2019年07月28日

ビアヘロ091 九州王朝論者の研究会が総崩れ “研究者がいない九州王朝論の研究会”

ビアヘロ091 九州王朝論者の研究会が総崩れ “研究者がいない九州王朝論の研究会”

20190609

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 埼玉県在住者のつれづれ旅日記(のようなもの)氏が帰られた後、奇しくも埼玉県在住者から百嶋神社考古学の資料を貰いたいとの連絡が入りました。

 昨年10月から接触していたblogひろっぷ女史の参入と併せ、多くのメンバー(ブロガー)が参加されるようになり、当会は単なる邪馬台国九州説を楽しむ会とか九州王朝論者のお話を聴き右から左に聞流す会と言ったものではなく、また、通説派の学芸員や教育委員会関係者の御高説を拝聴する会といったものでもなく、自らの頭と足を使って調べ記録を残し古代を探究する本物の研究者とそのサポーターによる研究会への道がようやく開けてきたような気がしています。

 事実、五年程ど前まで十年近くも九州王朝論を拡げるために活動してきたのですが、遡って考えても“自分はこういう事を調べているのだけど発表させて下さい”とか、“今度はこういう事を調べましょう”といった人物が一人も出てこなかった事でした。

 つまり、一つの表現ですが、テントを張って九州王朝論者の話を聴く会としてスタートとしたものの、誰一人として自分の頭を使って調べようとする人物も、積極的に九州王朝論の宣伝を行い通説派の嘘を遍く広めようと言った人は皆無だったのでした。

 今となればただの反省でしかないのですが、結局、数少ない名の通った九州王朝論者やそれに関係する研究者の話を聴き、それに同調している自分を楽しんでいるだけの人々しか集められなかった事を痛感していたのです。

 本音を言わせてもらえば、こんなつまらない何の価値もない人々の世話だけさせられ一喜一憂する事への馬鹿さ加減だけが募り、残り少ない人生をこんな連中のために費やすのはあまりにも無駄だと考えるようになっていました。

 従って、まぼろしの九州王朝宮廷舞「筑紫舞」を現代に伝える宮地嶽神社と組んで、既に天寿が迫っていた古田武彦講演会を全国から800人を集めて実現したのですが、それは古田武彦が一生を掛けて列島の古代にメスを入れた古田武彦を九州王朝の本拠地であった博多で講演させたいとの思いを皆で支え、最後の古田武彦を一目見たいとして達成させたに過ぎなかったのでした。

 そして時は流れ、何時しか古田武彦の初期三部作に新鮮な衝撃を受けた戦後世代がどんどん鬼籍へと送り込まれ続ける時代に入っているのです。

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結果、古代史に関心を持つ人々の次世代でも、三部作も読んだ事もなく、この衝撃さえも知らぬ無い世代が増え、九州王朝論者も特殊な目で見られる時代に突入し始めている事を強く意識しなければならないと思うものです。


それどころか通説に迎合するサモシイ連中までが現れる


それどころか、“行政とか教育委員会との関係は切れない…”と、さも聞いた風な話で学芸員とか通説派の話を持ち込んだり、金に任せて実質的な通説派が持ち込む全国邪馬台国シンポジウムとか村興し、町興し、果ては世界遺産登録に絡めた教育委員会お墨付きの翼賛古代史シンポジウムに尾を振る様な妙な動きに合流して行く連中までが現れ始めるのです。

この人物は元は九州王朝論者として古田と一緒に活動していたと思っていた人物が、名声のためなのか、単にたくさんの聴衆の前で話したかったのか、いわば行政の芸人に成り下がる傾向まで現れる始末で、最早、九州の真実の古代史を探るとか通説が言う列島の古代観は誤りではないか…と言った古代史に対する真摯な興味、関心の一切が消え去り、あたかも通説派によるデマとペテンに満ちた大嘘が大手を振って闊歩し始めているかのようなのです。

古田武彦が一生を掛けて切り開いた世界観などもはや何も無かったかのような様相を示す中、埼玉県から車中泊を繰り返し神社探訪を続け当研究会の研修所を訪ねて来られた若き50代のブロガーからお話をお聴きすると、以前から古田武彦の本を読み九州王朝論者のブログを読んできたが、実際に九州の現場を自分の目で確認したいとトレッキングや伊東まさこ講演会に参加されたのでした。

