお考えになるでしょうが、実は妙見、北辰信仰の事であり、八代の妙見宮から全国に広がった天御中主信仰の一部なのです。しかし、ことさら白山姫という名で持ち込んでいる事を考えれば、北方系の製鉄が持ち込まれている可能性もあると思うのです(「猿帰」地名がその象徴です)。

勿論、九州北岸にも白山姫信仰がかなりあるのですが、肥後にはないという程度の意味です。

製鉄王=事解男(金山彦=クシナダヒメの父、ナガスネヒコの祖父)と菊理姫(天御中主命)、外に稲荷、菅公、綿津見神…を祀る。


A  鳥子三宮神社の名称ですが、まず三宮の意味は、阿蘇神社の祭神としての三宮の意味で、阿蘇高森の草部吉見神社のヒコヤイミミ=阿蘇神社の三宮の事なのです。

しかし、その底流、基層には地名としての「鳥子」に象徴される博多の櫛田神社の主神=大幡主(神産巣日神、神皇産霊尊)の子である豊玉彦=ヤタガラスと草部吉見の娘=阿蘇ツ姫=名を改め杉山姫との間に産れた製鉄神天日鷲=鳥子大神が祀られている事はこれまでも述べてきたところです。

このように、一部、阿蘇系が関係を持っているとしてもそのまま阿蘇系の神社とは言えないのです。


ひぼろぎ逍遥

359

鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” A

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鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” @


B  阿蘇四宮神社は未見の神社であり当面保留します。比売御子神を主神とするも不明。


C  小森神社も地震の被害を受けた神社です。「熊本県神社誌」による限りは、阿蘇津姫命(草部吉見の娘)を主神とするものの、二つの境外摂社が天御中主命罔象女神綿津見神を祀っています。この事から多少の推察が可能になります。それは、阿蘇ツ姫名を改め杉山姫が綿津見神=豊玉彦のお妃となっている事を知る者としては、元々は杉山姫(雨宮姫の母神)と綿津見神=豊玉彦=ヤタガラス(雨宮姫の父神)を奉斎する人々の神社ではなかったかと考えるのです。従って、違い鷹羽を神紋とするこの神社さえも単純には阿蘇系の神社とは言えないのです。


D  宮山神社は今回初めて見せて頂きました。

「熊本県神社誌」では天忍穂耳尊外7神に加えて 境内社 雨宮神社 に境外社菅公とあります。

この雨宮神社に驚かされました。まず、雨宮姫は草部吉見神(ヒコヤイミミ)と高木大神の娘であるタクハタチヂヒメとの間に産れた阿蘇ツ姫を母とし、草部吉見の腹違いの弟である阿蘇神社の主神の健磐龍を父として産まれているのですが、この雨宮姫は草部吉見神(ヒコヤイミミ)と高木大神の娘であるタクハタチヂヒメとの間に産れた叔父の天忍日・新彦の間に後に阿蘇氏の祖となる惟仁(コレヒト)を産むのです。

そして、阿蘇ツ姫改め杉山姫は後に天日鷲(鳥子)を産むのです。これが鳥子三宮とされるのです。


なお、西原から南阿蘇を目指す人々が良く参拝される揺ケ池水源の神社ですが、ここでも天御中主命と龍神が祀られています。西原村が単純に阿蘇系の神社ばかりあると考えないで頂きたいのです。

龍神とは八大龍王とも呼ばれますが、実は豊玉彦=ヤタガラスの事であり、天御中主命とは祖母神にあたるのです。

水源地を祀る祭祀には色々なものがありますが、主要には以下の三つです。


天御中主命  =白山姫=妙見神

弥都波能売神 =罔象女神=大山祗の娘でありスサノウのお妃。

市杵島姫弁財天=(これはインドの神様ですが象徴されているという意味)


さて、宮山神社に参拝しましょう。

神殿と参拝殿は倒壊したようで再建の準備が行われています。

気になったのは当然にも雨宮姫を祀る社殿(祠?)です。

しかし、これは見つかりませんでした。もしかしたら元々なかったのかも知れません。

ただ、「熊本県神社誌」に書かれている以上、祭祀は存在したはずで、二つの神殿の右側の境内社(これも神社誌にはない)の中に雨宮姫が祀られているのではないでしょうか?

