2019年07月06日

603 信州への神社調査のための下調べから“長野県上田市の生島足島神社“

603 信州への神社調査のための下調べから“長野県上田市の生島足島神社“

20180727

太宰府地名研究会 古川 清久


信州には二、三度ほど足を運んでいますが、神社を廻り始めてからは一度だけで、それも数社しか見ていないため、いわば自分にとっても空白地帯です。

今年の余りの暑さに耐えかね、五月に一週間ほど滞在した山中湖畔の友人の別荘に再び足を運ぼうかとも思っていますが、テーマ設定としては当然山向こう信濃の中心地一帯となります。

 これで、甲府、身延、諏訪、松本と併せ列島の中心部の山岳民族地帯の概観を把握するための一歩とはなりそうです。

 下調べのための準備資料を公開原稿とすると言うのは乱暴ではありますが、準備作業での理解と実踏後の理解がどれほど違うかがお分かり頂けるかも知れません。

 まずは、現在の生島足島神社を知る事から始めましょう。場所は上田市の上田電鉄別所線の沿線で、35年前に高級旅館を予約し都合で行けなくなり中止した別所温泉にも入れそうです。

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生きとし生けるもの万物に生命力を与える「生島大神」と、生きとし生けるもの万物に満足を与える「足島大神」の二神が祀られ、摂社(下社・下宮)には諏訪大神が祀られる信濃屈指の古社です。無題.png

創建の年代については明らかではありませんが、神代の昔、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)が諏訪の地に下降する途すがら、この地にお留まりになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられてたと伝えられ、その故事は今も御籠祭という神事として伝えられています。

生島神は生国魂大神、足島神は足国魂大神とも称され、共に日本全体の国の御霊として奉祀され、太古より国土の守り神と仰がれる極めて古い由緒を持つ大神であります。

当社は歴代の帝の崇敬厚く、平城天皇の大同元年(806年)には神戸(封戸)の寄進があり、醍醐天皇の廷喜の代(901年〜922年)には名神大社に列せられています。建治年間(1275年〜1278年)には北条国時(陸奥守入道)が社殿を営繕し、地頭領家も祭祀料の田地を寄進しています。戦国時代以後も真田昌幸・信之等の武将を始め、代々の上田城主も神領を寄進し、社殿を修築するなど、崇敬を表しています。

殊に天皇が都を定められる時には、必ず生島・足島の二神をその地に鎮祭される例であり、近くは明治2年、宮中にこの二柱の大神を親祭され、同23年勅使差遣になり国幣中社に列せられています。

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同社HPによる


生島神は生国魂大神、足島神は足国魂大神とも称され、共に日本全体の国の御霊として奉祀され、太古より国土の守り神と仰がれる極めて古い由緒を持つ大神であります。


公式HPの一部を見て頂きましたが、これでは全く要領を得ませんね、その上に、戦国大名が入り乱れ、明治までの名神大社から国幣中社へと列せられている事を見れば、時々の権力に従い祭神が替えられ、また、祭神名までがぼやかされていると見るべきで、この地が戦乱の接点にあったことが分かります。

百嶋先生も無茶苦茶と記録しているところですが、とりあえずご祭神は生島大神と足島大神。としておきます。

ここで、下調べ宜しく、一文を書こうとしたのですが、メンバーの「常陸の国ふしぎ探検隊」の隊長様がリポートを書いておられますので、一部を紹介しておきます。


東側鳥居 式内大社 日本中央の文字が見えます。

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東側参道鳥居にあった祭神一覧と梶の葉紋(諏訪大社のものとは異なる)


百嶋系図では生島大神は海幸彦=建御雷であり、足島大神はオキツヨソ足姫(スサノヲ娘でナガスネ

彦の妹)です。諏訪大社の祭神、建南方の父母です。

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由緒書


大正八年鉄道省発行「神もうで」によれば、創建の年は詳ならず、社伝によれば神代の昔此処に鎮座あり、建南方富命の諏訪に降り給える時、この地に留まって二柱の大神を祀り、御自ら粥を煮て献供せられたことがあり、かつて崇神天皇の御世に、神八井耳の御孫建五百建(たけいおたけ)命を科野国造に定め、東国の祭祀を掌らしめられた時、この神社も創建せられたというのである。              

意味不明の文章です。支離滅裂でしょう。前半では創建年は不明で神代から鎮座していると言っているのに、後半では、崇神天皇の御世に神八井耳の孫建五百建(たけいおたけ)命=建磐龍が科野国造となり、創建したと書いています。                                   

このような由緒がまかり通っていたために、アカデミックな歴史学者たちは神社の研究には興味を示さなかったものと考えられます。しかしながら、記紀自体が同様であるとの疑問はあまり持っていないようで、古代史研究と言えば記紀を研究することが主流であるようです。かくして、真実の歴史は闇に置き去りにされています。明治維新の国家神道政策によって、意識的に改ざん、ねつ造された神社の由緒は、学問的には信憑性のない資料として扱われることになってしまったのでしょう。あるいはお上からの指導で扱えなくなっているのかもしれません。                               