無論、全ての重要ポイントをご案内する事など不可能なことであり、そのさわりだけをご案内させて頂いたのですが、このような自分の頭で物事を考える人々こそが必要であり重要なのであって、九州王朝本拠地の現場九州に於いて九州王朝の痕跡を探る探究者が消えた時、九州王朝論は消失する事になるのです。

彼も当方の連携ブログにリンクして貰う事となり、昨年10月のこれまた50代に成り立ての女性ブロガーによる「ひろっぷ」と併せ、九州王朝論からの情報発信がさらに強化される事になったのでした。

 話が多少逸れますが、このように、自らの頭で考え自らの足で現場を見ようと思い遠路探訪する人々のために研修所を設けたのであり、今後もこのような人々に活用して頂きたいと思っています。

 また、阿蘇外輪山東麓にも一泊千円で450人は泊まれる施設を準備していますので(こちらには自前の温泉は無いのですが)、九州王朝論に関心をお持ちで九州の現場を自分の目で確認したいと思われる方はどしどしご連絡頂きたいと思います09062983254

 話を戻すと自らの頭で考え自らの足で現場を見ようと思い遠路探訪する人々と九州王朝の本拠地に居ながらエアコンの効いた部屋で居眠りしながら邪馬台国九州説本でも読みながら、渋滞で車の運転が面倒だからと現場を見ようともしない自称九州王朝論者とのどちらが価値があるかは言わずもがなであって、本も出さずブログも書かないような人間はネット社会では存在していないに等しいのです。

ましてや、作業ノートも作成せず、記録も残さず、伝承を拾おうともしないような連中は何の価値もないとしか言いようがないのです。

こちらから少しお尋ねしたいのですが、現在、九州在住者で九州王朝の研究者、調査者、探索者がどれほどおられると思われますか?

 私は全体の傾向が見えるのですが、一応、当グループは(神社研究者中心のため)無関係とし、九州在住者で九州王朝論の立場からの研究者と言えそうな人物は皆無ではないかと思います。

 もし違うと言われる方がおられれば、ブロガーなのか何がしかの著者なのか、ただの古代史ファンなのか名乗り出て頂いても構いません。

 既に、古田武彦なり兼川晋なり、佃収、故)米田良三、他の九州王朝論者なりの説を追い探究を進めておられる人を知りません。

 古田武彦が一生を掛けて切り開いたものでしたが、本拠地がこの様なのですから、事実上の九州王朝論の死を確認せざるを得ないのです。

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私達は、故)古田武彦氏とほぼ同世代の故)百嶋由一郎氏の神社研究の重要性に衝撃を受け(これとて凡そ教育委員会や学芸員が関心を向けるはずのものでもなく、普通の九州王朝論者も見向きもしない話なのであり、足で拾って遭遇した話だったのです)、始めはその驚愕の内容に対する理解に数年を要したのですが、今になりやっと百嶋翁が主張していた話の裏取りの作業が進むようになり、先生が言われていた初期の九州王朝の全貌が見えて来つつあるのです。

 従って、私達はかつて古田武彦が「古事記」が「日本書記」の原型としたとは相容れぬ理解に踏み入り、百嶋翁が主張した“古事記の95%は嘘”という驚愕のメッセジを受け止め、その多くの説明を押し広げ、「記」「紀」が描いた=藤原が自らのウイングを拡げ安泰のために描いた史観の大嘘のテクニックを多少とも理解できるところまで漕ぎ着けて来たのでした。

 私達はこれらの話をネット上に多くのセクターによって拡散させ、私だけでも年間560万件(年間)のアクセスを得られるところまで発信できるようになって来たのでした。

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百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)


 一度、百嶋由一郎が主張した神代史観を受入れると、古田説、佃収説、米田良三説、内倉武久説…といった名だたる九州王朝論者の説を一通り受け入れてきた者としても、「記」「紀」史観以前の基層の更なる深い層を探るものであったため、学会通説やそれらに調教された教育委員会から学芸員の言説の大半がほとんど漫画か芸人(学芸人)に見える事から、私達は九州王朝論者の中でも極めて先鋭かつ極少数派の立場に踏み込んでしまった事を認識しているのです。

