2019年09月02日

621 タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (上)

621 タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (上)

20180728


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


現在は中国領ですが、アフガニスタン、パキスタンとの国境地帯、言いかえれば、アフガニスタンのカブール回廊入口の要衝にTa Shi Ku Er Gan Luタシクルガン(中国表記:石頭城、石城山)があります。

無題.png

他にも幾つかありますが、ユーチューブで【新疆】タシュクルガンの石頭城、【中国】タシュクルガンの石頭城へやってきた。などと検索すればかなりの記事が出てきて鮮明な画像が確認できます。


さて、話をさらに進めます。故)百嶋由一郎氏によれば、 “この一帯の人々(トルコ系匈奴)が、列島に侵入し「石頭城」「石城山」と言った地名を持ち込んでいる…。”それは、”熊本県玉名市と宮崎県西都市に同じ地名がある”とまで言われていました(これらについては後述します)。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋神代系譜の緑枠で囲った部分の金越智=ウマシアシカビヒコヂ〜大山祗〜大己貴(+神大市=罔象女神ミヅハノメ木花咲耶姫)の系統こそが列島に入って来たトルコ系匈奴と考えられていたようです。

ちなみに、本物の神武天皇の本物のお妃であったアイラツヒメも金山彦と大山祗トルコ系の神大市=罔象女神の間に産れたプリンセスであるためトルコ語の月=アイラールからアイラツ姫と呼ばれたのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


中国領 塔什庫爾干=タシクルガン(石頭城、石城山)は、現在、ウイグル人(トルコ系とされる)が住み着いていますが、無題.pngキルギス人もいるようです。このキルギスも、ギリシャに「キルキス」と言う都市名があり、元々はギリシャ系ではないかとも思うのですが、どうせこの辺りはトルコ系、ペルシャ系、ギリシャ系、ユダヤ系…の混血が進んでおり議論しても意味はないのでしょう。写真はキルギス帽を被る老人。


キルキス / ラテン文字表記:Kilkis / ブルガリア語: Кукушはギリシャの中央マケドニア地方の都市で、キルキス県の県都。 2011年の行政改革で、ヘルソ、ドイラニ、ガリコス、キルキス、クルッサ、ムリエス、ピクロリムニの7つの旧市が合併し、現在のキルキス市となった。ウィキペディア(201807291011による


 いずれにせよ、かつてこの地はシルクロードの東西交易の要衝であり、塔什庫爾干の石城山は誇り高いこの地のシンボルだった時代があったのです。

 どうも、この中国表記の=石頭城、石城山が熊襲=トルコ系匈奴と共に列島に入っているようなのです。

以前から気にしていたのが長崎県川棚町石木(イシキ)、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町石動(イシナリ)、鹿島市の石木津(イシキヅ)…でした。当時は奇妙な地名だなあ…程度だったのですが、故)百嶋由一郎氏がはっきり言われたのが、熊本県玉名市の石貫(石貫穴観音横穴や石貫ナギノ横穴群外多数の横穴式石室を持つ古墳群)、宮崎県西都市の石貫神社(オオヤマツミとコノハナノサクヤを祀る神社)であり、正面の西都原第 二古墳群に伝大山祗の墓=柄鏡型前方後円墳があるのです。

また、大分県にもあります。旧石城川村(湯布院と高崎山の間の山中の村)です。この由布市から大分市に向かう谷間の一帯も山神宮外大山祗〜大己貴祭祀が濃厚なエリアです。

この外にも、山口県光市の石城山神籠石、愛媛県越智郡上島町岩城(イワギ)は平安時代に「石城」の表記で記録のある地名で、そもそも大山祗を祀る瀬戸内海の大三島は愛媛県にあるのです。

さらに、東北の福島県の石城郡、いわき市・南相馬市の相馬の馬追を思い出して下さい。

無題.pngいわき市のいわきは石木、岩木、磐城=タシクルガンなのです。

そして、出羽三山の湯殿山、羽黒山にも岩木山がありますね、ここも大山祗祭祀が非常に濃厚なところなのです。

 当然にも甲州騎馬軍団が跋扈した山梨県にも無いはずはありません。

石和温泉の石和(今は笛吹市ですか)です。

ここからコノハナノサクヤを祀る富士山の河口湖一帯に掛けて、石尊神社が数多く拾えますが、これも、まず、大山祗=月読命なのです。

まだまだありますが、このように実際にトルコ系の民族が入っているようなのです。


参考


「石貫神社」について ○創建:天平5(733)と伝えられています。○御祭神:コノハナサクヤヒメの父神のオオヤマツミノカミ。○オオヤマツミノカミ:山の神で、「天神」・「国神」・「海神」の三神の大神。○大祭日:1129日。石貫神社から169段の階段を上った西都原古墳群内の『大山祇塚(おおやまつみづか)』の前方部前で神事が挙行されます。                     西都市観光協会


