2019年07月09日

604 西原村復興のための「聖徳太子研究会」@〜Cに向けて “宇土の八兵衛の逃亡ルート”

604 西原村復興のための「聖徳太子研究会」@〜Cに向けて “宇土の八兵衛の逃亡ルート”

20180803

太宰府地名研究会 古川 清久


無題.png宇土の八兵衛の逃亡ルート

熊本地震でも最も大きな被害が出たのが熊本市の南部の益城町から西原村ですが、今回は400年ほど前にこの一帯で起こった悲しい事件をご紹介したいと思います。

本稿は7年ほど前に書いたものを一部再編集し公開するものです。


西原村鳥子三之宮神社熊本の大津から阿蘇に向かう大渋滞のバイパスをルート避け、白川沿いに立野を目指します。大津の森、吹田(フケダ)辺りに来ると、対岸に鳥子という変わった名の集落に遭遇します。ここにあるのが鳥子三之宮神社です。


時代は江戸初期の島原の乱(一六三七〜年)前後辺りまで降ります。

以前、口之津の歴史民俗資料館の館長であった原田健夫氏から“「島原の乱」直前に阿蘇山中で捕まった口之津の「八兵衛」について“という小論を知り”この小論に登場する「とりのこの様」が、私(古川)の手持ち資料に書いた鳥子神社と関係があるのではないか“というお尋ねを頂きました。

もちろん八兵衛の出身地が肥後の宇土であり、その逃亡ルートも熊本から阿蘇に向かうものであったことからでした。この話自体は、「世界遺産登録シンポジウム」(2011)の席上において、九州大学大学院の服部英雄教授(当時)が“口之津の八兵衛”についてふれられたことから、原田先生がその根拠、出典を尋ねられ、『史料で綴る天草島原の乱』(全文を後段に掲載)に辿りつかれたものです。

内容は極めて単純で、キリシタンとされたか、本当のキリシタンであったか、一応は真宗門徒に転んだとされる(する)宇土出身の元キリシタンであった八兵衛さんが、逃亡の末に阿蘇の入口で捕縛され、直ちに処刑されたというだけのものです。ただ、この逃亡ルートに登場する“とりのこの様”がどこの何者かというお尋ねが含まれていたのです。


原田館長(口之津歴史民俗資料館)による書下文


元々は鶴田倉造氏の編集による「原資料で綴る天草島原の乱」本渡市発行(平成六年イナガキ印刷)という資料があるのですが、ここでは原田館長による口語訳の略文をご紹介します。


八兵衛は肥後宇土の生まれで,40年前に口之津にいた。その後,度々口之津に商いのために行った。

尋問を受けたこの年の10月初旬には「口之津水籠事件」が起り,「島原の乱」の発端となるが,通行人の取締りも厳しくなり,謀反人の詮索が始まった。

各地に手が延び,八兵衛は肥後国内で野宿をせざるを得なくなった。彼は24年前まではキリシタンだったが,1614年に真宗門徒になった。

取調べの中で,どうやら懐中に「肥後惣中様」と書かれた書状の包み紙を所持していたらしく,そのことを詰問され弁明に務めていることがわかる。尋問の結果,どうなったか。以下の文書で確認してみる。


以下は地名研究に関係のある逃亡ルートについて取上げます。


三日の夜、とりのこの様ニ参候


三日の夜には“とりのこの様”に参じそうろう…原文は掲載のとおりですが、八兵衛は宇土郡の大田(?)の出身で島原と熊本の間で商売をしていたようです。それが口之津水籠事件に関係したものか、ただの濡れ衣だったのかは置くとして、なぜか逃亡する羽目になり、最後は阿蘇南郷谷の入口の久木野町辺りで捕縛され直ちに処刑されるのですが、ここで取上げるのはそのルートと地名です。

まず、八兵衛は宇土郡の大田の出身とされていますが、宇土半島の北岸にあり“オウダ”と読む宇土市の網田以外に思い付くものがありません。問題は“とりのこの様に参候”です。熊本空港の東に西原村鳥子(トリコ)があります。トルコと呼ぶとも聞きますが、ここでは、一応、「トリコ」としておきます。

“とりのこ”と“とりこ”と、多少、異なるようですが、これは、熊本の地名に明るい方ならば比較的簡単な話のように思います。


この資料に登場する地名を略載すれば下記のとおりです。

二九日  川尻          鉄道唱歌にも登場する熊本の次の駅がある町

熊庄          城南町 隅庄か?        