 ここまで来ると、現場に入ろうともしない、多くのフィールドがあるにも拘わらず、自らの頭で考え現場を探ろうともしない堕落した自称九州王朝論者にしても何の価値もない記紀に惑わされた愚かな人々にしか見えず、哀れささえも感じている状態なのです。

 私達は一般には理解し難いような神代史観を受入れてしまった結果、それが圧倒的な少数派であることも承知した上で、これらを後世に継承する任務を認識しており、心ある九州王朝論者に訴えると共に、その拡散とデータの保管へのご協力をお願いしたいと考えています。現代版「経塚」ですね。

 今や普通の九州王朝論者にはその御努力、御研究にも拘わらず、実際には真実の一端にも辿り着いていないだろうことを思えば、哀れささえも感じるのですが、私達は驚愕の発見の連続で、どのように列島の開拓が始まったのか、多くの知られた神々(勿論実在の人物です)がどこに居住し、どのよう動き、以下に争い、如何に逃げたのか、彼らが何者だったのかが見えるのであって、このような世界を見せてくれた百嶋先生に対して今は感謝の気持ちしかありません。

 まさに現代版ダヴィンチ・コードですが、今後も謎解きを続けたいと考えているところです。

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本当にようやくですが、青森〜東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

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※ひぼろぎ逍遥に朝倉の豪雨災害など多くの人工林問題などを書いていた事もあり、アメブロはアクセス制限を掛けて来たようです。平均500600件のアクセスがあったものが300350件に落ちています。このため新ひぼろぎ逍遥を桜ブログで今年の11日からスタートさせ、神社専門のひぼろぎ逍遥(跡宮)版と併せ現在3本体制で運営しています。ひぼろぎ逍遥(跡宮)が日量1000件、ひぼろぎ+新ひぼろぎで400450件のアクセスとなり、年間アクセスが50万件を超えました。

本来、アメブロが不当なアクセス制限を掛けていなければ、両ブログだけで百万件を超えていたとも考えられますが、今後、新ひぼろぎ逍遥が徐々に成長し、五年後には百万件を達成したいと考えています。

まあ、一つの目標でしかありませんが、通説派と間の抜けた一部の九州王朝論者による俗説を正すためにも百嶋神社考古学グループは古代史の大嘘、神代史の大嘘を暴き続け、連携ブログを更に50まで増やし、大嘘つき共を懲らしめてやりたいものです。それにしてもよくもこれだけ優秀な方々が参集してくれたものです。村興し、町興し、世界遺産登録、邪馬台国シンポジウムなどに集る有象無象を蹴散らしましょう。


百嶋由一郎神代系譜、講演音声CD、手書きスキャニングDVDを必要とされる方は09062983254まで
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2019年07月30日

610 ヒョウカリイライ(馮河黎来)改訂版

610 ヒョウカリイライ(馮河黎来)改訂版

20180710


太宰府地名研究会 古川 清久


以前、ひぼろぎ逍遥152ヒョウカリイライ “福岡市西区 西浦(ニシノウラ)の白木神社”の「馮河黎来」を書きました。

本稿は余計な部分を削り、故)百嶋由一郎氏による手書き資料を加え再編集した改訂版とお考え下さい。

福岡市の西区、糸島半島の東側に唐泊という漁港があります。

これからの季節には近海で雑魚を取りイリコや鯛の干物を作るのでしょうが、玄界灘の懐奥の波静かな入江に白砂が延びる風景は、喧騒渦巻く博多や福岡とは全く異なる穏やかな面持ちを見せています。

この湾奥の小高い岬にも白木神社がありますが、半島の裏側にある神社が今回取り上げる白木神社です。

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そて、この神社の祭礼では「ヒョウカリイライ」という意味不明の掛け声が流れます。

なにやら八代の妙見宮の「オレーオレーティエライタオ」を彷彿とさせますが(ここも呉から頭領がやってきたと言っている…)、ここではこの「ヒョウカリイライ」についてお話しすることにします。


昔の名前は妙見さんだったようだ。 妙見社が鎮座していた所へ、金武地域が北2kmの飯盛神社の神領になったことことこと、五十猛尊がかぶさって祀られたものと推測できる。