ここで「岩城」「石城」「岩木」「石木」地名を拾っておられるサイトがありますのでご紹介します。


無題.pngです。


 岩手県一関市   岩城(いわき)

   秋田県秋田市   下新城岩城(しもしんじょういわき)

   秋田県湯沢市   岩城(いわき)岩城橋(いわきばし)

   秋田県由利本荘市 岩城(いわき)道の駅岩城(みちのえきいわき)

   秋田県南秋田郡  五城目町 岩城町(いわきまち)

   群馬県高崎市   岩城(いわき)

   三重県津市    岩城(いわき)

   島根県江津市   岩城山(いわきやま)

   愛媛県越智郡   上島町 岩城島(いわぎじま)

   熊本県芦北郡   津奈木町 岩城(いわき)

   熊本県球磨郡   錦町 岩城(いわじょう)

福島県大沼郡   昭和村 石城山(いしじろやま)

   福井県坂井市   丸岡町 石城戸町(いしきどちょう)

   京都府八幡市   男山石城(おとこやまいししろ)

   鳥取県東伯郡   湯梨浜町 羽衣石城址(うえしじょうし)

   山口県光市    石城山(いわきさん)石城山神籠石(いわきさんこんごうせき)

            石城神社(いわきじんじゃ)

   愛媛県大洲市   石城峠(いししろとうげ)

   福岡県福岡市   博多区 石城町(せきじょうまち)

   長崎県対馬市   金石城跡(かねいしじょうあと)

   大分県別府市   石城川(せきじょうがわ)

   大分県由布市   石城川(せきじょうがわ)

青森県弘前市   岩木川(いわきがわ)岩木高原(いわきこうげん)岩木山(いわきさん)

            岩木茜橋(いわきあかねばし)岩木橋(いわきばし)

            上岩木橋(かみいわきばし)岩木山神社(いわきさんじんじゃ)

            岩木川(いわきがわ)

   青森県黒石市   岩木町(いわきまち)

   青森県五所川原市 岩木川(いわきがわ)

   青森県つがる市  岩木川(いわきがわ)

   青森県中津軽郡  西目屋村 岩木川(いわきがわ)

   青森県北津軽郡  板柳町 岩木川(いわきがわ)

   青森県北津軽郡  中泊町 岩木川(いわきがわ)

   岩手県八幡平市  岩木(いわき)

   秋田県大仙市   岩木沢(いわきさわ)

   山形県西村山郡  河北町 岩木(いわき)

   山形県最上郡   鮭川村 岩木(いわき)

   群馬県多野郡   吉井町 岩木(いわき)

   新潟県糸魚川市  岩木(いわき)岩木トンネル(いわきとんねる)

   新潟県上越市   岩木(いわき)

富山県富山市   岩木(いわき)岩木新(いわきしん)

   富山県南砺市   岩木(いわき)

   京都府京丹後市  岩木(いわき)

   兵庫県赤穂郡   上郡町 岩木(いわき)岩木川(いわきがわ)

                岩木トンネル(いわきとんねる)

   岡山県真庭市   岩木(いわき)

   愛媛県西予市   岩木(いわき)

山形県米沢市   石木戸(いしきど)

   埼玉県本庄市   石木沢(いしきざわ)

   岐阜県加茂郡   白川町 石木(いしき)

   奈良県奈良市   石木町(いしきちょう)

   徳島県三好郡   東みよし町 石木(いしき)

   高知県高知市   小石木町(こいしぎちょう)

   佐賀県鹿島市   石木津川(いしきづがわ)

   佐賀県小城市   石木(いしき)

   長崎県東彼杵郡  川棚町 石木(いしき)石木郷(いしきごう)石木川(いしきがわ)

   長崎県北松浦郡  佐々町 石木場免(いしこばめん)

   熊本県芦北郡   津奈木町 石木田(いしきだ)

   宮崎県串間市   石木田(いしきだ)


 これくらいの拾い出しがあれば、全国的傾向の一端は窺い知れるとは言えるでしょう。深謝します。

これらの中には全く無関係のものが紛れ込んでいる可能性は否定できませんが、トルコ系匈奴の入ったエリアで、石木、石城、岩城、岩木、磐木、巌木(もしかしたら教楽木、京良城も)…といった姓の方はその血の一部を引いている可能性はあるのではないかとさえ考えています。多分、四国の石槌神社も…。

トルコ系匈奴などと言えば気がふれたかのように思われるかもしれませんが、奈良にはペルシャが入っているとか、京都の祇園祭の山車に描かれた絵柄はユダヤ系民族が入っているとしか思えないと言われているのですから、ペルシャはOKでトルコはナンセンスはないでしょう。しかし、このトルコ系匈奴が無視されている理由は、唯一、彼らが朝敵とされた熊襲とかなり重なっていたからなのでしょう。