これも八王=八大龍王=豊玉彦は杉山姫と名を変えた阿蘇ツ姫(雨宮姫の母)の夫神に当たるからです。


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しかし、神社誌に書かれていない八王社が存在するのは奇妙です。阿蘇氏の逆鱗に触れたか、この龍王社を隠す必要があって隠されたものの後に復活したのかも知れません(天草の十五社も龍王社が変えられたものと理解しています)。西原村の五社を一気に書きましたが、神代系譜と突き合せて下さい。

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ただ、「八百万の神」「神社検索の日本神社」が、何故、祭神を「大山祗」としているかは不明です。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)上 004ヤタガラス系譜原本(部分)下

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百嶋由一郎氏が作成された神代系譜を必要とする方は09062983254までご連絡ください

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2019年10月03日

632 鳥子三宮神社再考 “阿蘇系神社と思われている熊本県西原村鳥子神社”

632 鳥子三宮神社再考 “阿蘇系神社と思われている熊本県西原村鳥子神社”

20180908

太宰府地名研究会 古川 清久


鳥子三宮神社については、これまで以下の三本を公開しています。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

359

鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” A

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鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” @

ひぼろぎ逍遥

570

熊本県西原村鳥子の鳥子阿蘇三之宮神社再訪 


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鳥子三之宮神社 カーナビ検索 熊本県阿蘇郡西原村鳥子2608


 これまで、この印象的な神社については、単に製鉄神=物部氏と言った側面だけから取り上げていたのですが、西原村の全ての神社を見るに及びある程度全体像が掴めたことから、もう一歩解読を進めてこの全体像から鳥子三之宮神社の本質を改めて把え直そうと思うに至ったのでした。

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この鳥子集落には鳥子(トリコ)“宇土の八兵衛の逃亡ルート”で取り上げた八兵衛さん(1600年代初頭に細川藩によって処刑…)が「鳥ノ子の方様」を頼って日向に逃亡しようとしていた事が記録されています(一応は「鳥ノ子の方様」が書かれた部分を掲載しておきます)。

 島原半島の南端の口之津出身であった八兵衛さんは刃物産地である川尻町で手に入れた針などを対岸の島原辺りで行商していた内にキリシタンに被れたものか、肥後藩に追われ逃亡した挙句、西原村から阿蘇の手前辺りで肥後の藩兵に捕らわれ殺害されているのです(詳しくは二本のブログをお読み下さい)。

 この刃物製作集団の関係者と「鳥ノ子の方様」の関係ですから恐らく金属加工の頭領だったのでしょう。

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これは島原の乱前後の話なのですが、その時代に於いても金属加工集団の頭目と思えるとりのこの方様なるヤタガラスの後裔氏族が実際に存在していた事が確認できるのです。

 現在、この鳥子にある阿蘇三之宮神社の「三宮」の意味は、内牧の阿蘇神社の祭神から見た場合の三之宮=草部吉見(ヒコヤイミミ)を意味しているのです。以下、阿蘇神社の祭神の一部からご覧ください。


一の神殿(左手、いずれも男神)一宮:健磐龍命 - 初代神武天皇の孫という

三宮:國龍神 - 二宮の父で、神武天皇の子という 五宮:彦御子神 - 一宮の孫

七宮:新彦神 - 三宮の子 九宮:若彦神 - 七宮の子

二の神殿(右手、いずれも女神)二宮:阿蘇都比当ス - 一宮の妃 四宮:比東芬q神 - 三宮の妃 

六宮:若比盗_ - 五宮の妃 八宮:新比盗_ - 七宮の娘 十宮:彌比盗_ - 七宮の妃 


勿論、「神武天皇の子」という…との主張は、本物の初代神武天皇(神武僭称:贈崇神のではない)の本物のお妃であったアイラツヒメが、藤原によって第二代贈綏靖とされた金凝彦(カナコリヒコ)=神沼河耳に下賜されその間に健磐龍命が産まれている事から阿蘇家が神武天皇との関係を云々しているのです。