尤も、妙見さんと五十猛は九州でつながっているように見える。妙見信仰は北斗七星を祀る信仰で仏教と結び妙見菩薩として祀られたが、これは新羅系渡来人がその信仰を持ち込んだとされる。そう言う意味では素盞嗚尊・五十猛尊も新羅に縁の深い神である。福岡市西区大字西浦妙見の白木神社はやはり五十猛尊を祭神としている。新羅神社が白木神社となったのだろう。熊本県八代市妙見町の八代神社(妙見宮)は白木山に鎮座している。

敬愛するHP「神奈備」より


毎年9月の第1土曜日に『ヒョウカリイライ』という漁祭りが執り行われます。
以前は11日まつりといって 毎年11日でしたが、このお祭りには子どもたちが活躍するので学校のお休みに合わせて第1土曜日になったそうです。

で、ヒョウカリイライっていう言葉はなぁに?と思いますよねー。
いろいろと尋ねてみたのですが、諸説あるようなので今回は北崎百年史で調べてみました。百年史には話言葉で書かれていて昔話みたいなので そのまま紹介しますね
……………………………………………………………………
「いわれは、江戸時代のことでっしょうな。西浦の鯛というたあ、そりゃあ有名じゃったらしいもんな。
ところが、鯛があんまりとれすぎて、今でいうたら豊漁貧乏ですたいなあ。
鯛の値がさがってしもうたげなもん。そこで困っとるとば聞かしゃった殿様が鯛の値段を決めてやらっしゃったげな。そこで殿様にお礼ばするとと、鯛がこれからもとれますごとお願いしたということじゃろうといわれとります。」
「ヒョウカリイライはどげな漢字ば書くとかようわかりませんばってん、『評価利鯛』ってかくとじゃなかろうかっていわれとります。」

 「北崎よかとこ隊 北崎校区自治協議会」 より


馮河黎来(ヒョウカリイライ、ヒョウガリイライ、ピンフォーリーライ)


その前に、現在は純粋な民俗学研究に移行された牛島稔大氏による「牛島稔太のHP」のサブ・サイトにこれに関連する事が書かれています。一部でをご紹介いたしますので、まずは、お読みになって下さい。


薦神社の神紋は、宇佐と違って三つ巴紋ではない。それは薦神社に置き土産をした人物がいる、この人は自称神武天皇(はつくにしらすすめらみこと)、後で贈祟神天皇となって記録された人物が薦神社に置き土産をしている。この人の紋章が『時計回り一つ巴』である。この祟神天皇の子供の一人、久留米の豊城入彦(元、田主丸の豊木におられた)、大分から移ってきた時にそこにいた。祟神が自分の息子のうちの一人を四道将軍として関東に派遣した茨城県の神住町、鹿島神宮(海幸彦)の武の神様があるところである。ところがこの系統は子孫が威張るという悪い癖がある。福岡地区でその威張るという例をみることができる、福岡市の海岸沿いの西の果て、西浦に白木神社があり、ご祭神は山幸彦であるが、山幸彦の奥様(伊勢の外宮様)の元の旦那である海幸彦が手離さないので、山幸彦は頭にきている。京都の伏見大社の構成は、本当は山幸彦のグループで本当の実力者は奥さんの伊勢の外宮様である。それを元のダンナが手離さない。ヒョウガリーライ、ピンホーリーライ(黎族のくそ野郎、来るなら来てみろ)、西浦の白木神社が一年に一回いまでもそのことを祭りでやっている。

海幸彦は中国大陸にいた頃は黎族といっていた5000年前、黎族の一部が通称、漢民族に追われて、3000年かかって追いこめられた場所が雲南省で、そこにシナ城(シナ族)を作った。そこも追われて、二つのグループにわかれ、一つは櫛田神社のグループの大半は紅河がながれベトナムのハノイに到着する。シナ城のグループはメコン河を利用して南ベトナムの方に流れ込んだ、そして、二つのグループとも海南島で態勢を整えて、日本に移住しようということを打ち合わせた。http://goo.gl/maps/2hr7p
日本にきて天草・苓北に上陸した。http://goo.gl/maps/Yxsyr