 「記」「紀」にも書いてないし、中には「和名抄」とか「新撰姓氏録」のどこに痕跡があるのか…と言われる方もおられるでしょうが、書いてあるものが正しく(どうせ偽書ですが)、書いてないものは無視すると言われているだけの話でしかなく分からない事を調べるのが研究である事を忘れておられるのです。

 しかも、朝廷から排斥された氏族や民族についてはおいそれとは分かるはずはないのです。

 ここまで追い込まれてくると、タシュクルガン(中国表記:石城山=モンゴル表記?石頭城=朝鮮表記?)を置き換えたのが、先に拾い出されている地名に反映されているのではないかとの作業仮説程度ぐらいは許して欲しいものです。

 百嶋翁の考えもようやく見えてきましたので、栄えある塔什庫爾干=タシクルガン(石頭城、石城山)への誇りと郷愁を持つ人々が列島に移動し、この地名が付されたのではないかとの仮説を出しておきます。

 地名と併せ、周に大山祇、三嶋神社、山神社、山神宮…それに大国主も大山祇の子であることから、これらを含めてこのような祭祀が拾えるエリアはトルコ系匈奴の進出地と考える価値はあるのではないでしょうか?

 まず、重要なのは百嶋先生が言われていた玉名市と西都市の二つの石貫地名ですが、これが石城山、石頭城とどのような関係にあるかを考えてみましょう。

無題.png まず、九州(瀬戸内海側の豊前を除きますが)では本州のO音がU音と対応する傾向があることを知っています。

 栂(トガ)は栂(ツガ)ですし、大事はウーゴトですし、オッタマゲタはウッタマゲタ…となるのです。U音とO音の対応です。

つまり九州のイシキは本州のイシキと対応しており、石貫(イシヌキ)は、恐らくイシノキの原型であり、「石木」、「石城」の事なのです。

 山口県光市の神籠石はそのまま「石城山」として中国風表記がそのまま残っているようですが、この山口県東部には大山祇祭祀も多い上に、半島からモンゴル高原まで分布していたとされる古代朝鮮語の村、砦、集落を意味するムレ、ムル、モロ型地名と考えられる「群」「牟礼」型地名が多いこととも対応しているのです。

 「牟礼」型地名については、ネット検索されれば山ほど展開されていますのでご自分でご確認ください。

 ついでに、佐賀県の神埼郡吉野ヶ里町石動(イシナリ)も仮説を立てておきます。吉野ケ里の「里」型地名が佐賀県東半部には3000ほどの小字として残っています。「石動」(イシナリ)は石の里の事ですから、イシナリの「ナ」は「ソコオナゴ」の「ナ」つまり「ソコオナゴ」(「ナ」は所有の格助詞の「ナ」なのです)、であり、石ノ里の意味になるのです。そうです「里」は北朝鮮のミサイル発射実験場の舞水端里(ムスタンリ)核実験場の豊渓里(プンゲリ)などが代表的な地名で皆さんも良く聴かれているでしょう。

佐賀県の西部には伊万里焼の伊万里もありますね。つまり、石動(イシナリ)も石ノ里である事が分かるのです。               写真は国指定史跡 石城山神籠石(山口県光市、田布勢町)

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2019年09月03日

622 タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (下)

622 タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (下)

20180728


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


現在は中国領ですが、アフガニスタン、パキスタンとの国境地帯、言いかえれば、アフガニスタンのカブール回廊入口の要衝にTa Shi Ku Er Gan Luタシクルガン(中国表記:石頭城、石城山)があります。

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他にも幾つかありますが、ユーチューブで【新疆】タシュクルガンの石頭城、【中国】タシュクルガンの石頭城へやってきた。などと検索すればかなりの記事が出てきて鮮明な画像が確認できます。

さて、話をさらに進めます。故)百嶋由一郎氏によれば、 “この一帯の人々(トルコ系匈奴)が、列島に侵入し「石頭城」「石城山」と言った地名を持ち込んでいる…。”それは、”熊本県玉名市と宮崎県西都市に同じ地名がある”とまで言われていました(これらについては後述します)。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋神代系譜の緑枠で囲った部分の金越智=ウマシアシカビヒコヂ〜大山祗〜大己貴(+神大市=罔象女神ミヅハノメ木花咲耶姫)の系統こそが列島に入って来たトルコ系匈奴と考えられていたようです。

ちなみに、本物の神武天皇の本物のお妃であったアイラツヒメも金山彦と大山祗トルコ系の神大市=罔象女神の間に産れたプリンセスであるためトルコ語の月=アイラールからアイラツ姫と呼ばれたのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