 ただ、古代は母系制社会であり、むしろ女性方の格式がかった(しかも金山彦と神大市姫の娘)事を考えれば、全く誤りとも言えない部分がある事は否定できない部分もあるのです。

 こういった話を阿蘇神社や熊本県神社庁などが認めない事は言うまでもありません。

しかし、故)百嶋由一郎氏とも親交が深く「熊本県神社誌」を編纂された故)上米良純臣宮司なども十分に理解されていたはずなのです。

 ともあれ、表向き主祭神とされる三之宮とは阿蘇神社の三之宮の国龍神=草部吉見=春日大神=武甕槌=鹿島大神=海幸彦…の事である事は否定できません。

 しかし、それは阿蘇が権勢を振るい始めて以降の話であって、それ以前には別の神々が祀られていた事が十分に見えるのです。

それこそが本来の祭神であったはずの鳥子大神(天日鷲)を中心とする神々だったと考えられるのです。

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「熊本県神社誌」194p         百嶋由一郎ヤタガラス神代系譜(部分)


最近この西原村の神社を集中的に調べました。以下はその一端ですが、これでクリアになりました。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

631

熊本地震で被害を受けた境内に雨宮姫を祀る神社 “熊本県西原村宮山の宮山神社”

617

南阿蘇への迂回路に鎮座する湧水池と塩井社をご存じですか?

西原村には主な神社として五社が数えられます。

そこで「熊本県神社誌」を基礎に、簡単にその概略を説明しておきたいと思います。

@  白山姫神社は、当然、東北の白山信仰とお考えになるでしょうが、実は妙見、北辰信仰の事であり、八代の妙見宮から全国に広がった天御中主信仰の一部なのです。しかし、ことさら白山姫という名でを持ち込んでいる事を考えれば、北方系の製鉄が持ち込まれている可能性もあると思うのです(「猿帰」地名がその象徴です)。

勿論、九州北岸にも白山姫信仰がかなりあるのですが、肥後にはないという程度の意味です。

製鉄王=事解男(金山彦=クシナダヒメの父、ナガスネヒコの祖父)と菊理姫(天御中主命)、外に稲荷、菅公、綿津見神…を祀る。

A  鳥子三宮神社の名称ですが、まず三宮の意味は、阿蘇神社の祭神としての三宮の意味で、阿蘇高森の草部吉見神社のヒコヤイミミ=阿蘇神社の三宮の事なのです。

しかし、その底流、基層には地名としての「鳥子」に象徴される博多の櫛田神社の主神=大幡主(神産巣日神、神皇産霊尊)の子である豊玉彦=ヤタガラスと草部吉見の娘=阿蘇ツ姫=名を改め杉山姫との間に産れた製鉄神天日鷲=鳥子大神が祀られている事はこれまでも述べてきたところです。

このように、一部、阿蘇系が関係を持っているとしてもそのまま阿蘇系の神社とは言えないのです。

B  阿蘇四宮神社は未見の神社であり当面保留します。比売御子神(=阿蘇都比売)を主神とするも不明。

C  小森神社も地震の被害を受けた神社です。「熊本県神社誌」による限りは、阿蘇津姫命(草部吉見の娘)を主神とするものの、二つの境外摂社が天御中主命罔象女神綿津見神を祀っています。この事から多少の推察が可能になります。それは、阿蘇ツ姫名を改め杉山姫が綿津見神=豊玉彦のお妃となっている事を知る者としては、元々は杉山姫(雨宮姫の母神)綿津見神=豊玉彦=ヤタガラス(雨宮姫の父神)を奉斎する人々の神社ではなかったかと考えるのです。

