2019年07月01日

601 出羽から陸奥への道 番外 “真室川音頭の真室川についての妄想”

601 出羽から陸奥への道 番外 “真室川音頭の真室川についての妄想”

20180705

太宰府地名研究会 古川 清久


 東北遠征の帰路、図らずも真室川駅を通過しました。金山町がありますし、まず、鉱山の匂いがします。

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山形県最上郡真室川町大字新町 東日本旅客鉄道奥羽本線の駅


 思考の貧困からか?「真室川」と言えば「真室川音頭」しか頭に浮かんで来ません。


私しゃ真室川の 梅の花 コーオリャ あなたまた このまちの鶯よ 花の咲くのを 待ちかねて コーオリャ 蕾のうちから 通って来る 蕾のうちから 通っては見たが コーオリャ ひらかぬ 花とて気がもめる 早く時節が 来たならば コーオリャ 一枝ぐらいは折ってみたい 夢を見た夢を見た 夢を見た コーオリャ あなたと添うとこ 夢を見た 三三九度の盃を コーオリャ いただくところで目がさめた 真室川よいとこ 新庄を受けて コーオリャ 娘また美人で 唄どころ  のぼりくだりに ちょいと足とめて コーオリャ 聞いてまたお帰りこの音頭 裏からまわれば 垣根コあるし コーオリャ

表からまわれば 犬吠える なくな騒ぐな泥棒じゃないよ コーオリャ この家娘さんにちょいと用がある 

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真室川音頭(まむろがわおんど)は、山形県最北部に位置する真室川町民謡である。戦後レコード化された。 現在でも町の各行事で歌われ、同町では真室川音頭の全国大会も毎年開催されている。


 三橋道也の真室川音頭はともかく殿様キングスまで多くの楽曲がありますので、皆さんのお好みでユーチューブででも検索されればと思います。

 では、ここからが本題です。

と、言っても息抜きのつもりで書いていますので、あまり真顔で考えて頂く必要はありません。

テーマは、「真室」(マムロ)とは何か?つまり、真室川の「真室」とは何かについての考察です。

 勿論、地元に精通している訳でもなく、ただの通りすがりの異邦の者が勝手に言っているだけの話と理解されても結構なのですが、思い付きだけでも書き留めておこうと考えただけの話です。

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真室川音頭とは 明治のころ,北海道を中心に盛んに歌われていた「ナット節」が,大正末期頃から本州の漁港でも 歌われるようになりました。真室川町出身の近間ナカエさん(故人)が昭和二年ごろから宮城県女川 の料亭で働いていた時,常連客の漁師から「ナット節」を習い覚え,その後真室川にもどり働いた 料亭「山水」で,これを元祖とし創作を加え歌った曲が「山水小唄」と呼ばれ,これが「真室川音 頭」の始まりとなったと言われています。

 当時の真室川は,真室鉱山(金・銀鉱山)や軍用飛行場建設に携わる労働者・兵隊でにぎわい, 山水小唄は料亭などの同業者や労働者・兵隊により歌い広められました。戦後,これらの労働者や 兵隊が,郷里や全国津々浦々に移り住んだことが全国的に「真室川音頭」が広まるきっかけとなり ました。更に,昭和二十年代には原曲やアレンジ曲が度々レコード化され,時に林伊佐緒による 「真室川ブギ」がヒットし一躍全国に「真室川」の名が広まりました。

 昭和二十七年には町が広く歌詞を募集し,数十点の応募作品の中から選び出されたものが正調「真室川音頭」です。

 現在も全国で愛唱されている代表的な民謡のひとつであり,毎年県内外から多くの参加者を集め「真室川音頭全国大会」が開催されています。

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◆安久土橋(真室川)

無題.png 今回の「やまがた橋物語」シリーズは「金山川」にスポットを当てる。神室山系を水源とし、金山町を抜け、真室川町の中心部で真室川と合流する全長二一・八キロに架かる主な十三の橋を下流から紹介する。

 真室川との合流点から約三百メートルほど上流に「安久土(あくど)橋」が架かる。一九五四(昭和二十九)年六月に完成した全長八十六メートルのこの橋は、秋田県境と隣接する及位地区へとつながり、国道13号の迂回(うかい)路でもある主要地方道真室川鮭川線の一部として、町民だけでなく県外ナンバーの大型トラックも多く利用する。