宇土の山々に野宿         宇土の意味は宇土郡と思われ岩古曽から豊野辺か

晦日   矢部に野宿       通潤橋の矢部の手前か?御船から入った辺りか

朔日   長六橋         焼餅を買う 国道三号線はこの橋で白川を渡る

その夜  木山 原に伏す     白川左岸 木山町

     戸島 原に伏す     白川左岸 戸島町

三日   山、西の原       阿蘇郡西原村

三日夜  とりのこの様に参候   阿蘇郡西原村鳥子

四日の朝 捕縛          阿蘇郡久木野村か?


従って、『史料で綴る天草島原の乱』は、鳥子が“とりのこ”と呼ばれ、そこの長老と思しき者が“とりのこの様“と呼ばれていたこと書き留めたのであり、さらに、八兵衛がここを頼って逃亡したことが推測できるように思えます。ここでは、“とりのこの様”の意味が一応確認できたのではないかと思います    (なお、行政名は旧来のもの)。


それは、宇土、熊本、植木近辺にはこの手の、間に”の“が入る地名が他の地域に比べて異常に多いのです。大字単位で見ても、まず、白川を渡る大津町には引水(ひきのみず)が、八兵衛の出身地である宇土市には、弧江(こものえ)、硴江(かきのえ)、西田尻(にしたのしり)、宮庄(みやのしょう)が、宇土市の南には旧町名でさえあった宮原(みやのはら)が、同じく北の富合町には田尻(たのしり)、南田尻(みなみたのしり)、廻江(まいのえ)、城南町の丹生宮(にゅうのみや)、隅庄(くまのしょう:文中の熊庄と関係があるかも知れません)、舞原(まいのはら)が、熊本市の水前寺の南に田井島(たいのしま)、金峰山の南に池上町(いけのうえまち)、北熊本の八景水谷(はけのみや)、が、菊池郡合志町に上庄(かみのしょう)、福本(ふくのもと)が、鹿本郡鹿央町の梅木谷(うめのきだに)、中浦(ちゅうのうら)、玉名市の東玉東町の木葉(このは)、上木葉(かみこのは)…もう、これぐらいにしておきましょう。


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残りの地名はご自分でご確認ください。

『史料で綴る天草島原の乱』は、鳥子が“とりのこ”と呼ばれ、そこの長老と思しき者が“とりのこの様“と呼ばれていたこと書き留めたのであり、さらに、八兵衛がここを頼って逃亡したことが推測できるように思えます。ここでは、“とりのこの様”の意味が一応確認できたのではないかと思います。 (なお、行政名は旧来のもの)

話は変わりますが、この地名を考える時、何か言いようのない戦慄を抱くのは私だけでしょうか?

古代史に関する興味から対岸の大津町吹田、森の集落に入ったことがあります。

被差別部落成立の起源について論じるとなると全面展開になりますのでもちろんやりませんが、ここでは極めて簡略化したモデルを提出しておく事にします。

一般的には秀吉の太閤検地(刀狩)以来、主要には幕藩体制の下での士農工商という階級差別の維持固定化のために部落を温存し助長したことが今日まで残る未解放部落の起源とするものがあたかも正しい説のように語られます。しかし、これは明治の維新政府が幕藩体制(アンシャンレジーム)を悪しきものとして描きたかったがために、主として御用学者によって主張されたものであって、これもある種歴史の隠蔽偽造のために意図的に持ち込まれたまやかしであったはずなのです(秀吉が猿と蔑まれ貶められたのも、徳川が豊臣の復活を恐れたためなのですが、・・・)。

真の古代像を浮かび上がらせんとするには、さらに感性のアンテナを高く上げる必要があるような気がします。まず、沖縄、北海道は当然として、僅かな例外はあるものの基本的に北関東以北には被差別部落が存在しない事に気付かれると思います(早稲田大学作成地図参照)。

