2019年07月12日

605 古代史から離脱し神代史(本当の古代史)へ移行しよう @

605 古代史から離脱し神代史(本当の古代史)へ移行しよう @

20180803

太宰府地名研究会 古川 清久

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冒頭から通常は表に出さない神代系譜(百嶋由一郎047サニワ神代系譜)を登場させましたが、この系譜がかなり重要なのです。

今回は、この系譜に登場する神々の概略を述べながら列島の古代を考えて見ましょう。

これは、阿蘇氏系譜でもなくヤタガラス系譜でもなく高木大神系譜でもなく大山祗系譜でもなく、百嶋由一郎氏がいうところのイスラエル系の金山彦の系譜なのです。

この(本物の神武天皇の)時代九州王朝の中心である呉の太伯の後裔(つまり周王朝の後裔)を支えたのは金山彦=秦の始皇帝(諱: 嬴政 彼もイスラエル系)と姻戚関係を結んだイスラエル系の製鉄神でした。

しかし、この金山彦も多くの民族と姻戚関係を結ぶ事によって、徐々に倭国と言う初期の列島国家が成立していったことが見えてくるのです。

ただ、次には熊襲の指導者である大山祗の子の大国主系との確執が始まるのです(倭国大乱です)。

まず、阿蘇氏を考える上で重要な郡浦神社を訪れてはいかがでしょう?


@  蒲池姫と名を変えた吾平津姫(アイラツヒメ)つまり阿蘇氏の母神を祀る郡浦神社(宇城市)

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郡浦神社 カーナ検索 熊本県宇城市三角町郡浦2666  0964-54-0952



阿蘇神社(阿蘇市)、健軍神社(熊本市)、甲佐神社(甲佐町)と共に阿蘇四社ともいわれますが、草部吉見神社、国造神社(北宮)、小国両神社を別にしてどのような意味があるか分からないため考えるほどの事はないでしょう。

多少の意味があるとすれば、参道が雲仙普賢岳に真っ直ぐ延びる健軍神社、クマカブトアラカシヒコこと大山咋(オオヤマクイ)を主神とする甲佐神社と併せ考えると、有明海を挟み、高木大神の本拠地(四面神社)でもある雲仙岳(旧高来郡は高木大神の領域)の支配下にあった事が見えて来るのです。

特に重要なのは、石川県七尾市のクマカブトアラカシヒコ神社です。この神社は草部吉見と市杵島姫の間に産れた大山咋を祀る七尾に展開した甲佐神社であり、甲佐の熊本(クマ)の甲(カブト)佐(アラカジ)=阿羅伽耶国への舵取りの意味がこの神社の名に表現されているのです。

緑川の溯上限界の甲佐神社から船で有明海に出て対馬海流に乗れば半島には容易く移動でき、高木大神の本拠地であった朝鮮半島の大邱(テグ)に移動できたのです。

復路も一旦は半島から敦賀、七尾に移動し、日本海を反転流に乗って九州まで戻っていたと考えられるのです。

そして、大山咋=速瓶玉(ハヤミカタマ)の子の後の神武僭称ハツクニ神武の名を思い出してください。

「ツヌガノアラシト」ですね、要するに、「ツヌガ」(R音実はL音が苦手な日本人はN音で代行しツノガと呼んでいるのでしょう)にやってくる「アラ」(阿羅伽耶国)の「シト」人(江戸っ子同様「ヒ」と「シ」の発音が怪しいのです)という意味になるのです。

このように、高木大神の本拠地である島原半島から朝鮮半島の伽耶との関係が色濃く見えるのが、健軍神社、甲佐神社、郡浦神社なのです。

従って、高木大神系の海上交通を司った三神社はそれだけで深いつながりがあると見えてくるのです。

崇神の弟の椎根津彦も舵取りの意味で、神武東征とされる偽神武崇神の舵取りとして知られるのです。

ひぼろぎ逍遥から

183神武天皇の正妃アイラツヒメ(蒲池姫)を祀る神社 “郡浦神社(熊本県宇城市三角町)”

285 北北東に進路を取れ! D 石川県七尾市のクマカブトアラカシヒコ神社  をお読み下さい。


@  杉山姫と雨宮姫

まず、川崎市〜町田市辺りの地図をご覧ください。グーグルで単に「杉山神社」を検索しただけですが、

これほどの数の杉山神社が表示されました。

 この武蔵の一角に阿蘇系氏族が大量に入っている事がお分かり頂けると思います。

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杉山神社(すぎやまじんじゃ)は、主に五十猛神スサノオの子)や日本武尊主祭神とする神社である。武蔵国における式内社の一社とされるが、その論社とされる神社は現在の神奈川県横浜市を中心に川崎市東京都町田市稲城市などに数十社存在する。 本項では上記以外の杉山神社についても一部触れる。