 現在の橋は三代目だ。近くの杉原実さん(74)によると、初代の橋は木製で大正時代初期に今よりも三十メートルほど上流に架けられた。町内にあった真室鉱山が興隆を誇り、軍用飛行場建設が進んでいた昭和初期には、橋から真室川駅周辺に十数軒の飲食店が集中。橋のたもとには真室川音頭発祥の場所と言われる料亭「山水」もあり、橋は行き交う労働者らでにぎわった。

無題.pngやまがた橋物語 金山川編[1]による


 よそ者の勝手な想像ですから、誤りは直ぐに受け入れるつもりですが、真室鉱山が真室川や金山川と関係がある地名であろうことは疑いようがありません。問題は「真室」です。

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真室川は真室川町の中心部から北東方向に延び金倉山の裾野辺りから端を発していますが、最奥部の中ノ股地区辺りは山に囲まれた狭い小平野といった地形になっています。

まず、真は間であるでしょうし、室は閉鎖空間の意味でしょうから、それだけでも「真室」という地名の根拠と言えそうです。

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もう一つの考え方は、元々、古い時代からの鉱山がありそれ自体が「真室」と呼ばれていた。

 鉱山として造られた小さな「金室」(カネムロ)が存在しそれが「真室」と呼ばれた可能性です。

 西日本でも、山陰の鉱山では、「金室」は「間歩」(マブ)と呼ばれます。

 私は、以前から、この「間部」(マブ)の原型は「マブロ」だったのではないかと考えていました。

 気になっていたのは、西日本では「風呂」と呼ばれるものの、東日本では「湯屋」としか言わないことでした。当然、岩室を利用した中国地方などの「風呂」地名と「間歩」との関係も意識していました。

 風呂を扱う噺は「鬼門風呂」など上方落語にも幾つかありますが、「芝居風呂」は、歌舞伎マニアの銭湯の主が、店でも芝居が堪能できるようにと思い、銭湯を大改造して「芝居風呂」と名付けた。何から何まで歌舞伎座そっくりの銭湯は、今日も芝居好きのお客で超満員。その日も二人のお客がやってくる。…

ウィキペディア:20180705 18:07) という噺です。


 一方、江戸落語は「湯」「湯屋」としか言いません。

関西も関東にも銭湯がありました。銭を取って入浴させる公衆浴場ですが、関東では湯or湯屋です。

元は 蒸し風呂でしたが、江戸時代中期になると湯に浸かる風呂が出来て、湯屋と呼ばれます。


落語「湯屋番」の舞台を歩く 六代目三遊亭円生の噺、「湯屋番」(ゆやばん)によると。


 居候は何処にもいた時代の話です。無精の上、夕方まで寝ているような奴を二階に置いておくのは気にくわないと女房はカンカン。置いとくなら離婚だとむくれて叔母さんの家に。

 呼ぶと2階の居候・徳さんは嫌々降りてきたが、東を向いて今日さんに柏手を打てば、もう太陽は西になっている。バケツみたいな洗い桶じゃ色気が無い。顔を洗っても拭く手ぬぐいも風で飛ばして、拭けない。亭主には愚痴を百万遍。言われれば、ここで身を立てようと居候の徳さんは宣言。

 親父の所に帰るのかと思えば、親父は病気だから帰らない。その病気とは、金は使うもので、貯めるなんて病気だと。

 それでは発明で、身を立てる。一生涯お腹がすかない法、これは炭酸を飲んでその後に下剤を飲む。炭酸はガスを出して上にあがろうとする、上からは下剤が下に押すので、生涯腹は減らない。??

 では、奉公に出ます。浜町の梅の湯で、ここの女将が二十五位でいい女だから、病弱な亭主が死んだら後添いに入るんだ。その奉公に入る話は橘町の頭に話してもらったから大丈夫。

 湯屋に来てみれば、「身元は知れているから良いが、道楽者だと聞いたが・・・」。「それが私。良ければ番台に上がらして」。「番台は私と女房以外は上がらせないんです。だからダメ」。そこに奥から食事の用意が出来たと声が掛かった。「では」と言う事で待望の番台に上がった。       落語の舞台を歩く より


 そこで頭に浮かぶのが「風呂」です。元々、何故、「フロ」と言うのか今でも語源が分からずに悩んでいるのですが、「風呂」とは元々は「室」ではないかと思うようになりました。