そこにしばらくとどまった。日本にきてからは黎族とはいわず耳族(彦山の天忍穂耳)とも称した、そして、阿蘇に移動した。そのころ日本には既に高木の大神系のたくは(た=古川による修正)ちじひめ、ヘブライ人が勢力をもっていた。高木の大神の一族は、日本の皇室と縁組をしていた。日本の怡土に住んで居られて中国の漢民族が派遣していた日本統治のための事務所が糸島にあった、そういう尊い方と縁組をしていたので高木の大神は威張るだけの力があった。その威張ったあとの面影がどこに残っているかというと、熊本荒尾の虚空蔵山、草部(かやべ:朝鮮半島の伽耶、糸島にもある伽耶)吉見神社、今は雲仙市になっているが、もとの地名は雲仙市ではなかった諫早にたいへんちかい有明海側のほう、ここに高木の一族の古い古い遺産が残っている。ここに高木の紋章と鍋島の紋章が合体した独特の紋章(つたの紋章)をみることができる。


「神社伝承から見る古代史」百嶋由一郎先生の世界 --- もう一つの神々の系譜 --- より


「馮河黎来」の意味はお分かりになったでしょうか?

正直申上げてあまり良い言葉ではなく罵声に近いもので、気を悪くされる方もおられるかも知れません。

ここには、雲南省から入ってきた阿蘇の一族(草部吉見)=鹿島=春日=海幸彦系と、半島から入ってきた「海幸山幸神話」の一方の雄、山幸彦系(新羅)=白木神社勢力の確執が反映されているのです。

その対立の理由は込み入った話になるため控えますが、その海幸側の神社がどこであるかを含め、「ひぼろぎ逍遥」と「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院で、説明しています(一例ですが以下などを…)。


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阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  I “肥後人は支那人だった!?”

33

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  支 那


ただ、概略だけを言うと、田川郡の香春神社の主神「辛国息長大姫大目命」(カラクニオキナガオオヒメオオメノミコト=支那ツ姫)=伊勢神宮外宮の豊受大神=伏見稲荷の神霊=御霊を前夫である海幸彦側が返さないことをなじっているのです。

この「馮河黎来」の黎の意味は、「黎族」(レイ、リー)を意味し、黎族の連中やってこい!と罵声を浴びせているという事を紹介しておくに留めておきます。

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中国海南省の観光地図


さて、「黎族」は、今も雲南省、貴州省から海南省(海南島)の南、東に住んでいます(海南省には保亭黎苗族自治県外多くの黎族の自治県があり「加茂」地名まで存在します)。

 ついでに申上げておきますが、鹿児島県の「喜入」「嘉例川」、天草の「苓北」…といった地名や鹿児島市、枕崎市に集中する「今給黎」(イマキュウレイ)姓、鹿児島市から大隅半島に集中する「喜入」(キイレ)姓などはその痕跡と考えています。

きっと、この方々の二千年以上前のご先祖様達は、海南島、雲南省にいたのでしょう。

この黎族は雲南省を起点に海路、鹿児島県の吹上浜、薩摩川内から不知火海、有明海沿岸に入っているようなのです。

詳しくはふれませんが、肥後人は元々雲南省麗江にいた多氏の一族=ビルマ・タイ系の人々元で、博多の櫛田神社の主祭神である大幡主を奉祭する一族(民族的には白族)は雲南省昆明にいたと考えています。 

実は、両派とも追われた中国人(大陸に住んでいた黎族と白族)なのですが、この西浦の人々も、多分、越族だろうとは思っていますが、如何なる人々だったかは、まだ見当が付きません。

白木神社(山幸彦)を奉祭する一族としても、そもそも海人族なのでしょうし、山幸彦の素性がまだ詳しくは分からないからです。

百嶋神社考古学では山幸彦は彦火々出見であり、通称「魏志倭人伝」に登場する伊都の長官爾支(ニキ)=ニギハヤヒなのですが、中国の江南から入ってきた海人族を征服し、従えた支配者とすれば、西浦の人々とは民族的に異なる可能性が高いからです。


参考 憑は、〔説文〕の注に…


速く走る、頼みにする、乗る、登る、怒る、不満、という意味がある。憑と通じて、恃む、乗ずる、依る、盛んな、と通じて、徒歩でを渡る、という意味がある。ネット上の「ニコニコ大百科」による

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以下は百嶋由一郎氏の手書きスキャニング・データです。百嶋神社考古学初期11230321

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋由一郎が残された音声CD、手書きスキャニング資料、神代系譜が必要な方は09062983254まで