それは、戦争捕虜であったか奴隷であったかを問わず、均質な民族性に差別が生じ難いことは言うまでもありません。

俘囚が異なる民族の中に少数派として持ち込まれていたからこそ、言葉や生活習慣の違いから差別が生じ永続化したのであって、東国の奴隷を東国に置いていては差別どころか、叛乱が繰り返されることにしかならなかったのです。

無題.pngこの問題については、一九九三年に公刊された部落史研究者の高木 力氏による『部落の源流』(千二百年の悲愁)彩流社に詳しいのですが、大和朝廷(天皇家)の東国平定(侵略)によって発生した(直接に奴隷を獲得するためとする説もありますが)俘囚の移配にこそ、その起源を求めるべきであると考えます。

簡略化すれば、士農工商の上には公家(貴族)があり、最高位として天皇家が居たのであり(御用学者これに触れません)、逆にその下には、大和朝廷(もしかしたらそれに先行する古代王権によって)=天皇家によって貶められた被差別民があったのであり、極論すれば天皇家が被差別民を創りだしたとさえ言えるかも知れないのです。

その後、朝廷の下僕として積極的に奉仕した一部の俘囚は地方権力の一部となった者、金属精錬、金属加工などで財をなす者などがあったはずで、後代には徐々に様相が変わっていったものと想像できます。このため、単純に俘囚集落が直接的に今日の被差別部落であると主張するものではないということも併せて申し上げておきます。            鶴田倉造氏編集「原資料で綴る天草島原の乱」による

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簡略化すれば、鳥子とはヤタガラスの後裔氏族であり、神武天皇に協力した製鉄集団の関係者の集落を思わせるものでした。それ自体には問題はありませんので、私信ながらその一部をご紹介致します。


鳥子(鷲子)の詳細は、超極秘になって居りますが、是非知りたい…の方には、許せる範囲の事をお知らせして居ります。鳥子(トリノコ)はお二人居られますが、阿蘇家が大騒ぎ(列島をあげての大騒ぎでした)をした鳥子は、天日鷲・鳥子大神の方です。

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 お役に立つかもしれない資料を少しおおくり致します。モモシマ 拝 (昭2生)

戦前の皇紀年表の皇紀79年の所を、手研耳を誅す。と記されて居ります。出版は遠慮致して居ります。

810-0063 福岡市中央区唐人町3丁目315号 百嶋 由一郎 п@092-712-2856


恐らく、百嶋先生との接触のきっかけとなったのは、拙稿「鳥子」を八代の郷土史家にお渡したからだと思います。百嶋さんのお話の前に私の「鳥子」をご紹介いたします。以下同封メモより

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秘密を守るために外部との通婚も禁止されていた可能性もあるでしょう。城山鉱山跡もありますが…。

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平安時代に使われていた古代の製鉄所跡。写真のように原形をとどめているのは全国でも例が少なく大変珍しい。「熊本県指定文化財」熊本県内に50ヶ所程古代の製鉄所跡が確認されているが、その内の10ヶ所は玉東町で確認されている。

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百嶋由一郎鳥子神代系譜


百嶋神社由一郎氏の神代系譜、音声CD、手書きスキャニングDVDを必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2019年07月10日

ビアヘロ088 つれづれ旅日記(のようなもの)が新たにグループに加わります

ビアヘロ088 つれづれ旅日記(のようなもの)が新たにグループに加わります

20190530

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 埼玉県在住者のつれづれ旅日記(のようなもの)氏が来訪されたのは51718日頃だったと思いますが、当研修所においでいただき、まずは、当研修所の源泉掛け流しの温泉で戦長旅の疲れを取って頂きました。

その後、19日の太宰府地名研究会の月例トレッキングに参加して下さいましたが、22日には熊本の西原村での伊藤まさこ女史の勉強会もあったことから、そちらにもおいで頂き、その勢いで、阿蘇高森町の草部吉見神社、現在非常に重要と考えている熊本県山都町の高畑歳禰神社、宮崎県五ヶ瀬町の祇園神社(蘇民将来伝承の源流地)を見て頂き、鹿児島県薩摩川内市の新田神社、道真が落ち延びた(太宰府で客死していない)藤川天神、ニニギと別れたコノハナノサクヤが移住した鹿児島県霧島市(旧溝辺町)の前玉神社(埼玉県の埼玉古墳群+埼玉神社の元宮)などをご案内させて頂いた後、独行で久留米の高良大社〜吉野ケ里遺跡〜糸島半島…から雲仙、天草を経て、再度、鹿児島から種子島遠征まで目一杯の九州のフィールド・ワークを行っておられる様です。