 これも ブログのタイトルの ひぼろぎ逍遥の「ひぼろぎ」が実は「ひもろぎ」である事と関係があるのです。本ブログの冒頭にはこのように書いています。


既に、綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」というブログが良く読まれ、神社への関心の高まりにまでも貢献していることは良く承知しています。

これに対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。

ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。

これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 当然、M音の方が先行しており、B音は後の形と考えているのですが、「間歩」(マブ)の原型が「間室」「真室」(マムロ)だったのではないかと言う仮説です。そうです「風呂」とは「室」だったのです。

お粗末でした。お後がよろしいようで…。お疑いはご自由です。悪しからず。

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2019年07月03日

602 熊本市の中心部に鎮座する大江神社初見 “隠された金山彦神“

602 熊本市の中心部に鎮座する大江神社初見 “隠された金山彦神“

20180713

太宰府地名研究会 古川 清久


 古代史とか神社探訪と言った事からではないのですが、梅雨明け十日の熊本の中心部に行く機会がありました。熊本在住の女性メンバーからの要請があって、金春流という能の本流に関して家元とお会いする機会を得たからでした。その時間調整の合間を縫って参内したのが大江神社でした。

 「大江」という地名については最近になって金山彦と関係があるのではないかという見当が着いていたことから、これには試験航海の意味も持たせていました。そして案の定金山彦祭祀を見出したのでした。

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大江氏は奈良の柏原の金山彦神社の関係者とも言える人々です。

土師氏、秦氏 の名前は消えて行きますが、土師氏は、菅原氏、秋篠氏、大江氏と名前を変えて朝臣として生き延びていくのです。

そもそも、大江山の酒呑童子の大江山の皇大神宮のお膝元には京都府加佐郡大江町があり、正面を流れ降る由良川沿いには大川神社が数社あり、金山彦が主祭神として祀られているのです。

 白川を渡れば熊本城というか、白川の東側に広がる住宅地の一角にある何の変哲もない神社ですが、落ち着いた風情がある上にそれなりの気品も感じられる良い神社が鎮座しています。

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「熊本県神社誌」によれば、祭神は天御中主命、熊野大神の二神と(乙)(1)熊野座神社を加えた(同社の由緒でも)イザナギ、イザナミを加えた四神とされています。

 重要なのは、熊野大神と多少ぼやかされているものの実は金山彦のことなのです。

 「古事記」にはそんなことは何も書いてないのですが、百嶋神社考古学では伊弉冉(イザナミ)命は金山彦の妹であり、後に夫の伊弉諾(イザナギ)命から離脱し大幡主の妃へと移られているのです。

金山彦の妹であるイザナミはスサノウの母神でもあり、那賀須泥毘古or登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)の祖母にもなるのです。

恐らく、神武天皇に弓を引いたとされる事からそれを嫌って熊野大神とぼやかしていると思えるのです。

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事解之男神が金山彦である事がお分かり頂ければ、本質的にはイザナミ(スサノウの母神)、ナガスネヒコ(スサノウの子)…と繋がる神社である事がお分かり頂けたのではないでしょうか?

 補強のために「宮原誠一の神社見聞牒」から引用しておきましょう。


平成29(2017)0705

No.12 大幡主と伊弉冉命、そして3人の大物主

伊弉諾命(いざなぎ)と伊弉冉命(いざなみ)の夫妻の王子が素戔嗚尊(すさのお)であることは古事記・日本書紀でも、百嶋神社考古学でも同じですが、伊弉諾命と伊弉冉命が夫婦であったのは一年程度と云われる。その後、伊弉冉命は博多の櫛田神社の祭神・大幡主の妃となられる。

その大幡主と伊弉冉命が夫婦で祀られている神社を紹介します。まずは、大幡主ご一統の紹介。


百嶋由一郎先生講演「宇佐神宮とは何か」 2012317
糸島の細石神社が三雲というところにあります。ご祭神は磐長姫ですが、その素性がごまかされている。この磐長姫の素性は龍・蛇であるが、何十年も蓋をされていた。この方のご出身地は朝鮮半島で、お父さんは博多の櫛田神社の神様で大幡主、お母様は伊弉冉命、伊弉冉命は後々、伊弉冉ではまずいので別の名前に変わっている。それは熊野夫須美命(くまのふすみのみこと)に名前を変えていらっしゃる。