以下は「常陸の国ふしぎ探検隊」049 49.生島足島神社探検記(長野県上田市)をお読み頂くとして、文章だけを拾わせて頂きます。

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上宮(生島足島神社)拝殿 北向き 北向きということは、北側にある摂社(下宮)の諏訪社が最初に建てられ、後から付けたされたのだと思います。

そうでなければ栗本慎一郎の言う聖方位に関連のある勢力の造った神社ということになるでしょう。

神橋と上宮拝殿


上田情報蔵さんのHPより引用


生島足島神社本殿の前に二つの橋がかけられている。一つは一般の参詣者の渡る橋、一つは「神橋」と名づけられている朱塗りの美しい橋である。
この「神橋」という名は、神様が渡られる橋だからつけられたのだが、それではどういう神様が渡られるのかというと、知る人は案外少ないようだ。この橋を渡る神様は諏訪神なのである。
試みに、この神橋の入口に立って北の方をふりかえると、50mばかり先に、塀にかこまれたりっぱなお宮があるのに気づかれるだろう。(もっともその間に舞楽殿があるので、気をつけなければわからない。)これが、生島足島神社の摂社(本社に付属する縁の深い神社。官国幣社に限ってこの称を用いられた。)諏訪社である。
生島足島神社には、有名な「お籠り祭」という神事がある。それは毎年11月3日の夜、まずこの諏訪神が、生島足島神社の籠殿へ移られる。これを「御遷り神事」という。(もちろん神官が奉仕する。)それから毎夜御飯をたき、諏訪神が自ら生島足島神に献飯される儀式が翌年3月3日までつづく。(もっとも現在は、7日ごと、4月28日まで26回奉仕に改められている)これが「お籠り祭」である。
この祭事は太古から伝えられているもので、諏訪神が天照大神から信濃統治の命をうけて、この地にやって来たとき、すでにこの地に有力な生島・足島神がいた。そこで諏訪神は自ら長期にわたり御供を献じ、はじめて了承を得て諏訪に向かったことに由来するといわれている。
生島・足島神は巻頭写真でも説明したように、もともと宮中で祭られている神であるから、地方神としての諏訪神がこの神に対して奉斎の誠をいたすのは、当然であったかも知れない。信濃の国造(現代の県知事に当る)から出た金刺氏は、後に諏訪下社の大祝(神が人間として現れたものといわれる)となっていることを思い合わせてみる必要もあろう。


境内社の子安社 祭神は木花開耶姫とニニギ木花開耶姫がニニギと夫婦だったのはたったの1年間ですから、対で祀られているということは後世の下剋上勢力がねつ造したと考える基本となると判断しています。

単体の木花開耶姫を祀った神社も後発のものと考えています。なぜならニニギから豊玉彦に夫を変えてからは前玉姫となっているからです。したがって前玉姫の名前で祀られた神社が正統派だと考えますが、実際に前玉姫で祀られている神社は数少なく、藤原氏や明治政府の神祇官(藤原氏の傀儡)が木花開耶姫に改名してしまったことによると考えています。

境内社の八幡社 神功皇后や姫大神の名はなく、玉依比売命とされています。八幡系の玉依比売は姫大神のことだと思うと「玄松子」さんのHPにありましたが、この場合の玉依比売は三人の玉依比売の誰を指しているのでしょうか。姫大神の中には鴨玉依姫がいますからそれが順当だと思います。

御歳代部仮殿 御歳神は贈孝安天皇であり、生島大神=海幸彦の御子です。さらには九州王朝特務機関長(要するに中央情報局)です。建南方の監視役だったのか、反対に護衛だったのかかもしれません。後の菅原道真の樋口大善のようです。建南方は正史では、建甕槌と力比べに負けて、諏訪に引き込もることになっていますが、実の父親は建甕槌=生島大神ですからそんなことはなかったのです。まして母親はスサノヲの娘オキツヨソ足姫ですから、父親(生島)よりも身分が高かったのです。

御歳神の母親は豊受姫でやはりスサノヲの娘であり、父親は海幸彦=生島ですから御歳神と建南方は兄弟と言っても過言ではない関係です。


百嶋神社考古学にご興味の方は、太宰府地名研究会 古川さんまで。090-6298-3254


 大量に書いているのでネタ切れもあり、下調べをそのまま出そうなどと狡猾な事を考えていましたが、「常陸の国ふしぎ探検隊」の全面引用となってしまいました。悪しからずご容赦。

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なお、前玉姫で祀られている神社は数少なく…については、ひぼろぎ逍遥 067霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社にコノハナノサクヤヒメを探る 外数本公開していますので、興味をお持ちでしたらお読み下さい。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記