無題.png中国領 塔什庫爾干=タシクルガン(石頭城、石城山)は、現在、ウイグル人(トルコ系とされる)が住み着いていますが、キルギス人もいるようです。このキルギスも、ギリシャに「キルキス」と言う都市名があり、元々はギリシャ系ではないかとも思うのですが、どうせこの辺りはトルコ系、ペルシャ系、ギリシャ系、ユダヤ系…の混血が進んでおり議論しても意味はないのでしょう。写真はキルギス帽を被る老人。


キルキス / ラテン文字表記:Kilkis / ブルガリア語: Кукушはギリシャの中央マケドニア地方の都市で、キルキス県の県都。 2011年の行政改革で、ヘルソ、ドイラニ、ガリコス、キルキス、クルッサ、ムリエス、ピクロリムニの7つの旧市が合併し、現在のキルキス市となった。ウィキペディア(201807291011による


 いずれにせよ、かつてこの地はシルクロードの東西交易の要衝であり、塔什庫爾干の石城山は誇り高いこの地のシンボルだった時代があったのです。


 まず、重要なのは百嶋先生が言われていた玉名市と西都市の二つの石貫地名ですが、これが石城山、石頭城とどのような関係にあるかを考えてみましょう。

 無題.pngまず、九州(瀬戸内海側の豊前を除きますが)では本州のO音がU音と対応する傾向があることを知っています。

 栂(トガ)は栂(ツガ)ですし、大事はウーゴトですし、オッタマゲタはウッタマゲタ…となるのです。U音とO音の対応です。

つまり九州のイシキは本州のイシキと対応しており、石貫(イシヌキ)は、恐らくイシノキの原型であり、「石木」、「石城」の事なのです。

 山口県光市の神籠石はそのまま「石城山」として中国風表記がそのまま残っているようですが、この山口県東部には大山祇祭祀も多い上に、半島からモンゴル高原まで分布していたとされる古代朝鮮語の村、砦、集落を意味するムレ、ムル、モロ型地名と考えられる「群」「牟礼」型地名が多いこととも対応しているのです。

 「牟礼」型地名については、ネット検索されれば山ほど展開されていますのでご自分でご確認ください。

 ついでに、佐賀県の神埼郡吉野ヶ里町石動(イシナリ)も仮説を立てておきます。吉野ケ里の「里」型地名が佐賀県東半部には3000ほどの小字として残っています。「石動」(イシナリ)は石の里の事ですから、イシナリの「ナ」は「ソコオナゴ」の「ナ」つまり「ソコオナゴ」(「ナ」は所有の格助詞の「ナ」なのです)、であり、石ノ里の意味になるのです。そうです「里」は北朝鮮のミサイル発射実験場の舞水端里(ムスタンリ)核実験場の豊渓里(プンゲリ)などが代表的な地名で皆さんも良く聴かれているでしょう。

佐賀県の西部には伊万里焼の伊万里もありますね。つまり、石動(イシナリ)も石ノ里である事が分かるのです。               写真は国指定史跡 石城山神籠石(山口県光市、田布勢町)


では、最も重要と考えている熊本県玉名市の石貫古墳と宮崎県西都市の石貫神社をご覧頂きましょう。


始めは熊本県玉名市の「石貫」です。

誰も問題にしていない話であり、故)百嶋由一郎氏が発見された驚愕の仮説です。

無題.png倭人+日本人=列島人の主要部を形成した民族の列島への渡来について取り上げます。

A 恐らく紀元前後に雲南省麗江から阿蘇氏(黎族)と雲南省昆明から賀茂氏(白族)が海南島を経由し海路、南九州の薩摩川内辺りから天草〜熊本に、

B これも紀元前後でしょうが、土車、土舎(トゥチャ)族=楚か?が入っているという記録があります。

「熊本県玉名郡誌」の一部で、「土車の里」(土車の荘)以降には、新幹線玉名駅正面の玉名大神宮、玉依姫(この玉依姫は鴨玉依姫か?)に関わる「此所を土車の里と云石を…」という話が書かれています。では、「土車」とは一体何のことなのでしょうか?土車族(土家、土家族とも)をご紹介しましょう。

実質800万人以上とも言うトゥチャを少数民族と言うかは疑問ですが、伝統的な衣装を着たトゥチャ族とミャオ族とペー族の女性(恐らく白い服を着たのが白=ペー族)。

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この一帯はもともと玉杵名(タマキナ)と呼ばれおり、「日本書紀」景行天皇紀に「玉杵名邑」として出てきます。また、「熊本県玉名郡誌」の一部で、「土車の里」(土車の荘)以降には、新幹線玉名駅正面の玉名大神宮、玉依姫(この玉依姫は鴨玉依姫か?)に関わる「此所を土車の里と云石を…」という話が書かれています。では、「土車」とは一体何のことなのでしょうか?土車族(土家、土家族とも)をご紹介しましょう。中国の「土家」「土舎」(トゥーチャー)が入っていると考えている地域でもあります。