ここに、同氏のblog「つれづれ旅日記(のようなもの)」を新たにご紹介すると共に、埼玉周辺と言わず北関東から甲信越に掛けての神社調査を行って頂けるのではないかと考えています。

百嶋神社考古学に関心を寄せる関東メンバーは既に二桁に近づいており、ブロガーも4つから5つに増える事になり、神代史研究の新たな拠点が加わる事になっているのです。

現在、当方と連絡を取っている神社探訪者は関東近辺で10人を超えており、連携が深まれば事実上の関東ビューローが形成されさらに大きな研究体制が出来ていくのではないかと思います。

既に埼玉を出発し、一ケ月近く車中泊を続けながら全国行脚をされているのですが、長年古田武彦ほかの九州王朝系論者の本を読んでこられており、なおかつ百嶋神社考古学にまで踏み込んでおられるだけに理解力は早く、説明に苦労がありません。その探求心と行動力には驚かされます。

埼玉県から姫路を経由し九州に来るだけでも大変ですので、その情念と言うか自由と真実を掴もうとする意欲には敬意を表したいと思います。

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では、同氏のブログを転載しご紹介します。今後とも宜しく。


#060 本日のつれづれは…福岡市神社トレッキング1

イヤハヤ…

以前から連絡をつけていた太宰府地名研究会の古川清久氏のご紹介で、福岡市街の神社トレッキングにムリヤリ同道させていただきました。

まず一社目は春日市伯玄町にある伯玄社(はくげんしゃ)です。ここは小さなお社のみの神社です。

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これがそのお社です。

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中には子供が書いたような(失礼)説明板が…

祭神は大己彦(おおなびこ)命、伯玄明王、えびす天、大黒天。伯玄明王は地元では「はっけんどん」と呼ばれ、気は優しくて力持ちなキャラクターとされているようです。

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周辺では住居・墓も発掘されていますが、近所で有名な須玖岡本遺跡よりもランクが落ちる()ような内容だったらしいです。

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これはお社の後ろにある祠です。

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すり減ってよく読めないのですが大己彦神と彫られているそうです。


古川氏主催の今回の神社トレッキングは無作為に神社を歩くものではなく、「ある学説」に基づいて1つ1つの神社を検証する内容になっています。

この伯玄社のテーマは大己彦です。大己彦は、私がこれまで巡ってきた神社でも祭られているところの多い大国主命の幼名なのです。大国主命は日本神話の超メジャー級キャラクターです。

普通、「大国主命は出雲(島根県)が本拠地で、天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に出雲を明け渡した(国譲り神話)」と考えられています。

古川氏をはじめ、今回のトレッキングに参加した方々は通説とは異なる学説に準拠し古代の真の姿を探求されています。

その学説こそが「九州王朝説」なのです。

これは故・古田武彦氏がかつて著作を通じて提唱したものですが、古川氏らは地元九州の神社調査を通じて九州王朝説を補完・検証されているのです。

さて話を伯玄社に戻しましょう。なぜ伯玄社が注目に値するのか。

それは大国主命の国づくりエピソードに出てくる少彦名(すくなびこな)についての仮説です。

日本神話の中で少彦名は大己彦(大国主命)の国づくりを手伝うためにやってきて、特に何かをやったということもなく帰ってゆく神様です。

この描かれ方では少彦名がどんな神様なのか、何のためにやってきたのかサッパリ分かりません。

それを説明する仮説を古川氏はこう提唱されています。

「伯玄社と須玖岡本遺跡は近い位置関係にある。須玖岡本遺跡の須玖という地名に注目し、少彦名という人名との類似を考えると、少彦名=すくなびこな=須玖の彦と想定できる。大己彦の祭られる伯玄社と須玖岡本遺跡の近さから考えて、大己彦と少彦名が友好関係にあり、少彦名が大己彦の事業を手助けした…ということを日本神話は描いたのではないか」