杉山神社は周辺地域に住む民衆の信仰の中心として鶴見川水系沿いを中心に拡大したとされるが、謎の多い神社である。鶴見川の他に帷子川および大岡川水系、多摩川の右岸(川崎市・稲城市)に存在するが、多摩川を超えた領域には存在しない。江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』では杉山神社が全部で72社あると記されているが、その後の合祀や社名変更などにより現状で宗教法人登録されている「杉山」(椙山も含む)が付く神社の合計は44社となっている。

平安時代の貞観11年(869年)に編纂された『続日本後紀』では「枌山神社」と記述される古社で、同書では当社が承和5年 (838年)2月に官弊を賜り、また承和15年(848年)5月には従五位下を授かった旨が記されている。さらに延長5年(927年)に編纂された『延喜式神名帳』では「武蔵国都筑郡唯一の式内社」との記載もされている。しかしその本社は比定されておらず、未だ多くの論社が存在する。なお、論社のうち現在では横浜市(緑区西八朔町、都筑区中川および茅ケ崎中央、港北区新吉田町)にある4社が最有力とされている。

「鶴見神社 (横浜市)#杉山神社と鶴見神社」も参照

名称の由来については、杉山に祀られていたという説や樹木の神である五十猛命と杉林に因むという説、船舶材として使用されていた杉の木に因むという説など諸説ある。また当社の由緒についても不明な点が多いが、出雲民族の末裔(五十猛命)が紀州熊野より海人族を引き連れて伊豆半島や三浦半島に辿り着き、後者を経由して鶴見川水系に住み着いた一族の頭領が杉山神社を創建したという説がある。なお、三浦半島の三浦郡葉山町上山口には旧相模国で唯一の杉山神社があり、さらに同神社の「元宮」と呼ばれる社も周辺の山中に鎮座しているが、旧武蔵国における杉山神社との関係は不明である。この他、茅ケ崎中央の杉山神社に伝わる由緒では「天武天皇白鳳3年、安房神社神主の忌部勝麻呂(紀州系忌部氏)によって武蔵国の杉山の岡に高御座巣日太命(高御産日命)・天日和志命(天日鷲命)・由布津主命(阿八別彦命)の3柱が祀られ、同氏の麻穀栽培地開墾の拡大とともに神社も広まった」とされている

ウィキペディア(20180803 1045による

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藤原氏の祖であり鹿島大神=武甕槌 春日大社の表向きの祭神である、阿蘇高森の草部吉見神と高木大神との間に産れた天豊ツ姫(神武の子である威徳天皇のお妃)を経て阿蘇津姫に復し、天比理刀A寒川姫、杉山姫と名を変え最期に杉山姫と呼ばれたのです。

ウィキペディアの 杉山に祀られていたという説や樹木の神である五十猛命と杉林に因むという説、船舶材として使用されていた杉の木に因むという説など諸説ある。は、お笑いで済みますが、杉山神社に伝わる由緒では「天武天皇白鳳3年、安房神社神主の忌部勝麻呂(紀州系忌部氏)によって武蔵国の杉山の岡に高御座巣日太命(高御産日命)・天日和志命(天日鷲命)・由布津主命(阿八別彦命)の3柱が祀られ、同氏の麻穀栽培地開墾の拡大とともに神社も広まった」とされているについては無視できません。

最初に掲げた百嶋由一郎氏が残された神代系譜をご覧ください。その黄枠の部分と通底するのです。

阿波の忌部こそヤタガラスの後裔氏族ですが、問題の多かった(威徳天皇のお妃や健磐龍のお妃煮もなるのですが収まらず…里に帰っているようなのです)阿蘇津姫は草部吉見が最終的に豊玉彦=ヤタガラスに引き受けてくれる形で収まったと言われているのです。

しかし、健磐龍と天豊ツ姫の間に産れた孝霊天皇の後裔である孝元、開化である事を考えれば、阿蘇氏の血もこの杉山姫を経由し九州王朝にも注がれている事も分かるのです。

この杉山姫の娘が雨宮姫なのですが、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から、関心をお持ちなら以下などをお読み下さい。            233 人吉盆地の雨宮神社(熊本県相良村)再訪 “悲劇の雨宮姫”

なお、最終的に杉山姫を引き受けた豊玉彦との間に天日鷲の一族も産れているのです。

この一族こそは阿波国を開拓した阿波の忌部の中心勢力であり、伊勢を経て相模、武蔵に展開しているのかも知れません。これについては山梨からの陸路も考えていますが今後の課題です。


百嶋神社由一郎氏の神代系譜、音声CD、手書きスキャニングDVDを必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記