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ひぼろぎ逍遥(跡宮) 265 熊本県玉名市(旧玉名村)は「土車(トゥチャ)の里」だった! 参照


トゥチャ族(中国語:土家族 北トゥチャ語:フシマ、フマ、フスカ、ピズカ、ピジカ、チリカなど)は中華人民共和国が公認した55の少数民族のひとつで、主に湖南省、湖北省、重慶直轄市(旧四川省)の交界地帯に住む。

人口約800万人、中国の民族の中で8番目多い。言語はチベット・ビルマ語派に属する。長く漢族と交わって暮らしてきたため、現在ではトゥチャ語(プリ語とムズ語)を母語とする者は10万人程度とされ、ほとんどが中国語を母語としている。このように、民族の総人口と比較して母語人口が極端に少ない民族として、他に満州族(1000万人超えの民族であり、満州語を話せるのは5人以下)とシェ族(総人口約80万人、シェ語を話せるのは1000人程度)が挙げられる。湖南省湘西土家族苗族自治州、湖北省恩施土家族苗族自治州が設置されている。なお、例えば、彝族の事を彝家などと呼ぶ事もある事から分かるように、「家」には「族」の意味も含まれている。そのため本来、土家でトゥチャ族の意味をなしており、これに族を加えるのは重複した表現である。しかし、西北に住むモンゴル系民族である土族と区別するためにも、重複した表現ではあるが土族ではなく、土家族を正式な民族名としている。

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次は宮崎県西都市の「石貫」です。

これも紀元前に遡ると思いますが、半島経由で東西分裂後、さらに南北分裂し漢の傭兵と化した南匈奴(トルコ系)の一派(王昭君後裔)が南九州に入っていると考えています。

これこそが越智族=大山祗を奉斎する一族と考えているのですが…。

これらのように紀元前後の九州島には既に多くの民族が入っており、異なった民族の衝突がおこっているのです。コノハナノサクヤとニニギの出会い…スサノウとクシナダヒメの出会い…山幸彦と海幸彦の衝突…これらの神話から見えて来る多くの民族、異なった民族間で政略結婚が繰り返され、衝突の緩和が試みられた事が見えて来ます。コノハナノサクヤとイワナガヒメの話…。等々。

大山祗の墓といわれるものが宮崎県西都市の西都原第2古墳群にあり、正面には大山祗とコノハナノサクヤを祀る石貫神社、都万神社があります。

ついでに言えば日向一之宮都農神社(写真右)の主神は出雲神話のスターである大国主命であり、阿多の吹上浜には大汝牟遅神社(写真左)まであるのです。

通説派の大家の方々や出雲王朝論者といった方々にお尋ねしたいのですが、何故、南九州に出雲神話のスターである大国主祭祀が数多く存在するのか?勿論、北部九州の福岡県筑前町や熊本市北区にも大己貴神社があるのです。また、南九州には南方神社も多いのですが、これも大国主の子とされる(あくまでもされるであって子ではないのですが)国譲りに反対した建御名方を祀るものなのです。

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↑紀氏  ↑昔氏           ↑瀛氏 ↑白族     ↑越智族 ↑許氏 ↑黎族


百嶋由一郎最終神代系譜(部分)

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その後この大山祗系(トルコ系匈奴)氏族は、山梨(コノハナノサクヤヒメを祀る富士山浅間神社…)、千葉、茨城、福島…に展開したように見えます。

実は、この西都市にあるコノハナノサクヤを祀る都萬(ツマ)神社(都万神社)の正面には桜川が流れているのです。

恐らく、この「桜」が「コノハナノサクヤヒメ」が関東で「桜姫」と呼び替えられたのではないかと思うのです。

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以下はネット上から拾った「樹木の文化誌」の一文ですが、サクヤヒメはサクラヒメだったのです。

これは百嶋先生が言われていた事ですが、晩年“関東に移動したコノハナノサクヤヒメは関東ではサクラヒメになっている…”つまり、関東ではサクラヒメと呼ばれている事が分かるのです。

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コノハナノサクヤヒメが祀られている大山祗系神社には桜の紋章がふられていますし、ご覧の通り、本家本元の都萬神社の社務所にも桜が施されています。

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コノハナノサクヤヒメはコノハナノサクラヒメであったとさえ考えるのですが、列島人はR音(実際はL音)の発音さえ困難であったため、コノハナノサクヤと呼ばれたのではないかとさえ考えていますが、これについては確信が持てないため今のところ構想に留まっています。ただこの桜川と無関係でもないでしょう。と言うよりサクヤヒメが居たから桜川の名が残ったのではないかと思うのです。