従って、違い鷹羽を神紋とするこの神社さえも単純には阿蘇系の神社とは言えないのです。

D  宮山神社は今回初めて見せて頂きました。

「熊本県神社誌」では天忍穂耳尊外7神に加えて 境内社 雨宮神社 に境外社菅公とあります。

正直、この雨宮神社には驚かされました。まず、雨宮姫は草部吉見神(ヒコヤイミミ)と高木大神の娘であるタクハタチヂヒメとの間に産れた阿蘇ツ姫を母とし、草部吉見の腹違いの弟である阿蘇神社の主神の健磐龍を父として産まれているのですが、この雨宮姫は草部吉見神(ヒコヤイミミ)と高木大神の娘であるタクハタチヂヒメとの間に産れた叔父の天忍日・新彦の間に後に阿蘇氏の祖となる惟仁(コレヒト)を産むのです。この雨宮神社は熊本市内に数社、相良村に一社確認できます。

そして、阿蘇ツ姫改め杉山姫は後に天日鷲(鳥子)を産むのです。これが鳥子三宮とされるのです。

 ここまで解読した上で改めて西原村の性格を考えると、この地は阿蘇が熊本に進む出口のような場所であったと気づきます。今でこそ阿蘇谷に向かう白川右岸(北岸)ルートが主である事から錯覚しがちですが、地形から言っても阿蘇谷よりも南郷谷との関係、阿蘇神社よりも草部吉見系(年禰神社系)との関係が深い一帯であった事が見えてきます。そして、同村の祭神を概括した通り、必ずしも阿蘇系ではなく、大幡主系=天御中主命=妙見=北辰の系統、とりわけ豊玉彦=ヤタガラス系の勢力が基盤として製鉄、製銅、冶金が行われていた事を強く意識するのです。


鳥子大神は北関東に進出していた


 以前、ひぼろぎ逍遥に於いて、以下を書いています。

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栃木、茨城県境に跨る鷲子山上神社北関東への神社調査 D

実はこの神社こそこの西原村の鳥子三之宮神社の移動(進出)だったのです。

 一昨年、東日本のメンバーである無題.pngに案内され鷲子山上神社に訪問させて頂きました。詳しくはこちらを見て頂きたいのですが、この事にも故)百嶋由一郎氏はお気づきだったのです。下の手書きメモ百嶋神社考古学初期01220813)西原村鳥子三之宮神社A-1に鷲子山上神社と鳥子三之宮神社との対比が書かれていたのです。

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百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで

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百嶋由一郎鳥子系譜(上) 百嶋由一郎手書きメモ百嶋神社考古学初期01220813)通信文(下)

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鷲子山上神社本宮 カーナビ検索 栃木県那須郡那珂川町矢又1948  0287-92-2571

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2019年10月04日

ビアヘロ104 全国の九州王朝論者に向けて!緊急報告“肥後に後漢の霊帝の後裔が入っていた”

ビアヘロ104 全国の九州王朝論者に向けて!緊急報告“肥後に後漢の霊帝の後裔が入っていた”

20190805

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ビアヘロ版103に於いて呉(春秋戦国)の108代とする呉氏を南さつま市に案内し、同族である紀姓高良氏に面会して頂いた事をお知らせしました。

御当主とお会いしましたが私を良く覚えておいでであったことから話はとんとん拍子で進みました。

この高良家は現在でも久留米の高良大社に造られたお酒を毎年奉納されており、それだけでも高良玉垂命との関係が焙りだされます。

中でも、奥様からお聴きした「嫁いできたときに姑さんからお聴きしたのですが、当家は今は高良を名乗っていますが、本当の姓はです…とのことでした」は実に象徴的で、家伝とはかくも強固なのかと思い知らされたのでした。