 私も若いころ姪浜に十年程住んでいたこともあるのですが、故)百嶋由一郎氏は永らく唐人町にお住まいでしたので全ての事情がお分かりだったのだと思います。

 凡そ紀元前300年頃、八代もそうですが、支那(中国)大陸でも揚子江流域(上海はその頃存在しません海の底です)から多くの呉越の人々が九州西岸に入って来ています。

 この江南の黎族、白族(櫛田神社の大幡主はその首領なのです)によって列島の開拓が始まったのです。

そして、馮河黎来とは、白族系の人々が黎族(後の阿蘇氏)にこっちに来やがれ…やってやるから…とばかりに気勢を上げているという訳なのです。

その「馮河黎来」と罵られている相手方こそ、後の藤原の祖神である阿蘇高森の草部吉見神社のヒコヤイミミ=海幸彦=表面的な春日大社主神であり、実は伊勢神宮外宮の豊受大神の神霊を巡る争いなのです。

百嶋先生は、伊勢の外宮様は、草部吉見(海幸彦)とは三年添っておられますが、大幡主の配下である山幸彦=猿田彦=伊都の長官爾支(ニキ)=ニギハヤヒ=五十猛…とは60年添い遂げられている。とも言われていました。

お祭りの事であり罪はありません。ただ、この言葉には、そういう背景があるという事だけは伝えて頂きたいのです。

博多から唐津からも、多くの海人族が頻繁に中国大陸と行き来していたのです。

だからこそ、大伯(博)道路もあり、大濠公園は蘇州の西湖(水の蘇州の…)を模して造られているのです。

何故なら、櫛田神社の主神である大幡主(造化三神の一神であり=神産巣日神 神皇産霊尊 神魂命とされる)は、神武天皇の流れ(呉の太伯の後裔=列島大卒)を支える陰の実力者であり、山幸彦=猿田彦=ニキ…を指揮する最高神だったからなのです。


参考

馮河

徒歩で黄河を渡ること。無謀なことを行うたとえ。→暴虎馮河(ぼうこひょうが)デジタル大辞泉)


〔歩いて黄河を渡る意〕むこうみずで危険な行動のたとえ。ひょうか。→ 暴虎ぼうこ馮河


馮河・憑河【ひょうが】とは中国の大きな川である黄河を徒歩で渡ること。黄河を歩いて渡ること。転じて、むこう無題.pngみずで危険な行動、無謀な勇気のたとえ。「馮・憑」は訓読みで「かちわた(る)」と読める。「徒歩渡る(かちわたる)」は「徒歩で川を渡る」という意味。 無題.png       


リー族 黎

黎族(リー族)は中国の少数民族のひとつ。その約90%以上が海南島に住む。

現在は人口124.8万。黎語を話し、1957年に黎語ラテン文字化方案が考案された。古くより漢族との交流があり、中国語に通ずる者も多い。

百越の分枝駱越(中国語版)が秦・漢以前の時代に移住したことに始まるという。同じく駱越に起源を持つ民族に水族がある。

無題.png民族としての自称は賽、孝、岐、美孚、本地など。11世紀宋の時代より史書にその名が見えるといい、紡織に秀でていたとされる。その技術は「黎錦」と呼ばれ、現在も伝えられているという。

数多ある少数民族の中でも政府から比較的厚遇を与えられているとされるが、それは国共内戦中に中国共産党に味方したためという。なお日中戦争時には日本軍の支配下に置かれた。

                                  20180725 1117による

この黎族は阿蘇氏のルーツであり、元々は中原に展開した古代の主要民族九黎族(多氏、支那氏、耳族、宇治氏…)の一派でしたが(ミャオ族も同様)、漢族他との戦いに敗れ雲南省から海南島を経由し列島に逃げてきた日本人のルーツの一つだったと考えるのです。

これで、「馮河黎来」の意味は大体お分かりではないでしょうか?

要は、“黎族(阿蘇氏)の野郎やってきやがれこの馬鹿野郎どもめ!…”程度の罵倒なのです。

博多に大陸から、半島から多くの民族が入って来ている事、そして、神社の神事に絡んでくるほどの大族になっていること、つまり、倭人、日本人の形成に関係している事がお分かり頂けるのではないでしょうか?

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記