 一方、北部九州には呉の太伯(周王朝後裔)の一族が越人=倭人=スラベシと共に入っているはずで、その南には、高千穂の三田井〜長崎の南北高木郡に高木大神系許氏が展開し、阿蘇氏=多氏=黎族はこの高木大神への入婿となり混血後の高木系は現阿蘇氏として引き続き蟠踞し、東に向かったヒコヤイミミの一族(草壁、草部吉見系氏族)が中央の多氏として後の中臣氏→藤原氏と拡大し近畿大和朝廷の権力を支える中枢氏族になるのです。

 これらの氏族、民族が絶えず入れ替わり争いながら8世紀初頭まで存続していたのが、一時期邪馬台国を経由した九州王朝なのです。

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最も重要な以下の問題に関しては別稿として書いても良いのですが、当面、既に書いているもので代行します。

倭人+日本人=列島人の主要部を形成した民族の列島への渡来について取り上げます。

A 恐らく紀元前後に雲南省麗江から阿蘇氏(黎族)と雲南省昆明から賀茂氏(白族)が海南島を経由し海路、南九州の薩摩川内辺りから天草〜熊本に…


ひぼろぎ逍遥

194 櫛田神社(博多)の大幡主のルーツは滇王国だったのか?

159 秦の始皇帝と市杵島姫

042 阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  I “肥後人は支那人だった!?”

033 阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  支 那


ひぼろぎ逍遥(跡宮)


264 博多の大幡主の一族は雲南省昆明から海南島を経由してやって来た

209 阿蘇の草部吉見と博多の大幡主の御先祖がおられた海南島について“コピーペーストも活用しよう”

208 天草下島の都呂々神社で阿蘇の草部吉見とトロロ芋を考える “熊本県苓北町都呂々神社”

119 草部吉見と豊玉彦(ヤタガラス)のご先祖が雲南省から入って来たルートについて

064 博多の櫛田神社の祭神とは何か?

007 草部吉見神は、甑島(薩摩川内市)鹿島町の鹿島神社を通過したか?


これらをお読み頂ければ当方が考えている内容の一部はご理解頂けるかと考えています。

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2019年09月06日

623 続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu 

623 続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu 

20180728

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


現在は中国領ですが、アフガニスタン、パキスタンとの国境地帯、言いかえればアフガニスタンのカブール回廊入口の要衝にTa Shi Ku Er Gan Luタシクルガン(中国表記:石頭城、石城山)があります。

無題.png

他にも幾つかありますが、ユーチューブで【新疆】タシュクルガンの石頭城、【中国】タシュクルガンの石頭城へやってきた。などと検索すればかなりの記事が出てきて鮮明な画像が確認できます。

古代ギリシャからは「トリスラピディア」とも呼ばれていたとか…。

さて、話をさらに進めます。故)百嶋由一郎氏によれば、“この一帯の人々(トルコ系匈奴)が、列島に侵入し「石頭城」「石城山」(いずれも中国表記)と言った地名を持ち込んでいる…。”それは、”熊本県玉名市と宮崎県西都市に同じ地名がある”とまで言われていました(これらについては後述します)。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋神代系譜の緑枠で囲った部分の金越智=ウマシアシカビヒコヂ〜大山祗〜大己貴(+神大市=罔象女神ミヅハノメ木花咲耶姫)の系統こそが列島に入って来たトルコ系匈奴と考えられていたようです。

ちなみに、本物の神武天皇の本物のお妃であったアイラツヒメも金山彦と大山祗トルコ系の神大市=罔象女神の間に産れたプリンセスであるためトルコ語の月=アイラールからアイラツ姫と呼ばれたのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


中国領 塔什庫爾干=タシクルガン(石頭城、石城山)には、現在、ウイグル人(トルコ系とされる) が住み着いています無題.pngが、タジク人、キルギス人もいるようです。このキルギスも、ギリシャに「キルキス」と言う都市名があり、元々はギリシャ系ではないかとも思うのですが、どうせこの辺りはトルコ系、ペルシャ系、ギリシャ系、ソグド人、ユダヤ系…の混血が進んでおり議論しても意味はないのでしょう。

写真は現代のウイグル人美女(良過ぎますかね)。

 いずれにせよ、かつてこの地はシルクロードの東西交易の要衝であり、塔什庫爾干の石城山が誇り高いこの地のシンボルだった時代があったのです。

 どうも、この中国表記の=石頭城、石城山が熊襲=トルコ系匈奴と共に列島に入っているようなのです。

以前から気にしていたのが長崎県川棚町石木(イシキ)、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町石動(イシナリ)、鹿島市の石木津(イシキヅ)…でした。当時は奇妙な地名だなあ…程度だったのですが、故)百嶋由一郎氏がはっきり言われたのが、熊本県玉名市の石貫(石貫穴観音横穴や石貫ナギノ横穴群外多数の横穴式石室を持つ古墳群)、宮崎県西都市の石貫神社(オオヤマツミとコノハナノサクヤを祀る神社)であり、正面の西都原第 二古墳群に伝大山祗の墓=柄鏡型前方後円墳があるのです。