これらについては非常に面白い話がいくつもありますので、九州王朝論者であるならば勿論の事、興味をお持ちの方は「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」から以下の6本程度をお読みいただきたいと思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” E

355

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” D

354

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” C

353

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” B

352

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” A

351

高 良(コウラ)“薩摩に避退した九州王朝系氏族を発見した” @


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パワー・ポイントも作成していますので希望の方は1000円程度の実費でお送りできます。09062983254


ご同行頂いた中国からのお二人も系譜の冒頭にはっきりと「紀姓」と書かれていたことから、それだけでも納得され、同族として邂逅を感激されたようですが、当方からの質問にも幾つかお答え頂き納得した部分もありました。

 一つは鹿児島県でも良く知られた郷土史家の青屋先生から「春秋戦国の呉と三国志の呉には関係があるのか?」との質問が出されました。

 これについては、呉の孫氏の一族に妃を送り込む一族が春秋戦国の呉の一族の後裔だったとのお話(具体的には孫権の母親が呉氏だった)で、その点は私も含めて以前から抱いていた疑念が氷解しました。

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系譜を確認される 呉 本立教授と高良酒造当主(左) 系譜を開かれる五年前のご当主(右)


九州王朝論者の内部では、以前から、八世紀初頭、鹿児島県(薩摩、大隅、日向の一部)の一帯に最末期の九州王朝系勢力が避退(あるいは敗残)し、新興の大和朝廷に抵抗したのではないかと推測していました。

加世田を中心とする南さつま市の東隣に、北から頴娃、知覧、川辺の三町で形成された南九州市は、中でも最も可能性が高い一帯かもしれません。

主要には「続日本紀」の“衣評督等反抗”の記事によるものですが、この一翼をになったのではないかと思われる氏族と遭遇したのではないか考えています。

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五年前に見せていただいた同家の家系図 上はその冒頭部分 「紀姓」とも「橘」とも…


とりあえず、中国からのお二人を高良家にご案内し3時間ほどお話をお聴きすることができましたのでほっとしましたが、現在、随行者の田 晶氏と呉と日本(主要には熊本)との間で呉と日本との関係の痕跡を色々と拾い出しやり取りを行っています。

 雲南省、貴州省、四川省からネパール、ブータンなどの東亜半月弧の少数民族地帯と列島文化複合とを研究する照葉樹林文化論(中尾佐助、佐々木英明…)は一時期脚光を浴びましたが、春秋戦国の呉国と九州特に熊本との関係を探る研究者などいるはずもなく(そもそも山奥の奈良県などに周王朝の末裔の呉の太伯王の後裔が入ってくるはずもなく、近畿大和朝廷を賛美するものではないため誰一人として研究者など出てくるはずがないからですが…要は学問商売が成り立たないからです)、事実上未開の研究分野と言えるのです。


 この旧呉の国(現江蘇省)からの客人をご案内しある程度の初期リポートを書き終えたら、新たなテーマと遭遇する事になりました。今回はこの話になります。

 この話を熊本で伊藤正子勉強会にも参加されておりトレッキング・メンバーでもあるF女史にお話ししたところ、“熊本市内に紀氏かもしれない系譜を持つ方がおられるとの耳寄りな話を聴き込みました。

 同女史のお陰で意外と早く面会の機会を得て熊本市内の事務所で話をお聴きすることができました。

 一応、フルネームは避けますが、お会いしたのは田尻と言われるご高齢ながらも現役の会社の経営者の方でした(と言っても現役の一級建築士としてご活躍の方で当方など遠く及びもつかない矍鑠の方ですが)。