もしそうだとすると福岡の街中の比較的限られたエリアで大己彦と少彦名が関わっていたこととなり、現在の出雲大社のある出雲がここには全く出てこないことになってしまいますが…

さぁ、皆さんはどう感じられましたか?トレッキングは続きます。   同氏のブログは以上です。


私の名前が出ましたので多少コメントを加えますが、この白玄社は百嶋由一郎氏が「大国主の幼名である大己彦=オオナビコとして祀られている神社である」「大国主を出雲の人と皆さんお考えになっておられるが古代の出雲とは大幡主の領域を意味しており全国に出雲があった…」「少彦名命をスクナヒコナと読まされているから解らないが、スクノヒコノミコトと読みなさいそうすると意味が分かりますよ」…と言われていました。「ソコナオナゴ」は「ソコノオナゴ」ですよね。何でも無い事なのです。

大国主の命の幼少期を祀る神社が在ること自体が、大国主は九州の人だった事を暗示しており、直ぐ傍に有名な須久岡本遺跡がある事と併せ考えれば、少彦名命とも遊び仲間ぐらいの関係であった事が想像できるのです。出雲は国譲りを受けた移動した先で、現出雲は藤原が後に創ったテーマ・パークなのです。

 この神社については、初期のひぼろぎ逍遥(跡宮)で取り上げています。


なお、「古川氏主催の今回の神社トレッキング」と書かれていますが、当方は只の世話役でしかありませ。会員会費制も採らず、あくまで研究者、探究者の連合体の調整機関の役割以上のものではありません。

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本当にようやくですが、青森〜東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

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※ひぼろぎ逍遥に朝倉の豪雨災害など多くの人工林問題などを書いていた事もあり、アメブロはアクセス制限を掛けて来たようです。最低でも平均500600件のアクセスがあったものが300350件からそれ以下に落ちています。

このため新ひぼろぎ逍遥を桜ブログで今年の11日からスタートさせ、神社専門のひぼろぎ逍遥(跡宮)版と併せ現在3本体制で運営しています。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)が日量1000件、ひぼろぎ+新ひぼろぎで400450件のアクセスとなり、年間アクセスが50万件を超えました。

本来、アメブロが不当なアクセス制限を掛けていなければ、両ブログだけで百万件を超えていたとも考えられますが(旧ひぼろぎ逍遥は日量2000件のアクセスを記録した事もあったのです)、今後、新ひぼろぎ逍遥が徐々に成長し、五年後をめどに年間アクセス百万件を達成したいと考えています。

まあ、一つの目標でしかありませんが、通説派と間の抜けた一部の九州王朝論者による俗説を正すためにも百嶋神社考古学グループは古代史の大嘘、神代史の大嘘を暴き続け、連携ブログを更に50まで増やし、大嘘つき共を懲らしめてやりたいものです。

それにしてもよくもこれだけ優秀な方々が参集してくれたものです。村興し、町興し、世界遺産登録、邪馬台国シンポジウムなどに集る有象無象を蹴散らしましょう。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2019年07月12日

605 古代史から離脱し神代史(本当の古代史)へ移行しよう @

605 古代史から離脱し神代史(本当の古代史)へ移行しよう @

20180803

太宰府地名研究会 古川 清久

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冒頭から通常は表に出さない神代系譜(百嶋由一郎047サニワ神代系譜)を登場させましたが、この系譜がかなり重要なのです。

今回は、この系譜に登場する神々の概略を述べながら列島の古代を考えて見ましょう。

これは、阿蘇氏系譜でもなくヤタガラス系譜でもなく高木大神系譜でもなく大山祗系譜でもなく、百嶋由一郎氏がいうところのイスラエル系の金山彦の系譜なのです。

この(本物の神武天皇の)時代九州王朝の中心である呉の太伯の後裔(つまり周王朝の後裔)を支えたのは金山彦=秦の始皇帝(諱: 嬴政 彼もイスラエル系)と姻戚関係を結んだイスラエル系の製鉄神でした。

しかし、この金山彦も多くの民族と姻戚関係を結ぶ事によって、徐々に倭国と言う初期の列島国家が成立していったことが見えてくるのです。

ただ、次には熊襲の指導者である大山祗の子の大国主系との確執が始まるのです(倭国大乱です)。

まず、阿蘇氏を考える上で重要な郡浦神社を訪れてはいかがでしょう?