博多の櫛田神社の神様ご一統の熊野大社における配置を申し上げておく。
熊野夫須美神社即ち、熊野那智大社は熊野夫須美命、元は伊弉冉命、熊野速玉大社は大幡主命(博多の櫛田神社の神様)、熊野本宮大社、これは秘密もいいところ、なんとかなんとか・・・・素戔鳴尊のお妃です。旦那は朝鮮半島から追いかけてきた天日槍(素戔鳴尊)です。日本に入られる前のお名前は阿加流姫(あかるひめ)です。
阿加流姫のコースを申し上げます。まず、日本に最初に入ってこられた場所は但馬国、現在の兵庫県です。それから大分県の国東半島の姫島です。そして国東半島に上陸します。そして奥の方にはいられて安心院です。そして表に出てこられたのは神相撲をしている古表宮です。""""の意味です。そして、いまでは磐長姫となられたのです。磐長姫は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の義理のお姉さまです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏が残された音声CD、神代系譜、手書スキャニング・データが必要な方は090062983254まで


紀伊・熊野大社の配置を整理すると。

 熊野本宮大社  和歌山県田辺市   主祭神・磐長姫(阿加流姫)

 熊野那智大社  和歌山県那智勝浦町 主祭神・熊野夫須美命(元、伊弉冉命)

 熊野速玉大社  和歌山県新宮市   主祭神・大幡主

 関連神社

 阿須賀神社   和歌山県新宮市   主祭神・事解男命(ことさかおのみこと金山彦)


伊弉冉命は金山彦の妹であり、後、夫・伊弉諾命から大幡主の妃へと移られる。

前掲「No.11くらおかみの神を祀る八龍神社」の「ヤマタノオロチの説話」では、金山彦夫妻が足名椎(あしなつち)夫妻、大山祗はオロチに例えられ、その争いを仲裁したのが素戔嗚尊とされる。金山彦の別名・事解男は「紛争の解決に努めた男」、大山祗の別名・酒解男は「酒で紛争を解決させられた男」と云われる。

「宮原誠一の神社見聞牒」より

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百嶋由一郎020阿蘇系譜B


 この地区は、元々、大江渡鹿(オオエトロク)と言われた土地です。

 「大江」地名と金山彦が繋がった瞬間でもあったのです。

 さて、社殿の建て方が少し気になります。元は裏側、西側から参道が付けられていたと言う話を聴きました。私も参道が少し怪しいな…と思ったのですが、本来は金山彦+イザナミを祀る金山彦系の神社だったと思えるのですが、恐らく明治期に通りが良いように神武天皇に弓を引いたナガスネヒコの祖父神になる金山彦を隠し(熊野大神などと大幡主系に埋没させ)天御中主命を表に上げたものの、熊野の日の出の方角に参道を付け替えたようにも思えるのです。

 もう一つ、友人と言うか、メンバーと言うか熊本在住の霊感の強い(熊本地震を前に阿蘇大橋が落ちると半年前から騒いでいた人物です)美形の女性でアイラツヒメのフリークからの指摘もうけました。

 それは、祭神にはアイラツヒメも含まれていたはずで、実際にこの地に居たという可能性を指摘しているのです。私は金山彦は熊本県山鹿市の大宮神社に祀られており、付近には櫛稲田姫、吾平都姫も居たと読んでいるのですが今後の課題です。

 これについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から283   大宮神社と猿田彦大神 B “大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?”外をお読み下さい。 


百嶋由一郎氏が残された音声CD、神代系譜、手書スキャニング・データが必要な方は090062983254まで

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2019年07月06日

603 信州への神社調査のための下調べから“長野県上田市の生島足島神社“

603 信州への神社調査のための下調べから“長野県上田市の生島足島神社“

20180727

太宰府地名研究会 古川 清久


信州には二、三度ほど足を運んでいますが、神社を廻り始めてからは一度だけで、それも数社しか見ていないため、いわば自分にとっても空白地帯です。

今年の余りの暑さに耐えかね、五月に一週間ほど滞在した山中湖畔の友人の別荘に再び足を運ぼうかとも思っていますが、テーマ設定としては当然山向こう信濃の中心地一帯となります。

 これで、甲府、身延、諏訪、松本と併せ列島の中心部の山岳民族地帯の概観を把握するための一歩とはなりそうです。

 下調べのための準備資料を公開原稿とすると言うのは乱暴ではありますが、準備作業での理解と実踏後の理解がどれほど違うかがお分かり頂けるかも知れません。

 まずは、現在の生島足島神社を知る事から始めましょう。場所は上田市の上田電鉄別所線の沿線で、35年前に高級旅館を予約し都合で行けなくなり中止した別所温泉にも入れそうです。