 ご挨拶もそこそこに早速飛び出てきたのが漢帝国の始祖の劉邦から始まる系譜だったのです。

実際にはA3一枚のコピーだったのですが、そこには驚くべき事が書かれていたのです。

それは「大蔵姓田尻氏正統系譜」肥後国玉名郡玉水村立花田尻家系譜 とされるもので、皆さん“項羽と劉邦”で良くご存じの漢帝国の始祖劉邦から始まる連綿たる系譜であり、その一枝としての田尻家ご当主101代とするものだったのです。

そもそも綾部は漢(アヤ)の置き換えで、文、綾…は漢氏ではないかとか言われる事は一応知っていました。

ところが、百嶋先生が言われていた八女の黒木の一族と関係の深い原田と田尻は同族であったという事が事例として良く理解できましたし、この間謎であった日田の大原八幡宮の宮司家であった大蔵氏(財津氏)も実は獻帝の流れを引く漢の皇族の末裔だった事が分かってきたのです。

また、“原田氏が重要な氏族で一族の事を調べている方がおられ私のところにも電話で聞いてこられた方がおられた…”と水俣病で知られた故)原田正純教授から直接お話をお聴きしてもいました。

さらに言えば、久留米には笠(カサ)姓の方がかなりおられ、龍姓もあることから、もしかしたらこの「笠」姓は笠 智衆の「笠」同様、劉備玄徳の「劉」姓の置き換えではと考えてきました。

お話では @自らの一族は中国から渡ってきたものとは家伝として聞いてきた。A日本でも比較的知られる後漢の第26代霊帝から続く第28代獻帝の別れの漢の皇族の第31代阿智王が応神期に列島に移住してきた。B鎌倉期に頼朝から金峰山に領地を貰い住み着いた…。外にも多くの興味深い話を聴きましたが、ここでは第一報としてさわりの部分だけ、つまり基本的なことだけをお知らせすることにしたいと思います。

 では、系譜をご覧いただきましょう。

 前漢後漢を通じて、〜26代霊帝〜28代獻帝辺りまでは中国の系譜のままですが、それ以降は家伝のものとお聴きしました(後漢靈帝之曾孫 阿智王)。

 事実、第29代以降は「帝」の称号が地方皇族としての〇〇「王」に変りますから、第31代漢皇族阿智王(応神天29年帰化)の時に列島に移住したものと考えられます。

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七姓漢人… 阿知使主(阿知王)については『日本書紀』『続日本紀』『新撰姓氏録』などに日本への帰化についての記録がある。『日本書紀』によれば、応神天皇209月、倭漢の祖の阿智使主と、その子都加使主が、17県の党とともに帰化した。

続日本紀』延暦四年(785年)六月の条によれば漢氏(東漢氏)の祖・阿智王は東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので帯方郡から「七姓民」とともにやってきたと、阿智王の末裔氏族東漢氏出身の坂上苅田麻呂が述べた。

右衞士督從三位兼下総守坂上大忌寸苅田麻呂等上表言。臣等本是後漢靈帝之曾孫阿智王之後也。漢祚遷魏。阿智王因牛教。出行帶方。忽得寳帶瑞。其像似宮城。爰建國邑。育其人庶。後召父兄告曰。吾聞。東國有聖主。何不歸從乎。若久居此處。恐取覆滅。即携母弟迂興徳。及七姓民。歸化來朝。是則譽田天皇治天下之御世也。於是阿智王奏請曰。臣舊居在於帶方。人民男女皆有才藝。近者寓於百濟高麗之間。心懷猶豫未知去就。伏願天恩遣使追召之。乃勅遣臣八腹氏。分頭發遣。其人民男女。擧落隨使盡來。永爲公民。積年累代。以至于今。今在諸國漢人亦是其後也。臣苅田麻呂等。失先祖之王族。蒙下人之卑姓。望 。改忌寸蒙賜宿祢姓。伏願。天恩矜察。儻垂聖聽。所謂寒灰更煖。枯樹復榮也。臣苅田麻呂等。不勝至望之誠。輙奉表以聞。詔許之。坂上。内藏。平田。大藏。文。調。文部。谷。民。佐太。山口等忌寸十一姓十六人賜姓宿祢。 - 続日本紀』延暦四年六月条