また、大分県にもあります。旧石城川村(湯布院と高崎山の間の山中の村)です。この由布市から大分市に向かう谷間の一帯も山神宮外大山祗〜大己貴祭祀が濃厚なエリアです。

この外にも、山口県光市の石城山神籠石、愛媛県越智郡上島町岩城(イワギ)は平安時代に「石城」の表記で記録のある地名ですし、そもそも大山祗を祀る瀬戸内海の大三島は愛媛県にあるのです。

無題.pngさらに、東北の福島県の石城郡、いわき市・南相馬市の相馬の馬追を思い出して下さい。

いわき市のいわきは石木、岩木、磐城=タシクルガンなのです。

そして、出羽三山の湯殿山、羽黒山にも岩木山がありますね、ここも大山祗祭祀が非常に濃厚なところなのです。

 当然にも甲州騎馬軍団が跋扈した山梨県にも無いはずはありません。石和温泉の石和(今は笛吹市ですか)です。

ここからコノハナノサクヤを祀る富士山の河口湖一帯に掛けて、石尊神社が数多く拾えますが、これも、まず、大山祗=月読命なのです。まだまだありますが、このように実際にトルコ系の民族が入っているようなのです。

参考


「石貫神社」について ○創建:天平5(733)と伝えられています。○御祭神:コノハナサクヤヒメの父神のオオヤマツミノカミ。○オオヤマツミノカミ:山の神で、「天神」・「国神」・「海神」の三神の大神。○大祭日:1129日。石貫神社から169段の階段を上った西都原古墳群内の『大山祇塚(おおやまつみづか)』の前方部前で神事が挙行されます。                     西都市観光協会


先にひぼろぎ逍遥 641 タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu として石頭城、石城山を取り上げ、この地名が列島に大量に持ち込まれていると言う事を書きましたが、当然にもこの地名は中国本土にもかなり拾えるのです。

勿論、占領されているとは言えタシクルガン自体は、今尚、中国共産党の支配地ですが、ここではそれ以外のタシクルガンをご紹介したいと思います。

恐らく、列島の十倍以上はあるのではないかと考えていますが、なにぶんにも中国語に対応できていないことから、ネット上から分かる範囲で探して見る事にしました。

きっかけになったのは故)百嶋由一郎氏が残された手書きメモに石頭塞があることに気付いたからでした。勿論、支那(シナ)という地名が残る麗江の南の石頭塞です。


 その前に南京に石頭城がある事を思い出しました。


石頭城(せきとうじょう)は、中華人民共和国江蘇省南京市鼓楼区、清涼門の北に位置している城址。六朝の都である建康の西面を守る城塁であった。後漢末の212年(建安17年)に孫権により築城され、1988113日、国務院により全国重点文物保護単位に指定された。現在は城壁の一部が残り、その城壁の模様が鬼の顔に見えるということから、別称を鬼顔城とも称す。

清涼山の自然地形を利用して土と石で築城し、西と北の両面は長江に近接し、地勢はけわしかった。石頭城西南には烽火楼があり、長江上流と連絡を通じあった。またここには水軍の駐屯地で、長江最大の波止場であり、船舶1000艘を停泊させることができた。

石頭城から城壁に沿って北側は六朝の頃の城壁で、南に行けば清涼門である。石頭城の城壁の上を歩く場合は国防園に入る必要がある。

ウィキペディア(20180730 1515による


無題.png 石shítóuchéng

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戦国時代,周顕王三十六年(前333年)に楚が越を滅ぼした。この 時楚の威王が金陵邑を今の南京に建設した。同時に、今の 清凉山と呼ばれるところに城を築いた。秦始皇帝二十四年(前223年),楚を滅ぼし、金陵邑を秣陵?とした。三国時 代,孫権は、秣陵を建業と改称、清凉山 に石頭城を建設した。当時、長江は清凉山下流を流れていて、石頭城の軍事的重要性は突出していた。呉では、水軍もっ とも重要な水軍基地とし、以後数百年 間、軍事上の要衝となった。南北朝時代、何度も勝負の帰趨に大きな役割を果たした。

石 頭城は清凉山の 西の天然の障壁をなし、山の周囲に築城したもの。周囲7里(現在の6里)あり 北は大江に接し南は秦淮河に接している。南向きに二つ門があり、東に向かって一つ,南門の西に西門があった。内部に は石頭庫、石頭倉と呼ばれる倉庫があっ た。高所には烽火台があった。呉以降南朝でも重要性は変わらなかった。