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生きとし生けるもの万物に生命力を与える「生島大神」と、生きとし生けるもの万物に満足を与える「足島大神」の二神が祀られ、摂社(下社・下宮)には諏訪大神が祀られる信濃屈指の古社です。無題.png

創建の年代については明らかではありませんが、神代の昔、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)が諏訪の地に下降する途すがら、この地にお留まりになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられてたと伝えられ、その故事は今も御籠祭という神事として伝えられています。

生島神は生国魂大神、足島神は足国魂大神とも称され、共に日本全体の国の御霊として奉祀され、太古より国土の守り神と仰がれる極めて古い由緒を持つ大神であります。

当社は歴代の帝の崇敬厚く、平城天皇の大同元年(806年)には神戸(封戸)の寄進があり、醍醐天皇の廷喜の代(901年〜922年)には名神大社に列せられています。建治年間(1275年〜1278年)には北条国時(陸奥守入道)が社殿を営繕し、地頭領家も祭祀料の田地を寄進しています。戦国時代以後も真田昌幸・信之等の武将を始め、代々の上田城主も神領を寄進し、社殿を修築するなど、崇敬を表しています。

殊に天皇が都を定められる時には、必ず生島・足島の二神をその地に鎮祭される例であり、近くは明治2年、宮中にこの二柱の大神を親祭され、同23年勅使差遣になり国幣中社に列せられています。

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同社HPによる


生島神は生国魂大神、足島神は足国魂大神とも称され、共に日本全体の国の御霊として奉祀され、太古より国土の守り神と仰がれる極めて古い由緒を持つ大神であります。


公式HPの一部を見て頂きましたが、これでは全く要領を得ませんね、その上に、戦国大名が入り乱れ、明治までの名神大社から国幣中社へと列せられている事を見れば、時々の権力に従い祭神が替えられ、また、祭神名までがぼやかされていると見るべきで、この地が戦乱の接点にあったことが分かります。

百嶋先生も無茶苦茶と記録しているところですが、とりあえずご祭神は生島大神と足島大神。としておきます。

ここで、下調べ宜しく、一文を書こうとしたのですが、メンバーの「常陸の国ふしぎ探検隊」の隊長様がリポートを書いておられますので、一部を紹介しておきます。


東側鳥居 式内大社 日本中央の文字が見えます。

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東側参道鳥居にあった祭神一覧と梶の葉紋(諏訪大社のものとは異なる)


百嶋系図では生島大神は海幸彦=建御雷であり、足島大神はオキツヨソ足姫(スサノヲ娘でナガスネ

彦の妹)です。諏訪大社の祭神、建南方の父母です。

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由緒書


大正八年鉄道省発行「神もうで」によれば、創建の年は詳ならず、社伝によれば神代の昔此処に鎮座あり、建南方富命の諏訪に降り給える時、この地に留まって二柱の大神を祀り、御自ら粥を煮て献供せられたことがあり、かつて崇神天皇の御世に、神八井耳の御孫建五百建(たけいおたけ)命を科野国造に定め、東国の祭祀を掌らしめられた時、この神社も創建せられたというのである。              

意味不明の文章です。支離滅裂でしょう。前半では創建年は不明で神代から鎮座していると言っているのに、後半では、崇神天皇の御世に神八井耳の孫建五百建(たけいおたけ)命=建磐龍が科野国造となり、創建したと書いています。                                   

このような由緒がまかり通っていたために、アカデミックな歴史学者たちは神社の研究には興味を示さなかったものと考えられます。しかしながら、記紀自体が同様であるとの疑問はあまり持っていないようで、古代史研究と言えば記紀を研究することが主流であるようです。かくして、真実の歴史は闇に置き去りにされています。明治維新の国家神道政策によって、意識的に改ざん、ねつ造された神社の由緒は、学問的には信憑性のない資料として扱われることになってしまったのでしょう。あるいはお上からの指導で扱えなくなっているのかもしれません。                               


以下は「常陸の国ふしぎ探検隊」049 49.生島足島神社探検記(長野県上田市)をお読み頂くとして、文章だけを拾わせて頂きます。

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上宮(生島足島神社)拝殿 北向き 北向きということは、北側にある摂社(下宮)の諏訪社が最初に建てられ、後から付けたされたのだと思います。