新撰姓氏録「坂上氏条逸文」には、阿智使主と同時期の来日である七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・ 高)およびその子孫、桑原氏佐太氏等と、仁徳天皇の時代に阿智使主が朝鮮半島から連れてきたとされる村主氏が記されている。

ウィキペディア(Wikipedia20190816 0822による

 この系譜を見てこの間感じていたいくつかの問題への謎を解くことができるとともに、さらに深入りできる新たな謎解きへの糸口を見出しました。

@  故)百嶋由一郎氏が間違いなくアーリア系と話しておられた田尻氏が原田氏と同族であったこと。漢族と言ってもその内部にはシルクロードの終着点であった邯鄲辺りには多くの西域の人々が入っていたのであって、単に漢族として一括りにはできないかも知れないのです。

A  以前トレッキングでも取り上げましたが、事実上西豊後の一之宮とも言える日田市の大原八幡宮の社家でもあった大蔵氏(財津氏)の一族が、この阿智王の後裔であったと分かったのでした。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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物部の大原足尼命を祀る日田の大原八幡神社とは何か?

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日田の大原八幡神社も物部の神社だった “大分県日田市の大原八幡宮を疑い再考へと”

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大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県みやこ町の大原八幡神社”

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大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県苅田町の大原八幡神社”

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福岡県苅田町での神社と古墳のトレッキングから 今回は資料だけをお見せします


B  この系譜からはさらに重要な情報が得られます。第34代(阿智王の孫)から36代まで坂上姓を名乗っているのです。直ぐに坂上田村麻呂が頭をよぎりますが、第40代に有名な7世紀半ばの阿部比羅夫が記載されていますので、「日本書紀」が坂上田村麿の東北制圧の業績を近畿大和朝廷の業績と見せ掛けようと時代を繰り下げてないとも限らないので、もしかしたらこの坂上姓3代は無関係ではないのかも知れません。しかし、田村麻呂は8世紀末とされることからこの3代は直接的には繋がりません。しかし、後から見せていただいた原田氏の系譜(原田一族側で作成されたかなり大きな一族資料)には坂上田村麻呂がはっきり書かれていますので無視できません。


坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代公卿武官。名は田村麿とも書く。忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫坂上苅田麻呂官位大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。 忠臣として名高く、桓武天皇に重用されて、軍事造作を支えた一人であり、桓武朝では二度にわたり征夷大将軍を勤める。蝦夷征討に功績を残し、薬子の変では大納言へ昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神として親しまれ、多くの伝説、物語を生んだ。


C  前後しますが、第40代として阿部比羅夫が登場します。阿部姓はここだけですが、その理由は阿部貞任宗任の近畿大和朝廷への抵抗があったためかも知れません。


阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ)は、7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣冠位大錦上越国守・後将軍大宰帥を歴任した。斉明天皇4年(658)から3年間をかけて日本海側を北は北海道までを航海して蝦夷を服属させ、粛慎と交戦した。

ウィキペディア(Wikipedia20190816 1134による


D  この阿智王の後裔氏族にとって大きな発展期となったものは第47代征西将軍大蔵朝臣春實(正五位太宰少弐貮 豊前、筑前、肥前、対馬を支配下に置く)であり、その後大蔵から原田に改姓する頃には福岡県大牟田市三池を拠点としています。

E  ただ、この系譜は阿智王後裔の一つのブランチでしかないことは理解しておくべきでしょう。

55代原田実種=肥後初代田尻主計頭から肥後田尻氏が始まったとしています。しかし、単に頼朝から与えられた時から始まったとすることも単純すぎ、元々の故地であった可能性もないとは言えないでしょう。それについては後段で議論します。とりあえず、非常に魅力的な系譜について概括しました。