ネット上の「旅行日記」による

「三国志」がお好きな孫権とか周瑜ファンの方には魅力的な所だと思うのですが、「旅行日記」にはこのように続けられています。


無題.png写真は、城壁の拡大写真。上端部分が、明代の磚築部分。六朝時代の城壁部分(真ん中の大きめの煉瓦部分)も、一応日干し 煉瓦を埋め込んだような構造となっている。磚築となったのは、東晋末と考えられる。東晋時代は、全土、主に城門だけが磚築となり、城壁は版築だった。南斉に至り、各城 で城壁が磚築となったと考えられている。それまでは土墻(版築城壁)と竹籬(竹を編んだ城門)だった。


次は 阿蘇氏の故郷、雲南省麗江から北へ延びる茶馬古道の石頭城です。

これは、雲南省麗江の北の石頭城で、百嶋メモに出てくる「石頭塞」ではないようですが、「〜茶馬古道をゆく〜 宝山石頭城」からご覧ください。


麗江市内からは車で約4時間、村の上方にある駐車場まで分乗車で向かいます。

その地形から、見下ろすことのできる景色にまず、息を呑みます。

長江の支流、金狭江の峡谷にある巨大な岩の上に築かれた集落は、3方向が断崖絶壁となっており、

城砦と呼ぶにふさわしい佇まいを見せてくれます。

宝山石頭城は元代の1277年から1294年の間に築城されたと言われています。

当時、宝山州と呼ばれたこの地は、自然により形成された難攻不落の砦で、

この地に居住していた少数民族・ナシ族はかつて戦乱を避けるため、山腹に沿うようにして村を築きました。

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次は百嶋メモに出てくる雲南省麗江からずっと南の石頭塞です。

百嶋由一郎先生は生前、中国で400回飛行機に乗って8,000万円遣ったと言っておられましたが、西のタシクルガンばかりではなく、南の石頭塞にも足を運ばれていた事が分かります。

 解放前の中国ですから苦労も多かったと思いますが、文字通り半島、北京からコーカサスへ、そして雲南省、四川省、貴州省まで調査に飛びまわれたようです。

以下は貴州省の「石頭塞」ですが、雲南省にも「石頭塞」があるようです。

非常に分かり難く、検索を続けて調べましたが、云南省河哈尼族彝族自治州と書かれており雲南省昆明辺りからベトナムのハノイ(ハロン湾)に注ぐ紅河の近くにもあるのでしょう。

パーモはインパール作戦に出てくるビルマのバーモでしょうし、木姐(ムセー)もビルマ領にあります。

 従って、ここが百嶋メモに出てくる石頭塞ではなく、雲南省昆明のそれであり、さらに、中国迷爺爺の日記 中国好き独居老人の折々の思い というブログに出てくるプイ(布依)族の住む石頭塞も別になります。このように、少し調べるだけでもかなり多くの石頭塞が拾えるのですが、現在の住民とこの地名を残した民族が一致している訳でもないと思います。結局、多くの石頭城型地名が確認できただけでした。


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是中人民共和国云南省河哈尼族彝族自治州的一个乡镇级行政位。

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百嶋手書きメモから


中国迷爺爺の日記 中国好き独居老人の折々の思い というブログがあります。


プイ族の住居 2010-02-01 12:11:46 | 中国のこと

 2006年3月に貴州省の西南部を旅した時に、少数民族のプイ(布依)族の集落に立ち寄った。プイ族は人口300万人くらいで、主に貴州省の西南部(黔西南プイ族ミャオ族自治州)に居住しているが、貴州の各地にも散在し、ほかに雲南省や四川省の一部やベトナムにも住む。
 訪れた村は石頭寨と言ったが、家々はすべて石造りで、このあたりのプイ族の集落の特徴らしかった。
 入り口のゲート。いろいろな銘盤が嵌め込まれているが、中に「貴州省 文明風景名勝区」というのがあった。プイ族の集落の中でもよく保存されているものなのだろう。

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 事務室のような所に入ると、民族衣装姿の大柄な娘が出てきて、村の中の古い住居や住居跡を案内してくれた。ゲートから向かって左には小高い丘があり、そこに石造りの家が並んでいる。だいぶ古いものらしく頑丈な造りだが、住んでいない家もあった。

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倉庫らしい建物 土地廟。村の神を祭る。道教でも仏教でもない、産土(うぶすな)神のような原始的な信仰ではないか。

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石組み。鉄筋や漆喰は使っていないで見事に築かれている。
 途中で村を一望できる場所があった。現在の家屋の多くは平地に造られているようだ。

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上に行くほど古い住居があり、すべて廃墟になっている。どれもかなり大きなもので、このような高い場所にたくさんの石を運び建物を造ることは大変な労働だったのだろう。これらの多量の石材はどこから切り出されたものか。

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 廃墟の道 石頭寨の傍にあった池。貴州でよく見られるカルスト地形の山が遠望される。

 石頭寨からの帰途の風景。この時期にはあちこちに菜の花畑がある。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記