そうでなければ栗本慎一郎の言う聖方位に関連のある勢力の造った神社ということになるでしょう。

神橋と上宮拝殿


上田情報蔵さんのHPより引用


生島足島神社本殿の前に二つの橋がかけられている。一つは一般の参詣者の渡る橋、一つは「神橋」と名づけられている朱塗りの美しい橋である。
この「神橋」という名は、神様が渡られる橋だからつけられたのだが、それではどういう神様が渡られるのかというと、知る人は案外少ないようだ。この橋を渡る神様は諏訪神なのである。
試みに、この神橋の入口に立って北の方をふりかえると、50mばかり先に、塀にかこまれたりっぱなお宮があるのに気づかれるだろう。(もっともその間に舞楽殿があるので、気をつけなければわからない。)これが、生島足島神社の摂社(本社に付属する縁の深い神社。官国幣社に限ってこの称を用いられた。)諏訪社である。
生島足島神社には、有名な「お籠り祭」という神事がある。それは毎年11月3日の夜、まずこの諏訪神が、生島足島神社の籠殿へ移られる。これを「御遷り神事」という。(もちろん神官が奉仕する。)それから毎夜御飯をたき、諏訪神が自ら生島足島神に献飯される儀式が翌年3月3日までつづく。(もっとも現在は、7日ごと、4月28日まで26回奉仕に改められている)これが「お籠り祭」である。
この祭事は太古から伝えられているもので、諏訪神が天照大神から信濃統治の命をうけて、この地にやって来たとき、すでにこの地に有力な生島・足島神がいた。そこで諏訪神は自ら長期にわたり御供を献じ、はじめて了承を得て諏訪に向かったことに由来するといわれている。
生島・足島神は巻頭写真でも説明したように、もともと宮中で祭られている神であるから、地方神としての諏訪神がこの神に対して奉斎の誠をいたすのは、当然であったかも知れない。信濃の国造(現代の県知事に当る)から出た金刺氏は、後に諏訪下社の大祝(神が人間として現れたものといわれる)となっていることを思い合わせてみる必要もあろう。


境内社の子安社 祭神は木花開耶姫とニニギ木花開耶姫がニニギと夫婦だったのはたったの1年間ですから、対で祀られているということは後世の下剋上勢力がねつ造したと考える基本となると判断しています。

単体の木花開耶姫を祀った神社も後発のものと考えています。なぜならニニギから豊玉彦に夫を変えてからは前玉姫となっているからです。したがって前玉姫の名前で祀られた神社が正統派だと考えますが、実際に前玉姫で祀られている神社は数少なく、藤原氏や明治政府の神祇官(藤原氏の傀儡)が木花開耶姫に改名してしまったことによると考えています。

境内社の八幡社 神功皇后や姫大神の名はなく、玉依比売命とされています。八幡系の玉依比売は姫大神のことだと思うと「玄松子」さんのHPにありましたが、この場合の玉依比売は三人の玉依比売の誰を指しているのでしょうか。姫大神の中には鴨玉依姫がいますからそれが順当だと思います。

御歳代部仮殿 御歳神は贈孝安天皇であり、生島大神=海幸彦の御子です。さらには九州王朝特務機関長(要するに中央情報局)です。建南方の監視役だったのか、反対に護衛だったのかかもしれません。後の菅原道真の樋口大善のようです。建南方は正史では、建甕槌と力比べに負けて、諏訪に引き込もることになっていますが、実の父親は建甕槌=生島大神ですからそんなことはなかったのです。まして母親はスサノヲの娘オキツヨソ足姫ですから、父親(生島)よりも身分が高かったのです。

御歳神の母親は豊受姫でやはりスサノヲの娘であり、父親は海幸彦=生島ですから御歳神と建南方は兄弟と言っても過言ではない関係です。


百嶋神社考古学にご興味の方は、太宰府地名研究会 古川さんまで。090-6298-3254


 大量に書いているのでネタ切れもあり、下調べをそのまま出そうなどと狡猾な事を考えていましたが、「常陸の国ふしぎ探検隊」の全面引用となってしまいました。悪しからずご容赦。

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なお、前玉姫で祀られている神社は数少なく…については、ひぼろぎ逍遥 067霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社にコノハナノサクヤヒメを探る 外数本公開していますので、興味をお持ちでしたらお読み下さい。

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