さて、漱石の「草枕」に峠の茶屋が出てきますが、熊本市の西に聳える金峰山のかつての自らの領地(鎌倉〜室町〜南北朝期)であった地に阿智王の拝堂が造られ劉邦、霊帝、阿智王が祀られています。

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付近には峠の茶屋、芳野郵便局、岳龍寺がありますが、ここでは芳野郵便局の住所を書いておきます。

多少分かりづらいので、不明なら同局に尋ねられたら分かりやすいかも知れません。

 数日後、別資料もお見せしますとの事で再び訪問しましたが、これもその一つで、原田一族側から作成された「大蔵朝臣原田家歴傅」です。ここにも同様の先祖が掲げられています。重複しますが、再度確認します。注目すべきは40代と42代の間に分家として坂上田村麿がはっきり書かれていることです。

 「原田家歴伝」と田尻家系譜とには恐らく起点が異なるか数え方が違うためか二代ほどずれが生じていますが、田尻家系譜の43代が田村麿の代理なのか田村麿と関係のある方が書かれていることになります。

 なお、写真は田尻家当主ご夫妻が「原田家歴伝」を頂いた原田一族の研究者を尋ねられた時(20年程前)の写真です。

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無題.png実はこの神社は当方の会のトレッキングでも訪問した福津市の神社で、現在は女性の宮司が跡を継いでおられる 年毛神社(福岡県福津市勝浦943 пF 0940-52-3774)のようです。

先代の宮司が原田一族の研究者だったのではないかと思われます。

 実は、この神社に伝わる資料にかつてこの地が松浦潟と呼ばれていたとの記録があり、これだけをもって魏の使いが入った末羅国だとして卑弥呼の邪馬(壹)国筑豊説に導いた九州王朝論者があり、田川郡内で講演を続けています。

 最後に面白い話をお知らせしましょう。

 この田尻一族系譜を見せて頂いた田尻家101代ご当主の旦那寺は皆さんどなたもご存じの山田洋二監督の映画「男はつらいよ」フーテンの寅さんに登場する帝釈天御前様こと笠智衆の生家の寺だったのです。

 無題.png以前から金峰山に漢の後裔の氏族が入っているとの噂は承知しており、もしかしたら笠智衆(俳優としての名も実名を採用)の笠(リュウ)は劉備玄徳の劉氏の「劉」ではないかと考えてきました。

 図らずも、劉氏の後裔の田尻氏がこの寺(浄土真宗本願寺派)の檀家であったという事はその可能性がかなり高くなったのです玉名郡玉水村(現玉名市天水町)立花に浄土真宗本願寺派来照寺の次男として生まれる)

 そうです、御前様も劉氏の一族だった可能性が高いのです。

 このことに気づいたのは久留米市に笠姓が対岸の鳥栖市にも龍姓が多いことに気づいていたことがきっかけでしたが、この点でも仮説が幾分裏付けられた事になり、謎の一端がほぐれてきた思いがしています。

一般的にこの劉邦後裔東漢氏については、岡山県倉敷市辺りから奈良に入ったとされますが(阿智神社がありますね)、半島からの入口は九州西岸だったはずですし、帯方郡から同行した「七姓民」の姓名(池園、浦志、鬼木、中園、水上、窪、石井、牧園、富田、鳥越)の分布を見ると、単純に奈良から全国に展開したとはとても考えられず、それも考えて見たいと思っています。次報でこの問題に触れます。

 そこまで風呂敷を広げないとしても、漢の末裔が肥後に入っていることを示す好例であることだけは間違いないのです。

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次葉の一部

                                                                                  

編集上紙面に限界がありますので、次代については割愛します。個人的に必要とされる方は対応します。

原田、田尻、大蔵、財津、坂上、阿部、笠、龍…の一族の皆さん自らのルーツをお考えになったらいかがでしょう。多少のアドバイスは可能ですので、当方にご連絡頂ければ、多少はお手伝いできると思います。09062983254まで。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