@  蒲池姫と名を変えた吾平津姫(アイラツヒメ)つまり阿蘇氏の母神を祀る郡浦神社(宇城市)

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郡浦神社 カーナ検索 熊本県宇城市三角町郡浦2666  0964-54-0952



阿蘇神社(阿蘇市)、健軍神社(熊本市)、甲佐神社(甲佐町)と共に阿蘇四社ともいわれますが、草部吉見神社、国造神社(北宮)、小国両神社を別にしてどのような意味があるか分からないため考えるほどの事はないでしょう。

多少の意味があるとすれば、参道が雲仙普賢岳に真っ直ぐ延びる健軍神社、クマカブトアラカシヒコこと大山咋(オオヤマクイ)を主神とする甲佐神社と併せ考えると、有明海を挟み、高木大神の本拠地(四面神社)でもある雲仙岳(旧高来郡は高木大神の領域)の支配下にあった事が見えて来るのです。

特に重要なのは、石川県七尾市のクマカブトアラカシヒコ神社です。この神社は草部吉見と市杵島姫の間に産れた大山咋を祀る七尾に展開した甲佐神社であり、甲佐の熊本(クマ)の甲(カブト)佐(アラカジ)=阿羅伽耶国への舵取りの意味がこの神社の名に表現されているのです。

緑川の溯上限界の甲佐神社から船で有明海に出て対馬海流に乗れば半島には容易く移動でき、高木大神の本拠地であった朝鮮半島の大邱(テグ)に移動できたのです。

復路も一旦は半島から敦賀、七尾に移動し、日本海を反転流に乗って九州まで戻っていたと考えられるのです。

そして、大山咋=速瓶玉(ハヤミカタマ)の子の後の神武僭称ハツクニ神武の名を思い出してください。

「ツヌガノアラシト」ですね、要するに、「ツヌガ」(R音実はL音が苦手な日本人はN音で代行しツノガと呼んでいるのでしょう)にやってくる「アラ」(阿羅伽耶国)の「シト」人(江戸っ子同様「ヒ」と「シ」の発音が怪しいのです)という意味になるのです。

このように、高木大神の本拠地である島原半島から朝鮮半島の伽耶との関係が色濃く見えるのが、健軍神社、甲佐神社、郡浦神社なのです。

従って、高木大神系の海上交通を司った三神社はそれだけで深いつながりがあると見えてくるのです。

崇神の弟の椎根津彦も舵取りの意味で、神武東征とされる偽神武崇神の舵取りとして知られるのです。

ひぼろぎ逍遥から

183神武天皇の正妃アイラツヒメ(蒲池姫)を祀る神社 “郡浦神社(熊本県宇城市三角町)”

285 北北東に進路を取れ! D 石川県七尾市のクマカブトアラカシヒコ神社  をお読み下さい。


@  杉山姫と雨宮姫

まず、川崎市〜町田市辺りの地図をご覧ください。グーグルで単に「杉山神社」を検索しただけですが、

これほどの数の杉山神社が表示されました。

 この武蔵の一角に阿蘇系氏族が大量に入っている事がお分かり頂けると思います。

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杉山神社(すぎやまじんじゃ)は、主に五十猛神スサノオの子)や日本武尊主祭神とする神社である。武蔵国における式内社の一社とされるが、その論社とされる神社は現在の神奈川県横浜市を中心に川崎市東京都町田市稲城市などに数十社存在する。 本項では上記以外の杉山神社についても一部触れる。

杉山神社は周辺地域に住む民衆の信仰の中心として鶴見川水系沿いを中心に拡大したとされるが、謎の多い神社である。鶴見川の他に帷子川および大岡川水系、多摩川の右岸(川崎市・稲城市)に存在するが、多摩川を超えた領域には存在しない。江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』では杉山神社が全部で72社あると記されているが、その後の合祀や社名変更などにより現状で宗教法人登録されている「杉山」(椙山も含む)が付く神社の合計は44社となっている。

平安時代の貞観11年(869年)に編纂された『続日本後紀』では「枌山神社」と記述される古社で、同書では当社が承和5年 (838年)2月に官弊を賜り、また承和15年(848年)5月には従五位下を授かった旨が記されている。さらに延長5年(927年)に編纂された『延喜式神名帳』では「武蔵国都筑郡唯一の式内社」との記載もされている。しかしその本社は比定されておらず、未だ多くの論社が存在する。なお、論社のうち現在では横浜市(緑区西八朔町、都筑区中川および茅ケ崎中央、港北区新吉田町)にある4社が最有力とされている。

「鶴見神社 (横浜市)#杉山神社と鶴見神社」も参照

名称の由来については、杉山に祀られていたという説や樹木の神である五十猛命と杉林に因むという説、船舶材として使用されていた杉の木に因むという説など諸説ある。また当社の由緒についても不明な点が多いが、出雲民族の末裔(五十猛命)が紀州熊野より海人族を引き連れて伊豆半島や三浦半島に辿り着き、後者を経由して鶴見川水系に住み着いた一族の頭領が杉山神社を創建したという説がある。なお、三浦半島の三浦郡葉山町上山口には旧相模国で唯一の杉山神社があり、さらに同神社の「元宮」と呼ばれる社も周辺の山中に鎮座しているが、旧武蔵国における杉山神社との関係は不明である。この他、茅ケ崎中央の杉山神社に伝わる由緒では「天武天皇白鳳3年、安房神社神主の忌部勝麻呂(紀州系忌部氏)によって武蔵国の杉山の岡に高御座巣日太命(高御産日命)・天日和志命(天日鷲命)・由布津主命(阿八別彦命)の3柱が祀られ、同氏の麻穀栽培地開墾の拡大とともに神社も広まった」とされている

ウィキペディア(20180803 1045による

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藤原氏の祖であり鹿島大神=武甕槌 春日大社の表向きの祭神である、阿蘇高森の草部吉見神と高木大神との間に産れた天豊ツ姫(神武の子である威徳天皇のお妃)を経て阿蘇津姫に復し、天比理刀A寒川姫、杉山姫と名を変え最期に杉山姫と呼ばれたのです。

ウィキペディアの 杉山に祀られていたという説や樹木の神である五十猛命と杉林に因むという説、船舶材として使用されていた杉の木に因むという説など諸説ある。は、お笑いで済みますが、杉山神社に伝わる由緒では「天武天皇白鳳3年、安房神社神主の忌部勝麻呂(紀州系忌部氏)によって武蔵国の杉山の岡に高御座巣日太命(高御産日命)・天日和志命(天日鷲命)・由布津主命(阿八別彦命)の3柱が祀られ、同氏の麻穀栽培地開墾の拡大とともに神社も広まった」とされているについては無視できません。

最初に掲げた百嶋由一郎氏が残された神代系譜をご覧ください。その黄枠の部分と通底するのです。

阿波の忌部こそヤタガラスの後裔氏族ですが、問題の多かった(威徳天皇のお妃や健磐龍のお妃煮もなるのですが収まらず…里に帰っているようなのです)阿蘇津姫は草部吉見が最終的に豊玉彦=ヤタガラスに引き受けてくれる形で収まったと言われているのです。

しかし、健磐龍と天豊ツ姫の間に産れた孝霊天皇の後裔である孝元、開化である事を考えれば、阿蘇氏の血もこの杉山姫を経由し九州王朝にも注がれている事も分かるのです。

この杉山姫の娘が雨宮姫なのですが、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から、関心をお持ちなら以下などをお読み下さい。            233 人吉盆地の雨宮神社(熊本県相良村)再訪 “悲劇の雨宮姫”

なお、最終的に杉山姫を引き受けた豊玉彦との間に天日鷲の一族も産れているのです。

この一族こそは阿波国を開拓した阿波の忌部の中心勢力であり、伊勢を経て相模、武蔵に展開しているのかも知れません。これについては山梨からの陸路も考えていますが今後の課題です。


百嶋神社由一郎氏の神代系譜、音声CD、手書きスキャニングDVDを必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記